2009年12月31日
Fさんの想い出
Fさんが大学生の頃、高校生だった私は日本郵便友の会 (PFC) の学校グループに所属。 札幌市内には私の母校のほか、静修・北斗・東商・啓北商にも学校グループがあった。 5校が年に何度か集まって研修会やイベントを開催していた頃 高校卒業後もPFCの活動を支援するアドバイザーになっていたFさんと出会った。 高校卒業後、東京の会社に入社した私は半年も経たずに退職し札幌に帰って来た。 Fさんが地元の函館を出て札幌で1人暮らしを始めたと聞いて以来 私を含む4人ほどのPFCOBは、毎週のように土曜の夕方から まる24時間、Fさんの部屋に入り浸った。 何をやっていたか……ひたすら麻雀をして過ごした。いわゆる徹マンである。 そして日曜の昼過ぎになると2人ぐらいが代表でメインレースの馬券を買いに行く。 競馬中継が終わるとそろそろ夕方の帰る時間になる。 翌年4月、我々が中心になって高校のPFC活動支援などを行うサークルを作り それから数年は、加入した後輩らと時々Fさんのアパートに押しかけ 同居を始めたFさんの婚約者Y子さんも一緒に クリスマス会やら新年会やらと華やかな時期が流れた。 Fさんは今は無い札幌経済高校の非常勤教師から正式な教師に昇進したが 結婚式の前だったか後だったかに退職してオモチャ屋さんに再就職した。 Fさんを慕うメンバーもそれぞれが結婚したりで自分の道を歩み始めると 一部の者を除き、疎遠になっていった。 そしてFさんは遠い仙台へ引っ越すと、年賀状だけの交流となり 私はやがて年賀状すら交換しなくなり、気づけば互いに音信不通状態に。 真っ先に結婚した私が婚約者を連れて行った時に大歓迎してくれたFさん。 Fさんの結婚披露宴 (豊平館) でギターを弾きながら歌った 『ぼくがつくった愛のうた』 を 2人は雛壇から優しい目でじっとみつめながら聴いてくれた。 今日の午後、当時一緒にFさんのアパートへ通った仲間から1本の電話が入った。 「今日になってY子さん (Fさんの妻) から喪中のハガキが来たんだ。 Fさんが今年の6月に永眠したって……」 それはFさんが53歳という若さで今年6月に亡くなっていたという内容だった。 亡くなってから、もう半年が過ぎている。 今の私に出来るのは、Fさんとの想い出をこうしてブログに書き綴ることだけ。 このブログ記事はいつまでも残るので、これからも時々読み返すつもりだ。
posted by hiroki |18:59 | 気楽に日記風 |