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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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2014年03月03日
アメダス小清水から常呂を経て佐呂間へ向かう途中に、あちこちで少し寄り道しました。
網走市内の港に近い「ポンモイ」地区に、柱状節理が明瞭に見える崖があります。崖の写真を撮影するため向かいの空地に車を停めると、妙なモニュメントがありました。
右手前に横たわっているのが(多分、崖から剥れて落ちた)柱状の岩石です。上の写真で崖の中ほどに黒っぽい(風化していない)部分が見えるので、そこから最近落ちてきたのではないかと。 ここは、明治30~31年に現・北見市に入植した野付牛屯田兵が上陸した地だそうです。
裏面には、入植者594名の名簿も記されていました。
北見市と屯田兵といえば、信善光寺の屯田兵人形が思い浮かびます。 隣の端野町には歴史民俗資料館があって、屯田兵屋が保存されています。
次いで、能取湖の南岸にある卯原内サンゴ草群生地に寄りました。サンゴ草の正しい植物名は「アッケシソウ」で、丸太の看板には「日本一サンゴ草群生地」と記されていますが、赤い珊瑚の絨毯のように群生してるどころか、ぽやぽやとしか生えていません。 駐車場に立ってた説明板などによると、日本最大級というサンゴ草の色付き不良を改善しようとして、観光協会が土砂を搬入したのが原因で群生地が大幅に縮小してしまったとか・・ずいぶんとお粗末な話です。
群生地回復に向けて原因調査と対策を進めていると言っても、そんなことは土砂を搬入する前に済ませるべきこと。 木道から見る干潟はこの程度の惨状で、これでも綺麗に色着いている部分を探した結果です。
近年になって、流氷がサロマ湖へ流入しないように、オイルフェンスのような仕切りを湖口に張り巡らしたらしいです。 しかし流氷というのは底面にプランクトンが沢山生育していて、それらの養分を海岸へ運ぶ役目を果たしているとも言えるのに、それを拒否してしまったら養分の供給が無くなると思うんですけど・・。 オホーツク海へは、網走地方の河川や大陸のアムール川などから陸上の養分が供給されているので、海を育てるためには森を育てなければなりません。 「海は海、川は川、森は森」という単独に閉じた回路ではなく巧みに連鎖してるのに、その連鎖を断ち切ってしまったらどうなるか・・よく調べないうちに軽率な改変を加えてはイケナイはず。
常呂から佐呂間へ向かうのに遠回りして、北見市の仁頃地区に寄ります。 ここには「仁頃はっか公園」(北見名水公園)という長閑な田園公園があって、ハッカの町・北見らしく「ハッカ御殿」と呼ばれる屋敷が修復・移転されています。 ハッカ商で財を成した五十嵐弥一氏が昭和12年に建てた自宅の建物で、
世界シェアの7割を占めていたという北見のハッカも今は昔、化学合成品に取って代わられました。 こちらは脇玄関と勝手口だろうと・・出入口が3つも。
屋敷を修復する様子がパネル展示されていました。
どうせだから屋敷の隅々まで見学します。
なぜに婦人用だけ使用禁止なのか。 仕方がないから殿方用の内部を激写
屋敷の周囲には物置や納屋なども保存されています。
その中に展示してあったハッカの蒸留装置
桶の中にハッカの草を入れて蒸し、右側の冷却塔で液体に凝縮させて甕の中に溜めます。 溜まった「ハッカ油」を精製して結晶として抽出するという工程で・・一字違いだから余市のウヰスキー工場を思い出します。 公園の周囲は「北見田園空間博物館」として整備され、
左奥の建物は北見田園空間情報センター「にっころ」だそうです。 さて次は、今回のアメダス調査予定も残り5ヶ所となった、佐呂間と生田原、境野、置戸常元、留辺蘂を巡回して帰ります・・ロスタイムに思わぬどんでん返しが待っていることはママある。
2014年02月25日
お隣・当別町のスウェーデンヒルズに、今年から「アイスヒルズホテル」という建造物が出来たというので、10日ほど前に見物してきました。 ※上にリンクしてあるページの大部分の写真は「イメージ」です。 本場?のスウェーデンには本物のアイスホテルがあって泊まれるんですが(参考)、こちらは・・申し込めば滞在体験が出来るようです。(プラン一覧) 陸別町ではイグルーに泊まるイベントもありますが(トマムではやめた?)、山で雪穴を掘って寝たこともある人間としては、わざわざ好き好んでそんな事にトライする意義を感じません。 ノルウェイで泊まったホテルは寒かったなぁ・・という体験を思い出しました。
ホテルはあっちだよ奥はレストランがあるクラブハウスです。 立ち並ぶ氷の建物群:夜は綺麗だろうね。
ゴルフ倶楽部の駐車場に雪山を作ってあって、ソリ遊びやスノーモビル試乗体験(有料)も出来ます。 ICE HILLS HOTEL と刻まれています。
ここがアイスホテルの一室(の入口)・・恐る恐る・・
氷のベッドの上にマットと毛皮を敷いてありますが、寒さが苦手な人なら見ただけで拒否反応を起こすかも知れませんね。
氷の荷物置きなのかベンチなのか・・あ、イスだ。
それぞれの部屋をアーティストが担当してデザインしてあります。
藤沢レオさんて、鉄を溶接する造形家なんですけど・・氷の表面を融かして接着する作業は同じ話か、と納得。 別の部屋:何度見ても、白熊が寝てるように見えるなぁ。
こっちから光が入ればステンドグラス的で綺麗だと思うのだが・・夜は綺麗らしい。 正面は氷だけど壁や天井は雪で覆われており、別の一室では壁に草花の装飾が施されていました。
まるで襖絵のような雰囲気 ユキウサギか?
ここが「ROYCE' ICE BAR」←探偵はいなかった
当別町に工場がある某チョコレートメーカーが、アイスバーを営業しています。 カウンターも椅子も氷で出来ており、椅子には毛皮を敷いてありましたが、長く座る気にはなりません。
アルコール類やホットコーヒー、スープなどを提供し(もちろん有料)、製作過程の映像を雪の壁に映して音楽も流していました。
使用済みのグラス(氷を削った器)を重ねたオブジェ?
ぬるま湯で洗えば再使用可能かも メニューを見て・・この寒さの中で飲むとすれば・・ウォッカを飲んだら運転できなくなるし・・ここはアイスクリームだな。(笑)
冬の北海道だったらアイスでショ、当然。←天の邪鬼 これで500円はどうかとも思いますが、「生乳&雪みつ」と書いてるだけあって、ねっとりしてて美味しかったです。腹は冷えたけど。 クラブハウスのレストランではランチバイキングやディナーも営業してるらしいけど、バイキングは食べ過ぎるのでパスしました。 2月1日から3月15日までの11:30~20:00の時間帯のみで、悪天候時にはクローズすることもありますが、冬の間にゴルフ場のレストランと駐車場を活用する方法としては面白いと思ったのです。 今年は初めての試みなので他所を模倣した部分が多いですが、来年は期待できるかも。 ここんところの暖気で壊れてないか心配ですが。 スウェーデンヒルズから帰る下り坂はカーブがキツいので慎重に下り、当別駅前の「ふれあい倉庫」で白いたいやきを一匹食べました。(熱いミルクティーと一緒に)
自分で「アイスだ」と言っておきながら・・コンビニでは氷菓子類をストックするフリーザーが真冬も大きなスペースを占めていますね。 そんなに売れるんでしょうか・・冷凍食品だから腐る心配が無くて廃棄せずに済むんでしょうけど、どう考えても電気の無駄使いに見えます。 もしかして、フリーザーが発する熱で店内を暖めるため?
2014年02月17日
ウトロから斜里へ向かう途中で内陸の方へ進み、朱円周堤墓と越川橋梁を見学しました。 「朱円」の現在の読みは「しゅえん」だけど、元々の地名は「シュマ・トゥカリ」で、朱(シュ)+円(マドカ)というトンチ的な組合せになっています。 川の名前だった「シュマトゥカリペッ」の発音は残っていますが、漢字で「島戸狩川」と記されると元の意味が分からなくなってしまいます。
斜里の近くで国道から少し内陸へ入ると、「朱円周堤墓」(環状土籬)の遺跡があります。以前は「朱円ストーンサークル」とも呼ばれていましたが、「土籬」だったら「アースサークル」の方が正確だと思うし、「~サークル」という呼び方は遺跡の形態に基く命名であって、遺跡の使用目的から考えると「周堤墓」が相応しいのだとか。
出土した土器は栗澤式土器と呼ばれます。(栗澤喜重郎氏に因む) 手前のA号土籬では石を何ヶ所かに分けて敷いてあり、
奥のB号土籬では中央にまとめてあります。
その地下に土坑墓があったそうな。 「周堤墓」は野花南(芦別市)やキウス(千歳市)にも残ってるし、「ストーンサークル」は忍路(小樽市)・西崎山(余市町)や音江(深川市)、最近発掘された鷲ノ木(森町)にもあります。一説では開陽台にも。(嘘)
さらに内陸へ進んで根北峠へ向かう途中に、「旧国鉄根北線第一幾品川橋梁(通称:越川橋梁)」の残骸が残っています。斜里に来たら、ここを見ない訳にはいきません。
戦前に作られた10連のアーチ橋で、鉄筋を使わず(使えず)にコンクリートだけで出来ています。 雨降りだったので、落ち着いて写真を撮って回る気にならなかったから、かもめさんのブログ記事や、Wikipediaも参考にして下さい。
斜里町の知床博物館協力会が発行した郷土学習シリーズ・第20集「斜里・知床の近代化遺産」(1998年)というハンドブックの中に、
橋脚が健在だった頃の写真が載っていました。
こちらは橋脚を撤去する工事中の写真
まるで石橋を叩いて壊す?工事だったようです。 橋脚2本を壊したりしないで、上りと下りを分けて片側1車線ずつを別々のアーチに通す方法もあっただろうに。 当時は、どうせ使わない邪魔な橋という認識だったんでしょう。 橋を渡った先には、標津方面へ続いていた線路(予定)の痕跡が延びています。
この道を進んでみたかったけど私有地のようだし、雨降りだし石だらけで路面状態も良くないので、諦めました。
昨年から、腰を痛めることが時々あり、現在も1月からの不具合が完治していない状態・・今年のドーム除雪は無理っぽいので自重します。 決して、全道フットサルを観戦するためではありません。
2014年02月12日
カムバック・サーモンなどと、他人事だから気軽に言うけれど、鮭は重要な使命を帯びて川と海とを往復しているのだとも解釈できます。 内陸の土壌で生成された養分が川に流れ込んで、水中に棲んでる魚や昆虫を育てることは分かりやすいです。 さらに海へ流出した養分が、今度は海の生物を育てることになります。山の森が海の昆布を育てるように。 その海へ流出した養分を取り返しに行ってるのが鮭であって、養分が多い海洋で大きく育った後に母川へ戻って上流まで遡り、その死体が鳥や川に養分を供給して森を育てる、という生態系の循環を担っているとも言えます。 鮭はな~んにも考えないで長旅をしてるように見えるけれど、何も考えてないのは人間の方かも知れません。 海へ流出してしまった放射能を、追っかけて行って回収する方策は無いもんでしょうか。
標津町には「標津サーモンパーク」があります。正面のモニュメントは、イクラにしか見えないんですけど。
当館の目玉である大水槽で様々な魚が泳いでいます。
確か、真駒内のさけ科学館で鮭を回帰させた学芸員が標津に移って、この施設の構想・企画に携わったと記憶しています。 こちらは魚道水槽で、流れる川の中を横から眺める方式です。
学芸員ならば鮭の雌雄を見分けられるそうですが、雄のような顔付きの雌もいるし雌のような雄もいるんだそうな・・考えさせられる。 その魚道を上から眺めるという興醒めな趣味
以下は水槽を巡りながら・・威圧する貫禄があるイトウさん
パーマークが綺麗なヤマメさん
キャビアを生産するチョウザメさん
これは
寿司詰めさしずめ、板前さんチョウザメには歯が無いから、
口パク指パクしても大丈夫だと書かれていますが、チョウザメに病気を伝染させてはマズいし、隣にいる熊の牙を見たら指を咥えさせる気にはなりません。←本音 上から見ると、館内の人の流れというか、水の流れがよく分かります。
大水槽の舞台装置を上から見下ろす図
お約束のトイレの壁に、塩分濃度の学習資料が貼ってありました。
魚の腎臓の仕組みを解説しています。
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五里霧中の知床峠を越え(天候が悪いことは承知の上だから気にしない)、網走側に下って知床自然センターに着きました。 ここには「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物があります。列島改造による土地投機や開発が進んで、離農した原野が切り売りされたため、昭和52(1977) 年に当時の藤谷斜里町長が「しれとこ100平方メートル運動」を提唱し、土地を買い取るための募金を全国に呼びかけました。 屋内には、その募金「100平方メートル運動の森・トラスト」への参加者の氏名がプレートに記載されて、四面の壁全体に貼られています。
昔は募金をする度にプレートが増えたんですが、プレートを貼るスペースが足りなくなったので、途中からプレートは1人1枚のみとして集約し、以後の募金者は名簿に記入することになりました。 これがその名簿で、年ごと都道府県ごとに五十音順に列記されています。
今年はこれだけの募金者が増えました、と年ごとにまとめてフエルアルバム式に綴じ足していき、そのアルバムも2冊目になりました。 ・・なんだか、原爆による死没者名簿の追加分を毎年奉納するような・・。 はるばる知床まで出かけていって植樹作業に参加したこともありますが、現在は植樹した樹をどうやって鹿の食害から守るか、という作業に苦労しています。 鹿と争うことになろうとは想像もしませんでした。 熊の目撃情報をお寄せ下さいと。
虎は死して皮を残すと言いますが、熊だって毛皮や熊の胆を残します。
見ると、「素通り厳禁!」「絶対にさわってください」という注意書きは珍しいです。
この熊がなぜ死なねばならなかったのかを考え、「彼の生きたあかしを、ぜひ触って感じてみてください」とのことです。 こちらは冬眠中・・というか尻に敷かれます。
小熊の耳に穴を開けて付ける発信機だそうで・・熊ピアスか。
ドラム缶で作った薪ストーブにも見える熊用の罠
仕切り戸というか蓋が曲げられて外れそうになっているような・・腕力は十分にあります。 キャンプなどの食料を保存する、フードロッカーとフードコンテナ
熊が開けられない構造になっていて、こんな容器に入れておかないと、熊を餌付けすることになってしまいます。民家の冷蔵庫だって開けるんですから。 やっと人里に下りてきた気がします。
熊の崇りなのか荒れた天候になって、雨粒だか波飛沫だか分からない水滴が顔に当たります。 ウトロの街やオロンコ岩、ゴジラ岩などが見えてきました。
この後、宇登呂のアメダス(前報)を経由して、斜里方面へ旅を続けます。
2014年01月22日
根室・網走遠征の2日目(10/12)の夜は、開陽台で宿営しました。 ここは昔からトイレも完備していて、泊まりやすいポイントでした。 ただ駐車場まで通じる一本道だった道路は、観光バスがスムーズに行き来できるように上りと下りのルートが別々になりました・・そんなに賑わうのか。
昨夜は予想通り冷え込み、上標津や根室中標津では明け方の最低気温が5℃ほどまで下がりました。ベンチコートを持ってきて正解です。こんな時期にテントで泊まってるライダーもいましたが。 開陽台のキャッチフレーズとして「地球が丸く見える」という表現があるけれど、地球は元々丸いのだから「丸く見える」のはアタリマエ。 四角い物体が丸く見えるとか、丸い太陽が日出時に四角く見えるのなら意味があるけど。
言うとすれば、「水平線が湾曲してる」とか「地球の丸さを実感できる」という表現が妥当なはずで、開陽台に立っただけで地球全体を見渡した気になってはイケナイ。 冒頭にリンクした中標津町のページには「地平線が文字どおり丸く見え」と書かれているのに、そこに掲載されている写真でも地平線は湾曲せず直線に写っています。(他にもツッコミ所が満載) 昔はただ材木を組んだ櫓が立ってるだけだったのに、今は電気も通ってて2階建ての展望台の中にはレストランや土産物屋もあるし(営業は夏場の昼間だけ)、周囲にアンテナが林立して隔世の感を禁じ得ません。 ・・と半ば呆れながら屋上のテラスに上って待っていたら、根室海峡から太陽が昇ってきました。(←四角くは見えない)
今日も順調に調査が進むような気がします。(←気がするだけ) 標津岳方面の山肌がモルゲンロートになりました。
寝心地が良いマトモな宿に泊まってたら、こんな景色にはお目にかかれません。 ところでこの展望台は、円柱形をしてて南側に入口があり、北側の階段を上って周囲のテラスに立つんですが、あたかも
札幌ドームコロシアムのような雰囲気の構造です。中央のステージで
コンサドールズ天宇受売命(アメノウズメノミコト)が踊るような。(←天の岩戸) 階段の手摺の延長上に、こんな突起物がありました。天文をやってた人間ならすぐに見当が付いて、根元にあるV字形の溝から先端にある針の頂点を狙えば、その延長上に北極星が見えるカラクリになっています。
まるで、ライフル銃の照門と照星の関係だ・・明るいから星は見えなかったけど、間違いないね。 だとすると、テラスへの上り口が真北を向いていて、ステージへの入口が真南を向いてることになります。 ・・じゃぁ東西は?・・と思って見回してみると、テラスの縁に避雷針が2本立っていて、それらが真東と真西を向いてるんですねぇ。ふむぅぅ。
さらに想像を逞しうするならば、展望台の直径が地球の直径の100万分の1の寸法になってるとか、コロシアムの傾斜がこの地点の緯度(43°36′49.0”)に等しく、夏至の日に南中した太陽の光線がステージの中央を照らすとかいう、凝った設計になってるのかも知れません。 そうかっ!・・この構造物は、現代人が作ったストーンサークルに違いない!・・とガッテンし、頭の中で渦巻いていた全ての疑問が腑に落ちる音が聞こえました。(←ストーン)
この辺の道路って、直線が続く上に風を遮る樹木なども少なく、地吹雪が起こると視界が悪くなるし吹きだまりも出来るしで、昨冬の3月には中標津町の5名を含む計9名が死亡しました。 道路管理者は以前から吹きだまりの状況などを調査して対策を講じており、今年も防雪柵の新設や道路標識の改善などを進めていますが、何しろ広大な平地を網の目のように走ってる道路ですから、全ての危険箇所を一気に片付けるのは無理な話でしょう。 「北の道ナビ」というサイトでは、今冬から「吹雪の視界情報」を提供することになりました。 視界の悪い地域を色分けして示すもので、このようなサイトを有効に活用したいものです。 視界の状況によって目的地までの所要時間が変わる状況をシミュレートできるのが、個人的には面白いと思いました。 気象台から発表される気象情報も、「見通しがきかない猛ふぶき」とか「車の運転が困難」などという表現に変えていましたが、今冬からは「数年に一度の猛ふぶき」とか、「外出は控えてください」などのキーワードを使うこともあるそうです。(報道発表資料:PDF) でも、自然現象から自分の身を守って長生きしたいならば、他人に頼るよりも臆病になることが一番です。
2014年01月12日
アメダス厚床の次に根室へ向かう途中で、太平洋に向かって盲腸のように突き出ている落石岬に寄りました。 続いて西和田や花咲にも寄って歴史を勉強し、さらに根室市近郊の遺構なども探索してきました。
落石岬の灯台を見物する訳でもなく、サカイツツジの群落を鑑賞するためでもありません。車止めからしばらく歩くと、こんな廃墟があります。
石碑には開局時(明治41年)の名称である「落石無線電信局之跡」と記されていますが、読み難いので木製の標柱の方を載せます。
こちらには後の名称:「落石無線送信所跡」と書かれています。 この無線送信所は、1929年にヤクーツクを飛行中だったドイツの飛行船ツェッペリン号と日本初の交信に成功したとか、1931年にアラスカからカムチャツカ半島、千島列島を経て根室に向かっていたリンドバーグ機の不時着を知って救助要請を通報したとか、1939年には太平洋無着陸飛行中のリンドバーグ機を無線によって誘導した、とかいう由緒のある施設です。 現在は根室出身の版画家・池田良二氏の個人スタジオとして使われているそうで、玄関の上にイニシャルの「R・I」をデザインしたマークが掲げられています。
2011年はリンドバ-グ来日80周年に当たり、この廃墟の内部に版画の作品や銅版を展示するなどの企画展「落石計画」が開催されて、リンドバーグ夫妻の二女であるリーヴ・リンドバーグさんからお礼の手紙が届いたそうです。 これは無線用鉄塔の台座だったのではないかと思われます。
裏から眺めるとこんな佇まい
訪問時は時期外れなため、窓なども閉ざされていました。 周囲には送信所の付属施設の土台などが残っています。
これは専門分野だ・・換気扇用の穴まであるし。
残雪を踏み抜いて、こんな穴には落ちたくないもんだな・・。 車止めの横にバイオトイレがあって、研究対象ですから調査しました。
使用後にスイッチを押すと、除雪機のようなブレードが回転して試料がオガクズと一緒に攪拌され、微生物によって分解されるそうです。 あいにく、実証用の試料を投入できる体調ではなかったのが残念ですが、室内は全くの無臭でした。 便座の下でブレードが回転してる場面も撮影したんですけどぉ・・。
昆布盛の先に西和田という地区があり、ここに「和田屯田兵村被服庫」があります。屯田兵関係の遺構はあちこちに残ってますが、現存する被服庫はここだけです。ただし、野幌の第二中隊本部の裏手にも、小さな被服庫が修復・保存されているとか。(未確認) 和田屯田兵が入植する前年の、明治18年頃の建造らしいです。
アメリカ開拓時代の建築様式を、お雇い外国人が北海道に導入したもので、バルーンフレーム構造は時計台と同様の様式だと説明されるよりも、モデルバーンに似てると言われた方が納得します。 普段は無人で、見学希望者は電話しろと書かれていましたが、時間が無いので窓から内部を撮影します。
かなり年季が入った建物で何度か移設されているしで、土台は腐りかけています。
隣には和田小学校の校舎と古い校門がありましたが、
平成18年に閉校しています。→学舎の風景
続いて花咲にある「根室市歴史と自然の資料館」を見学するために花咲の街を通過しようとしたら、ちょうど祭りの日だから通るべき道路に屋台が並んで通行止めになっており、見知らぬ街で迂回させられると方向感覚が狂ってしまいます。 北方領土に近いだけあって、ロシア語の看板がかかった店(会社?)もあるし、ロシア人(多分)も街中を歩いていました。 左奥が「根室市歴史と自然の資料館」で、右が花咲港小学校です。この資料館は旧海軍大湊通信隊の根室分遣所だった建物で、終戦後は花咲港小学校としても利用されていました。 ここにはラクスマンの根室来航関係の資料や、樺太の北緯50度に設置されていた旧日露国境の標石などの資料が展示されています。 しかし樺太に立っていた国境標石が、稚内じゃなくて根室にあるというのも相応しくないような・・。 国境関係の文書類の展示には力が入っていました。個人的には、奥にある収蔵展示室(というか物置)のような部屋の方が面白かったです。
ここにお目当てのケーブルがありました。
スキー場のリフトに使われていたケーブルのようにも見えますが、これは明治33年頃に根室市と国後島との間(距離30km以上)に敷設された海底ケーブルで、当時は電信回線が択捉島の北端近くまで繋がっていました。 1945年の旧ソ連軍侵攻の際も緊迫した島の状況がリアルタイムで根室側などに伝えられましたが、旧ソ連軍に占拠された択捉島との通信が同年9月に途絶え、間もなく国後島とのケーブルも切断されたそうです。
その海底ケーブルの根室側の上陸地点を見てきました。 根室市内を流れるハッタリ川の河口(ハッタラ浜)に陸揚庫が残っているので、駐車スペースに車を停めてどこかなぁ?・・と思ったら目の前にありました。ここが海底ケーブルの出口(というか入口)でした。 鉄筋コンクリート製で造りは頑丈なんだけど、ホントに「跡形が残っている」という程度の廃墟です。
ケーブルが切断されて陸揚庫の役目を終えてからは荒廃が著しく、近くの漁家の倉庫に使われたこともあるとか。
根室市が買い上げて保存する方針を決めたらしいですが・・。
根室市の郊外・友知の近くで国道から逸れて砂利道を進むと、ケーソンのようなコンクリートの塊が並んでいます。→根室半島のトーチカ群についてこれも当然、造りだけは頑丈で銃眼も残ってましたが、草が深かったので近付きませんでした。
向こうの丘の上には自衛隊のレーダーが設置されていて、対照的な光景でした。
日いずる町というか国境の町・根室市を後にして「穂香」(ほにおい)まで来ると、北海道立北方四島交流センター「ニ・ホ・ロ」がありました。ここに寄る予定は無かったんだけど、再び訪問することは無いかも知れないので寄ってみました。 道立だけあって建物は立派ですが、展示はイマイチ・・2階の北方資料館の展示室が面白かった程度です。(規模は小さいけど) 無料の展示観覧よりも、貸し室を有料で利用されることを期待している施設のようです。 ウズベキスタンの民族衣装を着て記念撮影できるコーナーがありました。
お約束のトイレ探査
二か国語の併記ならともかく、ロシア語の表記だけでした。
意味は「トイレを汚さないようにしなさい。」←最後の単語だけは分かるでショ。笑 「穂香」という地名も好きだけど、昔この辺を走ってた時に場違いと思えるほど上品なレストラン(オーベルジュ)があって印象に残っています・・ここみたい。 でも「ニ・ホ・ロ」で時間を食って急いでたせいか、今回は気付かずに通過してしまいました。
2013年12月20日
湧別から遠軽へ向かう途中で、中湧別にある道の駅「かみゆうべつ温泉チューリップの湯」に寄ります。 ここはJRの名寄線・湧網線の旧中湧別駅だった場所で、旧駅構内を「中湧別百年記念公園」として整備し、さらに道の駅として温泉も併設してリューアルされ、鉄道施設や鉄道資料を展示しています。
跨線橋の下に緩急車、ラッセル車もいます。踏切と信号・・がこんな場所に立ってるはずは無いけれど。
昔の保線区といえば、軌間ゲージや、犬釘を抜く長い鉄棒のバールというか金梃子、ハンマーで犬釘を打ち込む光景を思い出しますが、現在は電動の工具を使うんだとか。
一列に並んで「せーの!」でレールをズラしてましたな。 近くに「文化センターTOM」(トム)があり、ロビーに鉄道グッズを展示してありました。 こちらは時刻表と駅名標、駅名板
駅舎かホームに掲げる時計と、タブレットホルダー、レール
今はタブレットケースとかタブレットホルダーと言うと、別の品物を指しますが。
上湧別へ向かう道路の途中で「チューリップ館」に向けて曲がります。敷地の角に「北湧尋常高等小学校跡」と刻まれた古い石碑が立っていました。 湧別村は屯田兵が入植・開拓した土地で、後の上湧別側は「南兵村」(第四中隊)、中湧別側は「北兵村」(第五中隊)と呼ばれ、入植した明治30(1997)年5月から1年もしない翌年2月に、それぞれ簡易教場を設けました。 さらにその年の12月には両教場を統合し、中間の位置に北湧尋常高等小学校を開校しましたが、校舎は残念ながら火災で消失しています。 湧別町郷土博物館「上湧別町ふるさと館JRY」(ジェリー)
文化センターと両方合わせて「TOM & JRY」だそうです。 この奇抜なデザインの建物は渡辺豊和氏による設計で、2000年に第7回公共建築賞を受賞しています。→You tubeに空撮映像があります。(8分25秒) 内部は「屯田歴史館」になっており、内壁の構造も呆れるほど面白くて、中央に屯田兵屋が展示されている他、力作のジオラマなど、ちょっと勿体ないくらい珍しい展示品が並んでいます。 子供向けの簡単な解説書を入手したんだけど、収蔵品の図録などを出版してはどうかと思います。 無機的な建築の横には兵屋を復製した「屯田生活体験館」があり、
薪割りや火起こし、屯田兵の服装や食事など、開拓期の衣食住を体験学習することが出来るようです。 開道百年と言われてから結構な年月が経ったとは思っていましたが、100年前は明治時代だと認識していたのに大正時代なんですね・・昭和も遠くなって当然だわさ。
2013年12月16日
アメダスがある上藻別から南に入った地域は「鴻之舞」で、ここには東洋一の金産出量を誇った鴻之舞鉱山がありました。 1916(大正5)年に金鉱が発見されて鉱山が開発されて以来、かつては1万人以上も人が住んでいた町があったんですが、1973(昭和48)年の閉山と共に寂びれてゴーストタウン化してしまいました。
鉱山の跡には石碑が色々と並んでいて、奥には鉱山関係の遺構も見えます。 「鴻之舞鉱山跡」の碑
開発にあたった住友鉱山(株)が建立した慰霊碑
右下の碑には「鴻紋軌道記念碑 銀色の道 誕生の地」と刻まれています。
鴻之舞地区に住む1万3千人以上の住民の生活物資を運搬する目的で、1940年に紋別から鴻之舞まで「鴻紋軌道」という鉄道の建設に着工したものの、1943年に完成した後も本来の目的にはほどんど使われず、1948年に廃止されました。 ダークダックスやザ・ピーナッツが歌っていた「銀色の道」という歌がありますが、作曲者の宮川泰さんによると、土木技術者の父親が「鴻紋軌道」の建設に携わった頃に鴻之舞に住んでいたことがあり、後にここを訪れた時にレール跡の水たまりに月の光が映る姿を見て、「これこそ銀色の道だと確信した」んだそうです。→Wikipedia 閉山30周年を記念して「銀色の道」歌碑が建立され、紋別駅にも同様の碑が立っているし、今年の春には閉山40周年の記念事業が行われたそうです。 道道脇のあちこちに、かつての街の位置を示す看板が立っています。
この看板が無ければ、生い茂った樹や草薮の中に住宅や商店が立ち並ぶ街があったとはとても信じられません。 それぞれの街ごとに駅があったそうです。 廃墟となった住宅跡
高い煙突が残っていました。
これは小学校の跡で、
こっちは中学校の跡です。
寮の跡は門も壊れかかっています。
こんな街があったんだよ、という説明板
紋別鴻友会のメンバーによって看板や説明板が立てられています。 橋脚だけ残った橋
この橋は送水の為に現在も使われているそうです。
![]()
上藻別には「旧上藻別駅逓所」の建物があり、上藻別駅逓保存会の方々によって修復されています。右側にあるのが正面玄関です。 なかなか堂々たる構えの屋敷で、こちらは脇玄関。
1926(大正15)年に官設の駅逓所として建築され、1934(昭和9)年に2階建て部分が増築されました。 室内に掲げてあった標識
1940年に駅逓業務を廃止した後は旅館として営業し、その後は住宅として使われました。 内部には鴻之舞鉱山関係の資料が収集・展示されており、郷土資料館のように開拓に使ってた古い資料も展示されています。 個人などがあちこちに収集してあった物を、駅逓所の公開に合わせてここに集めたんだそうです。 金色に光る鉱物を含んだ石も展示されており、本物の純金かと思って有難く撫でて行く人もいるらしいですが、金鉱石ではなくて黄鉄鉱か黄銅鉱だと思います。 駅逓所の周辺には、鉱山で使われていた車両とか、
何に使ったのか分からない遺構も展示されています。
サイロの中も展示室になっています。 元々は灰色だったサイロを赤く塗ったのは余計だと思いますが。 2010年には、駅逓を修復・公開・活用している保存会に対して、国土交通大臣表彰「手づくり郷土賞」が授与されました。
2013年12月08日
噴火湾といえば、ホタテや毛ガニ・・ぢゃないですよ。 噴火湾の沿岸には縄文時代の遺跡が多数あり、一昨年の秋には函館市(南茅部)にある大船遺跡を見学しました。→渡島東部の自然と歴史 続いて今年の春に、中空土偶などを展示している南茅部の「縄文文化交流センター」を見学しました。 今回(11/16)は、洞爺湖町にある「入江・高砂貝塚」と、伊達市にある「北黄金貝塚」を見学してきました。いずれも開園期間が4月~11月で、現在は冬休み中です。(公園内を散歩するのは可能かも) 室蘭市から豊浦町にかけての地域には貝塚を伴った遺跡が多い(全体の3分の1ほど)一方、渡島半島の沿岸に分布する遺跡には貝塚がほとんど無い、という特徴があるそうです。
入江・高砂貝塚公園の案内(パンフレット)貝塚館の入館料は150円で、隣にある虻田郷土資料館も見学できます。ただしオフシーズンだから、見せてくれと言えば鍵を開けてくれるんですけど。 郷土資料館はスペースが広くなくて無料なのも相応ですが、昔の虻田町の写真なども展示してありました。 珍しかったのは、昭和10年代の自動寫真館(左)と自動菓子販売機(右)です。
要するに、プリクラとガチャポンの元祖(or本家)なのですが、菓子販売機には「新案特許」と書かれていたから、この頃から出回ったのかも。 高砂貝塚の現地に立つ案内板
貝塚館から200mほど歩いた入江貝塚公園の入口
住居の骨組みと、屋根を葺いて土を被せた完成形
背景は有珠山で、ここは火山灰に埋もれてたお陰で保存状態が良いのだとか。 古墳のような復元住居に入ってみます。
焚き火の跡というか、実際に煙かったです。体験学習でもしてたみたい。
敷地の端にトンネルのような通路がありました。
内側がガラス張りで貝塚の断面を観察できるようにしてあり、
フゴッペ洞窟とか手宮洞窟のような造りです。 地層の中に入江式土器の破片が挟まっていたり、
エゾシカの骨もあるし、
光って文字が読めないけどイルカの骨だとか。
床下にも埋蔵状況が見えるようにしてあります。
ここの遺跡に埋葬されていた人骨のうち、ポリオに罹患した骨があって、肢体が不自由ながら少なくとも十年以上は介護を受けて生き長らえていたことが分かるんだそうです。
所変わってこちらは北黄金貝塚公園で、北海道遺産に選ばれています。右上の地表が白っぽく見えるのは、貝殻で覆われているからです。 復元した住居群:左下に見える沢状の窪みに水場があります。
ここは結構な高さの丘ですが、縄文時代は現在より温暖だった時期があって海面が高く、海岸線も内陸側に入り込んでいたので、「縄文海進」と呼ばれます。 地球温暖化に伴って大陸の氷床が融けると、海面が上昇して同様な現象が起こるとされています。 水場にたくさんの石器が散らばっていました。
これらは石皿とか擂り石でしかも壊れており、意図的に壊された土器もあるので、一種の針供養のように使わなくなった道具を葬る「道具墓」としての祭祀場所だったのかも。 貝塚からは人骨も発掘されるので、貝塚というのは単なるゴミ捨て場ではなくて、人骨、貝殻、魚骨、獣骨など、全て命あるものとして祀った精神が窺えます。 公園内に「北黄金貝塚情報センター」があり、入場無料です。
出土した遺物を展示したり、体験学習などに利用されます。 傑作だったトイレの扉
遺跡から掘り出された女性の骨と一緒に首飾りが出土したような・・。 トイレの内部を調査してこなかったのが悔やまれます。 どんなんだろうね・・便器は素焼きの土器に縄文模様が施されていて、脇に木の葉っぱが置いてあったりしたら・・。
2013年11月16日
前々回の記事で紹介した沼川と稚内空港との間に、「恵北」〈けいほく〉という地区があります。
ここには、太平洋戦争が始まる時、択捉島の単冠湾を出港してハワイに向かっていた日本海軍の空母機動部隊(司令官:南雲中将)に向けて、開戦(真珠湾攻撃)の指令である「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という電報を発信した通信所の遺構があります。
この片田舎に軍の指令部などあったはずもなく、大本営からの指令を中継打電しただけですけど。
道道の(信号も無い)交差点の脇に、目立たない看板が立っています。正式な名称は「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」ですが、通称「稚内赤れんが通信所」と呼ばれるようです。 この施設は戦後に米軍が駐留し、昭和47年に日本へ返還された後も非公開でしたが、平成18年には稚内市に移管され、民間団体の「稚内市歴史・まち研究会」によって少しずつ修復復元されていました。
しかし近年の豪雪に堪えられず、屋根が崩れ落ちて壁にも亀裂が入るなど、かなり損傷が進んでしまいました。上が隊舎で、下が庁舎だった建物のようです。
昔は内部に入れたらしいけど、今は近付くだけでも危険な様子で、この状態から修復・保存するのは難しいかも。 いくらレンガ製とはいっても屋根はトタン葺きで、今から80年以上前の昭和6年に建てられた施設ですから。 NHKのドキュメンタリードラマ「望郷」のロケにも使われたそうで、倉庫だったらしい建物だけは原形を保っています。
不釣合いに立派過ぎるかも知れない看板
玄関のガラス越しに内部を撮影:郷土の歴史学習などに利用される雰囲気。
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宗谷岬の背後は丘になってて、宗谷海峡を見下ろすことが出来ます。宗谷岬公園内には「大岬旧海軍望楼跡」が残っています。
当時最強だったバルチック艦隊の動向を早期に察知するため、明治35(1902)年に建造された要塞であり、稚内市内に現存する唯一の明治時代の建築物なので、市の有形文化財に指定されています。 望楼から宗谷海峡を監視する光景を想像
はるか沖行く、外国船が見えるかも・・宗谷岬だから。 国際的には、欧州人として初めて海峡を通過したフランス海軍士官・ラペルーズを記念して「ラペルーズ海峡」と呼ばれ、顕彰記念碑も立っています。
彼がこの海峡を発見した訳ではないし、間宮林蔵が間宮海峡を発見した訳ではないのですが。 うねうねした宗谷丘陵に突出する小山の頂上に、自衛隊のレーダーが設置されています。
これが言うなれば現代の「電子望楼」な訳で、近付くと撃たれるかも知れないから遠景写真を撮って退散。
日ソの国境も難しい問題ですが、領空を侵犯したとして大韓航空機が撃墜された事件がありました。昭和58(1983)年9月1日のことです。30年も経ったというか、わずか30年前というか・・。 自動操縦の入力値を間違えて飛行コースが逸れたとか言われてますけど、戦争中でもないのに民間の旅客機を戦闘機が撃墜するという、前代未聞の衝撃的な事件でした。 確かに領空侵犯には違いないですが、図体のデカい航空機に爆弾でも積んでると思ったのでしょうか。 機体の残骸や遺体はオホーツク海を流れ下って、しばらく後には能取岬でも発見されたりしました。(前日に、その辺を旅行してた) 事件の2年後に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願って「祈りの塔」が建てられました。右は「世界平和の鐘」です。曲がった先端は撃墜された位置の海面に向かっていて、高さ19m83cmは1983年に因み、搭の全体は犠牲者の人数に因んで269片の花崗岩で作られ、左右の翼壁は犠牲者の国籍数に因んで16枚で構成されているとか。 参考:北海道無料写真素材「祈りの塔」
日本人なら鶴に見えますが、鶴といえば・・復活した鶴丸マーク(24日のギラヴァンツ北九州戦は、JALサンクスマッチ) かつて、太平洋岸の某市に「鶴丸デパート」という百貨店がありました。学生服を買うくらいしか行ったことが無かったけど。 最近、ニュースで「日-ソ」や「日-ロ」と書かれた文字を見て、どんな国際問題が起こったのかと思ったら野球の話でした。紛らわしいから他の略記を考えて欲しいな。
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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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