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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。

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帯広の森に残る掩体壕遺構

2013年09月14日

ちょうど一月前の8月中旬に日本クラブユース選手権(U-15)を観戦するため十勝地方を放浪してた折、試合開始は午後だから昼までに中札内へ戻ってくれば良いので、早朝からあちこちを探索してきました。

明け方に三国峠や十勝三股を探訪してから、帯広の森まで戻って来ました。
帯広の森もクラセンの試合会場の一つとなっていますが、今回の目的は他チームを偵察することではなくて、帯広の森の中に残っている「掩体壕」(えんたいごう)の遺構を見学することです。

「掩体壕」というのは戦時中に作られた構築物で、飛行機などを敵の目から隠すための覆いであり、道内では他にも数ヶ所に残っています。
いつも試合をしてる帯広の森のサッカー場の隣に、そんな戦争遺跡があるなんて知りませんでした。

帯広の森だから鬱蒼とした林に隠されて、人知れず草木に埋もれかけて佇んでるのかと想像してたら、大っぴらに案内板にも書かれていて、探索好きの身としては拍子抜けしました。


散策の出発点は、帯広の森の育成管理・学習体験・情報発進の拠点施設「はぐくーむ」です。
一度は失われた森を再生して育む

施設の案内図に掩体壕の位置も記されていました。
こっちが正しい位置
右上が十勝飛行場で、プリンスリーグやクラセンなどの試合が行われるサッカー場がLの部分です。

暑くて汗を流しながら散策路をしばらく歩くと、案内板が立っていました。
69年前への入口

遺構の配置と、使用要領を示す図:滑走路に背を向けてます。
こうやって使った

帯広の森に隣接する陸上自衛隊の十勝飛行場は、戦時中には陸軍の飛行場だった訳で、昭和19年に撮影された飛行場の写真に掩体壕の配置を書き加えた図がありました。
この位置は違う
全部で46基あったうちの、現在まで残っているのは左上の丸印を付けた掩体壕だとされていますが、実際にはその位置が違ってて、施設案内図に書かれた方が正しい位置だと思います。

奥に入って行くと、コンクリート製の塀のような構築物がありました。
塀の向こうに

機首方向から見た景色:凹んだ・・というか外側に出っ張った部分に尾翼が納まります。
凸形をしてる
板か布か網かで屋根のように覆って擬装したのではないかと。

尾翼格納部分から左翼方向を見た景色
左翼観覧席

最後尾から機首方向を見た景色:これから出撃な光景
前方視界不良

尾翼格納部分の背後から見た景色
アンコールワットかマヤの祭壇か

コンクリートの所々に隙間がありました。
マヤの石垣にはカミソリすら入らない

最近まで、この土地で農業をしてた方が物置だかに使っていたそうです。



post by 雁来 萌

09:18

蝦夷の細道 コメント(0)

ふくろうの町に出来たダム

2013年09月10日

6月初旬のことですが、当別町字青山十万坪に昨年完成した当別ダムを見物してきました。

当別町の見所といえば、個人的には「伊達記念館・伊達邸別館」が真っ先に浮かぶのですが、今日は古い物ではなく新しい物を鑑賞します。

当別町から「青山ダム」や「道民の森」を経由して石狩市浜益区へ通じるルートは、道道28号(当別浜益港線)ですが、通称として「ふくろう街道」と呼ばれるんだとか。
当別町の町の鳥がふくろうだからでしょうけど、「梟」と漢字では書かずに必ず平仮名で書くようです。


ダムの天端部を歩いて見学することが出来ますが、今回はパス。
題字は高橋はるみ知事
高さ52メートルの堤体を作ったため、川沿いに走っていた道路はすっかり様変わりしてしまいました。

ダム管理所に掲げられていた説明板
お目目ぱっちり

下流側から見た堤体
水が落ち

当別町に向かって流れる当別川の流路・・運河みたい。
川は流れる

上流側から見た堤体とダム湖:融雪水が貯まって満水状態です。
ダムは堰き止め 龍角散は咳止め

ここに出来た人造湖は「当別ふくろう湖」という名称だそうです。
白鳥の湖とは大違い
いくら我らがチームの象徴(の親戚)とはいえ、それは変な名前だと感じるのですが。

地盤を掘り下げる基礎工事で発生した土砂を、そのままセメントに混ぜて利用します。
母材と供試体

ダム湖の上流のどん詰まりまで行ってみました。
ここまでダム湖
下に見えるのが水没した古い道路です。
ここはもう、ダム湖というより・・洪水で水浸しになった畑のような風景です。

ダム湖に沈んだ立木たち
島のような

 
当別町立弁華別(べんけべつ)小学校は、明治25年の開校以来121年の歴史を誇ります。
昭和12年に建築された現在の校舎は、現役としては最も古い校舎になりました。
現役の最古参
昭和11年に建築されて最古参だった増毛小学校が、昨年移転してしまったためです。
知らなかったんだけど、この校舎がテレビCMの背景に使われて注目を浴びるようになったとか。→やがて見えなくなる記事

体育館の雰囲気も味があります。
築77年経過
現在の全校児童は12名しかいないんですか。

この学校には、青い目の人形「エリザベス・アン」が保存されています・・知らぬ間に髪が伸びてたとかいうミステリー話は無さそう。笑


更に時を遡ること1ヶ月、恵庭市郷土資料館と千歳市埋蔵文化財センターを見学してきました。

こういう施設って、市街地の真ん中には作らないで街外れの市町村境付近(要するに場末)に設ける場合が多いので不便です。

ところが幸か不幸か、両施設とも恵庭市と千歳市との境界線近くに設置されたため、両方を同時に訪問するのが便利になっています。

 
恵庭市郷土資料館は道の駅「花ロードえにわ」から近く、3回目か4回目くらいの訪問になります。
回廊がある
縄文時代の遺跡から出土した副葬品などが展示の目玉です。

今回気が付いたんですが、ここの前庭って、周堤墓(環状土籬)を象っているのではないかと。
周堤墓と思われる

隣接する敷地に校門が残されており、「公立松園尋常高等小学校」と刻まれた標板が嵌め込まれていました。
支笏湖の溶結凝灰岩か
この門柱は大正15年の建立だそうな。

松園校跡地記念碑に刻まれている松園小学校の沿革によると、
沿革・・思い入れが強そう
わざわざ「公立」と冠しているのが不自然なのも道理で、元々は1889年に開設された私立の小学校だったらしく(校名は吉田松陰に因む)、1897年に公立恵庭小学校松園分校と改称されたそうです。そして1899年に、公立松園小学校として独立したんだとか。

1971年に閉校した後、松園校の跡地を開拓記念公園として整備し、開拓関係の記念碑や史跡などを復元移築したらしいです。

 
便利だと言ったくせに少し迷って、千歳市埋蔵文化財センターに着きました。
看板が立ってないと気付かない

この施設は、廃校となった長都(おさつ)小中学校の校舎を利用しています。
サツマイモでもお札でもない

生徒玄関だった入口を入ると受付窓口があり、スリッパに履き替えて床がきしむ展示室(教室を改装)を見学するのが、いかにも元小学校のデフォ仕様。
何となく入り難いが
でもね、目隠しされたまま展示室まで連れて来られたら、ここが小学校の教室だったとは気付かないくらい、モダンな内装に変わっています。

ここの目玉は、美々4遺跡で発掘された「動物形土製品」で、鳥だかラッコだか亀だか分からない、奇妙な造形作品です。
これを模した「ビビちゃん」というキャラクターが、道立埋蔵文化財センターのマスコットになっています。

校庭の隅に百周年記念植樹という石碑が立てられていましたが、
記念になってない
ほとんど枯れていました・・学校は百年続いたのに。



post by 雁来 萌

07:28

蝦夷の細道 コメント(0)

留萌・佐賀番屋の一般公開

2013年09月02日

留萌市礼受町にある「佐賀番屋」が一般公開されるとあって、お盆の頃の8月10日に見学してきました。

ここは以前から気になっていたけど個人の住宅なため普段は公開しておらず、観光客が多いとか地元の人達が帰省してるとか、学校が休みだから先生が交代で詰められるとか、色々な都合があってこの時期にだけ公開しているようです。


国指定の史跡・重要有形民俗文化財だそうで、北海道遺産にも指定されており、留萌市の教育委員会が主催して公開しています。
年に一度の御開帳
鰊番屋の建物は道内のあちこちに残っていますが、ここは番屋の建物だけではなくて、船着き場や鰊の一時保管倉、竃跡、干し場、製品保管倉、網倉、船倉など、周辺の施設がそっくりまとまって残っているので貴重です。
おまけに裏山には、守り神として建立した稲荷社まで残っています。
それ故、正式には「佐賀番屋」ではなくて「佐賀家魚場」と名付けられています。

周辺の配置を示した写真(説明パンフレットをスキャン)
魚場の全景

これが番屋(母屋)で、江戸時代末から明治初頭にかけての建造と考えられています。
屋根が波打っているのも味がある
後代に改修が施され、当初は左側にもっと伸びていた棟を切り詰めたそうで、煙突の下あたりにあった玄関も右寄りに移されたそうです。

母屋の右奥にある船倉(左)や製品保管倉(右)と裏山の神社
倉と神社
干し場を臨時駐車場として提供していました。

さすが漁師だけあって、柱に気圧計が吊るされていました。
ニシン来たか?
繊細な気圧計を荒縄で吊るすというのもなぁ・・

障子の部分に貼られた古い文書は虫食いだらけです。
壁に耳あり障子に目張り
不要になった出納帳の類でしょうか

薄暗い倉庫に保管されている「もっこ」などの漁具
ランドセルになるかも
明日からでも使えそうな雰囲気でした。

どうやって使うのか興味津々な道具ばかりで涎が・・
お宝に見える

船倉に保管されていた船
改造すれば高速艇?

大きな船の舳先は屋外に突き出してます。
どうやって出す?
横向きに格納すれば納まると見えましたが・・そもそも元来は壁が無かったのか・・。

どうせだから神社にも登ってみましたが、この坂が急で、雨上がりだから余計に滑ります。ロープを張ってなかったら無理ですね。
高い所は大好き
手前を横切ってるのがJR留萌線の線路です。

こんな社でした・・裏から何かが出てきそうな雰囲気。
鎮守様がおわす

母屋と干し場、前浜、一時保管倉(道路と浜の間)を見下ろした光景
絶景かな・・というか絶壁だな
こんな急坂を下って戻るんですが、最後に勢いを付けて駆け下りると、鳥居の下に見える線路に飛び出ます。(あぶねぇ~)

これが船着き場:杭が残っています・・鰊はどこへ行ったやら。
カモメの水平線

鰊を釜茹でにした竃の跡
五右衛門風呂を連想する

鰊を一時保管しておく倉
我が家より立派かも
コンクリートの岸壁の角には「昭和二十六年○月二三日」と彫られていました。


増毛へ向かう途中に、番屋だったかも知れない雰囲気の屋敷がありました。
いかにも番屋
番屋にしてはガラス窓が大き過ぎるので、後代の改修かも。

開校133年という気が遠くなる歴史を持つ増毛小学校は昭和11年の建築で、当別町の弁華別小学校(9/10投稿予定)と1・2を争う古い校舎です。
増毛効果を期待する

こちらが風格と貫禄のある体育館
お遊戯よりは武道が似合う

校舎の保存を望む声があるのは当然ですが、使う方にしてみれば不便この上ない話で、遂に旧増毛高校の校舎へ移転してしまいました。
従って、現役校舎としては弁華別小学校(昭和12年建築、開校121年)が最古になります。

留萌市内の某観光案内所に寄って「萌っ子缶バッジ」を買い足し、以前に紹介した「オロロンマップ」の増毛版をもらったら、「アメダスの観測施設」が載ってました。
それらしく描かれている
この地図って、実物(or写真)を見て描いたとしか思えないほど忠実で、雰囲気がよく出てるんですよね。

 
帰りは、時々通行止めになる「増毛稲田線」(道道94号)を通って雨竜へ出ました。この道はかつて「信砂越え」と呼ばれた山道で、松浦武四郎も通っています。
ただ単に、留萌まで戻るのが嫌だから近道を通っただけなんだけど、途中に廃校となったらしい体育館がありました。
こじんまりした体育館

蕎麦畑を背景に、竜西小中学校(昭和46年閉校)の閉校記念碑が立っていました。
誇りは高し 山よりも

 
月形から浦臼にかけての地域をまるごと、遺跡や歴史施設などをひっくるめて「田園空間博物館」という概念で連携しています。
地域まるごと博物館
十勝地方にも似たような地域がありました。

廃校になった鶴沼小学校は「農機具展示施設」として活用されています。
鶴が訪れる沼の向かい

これでもか、というくらい農機具が各教室に展示されていましたが、持ってる物を全て並べるのではなくて、少し整理して系統的に並べた方が学習のためになるだろうに。(唐草のような模様の便器まで展示してあった・・それはそれで個人的に興味深いのですが)

廃校になったすぐ後に別の施設として活用されると、学校関係の資料が保存される利点があるようで、ここには鶴沼小学校関係の古い教科書や書類やらの珍しい資料が多数展示されていました。

「希望の鐘」って何かと思ったら、授業の開始や終了を知らせるチャイムでしょう、きっと。
日本コロムビア製



post by 雁来 萌

22:21

蝦夷の細道 コメント(0)

平和と希望に見る事故と災害

2013年07月08日

6月23日(日)に北海道クラブユース選手権(U-18)が夕張で行われたついでに、以前から気になっていた北炭平和炭鉱の坑口を探索してきました。

翌週に他の炭鉱の遺構やズリ山を調査した結果や、5月に土石流が発生した現場の遠望写真、北広島河川防災ステーションなども紹介します。

北炭平和炭鉱では昭和43(1968)年に坑内火災が発生して9名が死亡、火災を消すための手段として、行方不明だった22名の生死を確認できないまま、2週間後には坑内への注水(=水没)という処置が取られました。
この年には炭鉱事故が相次ぎ、道内の炭鉱で計144名が死亡したそうです。

以前、「バリバリ夕張」というフレーズが流れていましたが、その昔は「夕張 苦(食う)ばり坂ばかり、ドカンとくれば死ぬばかり」と言われてたらしいです。

水没させて消火した後は注水した水をポンプで汲み上げ、遺体の搬出と施設の復旧を進める訳ですが、莫大な費用と時間が掛かったはずです。



野球場の奥に聳えるズリ山と坂道
ズリも積もれば山となる
今はすっかり草に覆われていますが、以前は黒っぽいハゲ山でした。

平和炭鉱の坑口は道道からも見える場所にあり、平和運動公園の野球場の横を通って真っ直ぐ進み、第2駐車場と思われる広場の先にあります。

膝ほどの高さの草むらを進むと、ズリ山へ登る道路の麓に着きます。
昼暗いむ

さらに山裾の木陰へ進むと、斜坑の坑口が見つかりました。
地底への入口

閉山から40年経ったにしてはあまり傷んでいませんが、看板は外されたようです。
天ノ岩戸
この穴の底で何十人もの鉱員が生き埋めになったかと思うと、暑さも和らぎます。

正面から見ると立派だけど、横から見ると意外にペラペラな壁だけで、その後方はただ山に潜るトンネルです。
カキワリか

こちらは別の坑口で、半分以上が埋もれています。
埋もれる歴史

 
夕張鉄道の跡地をサイクリングロードにしていた頃に使われていた橋なのか、うち捨てられていました。
どこに架かっていたのか

左から、ズリ山の坂道、坑口、橋
人が去っても花は残る
手前にはルピナスが咲いていて、人間が暮らしていたことが分かります。

野球場のスコアボードから、こんな距離です。
意外に近い

さらにスコアボードの真後ろに当たる位置にも、水平坑の出口にあったらしい背の高い遺構が残っています。斜面を登って内部を調査する気にはなりませんが。
夕張は廃墟ばかり

川向かいの野球場の位置にあった選炭場まで、石炭を輸送する施設の土台だったのか。
六角柱?

 
歴史上の話かと思いきや、炭鉱を原発に置き換えて、炭鉱会社を電力会社に置き換えると、事故が起こった時の対応があまりにも似過ぎてますね。

高い賃金を払って危険な作業をさせるけど、結局のところ作業員は使い捨てで施設を守ることが優先され、人間の手に負えなくなったら注水しかない・・。

今は原子力の時代かも知れませんが、燃料が石炭から放射性物質へ変わる進歩はしたけれど、それを扱う人間の方は全く進歩していないように見えます。間もなく45年になりますが。


ズリ山のてっぺんまで登ってみると、野球場や第2球技場、陸上競技場がよく見えます。
かつての鉱業所跡

反対側には、オモチャのような自動車教習所(既に閉鎖)が見えます。
これも廃校というのか

 
向かいの右寄りの沢の先には、「北炭若鍋炭鉱」の遺構が残っているはずです。
かつての「ユーパロの湯」は閉鎖されて「夕鹿の湯」(ゆうかのゆ)に変わり、道路はその先で通行止めになっています。

対岸の左寄りに見える坂道を登って本来の道路に合流し、右側の沢へ2kmほど進めば若鍋炭鉱の跡へ通じるんだろうと思います。
徒歩なら行けるが熊もいるし

若鍋炭鉱は平和炭鉱よりも古く、明治時代に石狩石炭によって開発された鉱山で、北炭へ吸収合併された後は「若菜辺炭鉱」に変わり、これが後に「若菜」地区の名称になりました。

ズリ山を下りて対岸へ行ってみると、お目当ての坂道は閉ざされていました。
他に登れる道は無いかと探しているうちに、電線を張った柵がありました。
野菜を栽培しているのかな
何の畑かなぁ??

わっ! ミツバチの巣箱だっ!
美味しい蜂蜜を作ってね
ブンブン飛んでるんだもの、慌てて窓を閉めましたよ。

 
少し除霊でもした方が良いかと思って、メロン城の近くにある霊場をお参りしました。
ここは四国じゃない

道に沿って、比較的狭い間隔で石像が並んでいます。
霊界へ導かれるのか


5月の融雪や降雨に伴って、石炭の歴史村を見下ろす「郷愁の丘」の近くを流れる川で土石流が発生しました。(実は昨年も)
このため、周辺地域は立入禁止になっています。
これもいずれは廃墟になるか
・・というか、無人になった観光施設へ立ち入らないよう、土石流を口実にしてロープを張っているような印象でした。

対岸の道路から被災箇所を眺めてみます。
希望はあるのか
奥にズリ山があり、これが土石流の元凶なのかも知れません。
手前には「夕張希望の丘」と書かれた煙突が立っていて、2009年にドールズが桜を植樹した公園が右側に広がる斜面のようです。→桜マップで検索できます。

小川の水が流れる水路が深くえぐられていました。
補修してもまた崩れそう
周辺は石炭ズリで出来ているので、土が黒っぽく見えます。

上流の方では、元々あった小川をズリ山が堰き止めたため、池が何個も出来ています。
融雪時期にこれらの池の水位が徐々に上昇し、堤防になっている部分を越えた段階で、一気に流れ出して土石流が起こる・・のではないかと。

草も木も生えていない土地だから簡単に崩れてしまい、毎年のように補修してたら大変ですね。
夕張にとってズリ山は、石炭産業がもたらした負の遺産になっているようです。


帰りに、北広島市にある「北広島河川防災ステーション」に寄りました。
川の駅

この施設は国道274号が千歳川を渡る千歳川橋の袂にあり、「北広島町防災センター」を兼ねています。→パンフレット(PDF)
普段も利用できます

左を流れるのが千歳川で、手前を横切って右から合流しているのが輪厚川です。
この辺は5mくらい浸水するらしい
その奥は排水機場だと思われます。

 
この施設は災害を防ぐのが目的で、最近になって「XバンドMPレーダ」が設置されました。
まだ稼動できない
XバンドMPレーダ・・って何?→「XバンドMPレーダの整備について」(PDF)、雨量情報の試験運用状況

通常のレーダは反射して帰ってくる電波の強さから雨量を推定しますが、その際に雨滴の「粒径分布」を仮定しています。この粒径分布は、雨雲の種類や季節、地域などによって異なり、それが雨量強度の推定誤差を生じます。
MPレーダでは雨滴の粒径を測れるので、雨量強度の推定がより正確になります。

北広島のレーダはチューニング中の段階なので、まだ雨量情報の画面には表示されていません。
要するに、その粒径分布のパラメータを決める作業中な訳であり、受信電力と雨量とを関係付けるパラメータを決めるためには、ある程度強い雨が実際に降らなければならないのに、今年はまだ豪雨が降っていません。

 
施設内にはトイレやロビー、自販機があり、普段でも自由に立ち寄ることが出来ます。

ロビーや2階のホールには、施設の広報資料や災害の啓蒙資料が展示されていました。
地震・雷・火事・洪水
壁やパネルに洪水被害の状況写真を貼ってあり、惨状を伝えています。
左奥にトイレがあったので覗いてみると、何の変哲も無い仕様だからトイレの話はスルー

・・かと思ったら大間違い、非常用の携帯型トイレが展示されていました。
アタッシュケースのように扱える(機内持込可?)
これを持ち歩いていれば「どこでもトイレ」←こら

普段から備えておくべき防災用品も展示されていますが、
昔の缶ビールの缶切りを思い出す
でもガソリンの缶詰って、穴を開けて使う時に危険な気がします。

 
敷地内には災害(主に洪水)対策用の資材置き場があり、
水防資材置き場・・盗まれたりしないのか

水防工事や救助作業用のヘリポートもあります。
鼓笛隊の練習してた

休憩を兼ねて、ドライブ(や川下り)の途中に寄ってみては如何でしょう。



post by 雁来 萌

20:56

蝦夷の細道 コメント(0)

星の降る里に星のいかだ

2013年06月23日

先月の下旬に、赤平(アメダス含む)・芦別方面を見学してきました。
アメダスのレポートは後の記事に回すとして、今回は歴史遺産を巡る紀行文です。

銀座山形屋様の縫製工場(日本ソーイング北海道(株))が芦別市にあり、芦別市は120周年、市制施行60周年を迎える、ということは全く知らなかった頃の旅なので、その方面には立ち寄りませんでした。未知とのソーイングです。←をぃ


まずは、赤平市にある「北海幹線用水路」の「北海頭首工」を見学しました。
幹線用の水路ではなく幹線の用水路
左側にある道路は関係者用の専用道路なので、右の道路を先へ進みます。

道の脇に神社があって「北海水神宮」というらしく、用水の安全を願っているのでしょう。
お水の神様

水量が豊かな空知川から、少し水を分けてもらいます。
空知川と水門

ここが取水口の水門で、結構な幅がありました。
ウォーターゲート事件

こんな水路に沿って農業用水が流れ下り、赤平市から南幌町までの総延長80kmにも及ぶ水路が、穀倉となる空知の水田や畑を潤します。
ゴンドラに乗った川下りも良さげ

途中の砂川市を流れる「北海かんがい溝」の上は「流れのプラザ」として整備されており、以前の記事にも説明があるのでご参考に。
峰延の辺りでは国道12号の脇を流れていて、走ってる車からも水路が見えます。

 
芦別市の頼城地区にある「星槎大学」まで来ました。
大学の建物にしては、みすぼらしい
「星槎」とは、中国の伝説に登場する「天空を旅するいかだ」に基く「星のいかだ」のことだそうで・・長さに差がある木でも、組み合わせれば大きな舟となって大海を旅することが出来るという・・ベテランと若手との組み合わせ・・耳が痛い話です。笑
アディダスのマークに似ている校章も、長さが違う3本の木を表しているんでしょう。

隣に石碑が立っており、ここは旧頼城小学校だったんですが、
頼城にあった頼小
西芦別小学校に統合されて廃校となった校舎を、通信制の星槎大学が活用しています。

ここの体育館が見事で、大きさも並外れな上に内部の骨組み構造が美しいのです。
B-29の格納庫か
参考:文化遺産オンライン(地図中のマークは「星の降る里百年記念館」の位置)

レンガ造りの校舎は長さが100mもあって、廊下で徒競走が出来るとか。←走るな
三十三間堂の2倍近い
校舎、体育館、校庭・・全てがデカい・・三井芦別炭鉱の城下町だったのは過去の栄光。

生まれた土地が悪いのか、それとも後から生えた木が悪いのか・・
どっちを残すか

校庭を挟んだ隣には、廃校となった旧頼城中学校の校舎があり、
敬愛なのか愛敬なのか
こちらは「星槎国際高等学校」として使われています。
修道院のような雰囲気

 
頼城小学校が統合された先の西芦別小学校に寄ってみると
閉校式典・惜別の会
この秋には廃校となる予定だそうです。

とは言ってもここは、西芦別中学校だった校舎に西芦別小学校が移転した当代の校舎であって、先代の校舎跡が近くにあります。
旧校舎跡
旧体育館は地元企業の社長さんが改装して美術館にしました。

開校五十周年記念の石碑と旧体育館
工場のような美術館

校庭と旧体育館との取り合わせがちょっと異様
まるで牧草地

 
旧三井芦別駅の駅舎が残っていましたが、倉庫として使われているようでした。
らしい駅舎

線路跡とホームであることが分かります。
線路は続かないよ

これでも駅前通りですからっ!
交番もパチンコ屋も赤提灯も無い

旧三井芦別鉄道の「炭山川鉄橋」の上に、ディーゼル機関車と貨車が展示されています。
♪今は鉄橋渡るぞと
国道452号にかかる炭山川橋から見えます。
普通は建物の中に保管して展示したいところなのに、風雨に曝す状態で展示するのはメンテナンスに手間がかかるに違いありません。(冬場はしまい込むんだけど)

 
道の駅「スタープラザ芦別」で買ったお菓子「北海道 星空のムコウ」
イトマキヒトデ
これって、星の降る里に相応しいお菓子だと思うし、パッケージが芦別市の紋章に似てて面白いのですが、信州とか白馬とか八ヶ岳とか、那須高原とか、北海道とか函館とか・・地名と販売者が変わるだけでパッケージと中身は同じらしく、あちこちで売ってるお土産らしいですね。



post by 雁来 萌

23:17

蝦夷の細道 コメント(2)

仮想体験・藻岩山登頂記

2013年06月01日

先月の下旬に、10日間ほどかけて藻岩山の山頂まで行ってきました。
普通ならば1時間半もあれば登れるはずなのに・・。

その登頂記を以前の記事に付け足していましたが、追記をまとめて独立させました。

紙も積もれば山となる「やまつみ」の札幌藻岩山の地形を積み上げただけですけど。


標高100m面まで積みました・・まだ先は長い。(2013/5/22)
千里の道も一歩から

作り始めてみると、色々とコツがあることが分かります。
手と頭を使って細かい丁寧な作業を必要とするから、ボケ防止に役立ちそう。笑

失敗しないように親切な配慮を感じる作りの商品になっていますが、良く言えば親切、悪く言えばバカチョン。
難点としては、糊の粘着力が強過ぎる感じなのと、位置合わせ用の棒がもう一本欲しいこと。
台座にも位置合わせ用の穴を掘った方が良いけれど、出荷前に加工すると木材は変形して位置がズレるから、この作業は自分でやるべきでしょう。

 
標高200m面まで積みました。(2013/5/25)
マルヤマクラスの山
右下の円山は、あと2枚積めば山頂です。

説明書には「のりやカッターは必要ありません。」と書いてありますが、両方とも必要です。笑

迫力を出すためか高さ方向に誇張されているけど、ワタシ的には実際のアスペクト比(1:1)の方が好きだな。

 
標高300m面まで積みました。(2013/5/27)
この辺から難しくなる

だんだん複雑になってきましたが、焦りは禁物です。
さすがに、ゴマ粒のようなパーツを飛ばして無くしてしまうので、紙の余白を利用して似た形のパーツを作りました。(←だから、カッターや糊が必要)

 
標高400m面まで積みました。(2013/5/29)
胸突き八丁
上空から見下ろしてるような気分になります。
よそ見しながらセスナ機を操縦してたら、藻岩山の斜面に衝突したことを思い出しました。フライトシミュレーターの話だから生きてますけど。笑

 
標高500m面まで積みました・・が、今日は「藻岩山の日」なので、勢いで山頂まで到達しました。登頂成功です。(2013/5/31)
つみおわり
まるで、 天にも エベレストにも登る気分です。

藻岩山の標高って531mだと思っていましたが、536.6mと書いてあります。山頂付近にある三角点の標高が530.82mで、山頂自体の標高は536.6mだとか・・どっちみち、最後のパーツは530m面なんだけど。

斜め方向(正午の太陽の位置)から光を当てて凹凸を強調してみる
雨水の浸食力
地下から噴出した山体と、それらを削った雨水による造形ですから、地球の歴史が手に取るように分かります。

汚れ防止と表面保護のため、クリアラッカーを薄く塗りました。
何しろ材料がリサイクル紙なのでほぐれやすく、積む作業に集中してると既に積んであった頂上部や尾根の先端などに触れて、山体崩壊を起こさせてしまうこともあります。笑

ディイスプレイ用に作品を収納する専用のアクリルケースも売ってるけど、そこまでするほどの作品じゃないしな。

札幌ドームから見た藻岩山(2009/10/18)
藻岩山@ドサブ
ドーム・サブグラウンドが「ドサブ」ならば、ドーム本体は「ドメイン」か。



post by 雁来 萌

23:11

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豚毎をよくよく見たら勝毎か

2012年11月06日

9月中旬に行われた北海道カブスリーグU-15の試合日の朝に十勝地方を走ってて、ある建物の壁に豚毎と書かれていたので何だろう? と思いました。

・・「豚丼を毎日食べよう!」ってか? 
・・と考えながらよくよく見たら勝毎という字で、そこは十勝毎日新聞社の社屋でした。達筆だから似てたんだよぅ。
↓これの一部を遠くから見たんだからさぁ・・
http://kachimai.jp/img/logo.gif

当日は早朝(というか夜明け前)から、十勝海岸(具体的には大樹町)の防御陣地を探索してきました。


戦時中の遺物であるトーチカが海岸に並んでいるそうなので探索する訳ですが、一般の人はあまり知らないだろうと思っていたら、道の駅にも案内が貼ってありました。(右側、夜なので暗い)
夜更けの道の駅
ただしこれは、少し内陸側の防霧林の中で数年前に発見されたトーチカで、しかも、場所を知りたければ特産品カウンターで尋ねよ、と書かれています。

道順は大まかに調査済みだし海岸へ行く途中の防霧林にあるので、これも見学していくことにします。

東の空が焼けてきて、いい感じの風景になってました。
牧歌的風景・・というより牧場的風景

ご丁寧にも、主な曲がり角に案内標識が立っています。
海はあっち
「旭浜トーチカ」と呼ばれますが、防霧林の中からは浜が見えません。

牧草地の中に鹿が4頭いましたが、撃たれると思ったのか逃げられました。
鹿も啼かずば撃たれまいに

車道からトーチカへ向かう歩道が整備されていて、歴史教育の目的で積極的に活用するようです。
バック・トゥー・ザ・戦中

内部構造の説明(道の駅に貼ってあった図と同じ)
機密保持のためボカしてあります←ウソだろ

まぁ、当然ながら立入禁止ですよね。立ったままの姿勢で入るのは無理だし。
出入り禁止

銃眼の縁は少し風化していますが、まだ使えそうです。←何に?
壁に耳ありトーチカに眼あり

屋根に登ると防霧林を見渡せ、防霧林が無ければ海までも。(多分)
見渡す限りの林
手前は植樹したばかりで背が低いですが、この中でも鹿が走り回っていました。だから、鹿を駆除するシャープシューティング用のシェルターとして使えそう・・

隣接する広尾町の防霧林にも似たようなトーチカがあるそうだし(参考)、十勝地方の海岸には沢山のトーチカが残っています。→「十勝海岸の防御陣地」

 
大樹海岸の「旭浜トーチカ群」は全部で8基あるそうですが、そのうちの1基は最近になって崩れたらしく、行方不明だという記事も見られます。→参考

旭浜トーチカへ通じる道について詳しく書かれた資料が無いので、まずは旭浜漁港に向かってみます。
漁港に後光

港を見下ろして海難慰霊碑が立っていました。
海に向かって拝むんじゃないの?

確かに説明し難い細い未舗装路(4駆向け)で、分岐する入口もよく分からなかったけど、自分の嗅覚は劣化していませんでした。
すれ違うのも難しい小道を進んで、海岸を見下ろせる広場に出たところ、漁の安全を願うため(と推定する)鮮やかな神社が立てられていました。
神様仏様4様
恐らく、沖からもよく見えるに違いない。

十勝海岸の夜明け:少し霧が漂っています。
海上は霧
この海岸からは朝日が見えるけど、夕日は見えないから旭浜なのか。


これは多分、番号でいうと6号のトーチカだろうと思われます。
傾いてるよ

こっちは7号と思われ、いずれも太平洋の荒波が押し寄せて足元が掬われています。
海に向いてないよ
傾いている上に内部には砂利が入り込み、確かに積極的には公開したくないでしょう。

反対方向の海岸には残りの5基が並んでいて、釣り人の(と思われる)車が何台も海岸に停まっていました。
並んでるよ
砂利の海岸に踏み入れられる車でなきゃ、途中の未舗装路を走る気にはならないでしょう。

でもね、海岸にトーチカを並べて機関銃を据えたところで、米軍なんか徹底的に艦砲射撃や空爆をした後で上陸して来るんだから、敵を機銃掃射するような事態に至る以前に、木っ端微塵にブッ飛ばされてしまいますよ。


朝飯前の散歩を終えて大樹町の市街地へ戻る途中に、廃校になったらしい学校がありました。
時計搭というか避難階段がステキ
ずいぶんとモダンな造りですが、時代の流れには逆らえません。

中島小学校というそうで、開校から112年経った去年に閉校したばかりです。→大樹町内の学校一覧
100年続いたからまだ良い方か

 
大樹町の役場の前にある柏林公園には、SLが保存されています。
53年半働いた

番号が「59611」の9600形(クンロク)です。
安住の地なのかどうか
233万5千kmも走ったらしい・・毎年、地球を一回りしてた勘定。
 
いつもとは違う裏道を通って上札内へ向かう途中にも、廃校かと思った学校がありました。
校門は随分と新しい

尾田小学校という名前で、来春に閉校する予定だそうです。
ここは100年続かなかった
砂金採りで有名な歴舟川沿いの集落にあります。

中央で屈曲している珍しい構造でした。
こんなに大勢いたんだね

子供用のサッカーコートとゴールマウス
キックオフがPKになりそう
ここもパークゴルフ場などに変わるんでしょうか。



post by 雁来 萌

07:46

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夕張市平和運動公園の遺構

2012年07月31日

7月21日(土)に行われたクラセンU-15道予選準決勝の折に、旧夕張鉄道の線路跡を(少しだけ)巡る探索をしてきました。

平和運動公園の周辺には、旧夕張鉄道の線路跡や橋が残っています。
もっとも継立から向こうの道道は、ほとんど夕張鉄道の線路跡と並行して走ってるようなもんですけど。

さらに炭坑の遺構も残っており、草は生えてるけど樹が生えてないズリ山が、野球場の奥にあることに気付くでしょう。
スコアボードの後方には炭坑施設の廃墟が隠れており、山裾には斜坑の坑口も残っているらしいですが、今日は短パンなので草藪に分け入る気にはなりません。


 
国土地理院の電子国土ポータルの地図で夕張市平和地区を見ると、左上奥の夕張本町から進んできた線路跡が運動公園の辺りで大きくカーブし、石勝線や道道を跨いでいます。(右下のスケールは100m)
ミステリーサークル
ほとんど180°回転した後、左の方へ進んで山間部に入って行ってます。

同じ範囲を、1977年に撮影された国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)で見ると、そもそもこの公園は「北炭平和炭鉱」の選炭工場跡(右下)や、付近の社宅地(カーブの内側)を公園に整備したことがよく分かります。
上から目線
 ↓オリジナルの空中写真全体(ズリ山も写っている)
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/cho-77-37/c16/cho-77-37_c16_2.jpg

「平和」という地区名自体が、「平和炭鉱があったから平和と呼ばれるようになってきた」という経緯らしく、運動公園にもその名が付けられました。

なお、平和運動公園全体のネーミングライツを募集してるらしいです。→夕張市の広報販売代行業者

 
運動公園の入口の近くで、旧夕張鉄道は現石勝線の夕張支線を跨いでいます。(昔は右側にも線路があって複線だった)
まず線路を跨ぐ
奥に見える白い建物は、第1球技場の横にあるアパートです。

この橋は「虹ヶ丘跨線橋」という名前で(昔の若菜邊跨線橋なのかなぁ?)、
だから跨線橋

続いて道道を跨ぐ部分は「虹ヶ丘橋」だそうです。
続いて道道も跨ぐ
歩道橋でもないのに、なんでこんな橋が道路に架かってるの?と思うでしょう。

跨いだ先には、運動公園(かつての鉱業所跡)が広がっています。
跨いだ先には礦業所(心の目で)
陸上競技場の背中のあたりには「礦業所前駅」がありました。

さらに、陸上競技場の右裏にある橋へとつながります。
今度は川を渡る橋へ

志幌加別川に架かる橋を渡ると、下の方に別の橋も見えました。
引込み線の橋
これは鉱業所専用の引込み線が通っていた橋のようです。

黄色いハンカチ広場へ向かう途中にある、旧「夕張製作所」の工場が向かいに見えます。
旧夕張製作所
手前の低くて緑色の部分が第1球技場で、ずっと奥の山はマウントレースイスキー場です。

線路跡はサイクリングロードに利用されて北西へ伸びており、
線路は続くよ

その先はここへ出てきます。
駅舎だった千代田休憩所
これは旧「平和駅」の駅舎で、サイクリングロードの休憩所になっていたけど、現在は閉鎖されています。

薄緑色の線がサイクリングロードで、石炭の歴史村から南下して来て、石勝線と道道を渡ったところで抹消されたように途切れています。この先でトンネルを2つくぐった後、錦沢休憩所があることになってるのに。
債権放棄、再建放棄
・・道が途切れてたら探索したくなるじゃないですか。(笑)

構わずサイクリングロードを(車で)進んでみると、錦沢駅跡の方までつながってたはずなのに、これ以上は進めそうもありません。途中にあるトンネルが老朽化して危険になったため、通行止めにして放置されたようです。
出口の無い迷路
何しろ財政再建団体の夕張市ですから、こんな所を整備するような予算はありません。
車1台がやっと通れる幅の道で、しかも両脇からは木の枝や草が伸びているので、往復したらボディーが擦り傷だらけになりました。

GoogleEarth の画像などを見ると、旧夕張鉄道の線路跡を識別できる部分が多く、坂本九記念館の前を通り、栗山や南幌の市街を斜めに横切って、野幌駅まで辿ることが出来ます。
今でこそ何の苦労もなく車で走れますが、山間部は石炭を積んだ貨物列車にとっては難所で、勾配がキツい部分にはスイッチバックもありました。
そんな山中の藪を漕いだりして、線路跡やトンネルを探検して歩く人もいるらしいです。(←私のことではない)

スイッチバックがあった錦沢駅の横には「錦沢遊園地」があったけど、今はサイクリングロードの錦沢休憩所と石碑がある程度らしいです。道道の脇から分け入れば辿り付けますが、地図上に記されている「錦沢公園」の位置とは全く違います。

 
運動公園の向かいに聳える高い煙突を見てきました。
サンタクロースもギブアップ
この煙突は、旧北炭化成工業所がコークスを製造する炉の煙突でした。

高さ63mということは、さっぽろテレビ搭の半分くらい・・東京スカイツリーの10分の1ですか。
どうやって煙突掃除するの?
高い物を見ると登りたくなるのはなぜ?笑

夕張には、鹿の谷、熊の沢、大蛇の沢などという地名があって、自然環境が豊かなことを反映しています。今年はズリ山の付近に親子熊が出没したんだとか。

植樹を鹿の食害から守るネット
飲み食い禁止



post by 雁来 萌

07:43

蝦夷の細道 コメント(2)

JRで行く道東2日間の旅

2012年04月09日

まるで観光旅行のツアー商品のようなタイトルですが、先々週の週末(=先月の月末(=年度末))に仕事で釧路と帯広に出張しました。

列車で長距離を移動するなんて、何年ぶりなのか分からないくらい久し振りです。もしかして、仙スタを借りてホームゲームが行われた時以来?

数年前に釧路まで出張した時は飛行機だったし(後述)、私用で来る時はいつもクルマですから。

札幌から釧路まで、直通の特急でさえ4時間もかかります。
それでも、クルマで行くよりは半分の所要時間で済むんだけど、途中で停まれないとか、外の空気を読めないとか、ホームに降りて買い物する時間が無いとかで、何となくあずましくない乗り物です。

若かった頃は、時刻表を枕にして木製座席の夜行列車で移動してたんですけどね・・それが今じゃぁ、道の駅の駐車場で車中泊ですから・・って、大して変わらない?


 
ホームの柱に立て掛けてあった道具
楽器のような運びやすさ
見ただけで仕組みと用途は想像できましたが、やはり。
カラフルな車椅子

乗ってしまえば終点まで乗り換えも無いので、長旅に備えて持ち込んだ本をじっくり読んでいました。

ワタシって子供の頃から、乗り物に座って10数えたら眠りに落ちる体質でして、飛行機が離陸したのも記憶に無いことが度々あるほどですが、今回は眠くなりませんでした。
貨物列車のブレーキが効かなくなってシェルターに衝突した、という追分駅に進入する時は少々緊張しましたね。ニニウトンネル内で列車火災事故があったのは、つい1年ほど前の出来事だし・・。

列車の屋根に砂利が乗ってたとかで、トンネル内では減速するから到着が遅れる、というアナウンスが時々繰り返されました。確かに新得までは20分とか30分遅れたけど、そこから先はどんどん挽回して、釧路に着く頃には定時到着に近い状況でした。

 
1日目はホテルに着くだけで良いので、目的を果たした後は食事してシャワーを浴びて勉強して(?)寝るだけです。

ホテル内のコンビニで夕食を仕入れました。
味も量も満足
根室じゃないとはいえ、「さんま笹すし」とはさすが釧路です。

鯨の大和煮のようなもの
おかずはエゾシカ肉の大和煮(浜中町姉別)で、
販売は浜中町、製造は遠軽町

デザートは阿寒町のアイス「あっかんべぇー」・・牛にバカにされてます。
おのれ、牛の分際で

 
翌朝は最上階のレストランで、河口と港を見下ろしながらの朝食です。
カモメが翔んだ日

「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」 by 石川啄木
千鳥は見えませんでした・・だから千鳥無く・・カモメは悠々と、時には航空ショーのデモフライトのように飛んでいました。
港の傍だからカモメは余るほどいて・・最近は札幌の市街地でもカモメがマガモの顔で飛んでますけども。

エレベーターから今日の用務先が見えます。
目と鼻の先

 
仕事の前に幣舞橋に寄り(←逆方向だろ)、彫刻を鑑賞しました。
キリノ無い幣舞橋
それぞれの作者の「らしさ」が出てる作風で面白いんだけど、佐藤忠良さんの「夏の像」が動的で一番良かったな。
ただ突っ立ってるだけの像だと物足りなくて・・霧の日にはその方がフィットするのかも知れないけども。

向かいに見える「EGG」を含む「フィッシャマンズワーフMOO」もそうですが、毛綱毅曠(もづなきこう)氏がデザインした建築が市内のあちこちにあります。(例えばクシロの砦
上の建物が釧路市立博物館です。

昔々、釧路市立東中学校(現在は幣舞中学校)の校舎を見て驚きました。これがホントに公立中学校なの?って感心したんだけど、物議を醸したのも然りかと。

釧路市湿原展望台なんて・・市街地の中にある展望台ならともかく、湿原を見下ろす丘にあんな物を突出させる感覚が理解できません。
広く周囲を見下ろせるということは、周囲のどこからでも見上げられるということでもあるのだから。

よく勘違いされるんだけど、「タンチョウヅル」という名の鶴はいません。「ナベヅル」や「マナヅル」と違って、「ツル」が付かない「タンチョウ」が正しい呼び方で。

 
釧路川の上流方向を望む(奥は久寿里橋)
氷は融けた
右手(左岸)にあるハシケの先に筏が繋がれており、そこにアザラシが乗りやすい(観察しやすい)ようにしてあります。

今や釧路の街は、石川啄木の歌碑を巡りに来る人達よりも、クーちゃん目当ての観光客の方が多いようです。

市役所の前に震度観測所がありました。
揺れる気持ち
この辺は地震も怖いですが、津波も怖いです。海抜数mですから。

先週は猛烈に発達した低気圧が通過し、気圧が下がって海水が吸い上げられる効果(と南風による吹き寄せ効果)で、釧路港の潮位がかなり高くなりました。(高潮注意報発表)
そのせいで釧路川の水位も高くなり、STVカメラ(釧路)で見ると岸辺で水がたぷたぷしてました。

 
さて、そろそろ仕事もせねば・・いや、この建物ではありません。
中の球体はプラネタリウムか?
これは「こども遊学館」という施設で、子供(や大人)の知的好奇心を満足させるワンダーランドらしいから、科学館のようなものでしょう。(想像するだけ)

合同庁舎の前に、釧路地方気象台の露場があります。
軒先を貸す
仕事の前に、アメダス探訪「釧路」の巻(←いつになったら仕事?)

気象台はアメダスじゃないけれど・・雨雪量計など
色々あるな

積雪深計(中央左)と雪尺(中央右)・・積雪深はほとんど0cmです。
昨日まではあったのに
後で調べたら、この時刻の積雪深は「なし」でした。前日の16時には1cmあったんだけども。

露場の前に建ってる庁舎で北風が遮られるから、風は屋上の搭で測っているようです。
高杉晋作

釧路地方気象台は2000年まで、幣舞橋の先のロータリーから登った高台にありました。
避難所として使える
ガラスの建物(生涯学習センター)の左の方です・・生涯学習って、死ぬまで勉強なのか。

 
仕事は無事に終わり(←いつの間に?)、午後から帯広に移動して別の仕事を済ませ、某所で私用を足してから最終列車で帰ってきました。
どこの駅に降り立っても、うちの選手を使ったポスターが貼ってあって、その度にドキッとしましたよ。


数年前のこと、やはりこの時期に出張で千歳から釧路へ向かっていた折に、釧路空港が濃霧で着陸できず、帯広空港に降ろされたことがあります。

航空券を払い戻してもらってバスで帯広駅まで行き、改めてJRの切符を買って特急で釧路に向かう方法もありましたが、空港から無料の代行バスが出るというので、それに乗って釧路へ向かうことにしました。

払い戻しやら買い直しも列に並ぶんだろうし、帯広駅まで行くのにも時間がかかるだろうし逆向きだもの、目の前から出発するバスを待ってた方が楽です。帰社してから出張旅費を精算する手間もかからないし。

代行バスは、田舎の裏道をバンバン飛ばします。路肩にはまだ雪が残っているというのに。
運転手がハンドルを引いたら離陸するんじゃないかと思うくらい(参考:YouTube)、滑走路を走ってる飛行機よりもスピード感があるから、落ち付いて眠ってなんかいられません。

信じ難いほどの短時間で釧路駅前に着いた時には、帯広から来る特急はまだ到着していませんでした。爆
特急より早いバスって・・


こんな街に転勤して来た人も大変だな。笑

思わず、東京から札幌へ向かうのとどっちが早いか、と考えてしまいましたが、自宅を出て列車に飛び乗りさえすれば、後は乗り換えもなく4時間みっちり作業(か居眠り)が出来る訳だから、むしろブログ原稿作成(とか仕事の残務)が捗るのかも知れませんねぇ。

釧路の方が札幌よりも暑いことはまず無いから、汗だくになりながらベンチコートを持ち歩くことも無いだろうし。



post by 雁来 萌

21:19

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松浦武四郎ゆかりのピエロ

2012年02月11日

幕末に蝦夷地を探検して詳細な報告書を書いたり、「北海道」という名前を提唱するなどした、松浦武四郎(1818~1888年)のことはご存じだろうと思いますが、今日は彼に縁のある木彫作品を紹介します。

武四郎本人が彫った作品ならば自慢も出来るだろうけど、ちょっと遠回しに縁があるという程度の話ですから、ガッカリ(というか叱責)しないで下さい。


 
この木彫りレリーフは、弟子屈町屈斜路の磯里博巳(いそりひろみ)さんの作品です。
悲しきピエロ
横幅は15cmくらい、題材はピエロで、実は黒い目と涙の部分は裏まで刳り抜かれています。

お店の説明には「磯里ひろみ」としか書いてなくて、名前と作風とから「女性の木彫り作家がいるものなのか?・・まぁ、仏像を彫る女性もいるくらいだから不思議じゃないしな・・」と考えた程度で、それ以上は調べませんでした。
自分としては、この素晴らしい作品を入手できただけで満足でしたから。

 
下から見ると、これだけの厚みがありますが、
見上げてごらん
顔の部分を彫り上げてから台座に貼り付けたのではなくて、厚い板から彫り下げて台座を残してあるのです。

日付は '91.8.28 と刻まれており、裏には 1994.7.15 に道の駅「しらぬか恋問館」で購入したと、(自分で)書いてあります。結構な値段だったんですが、それなりの価値があります。

タイトルは「○風」と彫ってあるらしいけど、残念ながら「○」の部分が何の字なのか判読できません。
いずれ屈斜路のお店を訪れる機会があったら、本人に尋ねてみようかと。

裏から見ると、穴を彫り下げて表面の目と涙まで貫通しているのが分かります。
外界を見通す
トンネル工事の中ほどで食い違いが生じたり、トンネルのつもりが海底をぶち抜いてしまったりしないように、見当となる十字線を引いておいて慎重に彫り進んだようです。


芸術鑑賞はこれくらいにして、これがなんで松浦武四郎と関係があるの? という本題に移ります。(以下の事実を知ったのは近年になってからなんだけど)

ほとんどの探検に共通しますが、探検家が自分一人で新発見などを成し遂げるのは難しいもので、現地のガイドやポーターなどのサポートが必要です。
松浦武四郎の場合、現地のガイドといえばアイヌ民族でした。

「探検だ」とか「新発見だ」とか言ったところで、よそ者の訪問者にとっては「探検」や「発見」であったとしても、現地人にすれば「昔から知ってたこと」に過ぎない場合がほとんどですが・・。

安政5年(1858年)に武四郎が幕命を受けて6回目の蝦夷地調査を行った道中で、仰せつかったのか買って出たのかはともかく屈斜路湖へ舟を漕ぎ出す時に水先案内を務めたのが、当時の屈斜路コタンに住んでいた「イソリツカラ」という名のアイヌ人で、武四郎が記した日誌にその名が載っているそうです。

 
江戸時代以前から、和人はアイヌ人を呼ぶ時にアイヌの実名だと呼び難いから、和人風の名前で呼んでいました。
例えば「カリキ」というアイヌ名だったら「柿ヱ門」などと呼び替え、「モエ」だったら「茂作」などと呼び替えたりしました。

明治になって和人はアイヌ民族を同化させる政策を取り、その一環として和人風の姓名を名乗らせて戸籍を作ることとし、アイヌ名が「イソリツカラ」だったから漢字で「磯里主税」という名前を当て(られ)たのでしょう。

時代が激動の昭和から平成に変わり、20年前に彼の曾孫が木彫りの作品を作って、その作品が旅行中の私に気に入られて買われた、という巡り合わせなのです。
これもひとえに、私の審美眼が成せる導きなのでしょう。え?

2008年は松浦武四郎の生誕190年(および没後120年、6回目の蝦夷地調査から150年)に当たり、出身地の三重県松坂市ではその記念事業が催されましたが(参考:松浦武四郎記念館)、蝦夷地でガイドを務めたイソリツカラの子孫を代表して、磯里博巳さんが招かれました。
逆に武四郎の足跡を訪ねる見学ツアーが、北海道の各地を巡ったんだとか。


アイヌ民族は昔から熊の木彫りを作っていた訳ではなくて、あれは日本人農家の冬期間の副業として始まったのです。→詳しくはこちら

アイヌは狩猟や畑作や調理などの生活上の必要から木彫りが得意だった訳で、ならば日本人もすなる熊の木彫りも作ってみようかと、器用さを生かして(神と崇める)熊の木彫りを作るようになっただけの話です。

近年の作であるイタ(盆):30cm×24cm
イタ
裏に「藤谷作」と彫られているので、二風谷の藤谷憲幸さん(故人)の作品かな。

 
かなり以前に阿寒方面を旅行してた折り、民芸品店の店頭に素晴らしい作品が置かれていました。
杖をついたエカシ風なアイヌの立像だったんですが、気に入ったので「これはいくらですか?」と尋ねたら、「それは売らない。」と言われました。

その像に彫られた顔の表情や威厳のある風格が、年輩の店主に似てる気がしました。
なるほど、これを売ることはアイヌの魂を和人に売るようなもんだな・・まるで店主の分身のような、店の看板のような作品を金で奪ってはいけないな・・と納得して、いい物を見せてもらった気分で次の目的地へと向かったのでした。

その老店主はもうこの世にはいないだろうけど、あの彫像はどうなったのかなぁ。



post by 雁来 萌

20:16

蝦夷の細道 コメント(5)