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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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2007年09月07日
函館から夜遅くに帰って来た次の日、用事があって朝早くから留萌へ出かけることになっていました。 留萌には朝8時に着きたいので、余裕をみて自宅を5時頃に出なくてはなりません。となると、4時には起きなければならないのに、前夜に荷物を準備して寝たのが24時過ぎでした。 高速を通ると、2時間で留萌に着きました。 午後1時過ぎには用事が全て終わったんですが、そのまま真っ直ぐ帰ると途中で眠たくなるのは必至なので、休憩を兼ねてあちこちに寄りながら帰ることにしました。留萌市街を出ようとしたところ、対向車線で「なぜ、そうなる?」という位置関係で衝突しており、ちょうどパトカーが到着して事故処理を始めました。 気を取り直して最初に寄ったのが↓ここで、
JR留萌本線の恵比島駅、別名「明日萌駅」ですよ。→参考記事、沼田町の案内ページ
待合室で、まるで昔の自分に会ったような気がしました。(爆)
駅長室には、およそ「アリエネェ~」というウソっぽい小道具が並べられています。
手前が留萌方面、向こうが深川方面です。帰り際に普通列車が入って停まりましたが、乗降客は一人もいませんでした。というか車内はガラガラで・・考えてみれば月曜日の昼下がりですから。
いくら駅長の官舎といえども、こんな近寄り難い門は作らないだろうと・・そもそも、駅舎と官舎とを繋げて建てるのが普通です。
駅前の旅館の内部は見学できます。 1階は小物やポスターなどの土産物を置いてあり、近所のおじさん・おばさんが集まって、店番のおばさんと世間話をしていました。 ドラマの中そのものというか・・ひょっとして彼らはタレントであって、観光客のために演技してくれているのでしょうか。 少し離れた場所に、
私の土地ロケに使った丘があったので、中腹の駐車場まで登りました。ドラマでは、丸太に腰掛けて丘から見下ろすシーンがあって、多分、あの樹の辺りだろうと想像はつきましたが、歩いて登るのはしんどいので諦めました。
この辺の丘は牧場になっています・・動物は見掛けませんでしたけど。
中腹の駐車場からの眺めでもこれだけの景色なのだから、丘のてっぺんから見たら絶景だろうなぁ・・と想像するのみ。右奥は沼田町の市街です。
私の専用ですか、これは? 外も中も綺麗なトイレでした。 この後、ほとんど「道の駅スタンプラリー」に近い行動パターンで帰ってきました。275号線の雁来大橋を渡ってると練習場が見えたんですけど、今日ばかりは(横目で見ながら)素通りしました。
2006年08月06日
7月30日(日)に、ニセコ(倶知安)へ行ってきました(前報)。この地は、小学生時代に住んでいたことがあります。●●オリンピックの頃ですが。 その後、スキーなどで何度も訪れてはいましたが、いつでも来れると思うからなのか、街の中をゆっくり見て回ることはありませんでした。今回はちょっとした目的があったので、ついでに少し探索してみました。 小学4年生の年は、倶知安町内の南寄りに住んでいました。JRの「ニセコ山の家」などへ登る道の脇で、JRの線路を跨ぐ陸橋(当時は踏切)の側にあり、そこから歩いて30分ほどの倶知安小学校へ通っていました。 それにしても、校歌の歌詞に見覚えがありません。羊蹄山とニセコと尻別川が使われていることは記憶と合致しますが、旋律が全く出てきません。倶知安小学校の校門と羊蹄山(2006.7.30) 当時はこのグラウンドの場所に校舎があり、現在の校舎の位置がグラウンドでした。
現在の校舎(共和町役場に似てるかも) 当時はもちろん木造の校舎で、「学校の沿革」に写真が載ってます。 「山階資料室」とかいう部屋があって、鳥類の標本をたくさん並べてありましたが、その部屋には自由に出入りできなかったような。 とにかくこの辺は、鳥でも虫でも魚でも、捕りたいだけ捕れるような環境なので、丸々と太った魚を毎日捕まえては、おかずにしてました。一匹ずつ釣るなんていう面倒なことはしないで、「ドウ」と呼ばれる、一升瓶の2倍くらいの太さのガラスの筒で捕ってました。
学校の横から眺める羊蹄山 毎日こんな風景を眺めてノビノビと育った大人がコレですよ。 5年生と6年生の年は、町内の北寄りの場所に引っ越したので、別の小学校へ転校しました。その学校は開校5周年というほどの新しさで近代的な造りだったので、最近新築された校舎を見ても何も感じず、写真は撮りませんでした。 その次の年にここへ引っ越しました。
さて、次は今回の本命を訪問したいのですが、場所や施設名を詳しく調べてこなかったので、駅へ行って調べることにしました。 倶知安駅の佇まいはホントに昔のままで、よく長持ちしてるもんだ思いましたが、構内の観光案内図を見ても目的の「郷土館」らしき施設は見つかりません。役場などがある中心部から少し離れた場所にあると記憶してるので、とにかくそっちの方角へ行ってみました。 駅に置いてあったのでパンフレットをもらってきた「小川原脩美術館」を示す案内看板が道端に立っており、「風土館」という施設が隣にあるようです・・そうだ、「郷土館」じゃなくて「風土館」ですよ! 「倶知安風土館」に着きました。ここは、日本体育大学の合宿施設として建設した建物を改修したそうで、トレーニングのための陸上競技場だった部分は公園に整備されて美術館が建っていますが、複雑な事情があったようです。 建物の事情はどうでもよく、私のお目当ては「ゼロ戦の翼」です。これは、60数年前の第二次大戦中(生まれてませんよ!)に、墜落事故につながる航空機への着氷を調査する目的で、ニセコの山頂に実物の機体の一部を運び上げて野外実験した材料です。 もちろん、飛べる機体はもったいなくて使えないので、壊れた機体を集めて台座の上に据え、冬場の雲の中の低温・強風の環境に曝して着氷させるという、画期的な実験を行った証拠物件です。ちょっとした関係があって、翼やプロペラの図面や、実験場の写真を見たこともあります。 何も、実物の機体の一部を使わなくたって、丸太を鉄板で覆ったハリボテでもいいじゃないか?と考える人もいるでしょうが、飛行機は翼やプロペラに着氷したら揚力が無くなって墜落してしまい、機体とせっかく養成したパイロットが失われます。 そんなシビアな実験をするんだから、実際の素材を使って実機の形に加工した標的じゃないと役に立つ実験にはならない、という論理ですね。 日本が敗戦したので、軍事研究の証拠を隠滅するために、この機体は捨てられました。 この実験に加わっていた人物のほとんどは既に他界してしまいましたが、何人かは私が知ってた方々です。実験をやめた後で「沢に捨てた」という話も人伝に聞いていたので、どの辺に落ちてるかは想像がついていました。山頂から慌ただしく機体を捨てられる手っ取り早い沢で、しかも人目に付き難い沢は、そう多くはありませんから。 近年になって「ゼロ戦の翼が発見された」という報道を見ましたが、新しい天体などが発見されて「よく見つけたもんだなぁ」という驚嘆とは違い、「ぁ、ついに見つけられちゃったか」という感想でした。元々、その辺にあることは分かっていたんだから、「発見」と言われても・・。ゼロ戦32型の右翼(2006.7.30) 手前が翼の上面、右側が胴体側、左側が翼端側で、翼端に近い部分の円形の灰色は、「日の丸」が描かれていた名残です。補助翼は失われています。 翼の長さが思ったより短い感じがして・・古い写真やプラモデルなどでは日の丸はもっと内側に描かれていたように記憶していますが、32型は翼を切り詰めた型だし、翼端灯の一部が残存しているので、元々こういう長さだったようです。
翼の下面側から見た燃料タンクのスペース? この下方に脚が格納される? 翼の後縁に付いていたフラップは失われています。 機体のより詳しい説明は、この辺や、この辺を参考にして下さい。 この実験を行った研究者は、この方です。
「くっちゃん」という地名ですが、テレビやラジオなどで、「く」にアクセントを付けて「くっちゃん」と発音するのは間違いで、「ち」にアクセントを付けて「くっちゃん」と発音するのが正しい呼び方です。「おっちゃん」の発音と同じで・・。
2006年04月28日
我らの魂娑闘霊教団が函館戦争で敗北を喫したため、宗敵の追手どもから逃れなければならなくなりました。 逃走の詳しい経路や日時を記すと、残党狩りの追手に潜伏先を察知される恐れがあるので、要所のみを説明するに留めます。途中までの経路は他の門徒と類似しているようなので、そちらの手記の前偏や後編と比較しながら読まれることをお勧めします。 決戦の翌朝、どちらの方角に逃げれば良いのかを判断するために、星型をした砦の横に立つ物見櫓に昇ることにしました。 この物見櫓は、鋼鉄の「とも綱」と「つるべ車」とを用いて、方形の籠を上下させるからくりを用いており、妙齢な娘の案内に従って籠に乗り込むと、瞬く間に上層の物見台へと到着したのです。 物見台の四方五方は「ぎやまん」の板で囲まれており、雨風を防ぐとともに見通しが良い巧みな造りになっております。さらに、敵の動静を伺う遠眼鏡や、櫓をよじ登って来る曲者を発見する覗き窓も備わっておりました。 砦の構造・配置を記した見取り図や、諸派の兵法書なども供覧されており、深く得心すると同時に、万一これらが宗敵の手に落ちたりすれば、我が教団にとっては存亡の危機に陥るという懸念も感じました。 至る所に「どかた」と申す侍の肖像を描いた護符が貼られており、この蝦夷地にさえも彷徨っている平家の亡霊を近寄らせない目的なのでしょう。 下層の土間に降りると、蝦夷地の村々から献上された産物などが誇らしげに並べられており、篭城の折にはそれらを糧食として転用する備えと思われます。 ひもじさに堪え兼ねた門徒の中には、言われるままに多額の金子と引き換えて僅かな携行食を受け取り、その場にて食する者もおりました。戦とは田畑ばかりか民の心までも荒れさせるものであり、商人とは如何なる世でもしたたかに生きる術を備えているようです。 魔除けのためか、前述の侍の偶像や「誠」と記した護符・装身具などを娘どもが競って買い求めており、霊験あらたかな護符のようです。しかしながら娘どもの顔立ちを窺えば、必ずしも魔除けを身に付ける必要があるやなしや。 多くの門徒達は、噴火湾沿いに第五街道を北上し、あわよくば途中から早馬街道に移りて郷里を目指すものと思われます。しかしながら、手前の山越内に設けられた関所を通るのは危険であり、多少は遠回りになるものの、人家が少ない日本海側の海岸伝いに北上する経路が比較的安全であろう、という結論に至りました。 茂辺地を過ぎて渡島当別に近付き、山麓に築かれた女人禁制の切支丹城が見えてきましたが、異教徒の呪文が聞こえない距離を保って立ち去り、正月の寒中みそぎで知られる木古内の佐女川神社に詣でる時間も惜しいので、知内の駅逓所まで進んで一休みしました。 各地の駅逓所には、ご当地の名所旧跡や名産品を象った印判を備えてあり、自ら集印帳に押印して旅の記録を残すとともに、集めた印判の数を競う趣向もあるようです。まるで四国八十八箇所を巡る遍路旅において、霊場ごとに朱印を頂戴するような有難味を感じます。 山道に入って千軒に差し掛かると、残雪の量が多いことに気付きます。標高がやや高いことも一因ですが、この一帯は夏場でも雨量が特に多く、蝦夷地内でも有数の多雨地域として知られています。 福島の駅逓所には立ち寄りましたが、相撲道の聖地は参拝しませんでした。近在の村では「女相撲」などという、はしたない競い合いも奉納されるとのことですが、恐いもの見たさを押し殺して先を急いだのです。 我が教団と松前藩とは親交関係にありますが、それ故に敵方の探索も厳しいと察せられるので、福山城のご天守を遠くに望みながら、そそくさと通り過ぎました。 ここから先は右手に急峻な山地が迫る道が続き、左手には日本海から荒波が押し寄せています。道を踏み外せば、せっかく拾った命を失うことになるので、松前小島や渡島大島などの島影を愛でる余裕はありませんでした。 やっとのことで上の国の駅逓所に辿り着き、断崖の上に構えた茶屋で昼食を所望しました。丼に盛った飯の上に、雲丹や鮑、鮭とその魚卵、鮪、烏賊、海老などの切り身を乗せてあり、下の飯が見えないのです。この地では、年貢を軽くする工夫として、安価な魚介類を用いて高価な白米を隠す手法を編み出したようです。 街道に面している笹浪家に立ち寄りました。鰊漁が栄えた時代に普請された由緒ある屋敷は、ご当主が住まわれていた頃にも訪れたことがありますが、後に当主・奥方ともに他界されたため、屋敷や蔵を修復して旅人にも公開されています。 床の間には円空の作と伝わる煤けた木像仏が鎮座しており、この仏は、蝦夷地の首府において昨年開催された円空仏の展覧会に出展されたそうです。それを観覧したことを案内役のご婦人に伝えると、たいそう喜んでおられました。 上の国のすぐ先は、江戸をも凌ぐ栄華を誇った江差になります。甲高い声を張り上げる謡曲の競い会いは耳障りなので、街外れにある駅逓所まで足を伸ばして休みました。繁次郎(すぃげずろ)と申す知恵者を称えた像について地元の者に尋ねてみましたが、この辺りで使われる言葉は訛りが強く、まるで異人の話を聞くようで要領を得ませんでした。 脇街道に入って厚沢部の駅逓所に向かう途中、奉行所の役人や手下どもが集まって、不届き者を探知する怪しげな器具を道端に据えておりましたが、易々とそんな罠にかかる旅人などおりません。昨年、『寺子屋の師範が厚沢部の街道で26里(13里超)でお縄になる』という捕物があったせいでしょうか。 さらに進んで乙部の元名台という駅逓所に着きました。夏場ならば、このあたりの海辺は水遊びや魚釣りに興ずる人々で賑わうようですが、乙部と聞いてまず思い浮かんだのが葡萄酒でした。 知内でも見かけましたが、我らの門徒と思われる人物達とすれ違いました。身なりや所持品を見れば同胞であることは明白ですが、敗走の途中なれば名乗り合うことも叶わず、ただ互いの身を案じて目礼を交わすのが精一杯でした。 獣の形をした奇岩が立ち並ぶ海沿いの道をしばらく進むと大成に着き、駅逓所には・・何もありませんでした。ここも所詮、夏場の水遊びのための厠に過ぎないのでしょう。旅人に売るような品はほとんど無く、集印帳を売るためだけに滞在しているような看板娘が店を守っていました。 道がさらに険しくなったかと思うと急に山中に入り、再び海岸に出た地が瀬棚です。杉には見えないような太い岩塊が、確かに三本並んでいます。刀剣の刃紋にも「三本杉」と呼ばれる文様がありますが、それにも似ていない代物でした。 近くの海上では、巨大な竹とんぼのような白い羽根がぐるぐる回っておりました。あの羽根で風を起こしているのかと思いきや、逆に風の力で羽根を回す「かざぐるま」だとは思いも寄りませんでした。しかし一体、何の役に立つのでしょう・・沖を通る船の目印にする位しか思案が及びません。 狩場山の残雪を眺めながら茂津多の岬を越え、「よってけ!」と誘われた島牧の駅逓所に立ち寄ると、既に門は閉ざされていました。上の国での逗留が長過ぎたようですが、暗くなれば追手に発見される恐れも少ないので、この先は内陸の街道を進むことにしました。 その後は提灯も持たずにひたすら夜道を歩き続けたため、どこをどう通ったのか見当も付きませんが、追手や役人に捕えられることもなく、何とか郷里に帰り着くことができました。 これもひとえに、教祖様のご加護とお導きのお陰に相違ありません。
ということで(どういう?)、カテゴリーを増やしました。 「蝦夷の細道」というカテゴリーには、道内を旅行した際の紀行文を集めます。 今回のような文体にはなりませんので、ご安心を。
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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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