2010年06月12日
本願寺街道を歩いてみた
そろそろシリーズ化してきた「本願寺道路」ですが(その1、その2)、今回は札幌市南区簾舞(みすまい)の周辺に少しだけ残っている古い道路を、徒歩で実際に歩いてみました。 多分、これがシリーズ最終回だろうと思います。 「簾舞」って、学生の頃に地質巡検で行った頃から馴染んでたので気にせずに読んでたけど、北海道の難読地名の一つなんですか? 言われてみれば確かに、「簾」は「す」または「すだれ」としか読まないし、「みす」と入力すれば「御簾」という字が出てきて平安朝の屋敷を思い起こします。 「簾舞」の語源は、アイヌ語で「渓谷にある川」を意味する「ニセイオマップ」を基とし、それが「ミソマップ」と訛った音に漢字を当てたそうです。 後で出てくる「簾舞川」が、この辺の地名の起源となっているんでしょう。 後志の「ニセコアンヌプリ」という山は、「ニセコ・アンヌプリ」じゃなくて「ニセイ・コ・アン・ヌプリ」であって、層雲峡を挟んで黒岳の向かいに聳える「ニセイカウシュペ」の「ニセイ」と同じなんですね。 簾舞の旧道沿いにある「簾舞通行屋(旧黒岩家住宅)」は過去に何度か見学したことがあるし、今回は徒歩の旅なので立ち寄りませんでした。
夜明けに平岸を出発し、半日ほど歩き続けてここまで来ました。 ・・ウソです。平日だというのに結構な頻度で走っている「じょうてつバス」を「簾舞団地」で降りて、ここから歩き始めます。 ガソリンスタンドの向こうに、国道230号線(右側)と並行している道が既に見えます。 この坂を登ると、道はさらに続いています。 やがて、(車は)行き止まりであることを示す標識が立っています。 右手の民家の門には「KUROIWA」と書いてありました。 ここから先は車が通れませんが、昔は「馬も通れる」という触れ込みで開通した道路です。 道の先が隠れて見えないところが、なおさら探究心を高揚させます。 こんな未舗装の狭い道だけど、かつては幹線道路だったというか、これしか無かったというか。 道を下ると、前回お見せした標識がある交差点に出ました。 消失した部分(点線)の本願寺道路はここから右奥に入っていましたが、 その道路跡は民家の私有地を通るので遠慮し、並行して通っている公道を歩きます。 後ろを振り返ると、藤野の山が見えます。 さすがに昔はスキー場など無かったけれど、山の形は変わっていないだろうから、明治初頭の旅人も同じ(ような)景色を見たはずです。 いったん国道に出て、向かい側を見下ろします。 簾舞通行屋は、最初はこの辺に建っていましたが、後に旧道脇の現在地へ移転しました。 この先の道路は、標高200mほどの山(というほどもなく、標高差は50mくらい?)の手前を回り込んでいるものの、途中で学校のグラウンドに行く手を阻まれます。 この山は「二星岱」と名付けられており、前出の「ニセイ」に因んでいます。 藪をこいで歩くのは嫌なので、学校の敷地をぐるっと回って校舎の裏に出ると、案内標識がありました。 石ころだらけの、獣道のような道筋が伸びています。 この道さえもローマに通じているなんて、とても信じられません。 途中に、「本願寺街道跡」と刻まれた石碑が建てられていました・・これでも「街道」ですか・・。 林が結構な木陰を作っていて、夏場なら少し薄暗いほどです。 これは「ヒトリシズカ」で、あちこちで群落を作って咲いていました。 山裾を迂回するにしても少しは上り坂になってる部分もあるし、岩場に木の根が張って崖が崩れた箇所もあります。 これは「オオアマドコロ」で、実や根茎が食用になります。 丘の反対側に回ったのか、かなり急な下り坂になってきました。 やっと道が開けて平地に降り、明るい未来が見えてきました。 この橋は去年あたりに架け替えられた新しい「二星橋」ですが、昔からここに架かっていました。 簾舞川の下流側には、国道が渡る「簾舞橋」も見えます。 その先には柵で囲んだ雨水貯留池があって、柵の中に不自然に道路跡が残っているのは、昔の道路の名残りなのかなぁ・・と。 帰りは国道沿いに歩道を戻ります。 これが「二星岱」で、本願寺道路はこの山の右裾を巻いています。 山の左側は切り開かれて、片側2車線になった国道が走っています。 切通しの山肌は柱状節理の岩だらけで、これを切り崩して真っ直ぐな道を作ろうとは思わなかったのも道理です。 その麓に看板やら石碑やらがあり、ここは霊場なんだそうです。 三十三ヶ所もあるのなら大儀だな・・と躊躇しながらも、どんな霊場なのか確かめたいですよ。 十番までの距離が長くて「この3倍あるのか」と諦めたくなったものの、その先は一番ごとの間隔が短くなって拍子抜けしました。 これは何番だったかな・・土台は古いけど石像は新しいです。 山頂には観音堂が建っており、沿革が書かれた碑もありました。 大正2年に菩薩が設置された後、新国道の開削などで消滅した石像を昭和52年に地元の有志が復元し、観音堂を新築して参道も改修したそうです。 道端で見つけた「エンレイソウ」は、花が終わっていました。 「イチヤクソウ」と思われる草は蕾が付いていました。 毎年6月と10月の2日がこれら観音像の祭祀日だそうで・・今日は偶然にもその日に当たり、国道脇の駐車スペースに参詣用の案内幟が林立していた理由も納得しました。 国道との合流点に戻って振り返ると、たったこれだけの山をよけるために、曲がりくねった道を上り下りしなければならなかったんですから、苦労したもんです・・直登するよりは楽ですけども。 現代人はここからバスに乗って帰りますが、今回はわずか2・3kmを歩いただけなのに、普段の運動不足のせいか、かなりくたびれました。 これじゃぁ、中山峠を越えて本願寺道路の全線を歩いた人に笑われますから、今度は全ルートを踏破してみようか・・とは思いません、とても。笑
posted by 雁来 萌 |07:37 | 蝦夷の細道 | コメント(4) |
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この記事に対するコメント一覧
Re:本願寺街道を歩いてみた
簾舞、旧本願寺道路のそばに住む者です。楽しく拝見させていただきました。今度は、逆向きに歩いていただければと思います。上りがきついですけども。
posted by YAM| 2012-12-19 20:03
本願寺古道を歩いてみたい
YAM さん、いらっしゃいませ。
たとえわずかな距離とはいえ、昔の道が残っているのは貴重な遺産ですよね。
正直言って、帰り道を歩きながら「反対側から来なくて良かった」と思いました。笑
観音堂まで登ったのが余計でしたけど、遠足気分で楽しかったです。
中山峠の周辺では、昔の地名に該当する場所が分からなくなり、本願寺道路がどこを通っていたのか不明な部分もあるとかで、その道を探索して見つける人でもいないかなぁ。
最近は昔に使われていた「○○山道」とかいう古道を歩くツアーが各地にあったりして、体力さえあれば楽しいんだろうと少し羨ましいです。
posted by 萌| 2012-12-19 21:44
東本願寺街道の定山渓下りルート
東本願寺街道の定山渓下りルートを発見
下記をご覧ください。
https://e-kensin.net/news/107773.html
posted by 打田元輝| 2019-07-25 19:04
Re:本願寺街道を歩いてみた
打田さん、貴重な情報をありがとうございます。
その後、人間が歩きやすいルートはどこかな?と地図上で探し、小喜茂別岳近くの沢を回って無意根大橋に出るのかと思っていましたが、尾根伝いだったとは。。
実は昨年、コンベンションセンターで行われたアイヌ語地名研究大会を聴講しまして、その折りに「本願寺街道の跡を見つけたから、希望者を案内する」と仰った方ですよね。
絶好の機会だったんですが、私は他に用事があって残念ながら参加出来ませんでした。
posted by 萌| 2019-07-25 20:49