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2010年05月21日

本願寺道路を辿る花見旅

桜の時季になったので、日曜日は花見に出かけました。

かつて企んでいたように、伊達市長和町にある本願寺道路の起点に建てられた碑を訪ねて、その道路を辿ってみる旅を実行するには、絶好の日和となりました。
ついでに、有珠の善光寺の境内に咲く由緒ある桜でも愛でに寄ろうか、と考えていたんです。

まず、ゴーストタウン化しかけた室蘭市輪西町の街から坂を登った所(言い方を変えれば「山の手」か・・「山手町」は室蘭駅の近く)にある、親の家に用事があって寄りました。
ザ・スワン ベイ・・・座・座わんべぃ
左奥が測量山で、左端に半分だけ見えてる丸っこい山が、たまに怪しいダンマクを張られる「茶津山」です。


その後、白鳥大橋を渡って有珠に向かおうとしたら、なぜか入江運動公園に花見の屋台が並んでるじゃありませんか。
「屋台団地」出現?

露店商からショバ代を取り立てて回る、元締めらしい旦那も偶然に写ってしまいました。(←わざとだろ)
燻製にする気(木)か?
山肌に散立する桜がせっかく花を咲き誇っているというのに、それを油ぎった煙で燻すなんて、何というむごい事をするんでしょう。
花粉を媒介するために寄って来ようとした虫だって退散してしまい、樹の精霊のバチが当たりますよ。

追い討ちに夜間のライトアップまで加えようものなら、桜が日照時間を勘違いしたり、宵っ張りになったりしません?
そんな仕打ちをしておいて、開花時期が早まったりしたら地球温暖化のせいにするんですから、身勝手もいいところです。

美しい花は美しいままに、遠くから眺めてる(眺愛でる?)だけじゃ不足なんでしょうか・・樹や花を見ないで肉や酒だけを見てる宴がそんなに楽しいのか、理解に苦しみます。

同郷の知人と、「港まつりよりも賑わってる」などとふざけ合っていたのは内緒ですけど。
えぇ子やぁ
イベントを楽しむ可愛い子供とドーレくん

昔は、自宅があった母恋駅前から歩いて仏坂を登り、今でいう「NHK」の辺りの道端から花火大会を眺めたもんです。

 
・・という懐古談はさておき、入江を後にして白鳥大橋を渡り、伊達の道の駅で食料を買い込んでから長和に向かいました。こうなったら有珠の善光寺はまた今度・・って、いつになるんだか。

長和の街の北方に立つ「東本願寺街道起点」の碑は、平岸に立っていた「終点の碑」よりも大きくて立派でした。
石碑が建つのは早いもので
この碑は、「伊達郷土史研究会が発見した古い地図を元に起点を確定し、平成3年(1991年)長和住民の協力により碑が建てられました。」と、資料に書いてあります。

碑は、国道(453号線)と脇道との分岐点に立っています。
ここが人生の分かれ道
・・と言うより、左側の細い脇道の方が元々の道路だったのに、スムーズなルートに改修された右側の太い道路の方がメインに代わりました。
従って古い道路マップや航空写真には、左側の道路しかありません。

背後に見えるのは有珠山で、右奥で尖ってる山が昭和新山、その手前が高速道路としては日本一長い「長流川橋」です。

ここから札幌まで、延長120kmの道路を作ろうと考えたんですから、車で走るだけの人間にとっては気が遠くなるようなプロジェクトです。(ここで、中島みゆきが唄う「地上の星」が流れる。)

分岐した脇道が元の道路に再び合流する地点に「長和小学校」が建っており、
お猿の小学校と呼ばれた屈辱
ここがかつて「長流小学校」(おさるしょうがっこう)と呼ばれた学校です。

 
この先の本願寺道路は洞爺湖の北岸を通っていたらしいですが、私は以前に住んでいた伊達市大滝区(北湯沢)の方を通りました。
直感的には信じ難いけども、こっちの方が遠回りになるとか。

胆振線はとっくの昔に廃止されたものの、国道に沿う線路跡は「平成ふるさとの道」になったり桜並木になったりして残っており、記憶や地形からルートが分かってレールさえも見えます。(←幻覚)
旧胆振線の跡地
昔はこの先が踏切でしたが、今は車の方が上を渡っています。

お約束のアメダス探訪「大滝」の巻
アメダス大滝
遠方の山は「徳瞬瞥山」(その裏側が「ホロホロ山」)です。

防災科学技術研究所の「強震観測施設」も隣に設置されていました。
強震度計( not 強心臓計)

胆振を流れて太平洋に注ぐ「長流川」と分かれる山地を越えると、後志を流れて日本海に注ぐ「尻別川」が見え始めます。
はるか日本海へ
夕暮の尻別川と尻別岳(左)と羊蹄山(右)

花見に時間を費やしたせいで札幌に着く前に暗くなってしまったし、この後は見慣れた風景なので写真はありません。
明治の初めの頃なら、いったい何日かかって札幌まで辿り着いたんでしょう。

 
本願寺道路が開通した2年後(1873年)には室蘭・苫小牧を経由する「札幌本道」が建設され、本願寺道路はいったん使われなくなりました。

1877年にクラーク先生が帰国する際に、生徒達と別れたのが島松だったのは「札幌本道」が既に通っていたからであって、これがもし開通前だったら、簾舞通行屋あたりで「Boys, be Ambitious.」と言った可能性もある訳ですね。

その場合、クラーク像は羊ヶ丘じゃなくて真駒内あたりに建てられていたかも知れません。(エドゥイン・ダンさんと並んで)・・またもや「羊顔か」が出てきて情けないよぉ。


追記(2010/5/22)
ある展覧会の図録に「東蝦夷地屏風」というのが載っていました。

その一部に有珠から室蘭にかけての地域が描かれており、
東蝦夷地屏風(虻田~幌別)
右端が白鳥湾と絵鞆岬で、左端に有珠山と有珠湾、善光寺も描かれています。
その右隣の河口に「ヲサルベツ」と書かれており、柵を設けた牧場と馬が描かれています。

↓左側3分の1の拡大図
有珠~尾去別の拡大図

この屏風は文化4年(1807年)の作らしく、その頃は松前藩を移封して西蝦夷地を幕府直轄地としたり、ロシア船が侵入して北方の脅威が増大していた時期で、翌年には間宮林蔵が樺太を探検しています。

馬の牧場と言えば、現代なら競走馬の育成しか思い浮かびませんけど、当時の馬とは農耕馬と軍馬であり、牧場は戦車を作る軍事工場に相当する重要な施設だった訳だから、わざわざ描かれているんですね。


posted by 雁来 萌 |20:53 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

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