2008年08月04日

勇払原野の夏景色

私が卒業した高校の校歌は、「勇払原野末遠く〜」で始まります。
まさか、「ガタ」の同窓生なんて・・。

苫小牧から千歳に向かって36号線を走ると、車窓から眺める風景には大して物寂しさを感じませんが、室蘭本線に乗って岩見沢方面へ向かう列車から眺める風景は、正に「原野」と呼ぶに相応しい悲壮感があります。

こんな、夏でも霧がかかって肌寒いし、冬には木枯らしが吹きすさぶような悪条件の土地に、米を植えようとか、芝を植えてサッカー場を作ろうとかいう発想は、すんなり出て来ないのが普通でしょう。

でも、そんな困難に立ち向かおうとする人物がいたお陰で、「厚真米」を献上するほどになったし、浜厚真にサッカー場が出来て、毎年プリンスリーグの試合をしています。

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posted by 雁来 萌 |23:04 | 蝦夷の細道 | コメント(2) |

2008年07月12日

道東のグレートプレーンズ

アメリカの「グレートプレーンズ」を訳すと「大平原」になりますが、大平原と言っても十勝地方のお菓子や、温泉宿や、味噌汁の名前ではなくって、帯広で行われたプリンスリーグのついでに探索してきた、十勝地方の南部の風物を紹介します。

帯広へ遠征する際には、道の駅(の駐車場)などで車中泊するのが通常でしたが、最近は2泊のうちの1泊はマトモな宿に泊まることにしています。車中であれホテルであれ、どっちにしても連泊は(体力 or 財力が)辛いので。

今回は大樹町の道の駅「コスモール大樹」・・の近くにあるホテルを選びました。
帯広市の近郊には温泉地もありますが、私は長湯ができないので、温泉宿だからという魅力は特に無いし、豪華な食事にも興味が無くて、それらの付加価値のために宿泊料が割高になっている宿は願い下げです。

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posted by 雁来 萌 |06:22 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2008年06月15日

ぐるっと回りたくない噴火湾

七飯でカブスリーグを見た翌日に室蘭でプリンスリーグを見るためには、当日中に室蘭へ移動してしまう方が楽だと思われたので、惜しい気はするけども手早く退散しました。

トルナーレ周辺の探索結果と、室蘭までの移動の途中で見た景色などを紹介します。

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posted by 雁来 萌 |08:31 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2008年05月15日

夕張は廃虚と花の見どころ

5月10日(土)に、秘密の目的(笑)で夕張の奥の方へ探索に行きました。

夕張川の流れを大夕張ダムが堰き止めてダム湖を作っており、農業・治水などに利用されています。
ダム湖上流
春先には融雪水を湛えて満水状態になっていますが、この大夕張ダムのすぐ下流にもっと高い「シューパロダム」を建設し、貯水量をさらに多くする工事が進んでいます。参考→ダムの工事

2013年度の完成を目指して、現在は堤体の工事や国道の付け替え工事などをしています。現在の道路や旧い集落、大夕張ダムさえも水面下に沈む予定で、もったいない気がします。


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posted by 雁来 萌 |07:41 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2008年05月09日

オロロンラインでの責め苦

先月の下旬に、仕事の用事で羽幌と留萌に行きました。日帰りはさすがに無理なので、1泊2日の行程にしました。
 

今回の仕事の目的の一つである、「羽幌特別地域気象観測所」
隣の芝
ここにはかつて「羽幌測候所」がありましたが、合理化で無人になりました。
象の檻
器械にいたずらすると、罰せられることがあります。
 


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posted by 雁来 萌 |07:31 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2008年02月19日

数の子の親魚の名前は何?

2月16日(土)にアミューズメントパークで、「第4回“Cold Cup”キッズ(U-6、8、10)スノーサッカーフェスティバル in 札幌」というイベントが予定されていて、本州のチームも参加することになっていました。→昨年のイベントの際に行われた交流試合の様子

当日はU-15の雪中トレーニングも雁来で行われるらしく、冬場にこんな1粒で2度美味しい日は滅多に無いので、楽しみにしていました。

ところが当日は猛吹雪で、飛行機は飛ばないし、小学生を吹雪の中で走らせるのは児童虐待になると思われる(悪天候の場合は屋内開催)し、第一、大人だって雁来に辿りつく前に遭難しそうな天候でした。
通い慣れてるはずの道順なのに、曲がるべき交差点を通り過ぎてしまったくらい、視界がほとんど無かったんです。

吹雪の景色を撮影してる余裕はありませんでした。仮に撮ったとしても雪以外は何も写らなくて、全面が真っ白い画像にしかならなかっただろうと思います。
開催目的の中に「雪のない本州の人にも冬の北海道の魅力を感じてもらい・・」という文面があるんですけど、果たして吹雪を魅力と感じるかどうか・・このイベントが屋内で行われたのか、延期になったのか中止になったのか、まだ確認していません。


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posted by 雁来 萌 |07:55 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2007年10月06日

国際化が加速する洞爺湖町

先日、洞爺湖町へ行ってきました。
虻田町と町村合併する前の「洞爺村」だった頃から、「洞爺村国際彫刻ビエンナーレ」という国際彫刻展が、文字通り2年毎に開催されています。→関連記事
合併で自治体名が変わっても、世界的なイベントの名称を変える訳にはいかない(変えたくない)ので、今後も「洞爺〜」あるいは「TOYAMURA International Sculpture Biennale」のままです。(*注)

今年は第8回に当たるので16年間続いていることになり、私は第1回から毎回見に行ってます。
片田舎の小さな村(当時)なのに、国際彫刻展を企画して、世界に向けて作品を募集して、応募作品が到着したら審査をして受賞作品を決め、図録を作って、作品を展示して・・という作業を毎回続けているんです。

サミットの開催地に決まった今でこそ、洞爺湖で国際的な活動を行うのは不自然ではありませんが、初回当時は「なんで洞爺村で?」と思ったもんです。
G8国旗
作品展会場の玄関に掲げてあったサミットグッズ(笑)

確かに、洞爺湖の周囲には色々な彫刻作品を据えてありますが、それらは日本人の作品がほとんどで、わざわざ世界中から作品を募集して展覧会を開く、ということが不思議でした。

東洋の端に位置する小さな島国の、北の端にある小さな島の中の、小さな村が企画した小さな展覧会に、果たして応募する芸術家がいるのかどうか、応募があったとしても誰がどうやって審査するのか、展示できるような施設はあるのか、と、疑問ばかり湧いてきました。
運営も施設も小じんまりで、手作り感たっぷりなのが、却って良いのかも知れません・・その作品展を見るためだけに洞爺村まで行く、という人間もどうかと思うでしょうけど。

作品展は10月21日まで開催されており、無料です。
会場は、洞爺湖温泉とは対岸にある「洞爺総合センター」の中の1室で、場所は分かり難いですが、「とうや・水の駅」を目指して行けば、看板が立ってます。

雷雲
会場前から見た雷雲
前日に続いて今日も雷雨で、昼間なのに電光が見えました。


順序としては、札幌を出て小金湯にある「サッポロピカコタン」をまず見学しました。
ここは、展示品に触ってもいいし写真を撮ってもいい、という変わった施設です。でも、展示してある品は昔に作られた物ではなく、新たに作られたようです。
アプローチ

獲物
アプローチにあるレリーフは、シマフクロウが魚を捕まえて飛んでいる姿のようです。

番犬ならぬ番梟?
入口の前でシマフクロウが迎えてくれます。

古いトイレ
屋外展示:男のトイレ(左)と女のトイレ(右)
展示用なので使えません。

新しいトイレ
こっちの現代風なトイレを使うこと・・似てるかも。

祠
これは・・トイレではなくて祠のようです。

桂不動カコタンの場所は、小金湯温泉の「桂不動」の隣です。


そこを出発して間もなく、道路が全く流れなくなりました。
事故チュー
道路工事かと思ってしばら〜く待つと救急車が中心部の方へ走り去って、少し進んだ先で事故がありました。(最近、よく出くわすなぁ)

カーネルおじさん
留寿都の道の駅にある、浪越徳治郎さんの胸像
命の泉ではなく、飲み水が出るようです。

帰りは、豊浦、虻田、伊達、壮瞥、大滝の道の駅に寄って帰ってきましたが、途中のあちこちで道路工事をしてました。
サミットが行われるんだから、こんな縁石も無い道路じゃだめだ、って工事してるんだろうなぁ・・と最初は思ってましたが、光ケーブルらしき物を敷設してる工事もありました。これって、サミットの取材拠点から全世界に報道するための通信ケーブルなのか??

道の駅でも観光案内所でも、サミット関連グッズを売ってました。饅頭とか、Tシャツとか、帽子とか、絵葉書とか・・
サミット会場のホテルは、ホントに山のサミットにあります・・昔は確か、ゴルフ場のちっぽけなクラブハウスだったのに。
近付いたり写真を撮ったりすると、官憲から怪しまれるから・・


*注(作品展の案内パンフレットより):
平成18年3月27日に洞爺村は虻田町と町村合併をし、「洞爺湖町」となりました。洞爺湖町となりましても、「洞爺村国際彫刻ビエンナーレ」の名称で継続します。


posted by 雁来 萌 |22:24 | 蝦夷の細道 | コメント(1) |

2007年09月21日

蕎麦と雪と絵本の旅

先週末に士別へ行った折、ホテル「道の駅」で寝てると(騒音や寒さで)朝早く目が覚めるので、17日の早朝に幌加内方面へ散策に行ってきました。

朝霧
途中で見た、霧がかかる山林と畑地の風景
近くの路上には、トンビ1羽とキタキツネ1匹が横たわっていました。酔って寝込んでいた訳じゃないだろうと思いますけど。
エゾリスが横切ったりもして・・この辺は横断歩道が無いので止むを得ません。

道の駅「森と湖の里ほろかない」のすぐ手前に、
石碑
何やら怪しい看板と石碑が立っていたので、堀 淳一先生になった気分で調査しました。こういう手作りの怪しい看板は大好きです。

説明看板
旧深名線の「第三雨竜川鉄橋」を建設する工事で犠牲者が出たことと、深名線が廃止になって鉄橋も撤去されるのが惜しくて保存されることになったこと、などが書かれていました。
詳しく知りたい方は↓拡大画像(420KB)を読んで下さい。
http://www.consadole.net/account/kariki/images/20070921-13.jpg

鉄橋
保存運動の甲斐あって鉄橋は残されましたが、レールはありません。堀先生が向こうから歩いて来るような錯覚を感じます。

遠景
道路脇の斜面の上から眺めると・・良い感じの霧に包まれて、廃虚に相応しい雰囲気です。

幌加内町は、(非公式に)日本一寒い町であり、蕎麦の栽培面積が日本一広いし、日本最大の人造湖(朱鞠内湖)がある町です・・自慢していいのかどうか迷う話ばかりですけど。(蕎麦は嫌いだし)

道の駅の物産館は8時に開館するので仮眠しながら待っていましたが、懸念した通りに(蕎麦関連の商品以外は)何もありませんでした。
物産館屋根
物産館の屋根には、雪結晶を思わせる六角形の模様が軽く?あしらわれています。

入口扉
何となくクリスタル:物産館の扉にも雪結晶のオブジェが付いています。内側の扉では、巨大な蛾が羽を休めていました。

街灯は誘蛾灯
幌加内町の街灯にも、雪結晶が使われています。
ここにも蛾が止まってるし。

「せいわ温泉ルオント」という温泉施設はすぐ隣にあって、
姓は温泉、名はルオント
壁や柱に雪結晶が描かれています。
雪結晶
しかし、ここの売店が開くのは10時で、それまで待っていては試合に遅れてしまうので諦めました。

士別へ戻る途中の郊外にトヨタのテストコースがあって、「士別試験場」と言うらしいです。
高い柵で囲まれた構内は撮影禁止なので写真はありませんが、昔、道路脇に雪が積もっていた時期に雪の上を歩いて小高い丘まで登り、写真を撮ったことがあります。(撮影禁止って知らなかったから)

士別市の隣の剣淵町は「絵本の里」であり、今度の週末でオープン一周年を迎える道の駅の名前も「絵本の里けんぶち」となっています。

「絵本の館」の入口にあるモニュメント
恐竜の卵
この施設のテーマは「たまご」のようです。建物の形も卵形だし、卵形をした部屋もあるし、その部屋の中に「木の砂場」があって、卵形をした木の玉砂利が10万個も入った平たい桶の中で、木の玉をかき回したり滑り台から滑り込んだり出来ます。
昔、この「絵本の館」が旧役場庁舎を利用していた頃にも訪れたことがあります。その建物のドールハウスのような雰囲気も捨て難かったんですが、宇宙船や潜水艦のようなカラクリっぽい現在の建物も良い味を出しています。

屯田兵屋
以前にも訪れたことがある屯田兵屋は修復・復元された建物であり、板壁は現代の材料を使って古臭い色に塗装されています。
明治の建築であるはずなのに、最近訪れた「明日萌駅」(昭和初期という設定)よりも新しく見えるのは、著しい違和感を生じさせます。(屯田兵の末裔の感想)

この辺の地域にはスキー場が多く、
  ・ぴっぷ(北嶺)スキー場
  ・和寒東山スキー場
  ・剣淵びばからすスキー場
  ・名寄ピヤシリスキー場
と、それぞれの町毎にスキー場があって、昔は週末に2泊3日とかして5・6ヶ所のスキー場を武者修行して回ったもんです。
スキー場の駐車場で車中泊するのは結構寒く(冬だから当然)、それに比べたら最近の道の駅には売店や温泉まで揃っていて、極楽浄土か竜宮城か、と思うほどの快適(怠惰)な時間を過ごせます。


posted by 雁来 萌 |23:18 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2007年09月07日

萌ちゃん、故郷を訪れる

函館から夜遅くに帰って来た次の日、用事があって朝早くから留萌へ出かけることになっていました。
留萌には朝8時に着きたいので、余裕をみて自宅を5時頃に出なくてはなりません。となると、4時には起きなければならないのに、前夜に荷物を準備して寝たのが24時過ぎでした。

高速を通ると、2時間で留萌に着きました。
午後1時過ぎには用事が全て終わったんですが、そのまま真っ直ぐ帰ると途中で眠たくなるのは必至なので、休憩を兼ねてあちこちに寄りながら帰ることにしました。

衝突
留萌市街を出ようとしたところ、対向車線で「なぜ、そうなる?」という位置関係で衝突しており、ちょうどパトカーが到着して事故処理を始めました。

気を取り直して最初に寄ったのが↓ここで、
明日萌駅
JR留萌本線の恵比島駅、別名「明日萌駅」ですよ。→参考記事沼田町の案内ページ

待合室
待合室で、まるで昔の自分に会ったような気がしました。(爆)

駅長室
駅長室には、およそ「アリエネェ〜」というウソっぽい小道具が並べられています。

線路
手前が留萌方面、向こうが深川方面です。帰り際に普通列車が入って停まりましたが、乗降客は一人もいませんでした。というか車内はガラガラで・・考えてみれば月曜日の昼下がりですから。

官舎
いくら駅長の官舎といえども、こんな近寄り難い門は作らないだろうと・・そもそも、駅舎と官舎とを繋げて建てるのが普通です。

中村旅館
駅前の旅館の内部は見学できます。
1階は小物やポスターなどの土産物を置いてあり、近所のおじさん・おばさんが集まって、店番のおばさんと世間話をしていました。
ドラマの中そのものというか・・ひょっとして彼らはタレントであって、観光客のために演技してくれているのでしょうか。

少し離れた場所に、私の土地 ロケに使った丘があったので、中腹の駐車場まで登りました。
萌の丘
ドラマでは、丸太に腰掛けて丘から見下ろすシーンがあって、多分、あの樹の辺りだろうと想像はつきましたが、歩いて登るのはしんどいので諦めました。

牧場
この辺の丘は牧場になっています・・動物は見掛けませんでしたけど。

展望
中腹の駐車場からの眺めでもこれだけの景色なのだから、丘のてっぺんから見たら絶景だろうなぁ・・と想像するのみ。右奥は沼田町の市街です。

萌トイレ
私の専用ですか、これは?  外も中も綺麗なトイレでした。

この後、ほとんど「道の駅スタンプラリー」に近い行動パターンで帰ってきました。275号線の雁来大橋を渡ってると練習場が見えたんですけど、今日ばかりは(横目で見ながら)素通りしました。


posted by 雁来 萌 |11:41 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2006年08月06日

遠過ぎる記憶

7月30日(日)に、ニセコ(倶知安)へ行ってきました(前報)。この地は、小学生時代に住んでいたことがあります。●●オリンピックの頃ですが。

その後、スキーなどで何度も訪れてはいましたが、いつでも来れると思うからなのか、街の中をゆっくり見て回ることはありませんでした。今回はちょっとした目的があったので、ついでに少し探索してみました。

小学4年生の年は、倶知安町内の南寄りに住んでいました。JRの「ニセコ山の家」などへ登る道の脇で、JRの線路を跨ぐ陸橋(当時は踏切)の側にあり、そこから歩いて30分ほどの倶知安小学校へ通っていました。
それにしても、校歌の歌詞に見覚えがありません。羊蹄山ニセコ尻別川が使われていることは記憶と合致しますが、旋律が全く出てきません。


倶知安小学校の校門と羊蹄山(2006.7.30)
当時はこのグラウンドの場所に校舎があり、現在の校舎の位置がグラウンドでした。


現在の校舎(共和町役場に似てるかも)
当時はもちろん木造の校舎で、「学校の沿革」に写真が載ってます。

「山階資料室」とかいう部屋があって、鳥類の標本をたくさん並べてありましたが、その部屋には自由に出入りできなかったような。
とにかくこの辺は、鳥でも虫でも魚でも、捕りたいだけ捕れるような環境なので、丸々と太った魚を毎日捕まえては、おかずにしてました。一匹ずつ釣るなんていう面倒なことはしないで、「ドウ」と呼ばれる、一升瓶の2倍くらいの太さのガラスの筒で捕ってました。


学校の横から眺める羊蹄山
毎日こんな風景を眺めてノビノビと育った大人がコレですよ。

5年生と6年生の年は、町内の北寄りの場所に引っ越したので、別の小学校へ転校しました。その学校は開校5周年というほどの新しさで近代的な造りだったので、最近新築された校舎を見ても何も感じず、写真は撮りませんでした。

その次の年にここへ引っ越しました。


さて、次は今回の本命を訪問したいのですが、場所や施設名を詳しく調べてこなかったので、駅へ行って調べることにしました。
倶知安駅の佇まいはホントに昔のままで、よく長持ちしてるもんだ思いましたが、構内の観光案内図を見ても目的の「郷土館」らしき施設は見つかりません。役場などがある中心部から少し離れた場所にあると記憶してるので、とにかくそっちの方角へ行ってみました。

駅に置いてあったのでパンフレットをもらってきた「小川原脩美術館」を示す案内看板が道端に立っており、「風土館」という施設が隣にあるようです・・そうだ、「郷土館」じゃなくて「風土館」ですよ!

「倶知安風土館」に着きました。ここは、日本体育大学の合宿施設として建設した建物を改修したそうで、トレーニングのための陸上競技場だった部分は公園に整備されて美術館が建っていますが、複雑な事情があったようです。
 

建物の事情はどうでもよく、私のお目当ては「ゼロ戦の翼」です。これは、60数年前の第二次大戦中(生まれてませんよ!)に、墜落事故につながる航空機への着氷を調査する目的で、ニセコの山頂に実物の機体の一部を運び上げて野外実験した材料です。

もちろん、飛べる機体はもったいなくて使えないので、壊れた機体を集めて台座の上に据え、冬場の雲の中の低温・強風の環境に曝して着氷させるという、画期的な実験を行った証拠物件です。ちょっとした関係があって、翼やプロペラの図面や、実験場の写真を見たこともあります。

何も、実物の機体の一部を使わなくたって、丸太を鉄板で覆ったハリボテでもいいじゃないか?と考える人もいるでしょうが、飛行機は翼やプロペラに着氷したら揚力が無くなって墜落してしまい、機体とせっかく養成したパイロットが失われます。
そんなシビアな実験をするんだから、実際の素材を使って実機の形に加工した標的じゃないと役に立つ実験にはならない、という論理ですね。

日本が敗戦したので、軍事研究の証拠を隠滅するために、この機体は捨てられました。
この実験に加わっていた人物のほとんどは既に他界してしまいましたが、何人かは私が知ってた方々です。実験をやめた後で「沢に捨てた」という話も人伝に聞いていたので、どの辺に落ちてるかは想像がついていました。山頂から慌ただしく機体を捨てられる手っ取り早い沢で、しかも人目に付き難い沢は、そう多くはありませんから。

近年になって「ゼロ戦の翼が発見された」という報道を見ましたが、新しい天体などが発見されて「よく見つけたもんだなぁ」という驚嘆とは違い、「ぁ、ついに見つけられちゃったか」という感想でした。元々、その辺にあることは分かっていたんだから、「発見」と言われても・・。


ゼロ戦32型の右翼(2006.7.30)
手前が翼の上面、右側が胴体側、左側が翼端側で、翼端に近い部分の円形の灰色は、「日の丸」が描かれていた名残です。補助翼は失われています。

翼の長さが思ったより短い感じがして・・古い写真やプラモデルなどでは日の丸はもっと内側に描かれていたように記憶していますが、32型は翼を切り詰めた型だし、翼端灯の一部が残存しているので、元々こういう長さだったようです。


翼の下面側から見た燃料タンクのスペース?
この下方に脚が格納される?
翼の後縁に付いていたフラップは失われています。
 

機体のより詳しい説明は、この辺や、この辺を参考にして下さい。

この実験を行った研究者は、この方です。


「くっちゃん」という地名ですが、テレビやラジオなどで、「く」にアクセントを付けて「ゃん」と発音するのは間違いで、「ち」にアクセントを付けて「ゃん」と発音するのが正しい呼び方です。「ゃん」の発音と同じで・・。


posted by 雁来 萌 |23:01 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

2006年04月28日

函館戦争回顧(敗走の段)

我らの魂娑闘霊教団が函館戦争で敗北を喫したため、宗敵の追手どもから逃れなければならなくなりました。

逃走の詳しい経路や日時を記すと、残党狩りの追手に潜伏先を察知される恐れがあるので、要所のみを説明するに留めます。途中までの経路は他の門徒と類似しているようなので、そちらの手記の前偏後編と比較しながら読まれることをお勧めします。
 

決戦の翌朝、どちらの方角に逃げれば良いのかを判断するために、星型をした砦の横に立つ物見櫓に昇ることにしました。
この物見櫓は、鋼鉄の「とも綱」と「つるべ車」とを用いて、方形の籠を上下させるからくりを用いており、妙齢な娘の案内に従って籠に乗り込むと、瞬く間に上層の物見台へと到着したのです。
物見台の 四方 五方は「ぎやまん」の板で囲まれており、雨風を防ぐとともに見通しが良い巧みな造りになっております。さらに、敵の動静を伺う遠眼鏡や、櫓をよじ登って来る曲者を発見する覗き窓も備わっておりました。

砦の構造・配置を記した見取り図や、諸派の兵法書なども供覧されており、深く得心すると同時に、万一これらが宗敵の手に落ちたりすれば、我が教団にとっては存亡の危機に陥るという懸念も感じました。
至る所に「どかた」と申す侍の肖像を描いた護符が貼られており、この蝦夷地にさえも彷徨っている平家の亡霊を近寄らせない目的なのでしょう。

下層の土間に降りると、蝦夷地の村々から献上された産物などが誇らしげに並べられており、篭城の折にはそれらを糧食として転用する備えと思われます。
ひもじさに堪え兼ねた門徒の中には、言われるままに多額の金子と引き換えて僅かな携行食を受け取り、その場にて食する者もおりました。戦とは田畑ばかりか民の心までも荒れさせるものであり、商人とは如何なる世でもしたたかに生きる術を備えているようです。

魔除けのためか、前述の侍の偶像や「誠」と記した護符・装身具などを娘どもが競って買い求めており、霊験あらたかな護符のようです。しかしながら娘どもの顔立ちを窺えば、必ずしも魔除けを身に付ける必要があるやなしや。

多くの門徒達は、噴火湾沿いに第五街道を北上し、あわよくば途中から早馬街道に移りて郷里を目指すものと思われます。しかしながら、手前の山越内に設けられた関所を通るのは危険であり、多少は遠回りになるものの、人家が少ない日本海側の海岸伝いに北上する経路が比較的安全であろう、という結論に至りました。

茂辺地を過ぎて渡島当別に近付き、山麓に築かれた女人禁制の切支丹城が見えてきましたが、異教徒の呪文が聞こえない距離を保って立ち去り、正月の寒中みそぎで知られる木古内の佐女川神社に詣でる時間も惜しいので、知内の駅逓所まで進んで一休みしました。
各地の駅逓所には、ご当地の名所旧跡や名産品を象った印判を備えてあり、自ら集印帳に押印して旅の記録を残すとともに、集めた印判の数を競う趣向もあるようです。まるで四国八十八箇所を巡る遍路旅において、霊場ごとに朱印を頂戴するような有難味を感じます。

山道に入って千軒に差し掛かると、残雪の量が多いことに気付きます。標高がやや高いことも一因ですが、この一帯は夏場でも雨量が特に多く、蝦夷地内でも有数の多雨地域として知られています。
福島の駅逓所には立ち寄りましたが、相撲道の聖地は参拝しませんでした。近在の村では「女相撲」などという、はしたない競い合いも奉納されるとのことですが、恐いもの見たさを押し殺して先を急いだのです。

我が教団と松前藩とは親交関係にありますが、それ故に敵方の探索も厳しいと察せられるので、福山城のご天守を遠くに望みながら、そそくさと通り過ぎました。
ここから先は右手に急峻な山地が迫る道が続き、左手には日本海から荒波が押し寄せています。道を踏み外せば、せっかく拾った命を失うことになるので、松前小島や渡島大島などの島影を愛でる余裕はありませんでした。

やっとのことで上の国の駅逓所に辿り着き、断崖の上に構えた茶屋で昼食を所望しました。丼に盛った飯の上に、雲丹や鮑、鮭とその魚卵、鮪、烏賊、海老などの切り身を乗せてあり、下の飯が見えないのです。この地では、年貢を軽くする工夫として、安価な魚介類を用いて高価な白米を隠す手法を編み出したようです。

街道に面している笹浪家に立ち寄りました。鰊漁が栄えた時代に普請された由緒ある屋敷は、ご当主が住まわれていた頃にも訪れたことがありますが、後に当主・奥方ともに他界されたため、屋敷や蔵を修復して旅人にも公開されています。
床の間には円空の作と伝わる煤けた木像仏が鎮座しており、この仏は、蝦夷地の首府において昨年開催された円空仏の展覧会に出展されたそうです。それを観覧したことを案内役のご婦人に伝えると、たいそう喜んでおられました。

上の国のすぐ先は、江戸をも凌ぐ栄華を誇った江差になります。甲高い声を張り上げる謡曲の競い会いは耳障りなので、街外れにある駅逓所まで足を伸ばして休みました。繁次郎(すぃげずろ)と申す知恵者を称えた像について地元の者に尋ねてみましたが、この辺りで使われる言葉は訛りが強く、まるで異人の話を聞くようで要領を得ませんでした。

脇街道に入って厚沢部の駅逓所に向かう途中、奉行所の役人や手下どもが集まって、不届き者を探知する怪しげな器具を道端に据えておりましたが、易々とそんな罠にかかる旅人などおりません。昨年、『寺子屋の師範が厚沢部の街道で26里(13里超)でお縄になる』という捕物があったせいでしょうか。

さらに進んで乙部の元名台という駅逓所に着きました。夏場ならば、このあたりの海辺は水遊びや魚釣りに興ずる人々で賑わうようですが、乙部と聞いてまず思い浮かんだのが葡萄酒でした。
知内でも見かけましたが、我らの門徒と思われる人物達とすれ違いました。身なりや所持品を見れば同胞であることは明白ですが、敗走の途中なれば名乗り合うことも叶わず、ただ互いの身を案じて目礼を交わすのが精一杯でした。

獣の形をした奇岩が立ち並ぶ海沿いの道をしばらく進むと大成に着き、駅逓所には・・何もありませんでした。ここも所詮、夏場の水遊びのための厠に過ぎないのでしょう。旅人に売るような品はほとんど無く、集印帳を売るためだけに滞在しているような看板娘が店を守っていました。

道がさらに険しくなったかと思うと急に山中に入り、再び海岸に出た地が瀬棚です。杉には見えないような太い岩塊が、確かに三本並んでいます。刀剣の刃紋にも「三本杉」と呼ばれる文様がありますが、それにも似ていない代物でした。
近くの海上では、巨大な竹とんぼのような白い羽根がぐるぐる回っておりました。あの羽根で風を起こしているのかと思いきや、逆に風の力で羽根を回す「かざぐるま」だとは思いも寄りませんでした。しかし一体、何の役に立つのでしょう・・沖を通る船の目印にする位しか思案が及びません。

狩場山の残雪を眺めながら茂津多の岬を越え、「よってけ!」と誘われた島牧の駅逓所に立ち寄ると、既に門は閉ざされていました。上の国での逗留が長過ぎたようですが、暗くなれば追手に発見される恐れも少ないので、この先は内陸の街道を進むことにしました。

その後は提灯も持たずにひたすら夜道を歩き続けたため、どこをどう通ったのか見当も付きませんが、追手や役人に捕えられることもなく、何とか郷里に帰り着くことができました。

これもひとえに、教祖様のご加護とお導きのお陰に相違ありません。


ということで(どういう?)、カテゴリーを増やしました。
「蝦夷の細道」というカテゴリーには、道内を旅行した際の紀行文を集めます。
今回のような文体にはなりませんので、ご安心を。

posted by 雁来 萌 |00:07 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |