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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。

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恥ずかしながら(5)

2007年01月11日

入院4日目は、朝から脳内の血流の検査を受けました。
血管に造影剤を注入しておいて、モニターを見ながら途中で筋弛緩剤を入れて血管を緩めてみて、それでも広がらなかったら血管が硬直してる(動脈硬化)ってことです。

左肘の静脈から薬剤を入れて右手首の動脈(脈を取る場所)から回収(採血)するんですが、手首の血管が細くて場所が分かり難いらしく、針を刺し直して・・後で見たら3ヶ所に刺し傷がありました。

この検査も、結構退屈な上に体を動かせない辛さがあります。1時間以上かかって、もう、ミイラになったと思って我慢するしかありません。
体がジワジワ暖かくなる感じがして、温泉地の砂風呂に浸ってる気分に似てるかも。

検査が終わって、午後に天皇杯の試合を見ていたら、雑用係のおばさんが「コンサドーレの選手がこの辺に入院してたんだよ、あぁ、この人さ。」と、テレビに映った選手を指差しました。へぇ~。
取りあえず、ボロボロに負けなくてホッとしました。
 

毎日、色々な検査を受けるため、その検査を受けること自体で具合が悪くなってしまう気もします。
翌日に、一連の検査結果を総合して、主治医から説明がありました。こういう時代ですから、質問した事には丁寧に答えてくれます。

それによると、「主因は脳内の血管が細いことで、これは多分、先天的であろう。脳への血流が少なかったのに、ストレスが加わって血流がさらに減ったために気を失ったのであろう。」ということでした。
脳への血流が少ないって、頭の血の巡りが悪いってことですよね?(不安的中)

従って、日常生活においては「血圧が下がる原因を避ける」よう注意すべきだそうで、普通の成人病とは逆のような印象を受けました。自分はまだ成人していないのか??
危険な状況としては、睡眠不足の状態で仕事を頑張り、夜に酒を飲んで血管を広げておいて、急にトイレに立つ・・と、血圧が一気に下がって倒れる恐れがあるとか。

私の血管には、まだ緩むだけの弾力があったそうですが、それでも一般人よりは細いそうです。
神経だけじゃなくて、血管まで繊細だったのだな・・。
子供の頃から手足の末端が冷える体質だったしな・・。
夜中まで起きててブログを更新するのは良くないのだな・・。

でもね、病院だって夜通し大声でわめくお年寄りの患者もいて、あまり眠れないんですよ。


post by 雁来 萌

07:29

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恥ずかしながら(4)

2007年01月10日

入院3日目の朝の回診で、主治医の先生から病状の説明があり、「元々、血管が細かっただけで、急に狭くなったり詰まったりした訳ではないようだ。少し無理をしたのではないか?」という見解を聞かされて、大いに納得しました。
結論:仕事の無理がたたった(自己満足)。

病名は「椎骨脳底動脈閉塞(狭窄)症」と言うらしく、平たく言えば、脳へ行く血流が少なくなって失神した、ということのようです。
病室から出歩いても良いことになりました・・と言っても、点滴が付いているのでエレベーター前の自販機に行くだけの狭い世界ですが。

午前中に「心エコー」の検査があり、これは人間ドックの超音波検査と同じような器械を病室に運んできて、心臓の検査をしました。
画面を見て、「おぉ、心臓が動いてる!・・でも、あまり強そうな心臓じゃないな。」などと自己中心的な見方をするのが病人の特徴です。それにしても、よくまぁ休まないで動いてるもんです。
1日に約10万回×365日×年令=??
記録された信号を音声として再生して聴く機能が面白くて、まるで何かを喋っているように聞こえました。

午後に病室が変わって、病院の中枢部から離れた神経内科の病棟へ移りました。
主治医によると、「もう一度MRIで検査し、血流の検査もして、異常がなければ年内に出れるかも知れない。」とのこと・・・「えっ? 最初に聞いた1ヶ月って、何だったの?」と、夏休みを急に短縮されたような、雨で遠足が中止になったような、一種の落胆を感じました。

夕方に2回目のMRIの検査を受けました。MRIは「頭の中にキツツキがいる」と表現した人がいますが、私にとってはそれほど不快ではなく、コンサートホール「Kitara」のパイプオルガンが鳴ってると思えば心地よく聴いていられます(ただし音量は大き過ぎる)。

院内ならばどこを歩いても構わないとのことなので、売店やロビーをプチ探検してみました。蛙にとっては、井戸の中だって大宇宙ですから。

明日は、多分最後の検査になる(ことを切望する)、脳内の「血流の検査」を受けるらしいですが、その検査が、天皇杯の準決勝の時間帯とカブらないことを祈るばかりです。

card
テレビや冷蔵庫に使うプリペイドカード
テレビは1000円で20時間、冷蔵庫は100円で24時間の割で減っていく勘定になり、退院時に残額は払い戻されます。



post by 雁来 萌

07:16

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恥ずかしながら(3)

2007年01月09日

入院2日目には、色々な検査を受けました。

【脳波】
ラグビーの防護帽のようなヘッドギアを被って電極をたくさん固定し、まるでオ●ム真理教の信者が洗脳を受ける光景です。
光を遮るアイマスクを付けて横たわっているだけなので、眠くなります。どんな オーラ 脳波が出ていたのか、興味があるところです。

【心電図】
人間ドックでの検査と同じで、胸に吸盤の電極、手足にクリップの電極を付けて寝てるだけの、身体的に全くストレスの無い検査です。

【血管造影】
頭の中の血管を調べるのに、足の付け根の大動脈からカテーテルを入れて造影剤を流し込むという、いささか遠回りな感じがする方法ですが、ここの血管が一番刺し易いらしいです。

カテーテルの進行経路(副作用を説明する資料から抜粋)

カテーテルを刺す場所の周囲の体毛を剃らなければなりませんが、右脚を予定してはいても、血管が曲がったりしていると左脚に変更する場合もあるので、念のため両側を剃るそうです。「そんな面倒なことしないで全部剃ればいいのに」と言いかけて飲み込みました。「自分で剃ってもいいですよ」と言われましたが、「餅は餅屋」なのでお任せしました。←餅肌の私。

頭の近くまでカテーテルが進んだところで造影剤を注入しますが、「顔の左側が熱くなりますよ~」と言われれば、確かにその部分が熱くなります。「頭から血の気が引く」のとは全く逆の感覚で、頭に血が上るというか、お湯が上って行く感じです。

困ることは、何しろ動脈に孔を開ける訳ですから、カテーテルを抜いた後で出血します。止血のために傷口をバンドで押さえるんですが、術後4時間は足(腰)を伸ばしたまま寝ていなければならず、これが結構シンドイです。
 

検査漬けの一日が終わったのが午後7時頃で、それから夕食を摂った後は直立不動(?)の姿勢でじっと寝てるだけ、午後11時にやっと固定バンドを外されて眠りました。



post by 雁来 萌

06:41

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恥ずかしながら(2)

2007年01月08日

救急車が年末の車の流れを蹴散らしながら病院に到着すると、検査準備室のような部屋に運ばれ、そこで家族に連絡したり、検査前の準備をしたり、所持品の確認をしました。刑務所の入所時みたいな・・って、もちろん未体験ですよ。

まず、MRICTスキャン、レントゲンなどで頭の内部を調べた結果、脳底動脈という血管の一部が細くなっていることが分かりました(患者本人がそれを知ったのは後日ですが)。
自分としては、頭の中が空っぽである事実が判明することが一番不安だったのですよ(笑)。でも、「のうていどうみゃく」って、何??

通常、太い動脈が詰まって血流が止まったり、動脈瘤ができて破裂したりすると大事に至りますが、私の場合は上記の動脈が元々細かったので、血液の流量が酸素の消費量に追い付かなくなったようです。
スポーツカーは燃費が悪いとか、高速処理の計算機は電気を食うとかいう傾向はありますが、自分の頭脳の性能をそれらと同列に論じていいものかどうか、甚だ疑問ではあります。

検査が一通り済むと、ICU(集中治療室)のベッドに寝かされました。ここは常時監視が必要な患者を集めておく部屋で、婿養子のように大事に扱われる極楽ですが、立って歩くこともできないし、脈拍や血圧や呼吸などのモニターがあちこちでピーピー鳴るので、とても熟睡できる環境ではありません。
ここの要員は淡々と、しかも機能的に働いている印象を受けました。人間の臓器で喩えるならば肝臓かなと。

この時点では、重篤な状態に陥る危険性もあるため、1ヶ月ほど入院する必要がある、という説明を受けました。
退院して職場に復帰したら何て言おう・・「恥ずかしながら、生きて帰って参りました!(敬礼)」ってか。

夕食を食べる時間が無かったので、翌朝の食欲はありましたが、かなり質素な献立で・・栄養になるのは米くらいかな?という感じでした。食欲旺盛な患者がいるはずのない部屋ですから、これでいいんでしょう。

朝の回診の後で、院長先生と主治医との打合せの結果、「血管造影」の検査を行うことになり、切迫した危険が無さそうなので一般病棟へ移りました。ただし、種々の検査を受けやすいように、検査室が集中している階のすぐ下の階でした。


追記(2007.1.8)

病院からもらった説明シートの一部:
見えるはずの血管が 「←見えない!!」と書いてある



post by 雁来 萌

07:42

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恥ずかしながら(1)

2007年01月07日

甚だ唐突なことですが、勤務中に気を失って倒れ、年末年始を病院で過ごすことになりました。

既に退院しましたが、初めて倒れたままあちらの世界へ行ってしまう人もいるし、後遺症で体験談を書き記せなくなる人もいるので、滅多にできない体験を数回に分けて報告しようかと思います。
これは「闘病記」ではありません。私の場合、病状は大したことないので、闘う相手は「病気」ではなくて、種々の「検査」でした。
入院2日目にして、こんなことを考え始めたブロガーですが、何か。
 

2006年も押し迫り、(義理で買った)大型のX-mas ケーキを少しずつ食べながら過ごしていた頃の、火曜日のことでした。
会社での仕事もそろそろ切り上げようかと考えていた午後6時頃(と記憶している)、データ処理のプログラム作成中に、貧血のように視野がにじんできたので、それまでの前かがみの姿勢から少しくつろいで、椅子の背にもたれて楽にしました。
記憶があるのはそこまでで、次に目に見えたシーンは、床に横たわっている自分を周囲の同僚が見下ろしている(「みくだしている」ではない)光景でした。

起き上がろうとしましたが、「安静にしてた方がいい」と言われるし、既に救急車を手配したらしいし、起きている間に意識を失ったのは初めてのことだったし・・で、観念しました。
自分で歩けるんですけど、両腕を同僚に掴まれて拉致され、白い車に押し込まれ、ベルトで固定されたまま連行されました。

実は、救急車で運ばれたのは今回が2度目です。20年ほど前に、交通事故で背骨の横に出っ張っている突起(鮭や鯨の背骨を思い浮かべて下さい)を3ヶ所折って搬送されたことがあります。
腰椎横突起骨折って、G大阪の播戸選手が試合中に骨折した箇所と同じです。
 

気を失っている間に、霊界は見えませんでした。私は元々、霊感なんて全く無い人間だし、「お前のような中途半端な人間には見せられない!」と門前払いされたのかも知れません。
もし丹波哲郎に会ったなら、生前に何度か見えた(らしい)霊界と、最終的に見たホントの霊界とが同一だったのか否か、確かめたかったのにな~。


post by 雁来 萌

11:48

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越すに越されぬ大井川

2007年01月06日

前編中編後編に続き、この話は妄想・・を文章にするのも疲れますね。

都合により、このシリーズはこれで終わります。


魂娑藩の軍団が湯明日田城へ向けて三方から進軍を開始すると、次第にその軍勢が増えて大名行列のような規模になり、我が軍を城の外で撃退するのは無理と見てか、守備側の武田方は砦から退却して城内に篭りました。
合戦の指揮を取る仙台藩は、もはやこの戦に勝ち目は無いと判断し、武田方の軍勢をうち捨てて密かに逃走してしまいました。噂の通り、仙台藩は泰平な生活に慣れ過ぎて、かなり堕落している模様です。

湯明日田城の門までは難無く進めたものの、城門がなかなか開かないため、入城を待つ魂娑藩の隊列が数珠繋ぎになり、しまいには城を一周するほどの長さになりました。

やっとのことで城内に入ると、武田方の軍勢は予想よりも少なく、戦意も感じられません。仙台藩にうまく利用された末に裏切られたという、忸怩たる思いもあるでしょう。
武田家の武具は青と赤との色使いであり、江戸近郊の江伏藩の武具と見間違えそうになることもあります。一方の魂娑藩は、討ち死に覚悟でこの戦に臨んでいるため、全員が白装束に身を包んでおります。

仙台藩が置き去りにした牛の舌の焼物や、ずんだ餅を頬張りながら開戦の刻を待っていると、武田方の陣内から一人の武者が騎馬に跨って走り出て来て、敵陣からはやんやの喝采を受けました。一騎打ちを望んでいるのかと思って名乗ったのを聞いてみると、「堀井岳之輔」と申す名のようです。当方からも、その勇猛な武者に向かって扇や手拭を振って囃していました。

武田家の内情に詳しい者の話によると、彼は元々は甲斐の出でありながら、諸国を回って諸藩の用心棒役に取り立てられておりましたが、剣術に勝てたとしても寄る年波には勝てず、今年限りで用心棒暮らしから隠居するそうです。今後は、故郷で剣術道場を開き、後進の指導に当たるらしいですが、そう言えば、魂娑藩にも一宿一飯の義理があったような気がします。

彼は何やら当方に向かって伝えたいことがあるようで、耳を欹てて聞いてみると、「伴天連の兵などの助太刀を求めるのは卑怯である。ここは日本人同士で雌雄を決しようではないか。」という主旨のようです。
どうやら敵方には、当方の富貴氏が戦線を離脱しているという情報は伝わっていない様子で、これは渡りに船と、承知の旨を返答しました。
 

さて開戦の法螺貝が鳴り渡ると、そのような音を始めて聞いた武田方の雑兵は慌てふためき、当方が放った矢に対抗して攻め返すべきところを、味方の陣内に向けて矢を放つ始末で、その内の一本が武田方の武将に命中してしまったのを切っ掛けとして混乱に陥りました。

武田兵は敏捷な者が多いながら、あまり戦には慣れていないように見受けられます。当方の本陣近くまで寄せて来ても、そのまま突撃して来るのかと思いきや、直前で互いに先陣を譲り合うなど、およそ武士の風上にも置けない軟弱な振舞いが目に付きます。やはり、百姓どもを俄に徴用した雑兵は、戦の役には立ちません。

戦が終わってみれば当方の損害は軽微で、目覚しい戦功を上げた加賀氏が、大将からお褒めの言葉を頂きました。

思い起こせば昨年の暮れ、帆立城に篭って武田家を相手に戦を構えたことがありましたが、我が藩が勝利を手中に収めようとする寸前に、相手の逆襲を食らって味方が総崩れとなり、総大将の家友様に大恥をかかせてしまいました。
魂娑藩士達は皆、その屈辱をいつかは晴らさねばならぬと肝に命じ、家友様の家紋が染め込まれた手拭を懐に忍ばせて此度の戦に馳せ参じたのです。

何とか汚名を濯ぐことができ、幕府からの恩賞も頂けることになりましたが、天下を制するまで戦に休みは無く、次は大坂の岩馬藩が戦を挑んできております。

敵は、遠江の掛川宿の近くの恵古波城に陣を張っている模様です。ここならば、上方から見て大井川を渡る手前なので、いつでも故郷へ逃げ帰れる地の利があります。
当方としては、大井川を渡った所で陣形を整え直さなければならず、その隙に急襲を受ける恐れもあって、かなり不利な状況です。

湯明日田城の戦で深手を負ったために恵古波城の戦には参戦できない者や、武士に相応しくない振舞いを重ねたために参戦を許されない者も多く、当方に利する材料はあまりありません。
さらに心配なのは、佐藤氏は敵方から飛んで来た矢に対して目測を誤ることが多く、傍から見ていても危なっかしくて肝を冷やします。視力が落ちているのか、ただ単に前へ出たい性格なのかは分かりませんが、武田家の事情について妙に詳しいのも気になり、敵方に内通しているという疑いも完全には拭えません。

(終わり)


post by 雁来 萌

20:27

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風鈴火山の旗印

2006年12月21日

前編中編に続き、この話は妄想の産物ですから・・(以下略)


福蟻城を出立した魂娑藩の伊達討伐軍は、半月ほどの行軍の後に、仙台・湯明日田城を眼下に望む丘へ到着しました。
途中、蝦夷地から小船に乗って馳せ参じた武者どもが合流しましたが、長い船旅のせいか頬が痩せこけており、足元がおぼつかない様子に見えました。

城の周囲には伊達の友軍勢が堅固な陣を張っており、容易に城へ接近することもできません。
さすが、領内で金が産出する富裕な仙台藩の布陣かな・・と呟きながら遠眼鏡を城に向けてみると、伊達家の旗印ではなく、甲斐の武田家の旗印である「風林火山」の文字が目に飛び込んできて度肝を抜かれました。

そんな筈はないと、気を落ち着けてよく見れば、「風鈴火山」と記してありました。虎の威を借りて敵を欺く姑息な手段を用いているようです。
 

仙台藩では、かつて「舞乱目留」と呼ばれる品種の稲を栽培しておりましたが、この種は寒さには滅法強いものの、味が落ちることから評判が悪く、他藩に売却することは無理なので領内だけで消費しておりました。
近年、「笹西季」と名付けられた種の稲を採用し、新たに開発した「辺軽田」と呼ばれる作付け法を用いることにより、収量を大幅に増やすことが可能になった結果、一気に藩内の経済状況が好転したと聞いております。

藩士達の暮らし振りもたいそう豊かになり、楽をして安泰に生活できる水準にまで達したため、藩士達の間にも不満を抱く者がいないそうです。
従って、戦という手段を用いて覇権を競ったり領地を広げたりする必要は無く、武士でありながら戦そのものに嫌気がさしてしまう者が多くなるのも頷けます。
他藩との争い事が生じた場合には、巧みな交渉術や金銭で解決するのが仙台流の慣わしらしく、藩内では「銭は城、銭は石垣、銭は堀」が合言葉のように言い交わされているとか。

そうなると、城や砦は無用の長物と化してしまうので、固定資産の有効活用という観点から、戦をしたい藩に城を貸し出して賃貸料を徴収し、その収益で城の損傷部分を補修する仕組みを考え出しました。
賃貸の城を利用すれば、自前の城を持たない藩でも戦を構えることができ、自ら城を築くよりも賃借した方が安上がりに済むため、好戦派の諸藩からは有難られております。
月単位や旬単位で繰り返し借用する上得意の藩もあって、何年も先まで予約が詰まっている城もあります。

この仕組みを試行していた当初には、戦を見物しに来た者どもから見料を集める程度でしたが、次第に見世物化して商い事の対象に変わってきました。
昨今では、藩内の富豪な商人達を半ば強制的に戦場に招き寄せ、法外な観覧料を藩に献納させることが常態化しています。その見返りとして、見物に来る商人達が自家の宣伝を行うために、戦場に隣接した見晴らしの良い小山などに家紋入りの陣幕を張ることを黙認しています。

一体、どこが戦場でどこが見物席なのかも判別が難しい有様で、稀に敵陣と間違われて矢が飛んで来るという、笑えない体験もできるそうです。
用心深い見物人達は、身の安全のために煌びやかな鎧を着て花見弁当を広げる始末で、なおさら敵陣と間違えられる原因を作っているようにも見受けられます。まことに、金の亡者につける薬は有馬温泉。
 

おそらく、仙台陣の最前列に並んでいる「風鈴火山」の軍旗は、伊達家に金で雇われた武田の落ちこぼれ武者が掲げているに相違ありません。いくら落ちこぼれとは言っても、流石に「風林火山」の軍旗を掲げることは武田本家に憚られるのでしょう。「其喧如鈴」とは、よく考えたものです。
・・とすれば、戦陣を構えている軍団は、全て雇われ武者の寄せ集めなのでしょうか。もしそうだとすると、恐れるに足る武者達ではありません。大方は、食うにも事欠く百姓どもが、兵糧を与えられて胴丸を着ているだけなのでしょう。
 

魂娑藩の切り込み隊長である富貴氏は、福蟻城の戦で手傷を負って止むなく戦列を離れましたが、その後の傷の回復が思わしくないのか、湯明日田城へ向かう途中で故郷へ引き返してしまいました。
彼は切支丹大名の血筋を引く武者であるためか、年末に行われる栗栖神社の鱒際りの頃になると、役目を放り出して自宅で家族と共に過ごすことは毎度の慣わしであり、里心がついたとか仮病だとか囁かれたりもしますが、本人は一向に頓着しない様子です。

残る兵で頼りになりそうなのは中山小隊長と相川進之介くらいで、その他は狙撃兵の正也、伝令の謙伍郎、斥候の征八、お小姓の大伍郎くらいです。
いくら財前守による鍛錬の成果があったとしても、お小姓が一人前の戦力になるとは思えません。

縁起でもない話ながら、万一この戦に不覚を取るようなことがあれば、幕府からの恩賞を貰い損ねるどころか、湯明日田城の賃借料まで払わされる恐れもあります。参戦する道中で陣形を整えるために逗留した、磐城村での旅籠賃も踏み倒さざるを得ません。

(終編?へつづく)


post by 雁来 萌

23:23

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今年最後のすいか作業

2006年12月17日

宮の沢でのチーム練習が16日(土)で終わったのに伴い、すいか作業も自動的に16日(土)が今年の最後になりました。この時期まで宮の沢を使えたのは天の助けかも知れません。

その前の週の9日(土)にも作業に行き、作業後にグラウンドキーパーさんから「もし今日の試合で負けたら、今年の作業は今日で終わりです。」と言われて、何となく物足りないような寂しいような気分になりました。
そういう気持ちを察してなのかどうか、当日は綱渡りのような試合に勝ってしまったので、取りあえず終わりじゃなくなったのですが、今週いっぱいでここは使えなくなりました。
名残を惜しみながら、先週9日(土)の芝の様子を紹介します。


補修作業をするすいか隊員(2006.12.9:宮の沢)
山はすっかり冬景色、この日は手前側だけを使って練習しました。


融けきらずに残った雪が、芝の上に模様を描いています。

もうそろそろ、芝の上での練習は無理のようです。
寒いからではなく、雪が積もるからでもなく、芝が耐えられないからですね。人工芝じゃないので、雪かきをすれば練習場が使える、という問題ではないんです。

芝は生きてる植物なので、温度と日光(と水)が不足すると育ちません。育たないということは、痛められたら回復しないということです。夏場なら、多少痛められた程度であれば、放っておいてもかなり回復しますが、温度と日光が少ない冬場は痛んだままになります。


スライディングで痛めつけられた傷口


削がれた芝が脇に落ちてます。


こんな鋭い切れ方をするんだから、さぞかし鋭いシュート・・


作業に使う、すいかフォーク(長さは30cmくらい)
芝が可哀想な色をしています。

改修した効果か、今年の芝の状態は去年よりかなり良く、葉に元気があって、ふっくら育ってたように感じました。
この後、寒風に曝されるし、雪も積もります。しばらく休養して、来年の春にはまた育ってきてちょうだいねー、と思いながら宮の沢を後にしました。冬の間も何かにつけて来るんですけど。



post by 雁来 萌

00:26

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湯明日田城への進軍

2006年12月15日

前編に続き、この話は妄想の産物ですから、お忙しい方は読む価値がありません。

当初は、本編と続編だけで終わるつもりで書いていましたが・・・チーム事情により終われなくなってしまいました・笑。
いつまで続くのか、誰にも分かりません。


さて去る9日、福蟻城を受け取りに向かった魂娑藩の軍勢が領地境に差し掛かると、市原藩の領地を横取りしようと企む越後の有備藩の兵が待ち伏せていました。
しかし、彼らの目的は当方の軍勢や戦闘能力を推し量るのが狙いのようで、直ちに攻撃してくる様子はありません。
警戒を怠らずに緊張しながら行軍しましたが、福蟻城に到着するまで市原藩士による抵抗もほとんど無く、門前で手形を簡単に確認しただけで入城することができました。
城内に入ると、先に入城していた有備藩の主力部隊は、弓矢が届かない距離を保って対面の城内に陣を張っておりました。

城内に送り込まれた市原藩の忍びの者どもによる徹底抗戦も懸念されましたが、隅の方に篭って両軍の戦況を窺っているだけで介入もせず、寒さに震えながら傍観しておりました。

金属的な音色を発する笛の合図によって合戦が始まると間もなく、有備藩に雇われている伴天連の部隊長・江地味嘘氏の不意打ちを食らい、魂娑藩は一気に不利な情勢に陥りました。

遊撃隊である砂川隊の奮戦によって形勢は逆転しましたが、切り込み隊長・富貴氏が手傷を負って戦列から離脱した途端に、防戦一方になってしまいました。
当方の戦術は部隊間の統一性が乏しく、連携した攻撃が出来ないので敵方に有効な打撃を与えることが出来ません。
ついには、近衛隊の佐藤氏が敵に内通しているかのような失態を犯してしまい、有備藩・矢野氏が魂娑本陣へ突入して総大将に打ちかかる場面もありましたが、小姓・大伍郎がこれを鉄扇で打ち返して事無きを得ました。

戦況は膠着して日も暮れかかってきたため、両軍による協議の結果、一騎打ちにて雌雄を決することになりました。しかし、相打ちが続いて双方互いに一歩も譲らず、なかなか決着が付かずに時間ばかりが過ぎていきました。
結局、魂娑藩・西嶋氏と有備藩・矢野氏との対決では、佐藤氏の加勢もあって矢野氏を討ち取り、ようやく魂娑藩が勝利を収めることができました。

佐藤氏は内通の疑いや失態の汚名を濯ぐことができ、魂娑陣内から発せられた勝ち鬨と共に、手荒い祝福を受けたのです。
城内では蝦夷の郷土を称える歌声と共に大旗がちぎれんばかりに打ち振られ、藩士達は気が狂ったように飛び跳ねておりました。

多くの犠牲を払ったものの、首尾よく福蟻城を確保することができ、これで城受け取りの大役を果たせたと胸を撫で下ろしたのも束の間、捕らえた有備藩の隊士を詰問してみると、実は奥州の仙台藩が、陰で有備藩を操っていたことが判明したのです。

かくなる上は、幕府に対する忠誠を示すためにも、仙台藩をも討伐せねばならなくなりました。しかし、仙台藩の本拠・青葉城は堅固な造作になっている上、金満な伊達家の軍備は我が軍とは比較にならぬほど強力であるらしく、易々と攻略できるとも思えません。止むなく、まずは仙台藩の北方の出城である湯明日田城を攻撃することにしました。

仙台藩に送り込んでいる「くの一」から届いた密書によると、湯明日田城内に潜入して探索した結果、既に魂娑藩が進攻して来ることを予想して、外敵を撃退する仕掛けなどを造り始めているとのことです。

かつて、その城が魂娑藩の出張陣屋だった頃には賤巣田陣屋と呼ばれており、御三家・水戸藩の安虎家を招いて蹴鞠の御前試合が行われたことが懐かしく思い出されますが、軍備を増強した伊達家による襲撃を受けて奪取され、湯明日田城と改名されてしまいました。
ここは青葉城から見て鬼門の方角に当たるため、この城を落とせば仙台藩にとっては精神的な打撃が大きい筈で、何としても攻略せねばなりません。

(まだつづく・・のか)


post by 雁来 萌

00:32

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店じまい

2006年12月13日

雁来練習場も、ついに今シーズンの役目を終え、冬ごもりに入りました。
工事中だった2002年の冬も含めると、5回目の越冬になります。←南極かい?

何もしないで雪が積もるままにしておくと、春になって積雪が沈降する時にネットも一緒に引き摺り下ろされて、ネットが破れたり支柱が傾いたりしてしまいます。
ネットが積雪に取り込まれないように、裾の部分をたぐり上げて、雪からフリーにしておきます。同様に、ゴールのネットも外します。
これらの作業が12月3日に行われたようです。参考記事→育成普及部のブログたまねぎ畑のまんなかで。

そろそろ冬ごもりの作業をするんじゃないかとは思ったんですが、前日はトップチームのホーム最終戦、しかもあのような内容だった関係もあって、朝早く起きる気にもなれず、午後になってから様子を見に行きました。


ネットの下の3分の1(2mほど)をまとめてワイヤーに縛っておきます。
奥はアミューズメントパークのクラブハウス(中央)と屋内競技場(右)


西北西(石狩湾)の方角からは、雪雲が進入してきて雪を降らせ、今は顔を出してる枯草も、やがて全部埋まってしまいます。さえぎる地物が無いので、風も強いです。


市の中心部の方向には、JRタワーも見えます。
右端が手稲山で、見てるだけで寒くなる景色です。


お隣のアミューズメントパークも、ネットをたぐって冬ごもりします。(天然芝ピッチ)


ネットの隙間からアミューズメントパークのクラブハウスを覗く。
冬の間は、ここの左手にある屋内競技場を借りたりしてトレーニングを続けます。



post by 雁来 萌

00:53

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