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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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2014年04月18日
昨年の秋に、小樽市総合博物館で開催された「ロシアが見たアイヌ文化」という展示を観覧してきました。 小樽市総合博物館の旧手宮機関庫(鉄道車両保存館)鉄道記念物で国の重要文化財です。
この展覧会は、ロシア・サンクトペテルブルク市のピョートル大帝記念人類学民族学博物館のコレクションから約140点のアイヌ工芸品を展示するもので、日本初公開の展示だそうです。→参考記事 展示品を見て回ると、ほとんどがポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキによって収集された品物でした。 ピウスツキと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、「ピウスツキの蝋管」です。 蝋管というのは古い時代のレコード(というかテープレコーダー)のような物で、円盤形をしたレコードを円管形に丸めたものだと解釈して下さい。録音する時は円筒を回転させながら振動する針で外側に溝を刻み、再生する時は円筒を回転させながら溝をなぞるピックアップで振動を拾うという原理です。 参考:それらしい器械に組み上げたエジソン蝋管蓄音機
古い時代の蝋管資料は表面にカビが生えたりしてるので、クリーニングした上で(溝をすり減らさないよう非接触式の)レーザー光の反射を検出して音を再生させます。 ピウスツキは樺太(サハリン)へ流刑になったんですが、流刑といっても幽閉されていた訳ではなくて、樺太でアイヌ民族の生活用具を収集したり、北海道に渡ってアイヌのユーカラを録音したりしました。樺太アイヌや千島アイヌは、北海道アイヌと言語や用具が少し違います。 そのアイヌ語録音コレクションが「ピウスツキの蝋管」な訳です。 ピウスツキの功績を称えて、ポーランド政府から白老のアイヌ民族博物館に彼の記念碑が寄贈されたというので、昨年の初冬に見物してきました。 ポロトコタンの敷地内に巨大なアイヌ像が立っていますが、その脇にピウスツキの記念碑がありました。
正直言って目立たないけど、分かる人が分かれば良いのかも。 台座には、ポーランド語(多分)、日本語、アイヌ語、英語で説明が書かれています。
ロゼッタストーンのように解読できそうな・・。 記念碑の除幕式の様子がYou Tubeにあります。 ピウスツキについて詳しく知りたい方は、北海道大学学術成果コレクションの『ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事』あたりを参考にして下さい。18MbのPDF資料もあります。
ついでに登別まで足を伸ばして、2010年に開館した「知里幸恵 銀のしずく記念館」を見学しました。 登別で1903年に生まれた知里幸恵(ちり ゆきえ)は、アイヌのユーカラを日本語に訳した「アイヌ神謡集」を著作したんですが、心臓病のため19歳で夭折しました。 その業績を紹介する施設を建設しようという構想が持ち上がり、記念館を建設するために2002年から募金を集めて、2010年9月に開館できました。→参考彼女が書いた日記やノート、金田一京助からの手紙、関連文書、木像などを展示してありました。 ちょっと分かり難い場所にありますが、記念館の裏手に知里幸恵の生家があったからここに建てたんだと説明してくれた館長さんは、知里幸恵の姪に当たります。 観光シーズじゃないので館内をじっくり観覧した後に、お茶のおもてなしを受けました。 添えられていた紙に書かれた説明を読むと、アイヌ民族が飲む「エント茶」というハーブだそうです。 えっ・・それって、さっき白老で買ったのと同じ物じゃないの?
ポロトコタンの土産物屋で初めて見たから、試しに買ってみたのでした。 「ナギナタコウジュ」という草を乾燥させたお茶で、香りに少し癖がありますが、慣れると良い感じです・・二日酔いや風邪の時に飲むんだとか・・効用を確かめるために酒を飲まなきゃ。 登別市内には、幸恵の弟でアイヌ言語学者である知里真志保の碑もあります。
さらに登別温泉へ向かい、温泉街の手前に立つ「のぼりべつ分化交流館 カント・レラ」を見学しました。
ここは閉校した登別温泉中学校だった建物で、近隣で発掘された遺跡の出土品を展示したり、勾玉作りや火起こしの体験学習が出来る施設です。 何しろ、今年の最終開館日の午後に訪れたもんだから、歓待はされなかったけどゆっくり見学できました。
所変わってここは新千歳空港・国際線の2階にある「アイヌ文化展示コーナー」です。アイヌの民族衣装やタペストリー、テクンペ(手甲)、マタンブシ(鉢巻)、イタ(盆)、マキリ(小刀)などを展示してあります。
空港内のエレベーターの扉にもアイヌ模様があしらわれている他、国内線の4階にはアイヌ工芸品店「アイヌモシリ」もあります。 新千歳空港に降りたら、『ここは先住民族の土地なんだ』と意識する仕組みになっています・・イランカラプテ。
空の玄関ばかりでなく、札幌駅にも今年の2月に観光客を迎える木製モニュメントが設置されました。この木像は、アイヌ民族彫刻の第一人者である藤戸竹喜(ふじと たけき)さんが札幌大学の「ウレシパクラブ」からの依頼で彫り上げた作品で、制作・維持費は全て寄付で賄われます。 像は弓の舞(ク・リムセ)を象っており、1年ほど前に近代美術館で開催された工芸品展「風のかたりべ AINU ART」に展示されていた藤戸さんの彫刻に感銘を受けました。→アイヌ工芸品&難波田龍起 木像の足元に並ぶ巨大な「イクパスイ」(捧酒箆)は、6名の木彫家に依頼した作品です。
紐を結んだ模様を彫るのが得意な貝澤幸司さんの作品など。 一日中、マジマジと眺めていたいなぁ。←ホームレスと勘違いされそう
雁来練習場の横にある分譲地のモデルハウスに空き巣が入り、家具などが盗まれる被害が相次いだそうな(記事)・・私の仕業じゃないですから。
2014年04月12日
昨年の11月に、小樽築港にある「おたるみなと資料館」を見学してきました。 ここは小樽港湾事務所に併設されていて、港湾事務所自体は一昨年の冬を含めて何度か訪れたことがあります。
左が小樽港湾事務所で、右が「おたるみなと資料館」です。おたるみなと資料館は、冬場なせいもあって鍵がかかっていましたが、申し出れば見学できて説明もしてくれました。 小樽港には北防波堤、南防波堤、島防波堤があり、北防波堤は土木遺産に指定されている他、「小樽みなとと防波堤」は北海道遺産に選定されています。 水を飲む時には井戸を掘った人の苦労を考えなければならないし、フェリーに乗る時や魚釣りをする時には、防波堤を作った人の苦労を考えなければならないもんです。
資料館の前に、巨大なコンクリート塊が置かれていました。
港湾工学の父と言われる廣井勇氏(初代の小樽築港事務所長)が、明治30~41年に「斜塊ブロック」という方式で小樽港の北防波堤を建設した時のコンクリートブロックです。 当時はコンクリートという物がどの程度長持ちするか分からなかったので、長期耐用性試験を続けるために沢山の供試体(モルタルブリケット)を作りました。
最終的には6万個作って、100年経った現在は4千個が残っており、今でも定期的に試供体を破断させて強度を測定しています。 これがその抗張力試験機で、
梃子に鉄球の錘を載せて供試体を上下に引っ張り、ちぎれた時の荷重から強度を測るという方式です。 資料館の前には「ケーソン」を滑らせる斜路(後述)があります。
現在は稼動していませんが。 運河公園には廣井勇の銅像があって、小樽港(と防波堤)を見守っています。
後方は旧日本郵船(株)小樽支店の建物(臨時休館中)です。
右奥に3代目の小樽築港事務所長「伊藤長右衛門」の銅像もあります。
この所長は「ケーソン式」で南防波堤などを建設しました。 背後から見ると、はるか右前方に廣井勇の銅像があって、
三歩どころか「30m下がって師の影踏まず」という位置関係になっています。 師の背中を見ながら精進して歩む、という姿勢にも見えます。 伊藤長右衛門の遺骨(の一部)は、延長した北防波堤の先端に埋められているとされているので、案内係の職員に尋ねてみたところ「そう言われております。」との返答でした。「誰も確かめた人はいませんが・・」そりゃぁ、そんな畏れ多いことを出来る職員はいないでしょう。
同じ頃に「苫小牧市美術博物館で開催された、苫小牧開港50周年記念企画展「夢を形に~砂浜と原野にいどんだ時代~」を観覧してきました。→参考博物館の左横に、いかにも後から建て増した感じの美術館が併設されています。 苫小牧港は内陸掘込み式の港で、1951年に工事が始まって1963年に開港しています。 その工事を行うことになった経緯や、掘削作業に使われた道具などが展示されていました。大型の作業機械の実物は無理ですが。 工事の進捗状況などを撮影した航空写真のパネルがたくさんあって、写真測量に使うゴツいカメラも置かれており、そのほとんどは「志方写真工芸社」が提供していました。 苫小牧に住んでいた頃(1967~1970年)、駅前通りに「志方カメラ店」があったことを思い出しました。 企画展のパンフレットに載っていた1962年の苫小牧市内
整然と並んでいるのが王子製紙の社宅です。王子の城下町ですから。 右上に太平洋があり、放課後に砂浜へ行ってサッカーをしてたなぁ。笑 苫小牧には他にも「苫小牧市科学センター」という博物館系の施設があって、こちらは主に宇宙系の展示が多いです。 昭和45年の設立当時は「青少年センター」という名称だったんだけど、「青少年センター」だけならば、青少年の「ゲームセンター」なのか「補導センター」なのか分からないよね。
札幌市内にある某美術館の入口ここが入口だとは思えず、通り過ぎてしまいました。 まるで社員通用口のような素っ気ない造りで、この扉を開けて入るには勇気が要ります。 展示を一通り観覧してからトイレに入ると、引き戸を開けたら自動的に照明が点いた・・だけなら驚かないけど、続いて便座カバーがカパッと開いたのには参ったね。
身障者用を兼ねてるからそういう仕掛けなんだろうか。 壁に取り付けられたステンレス製の操作盤
ボタンが多過ぎて、どれを押せば良いのか分からないよ。笑 日本語を読めない人はどうするんだ? それにしては「音姫」が見当たらない・・まぁ、広い空間に一人だけだから必要は無いだろうけど、「マッサージ」とか「ムーブ」と書かれたボタンを押したら何が起こるのか興味津々、漬物はしんしん。 先日は食事をしながら「しまふく寮通信3」を見ていたら「トイレ掃除」の話。笑 専門分野なだけに食が進みました。
2014年04月06日
旭川U-15の一期生だった内田錬平くんが、旭川実業高校、金沢星稜大学を経て、今年J2のカターレ富山に入団しました。→選手紹介 2004年にコンサ旭川U-15チームが創設されて10年、初めてのプロサッカー選手が誕生しました。 既に昨年の8月から特別指定選手としてカターレ富山に登録されており、登録直後のJ2第32節となる愛媛FC戦に先発でJリーグ初出場を果たしています。そして12月にカターレ富山への入団内定が発表されました。
過去の写真を探したとしても、オフィシャルの選手名簿に載っていた顔写真は面白くないから、2004年秋の新聞記事に載っていたヌード写真を選びました。←をぃオフシーズンの間の体力増強トレーニングとして、プールの中で
シンクロダンベル体操をしています。(内田くんは左手前) 錬平くんの旭川U-15時代はセンターバックが本職で、当時の監督は三浦雅之さんでしたが、失点すると直ぐに交代させられていました。 彼のミスが原因という場面ではなくても(私が見た印象)、とにかく彼が交代させられてしまうのは気の毒ではありましたが、まぁ、センターバックというのは後ろにGKしかいない訳で、そのくらい責任を持ってプレイしろという意味なんでしょうか。 背が高いので、ヘディングでクリアするのが得意だったし、たまにCKからのヘディングシュートで得点したこともありました。 2005年のオフィシャルガイドブックに載っていた錬平くん(左)冬期間の夜間雪中トレーニングの様子です。 詳しくは、コンサドーレ旭川U-15 2期生ブログの記事も参考にして下さい。 コンサ旭川からJリーガー 錬平の記事 内田錬平横断幕 !! 今のところ出場機会は無く、チーム成績も讃岐と最下位争いをするほど低迷しているようです。(今年は他人事のように言える) 考えてみれば、カターレ富山とは6月21日に厚別で対戦する予定で、その日は松山光くんの誕生日ではないですか。光・・光る東芝・・
3月30日、ノルディーアの2014年のメンバーが発表されたので、メンバーを確認した後にチーム紹介のページを見ていたら、同じく旭川U-15の一期生だった箭原駿くんがコーチになっていました。 そしてなんと、(私的に)消息不明だった蛯沢元寮監(兼アカデミーGKコーチ)が、ノルディーアのGKコーチに就任していましたよ。 昨年からコーチになっている服部コーチと合わせて、こちらもコンサOBが多くなってきました。 なんとなく、将来は「コンサドーレレディース」チームになりそうな妄想が・・。 栄養アドバイザーの小松信隆さんは、月刊コンサドーレにジュニアアスリートのレシピシリーズを書いている方ですよね。
背が高いDFのヘディングクリアといえば・・紅白戦の要員だから表舞台には姿を現わさないものだと思っていた外国人DFが、遂にそのベールを脱いで札幌ドームに見参、松本山雅との試合前に彼の告白映像が流されました。本人曰く(ウリさん訳)「私は今までずっと、○○選手のゴーストプレイヤーとして練習してきましたが、このまま世間を欺き続けるのは心苦しく感じ、かなり迷いましたが公の場に出ることにしました。本当は、○○選手の中に入っていたのは私です。申し訳ありません。」 試合では並外れた長身を生かして、相手ボールを跳ね返す時などに文字通り両軍のプレイヤーの頭上にその頭角を現わしました。 ただ不安材料としては、ジャンプした時にドームの天井を突き破ってしまったら補修費用を支払わねばならないことです。
可愛がってくれていた、敬老仲間の?おっちゃんが亡くなってしまいました。 骨は拾ってやるけど、こればっかりは順番通りにいくとは限らないからねぇ、などと悪態を言い合っていたのですが、今年になってから姿を見かけていなかったんです。 次は自分の番だと思っています。(←そんなヤツに限って世に憚るモンダミン)
2014年04月01日
新年度 明けまして おめでとうございます。 今年も・・ 地球の大気中に二酸化炭素が増えることに伴って、地球が温暖化することが問題になっていますが、それってホントに異常なことなのかどうかを地球史的に考えてみます。 今日はウソを書いても構わない日らしいけど、(さほど)大それたウソは書かないつもりです。
地球が温暖化すると言っても、長い目で見れば過去にもそんなことは実際に起こっていた訳です。 比較的最近の話としても氷河期と間氷期とが繰り返していて、現在は間氷期に入り始めた時代に過ぎません。 縄文時代は現代より温暖で海水面が上昇し、海岸線がかなり内陸まで進入していた結果、当時の遺跡は内陸側の台地の麓などに残っています。 氷河期には高緯度地方に大陸氷河が成長して海水面が下がり、氷塊が乗った重みで陸地が沈み込んでいましたが、それらが融解した現在は重石が取り除かれた状態だから、陸地が少しずつ浮き上がってきています。 高緯度地方が氷に覆われていたどころではなくて、地球全体が雪や氷に覆われてしまう「スノーボールアース(Snowball Earth:全球凍結)」と呼ばれる状態になった時期が、少なくとも3回生じたとも考えられています。今回は、地球の大気中に酸素が豊富に含まれることが、果たして尋常なことなのか異常なことなのかを考えてみます。 そして、現在の地球上で生活しているほとんどの動物は、酸素を吸って二酸化炭素を放出している訳ですが、これが尋常なことなのか異常なことなのかも考えてみます。 地球の大気組成を学校で習った時には、窒素が78%、酸素が21%、アルゴンが1%、二酸化炭素が0.03%・・だと覚えていたのに、現在の二酸化炭素濃度は0.04%に増えています。 昔は330ppmだったのが現在は400ppmに近づいていて、四捨五入した最初の桁が3から4に増えたんだけど、1万分の1とはいえ結構な増加でしょう。 他山の石というか他星の空気として、比較のため太陽系に属する他の地球型惑星の大気組成を調べると、二酸化炭素が主成分で95%以上を占めており、残りは窒素が2~3%加わる程度で、酸素はほとんど含まれていません。 従って地球の大気は、非常に特異な組成をしていると言えるから、この時点で既に尋常ではないことが分かります。
こんな組成になった原因を推定するには、地球の誕生以来の歴史を振り返る必要があります。(地球の歴史を見てた訳じゃないけど) 他の惑星と同じように地球の大気だって、太古の昔には二酸化炭素が主成分だったに違いありません。 その頃に発生した初期の生物(無酸素生物)は、二酸化炭素を糧にして生きるエネルギーを得ていたはずで、そのような生物が(細々とながら)次第に繁殖していったと考えられます。 ところがある時代、豊富な二酸化炭素を効率的に消費して、こともあろうに酸素を放出するという新しい生物(要するに植物の祖先)が出現しました。 酸素は非常に活性的な元素で、何とでも反応してしまう厄介な代物です。 金属を腐食させるし、もっと急激な反応だと他の物質を燃やしたり、場合によっては爆発させたりします。 現在の動物は、このような過激な反応によって生じるエネルギーを、活発な運動のために活用している訳ですが、当時のか弱い原始的な生物にとっては、酸素は猛毒な気体だったはずです。 何しろ酸素は消毒薬(例えばオキシドール)として使えるくらい、微生物にとっては致命的なダメージを与えるほど強力な元素ですから。 それほど強力な毒ガスを発生させる新生物は、それまで平和に暮らしていた生物から見れば、自分達に必要な二酸化炭素を大量に浪費する一方で、毒ガスである酸素をどんどん排出する新種の生物(というか化け物)に見えたことでしょう。(見える目が有ったら、の話)
このような植物による「大酸化イベント」に伴って毒ガスを浴びせられた原始的な生物は、どんどん死滅して絶滅するのも時間の問題となりました。 そこで苦し紛れに無酸素生物が考えたことは・・何とか植物に復讐したいものだ・・この恨みをいつの時代にか晴らさなければ・・このまま植物が蔓延ってしまったら地球は破滅してしまう・・たとえ我が身が滅びようとも、植物を道連れにするための方策は無いものか・・ などと考えても名案など浮かぶはずも無く、毒ガスの前に無力な無酸素生物は成す術なく駆逐された末に絶滅してしまいました。 しかし、無酸素生物もただ死滅した訳ではなくて、自らの死骸と共に無形の怨念をも残しました。 その怨念とは、植物に取って代わるべき次の世代の生物が繁殖した頃、植物を絶滅させるような本能的性質が突然に顕在化するような遺伝子を残したのです。 そんな遺伝子を取り込みながら、植物が放出する酸素を利用してエネルギー源とする生物(要するに動物の祖先)が出現し、危険な遺伝子が密かに組み込まれているとも知らずに繁殖してきました。 上には上があるもので、毒ガスを吐き出す化け物が現れたと思ったら、今度はその毒ガスを吸って生きる化け物さえ現れるんだから・・人間はその化け物の末裔な訳ですが・・。
無酸素生物が絶滅してから五劫の擦り切れほどの時間が経過して時代は新生代第四紀完新世となり、一世を風靡した植物を凌駕するほどの動物が地球上に繁殖するに及んで、無酸素生物の恨みを晴らす機会が遂に到来しました。 数多ある動物の中でも頂点に立つ存在だと勘違いしている人間は、危険な遺伝的性質を如何なく発揮して盛んに植物を切り倒しては燃やし、無酸素生物の好物だった二酸化炭素を増やしていきます。 地表に繁茂している植物を焼き尽くすだけでは満足できず、固体や液体に姿を変えた植物の死骸までも、地下からあばき出して燃やし続けます。 植物が放出した毒ガスである酸素を利用して植物自体を葬り去り、その結果として二酸化炭素も増やそうとすることは、一石三鳥の名案と言わざるを得ません。
そのような行動が無酸素生物の怨念を引き継いだ先天的な性質だとは知る由もないし、やがては自分自身が窮地に追い込まれる事態を惹起することにも考えが及ばず、祟り神となった人間は無節操に植物を殺戮し続けています。 人間が花を見て摘みたくなるのも、焚き木が燃える炎を見て心が安らぐのも、全ては無酸素生物の怨念に支配されている潜在的な心理現象なのでしょう。 紀伊半島の神宮で大規模な社殿を定期的に建て替えるのは、大量の大木を合理的に伐採するための方便だとは誰も気付いていません。 中部地方の神社では、山から切り出した大木に馬乗りになって坂から落とす祭まで行われて民衆が大喝采する・・これは植物に対する怨恨を昇華させるための集団リンチに見えます。 かつて学校で行われていた棒倒し競争とか、クリスマスに木を切ってきて死に装束を飾り付けるとか、桜の樹の下でジンギスカンを焼いて煙で燻すとか、・・傍から見れば不合理としか思えない行為も、植物を虐待したい衝動に駆られた無意識な所業であると納得できます。
人間が八面六脾の活躍をしたお蔭で植物がどんどん死滅するのに伴って、酸素の生産量が次第に減少すると共に、二酸化炭素の含有量が急速に増加してきます。 現在は既にその兆候が現れ始めている、と解釈すべきなのかも知れません。 やがて人間のせいで植物が絶滅し、酸素を吸えなくなった動物も窒息して同じ運命を辿った暁に、地球の大気が再び二酸化炭素で満たされると、かつて地球上に遍く広がっていた楽園が蘇るのです。カムバック・カーボン その状態を無酸素生物のパラダイスと見るか、破滅的な復讐の果てに残された焼け野原と見るかは重要ではなく、そこからまた無酸素生物が発生し、次いで植物(のような生物)が発生し、続いて動物(のような生物)が発生して再び焼け野原を作る、という同じ過程を何度も繰り返す可能性もあり得ます。
人間はただ、そんな輪廻転生のストーリーの中で、一つの端役(というか、迷惑な役の名脇役)を演じているだけに過ぎない・・のかも知れません。
2014年03月28日
今回のアメダス調査旅行も、4日目の午後となりました。 予定していた21ヶ所のうち、残るは置戸町の「境野」と「置戸常元」、北見市の「留辺蘂」だけになり、時間的には順調に進んでいますが・・。
アメダス探訪「境野」の巻(2013/10/14) 生田原からちょっとした峠を越えて留辺蘂に下り、さらにちょっとした丘を越えて境野に着きました。 地図上では大きな道路から少し離れてくねくねした道の近くにあるらしいですが、目印になるような建物はありません。 頼るとすれば端野町と北見市との境界や、名前が分かってる橋くらいだけど、その橋も車が無事に渡れるのか?と思うほどの簡素な橋で、ランドマークとしては役に立ちませんでした。 少し手間取ったけど、置戸町立境野小学校の隣にありました。いかにも教員住宅という佇まいです。 敷地の全景:向こうに校舎が見えます。
測器の配置:自然の植生の延長という感じ
創立百周年(平成19年)の記念碑が立っており、
左側に、境野小学校七十周年と境野中学校三十周年の記念碑も立っていました。(昭和52年の建立で、この年に中学校が閉校しました。) 小学校は平成21年に閉校したから、102年の歴史という勘定になります。 校歌の一番は「青い山垣 匂う土」で始まるからいいんだけど、三番なんて「冴える北風 凍る路 吹雪は狂う 冬の夜も」ですから・・今冬は暴風雪が多かったかな。 校舎の全景:中央部だけ2階建てという趣きのある校舎です。
境野駅の跡地が、バスターミナルというか集会所のようになっていました。
境野駅、永遠に・・網走本線、池北線、ふるさと銀河線の駅として、95年の歴史に幕を閉じたそうです。(平成18年)
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アメダス探訪「置戸常元」の巻(2013/10/14) 置戸常元は最近(2006年)から観測を始めたばかりで、近くの「北見中山」から移転してきた観測所です。 地図上では、鹿の子温泉か、向かいの神社か、という選択肢が考えられましたが、電源や電話線の使用を考えたら温泉しか考えられない状況です。しかし温泉は廃業していて、この橋も通行禁止でした。 無理して橋を渡ったら、常呂川が三途の川になりそうだし。 この場所が違うのならば神社に向かおうとしたけれど、神社にある可能性は少ないと考えていたので、入口をマジメに調べておかなかったから入口が見つかりません。 アメダスは諦めて上流へ進み、「鹿ノ子ダム」が作った「おけと湖」を見物しました。
このダムは「鹿の子ダム」と書かれる場合も多いけど、正式には「鹿ノ子ダム」なんだそうです。 周辺はちょうど紅葉の時期で、紅葉狩りに良いはずなのに人影も無く・・
帰宅してから調べ直したら、某サイトにアメダスの雨量計が写ってる写真がありました。今度行ったら簡単に見つかるはずです。
アメダス探訪「留辺蘂」の巻(2013/10/14) 「ルベシベ」とは「峠を下りて平地に出たところ」という意味らしいです。 道の駅があって賑わう地区から少し石北峠側に登り、大和小学校の裏にありました。校庭(だった場所)から見た観測サイト:ここも教員住宅
後ろは牧場なので、牛が歩いています。
峠に近いけど北見側だから、積雪は60cmくらいしか積もりません。
牛が寝そべっています・・食事して直ぐに寝たんでしょう。 風向は北東くらい・・ならば峠へ向かって吹き上げる風です。
大和小学校の校舎の全景:比較的新しい感じ
手前に立つ校門には小学校と中学校の名前が書かれており、
その横には大和小中学校の閉校記念碑が立っていました。
平成23年(って今から3年前)に閉校したばかりだそうです。 あらまぁー、看板まで打ち捨てられて・・
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北見地方で2ヶ所が未調査のまま残ってしまったのは思わぬ誤算でしたが、今日の予定箇所を全て回り終えたこともあり、少し寄り道して帰ります。 近くにある旧武華駅逓(留辺蘂町開拓資料館)の建物標準型なので、最近訪れた「上藻別駅逓所」の造りにそっくりです。 武華の読みは「むか」で、ここは何度も寄っているし写真も撮っていますが、改めてじっくり調査します。
横から見てもそっくり
1階の台所と勝手口と応接室、2階は客室でしょう。 裏に回ると、土台は自然石を使っていました。
勝手口から内部を覗いてみると、資料館として当時の道具などを展示してありました。
まるで当時から時が止まっていたかのような光景です・・時計が止まっていたし。
これで(時間も距離も)長かった調査旅行が終わり、北見地方に2ヶ所を残してしまったけど帰宅します。 道内(本土)の未調査地点は6ヶ所となり、離島の6ヶ所を加えると12ヶ所が残りますが、昨年中にこの内2ヶ所の調査が済んだので、今年への積み残しは10ヶ所となりました。 今年は離島をどの程度片付けられるかなぁ・・。 昨年は、夏タイヤだけで1万km以上走ってしまいました。 数年前から帯広まで3回も往復する用事が続いてるし、北海道の南西端・北端・東端まで走り回った上に、1回だけの予定だった函館まで行く用事が2回も発生してしまったし。 その結果、今年の1月には走行距離が10万kmに達しました。![]()
マイカーは車令11年になるし不具合も生じているので、今年の車検を取りたいとは思わないけれど、気に入った車種が無いんですよ。 スポンサー様のディーラーから乗り換える訳にもいかないしで、悩ましい限りです。 バッテリーも突然へたバッテリーになってしまい、再起を試みたけど救済できず、タクシーで最寄りのホ○マッ○まで買いに行きました。 あと3ヶ月だけ頑張ってくれれば良かったのに・・。
2014年03月24日
うちのチームでは、経費節減のためアウェイに帯同する選手の数を減らしたこともあるとか。 ・・ならばベンチ入りメンバーの空いた枠に、松山光くんを登録することは出来ないんだろうか? 選手証が無いんだから無理だろうし出場するはずも無いんだけど、毎回もらう「VOCS」の選手データには光くんの「出場数/得点数/警告数」の欄まであるから、これをそのまま「ベンチ入り数/被弾数/撤去数」と読み替えて・・
現実的な方法としては、ドームで見たカキワリにビブスを着せてベンチの横に立てておくとか。 ベンチ内に千羽鶴を吊るしても構わないんだから、カキワリが立ってても構わないだろ? ビンボーチームの体裁を取り繕えるし・・背が高いカキワリは持ち運びに不便だと言うならば折り畳み式にするとか・・いつか見たミシュラン人形のような風船をベンチに座らせる方法もあるだろうし・・ こんな人形が立ってるくらいだから。
光くんの誕生日は6月21日なんですか。 試合日程を見ると・・ちょうどホームゲームがあるから、その日こそを「松山光デイ」に設定するんだろうなぁ。 いっそ、ススキノから札幌ドームまでの道を「松山光通り」と名付けてしまえば?
年度末の多忙さで頭が疲れてる(というかハイになってる)と、突拍子もない
名案妄想が浮かぶものですな。 ・・そういえば、まだハチマキが届いてないなぁ・・と思っていたら「認定書」(メンバーズカード)が届いて、ハチマキは追加発注中につき暫く待てとのこと。仕方が無いのでマタンブシを買いました。
試合前に寄ったチ・カ・ホ「北から暮しの工芸祭」で入手した作品輪切りにした白樺の木口を焦がしてシマフクロウを描いてあります。 ひょっとして、ホスンの身内なのかな。
みんな16番で、黄色いGKユニがもう1人並んでいました。 私が座ってるエリアって、いつも紙コップやゴミ(や忘れ物)が置き去りにされてて回収するのが大変なんだけど、先日は1個も残っていなかったのが不思議・・一見さんが少なかった(から入場者数も少なかった)ということか。 地下鉄の福住駅にて:いのちの問題となる危険な兆候はありませんか?
先日寄った、札幌ドーム近くの某カフェにて
たったこれだけの表示しか無いのに間違える人はいないから、シンプルイズベスト。 こちらは新千歳空港国際線のトイレ
一目瞭然、傍目八目 女子トイレは多分、同じデザインで色違いではないかと。←見てきたようなウソかも
2014年03月20日
3月1日(土)・2日(日)に野幌総合運動公園の総合体育館で、全道フットサル選手権2014(U-14の部)が開催されました。→結果(PDF) 道内各地区代表の24チームを8グループに分けて1次ラウンドのリーグ戦を行い、各グループ1位のチームで決勝トーナメントを行います。 そして各グループ2・3位になったチームは、フェニックストーナメントを行います。 大会には、コンサ札幌U-15とコンサ旭川U-15が参加しています。
1日目(2014/3/1) 1次ラウンド第1戦 泊SC(小樽地区・青) vs コンサ札幌(赤黒)前半に鹿内が右から得点します。(1-0)
後半に菅野の左クロスを大屋が押し込み(2-0)、
佐藤からのパスを大古場が押し込んで(3-0)
クリアボールを奪われて失点したものの(3-1)、
追加点を上げて突き放しました。(4-1) 北見市立東陵中(網走地区・青) vs コンサ旭川(赤黒)
前半に先制されましたが、佐々木が打ち込んで同点とし(1-1)、後半は得失点なく引き分けに終わりました。 食事タイムとなりましたが、持参した軽食で済ませました。 館内のレンガの壁に、レストラン(未調査)のメニューをPRするポスターが貼ってありました。
えべつB級グルメ「EBE-1 グランプリ」の金賞に輝いた「えべつ レンガライス」を「omu de レンガライス」と名付けて提供しているようで、オムライスの中身のライスがレンガの形に成形されている、という趣向かと。 ここのトイレって、1階も2階も表示が目立たなくて所在地が分かり難いです。
午後の1次ラウンド第2戦・・の前に作戦会議
ボードで説明する相川コーチと関監督 左上は、コンサU-18→道都大→クラブフィールズ→コンサ札幌U-15とカムバックした中村拓朗コーチです。 コンサ札幌(赤黒) vs 伊達市立伊達中(室蘭地区・黄)
前半に藤村が2得点、山本が追加点を上げた後に失点し、(3-1)で折り返します。 後半のFKに佐藤がヒールを引っ掛けて追加点を上げ(4-1)、
失点した後に加藤が打ち込んで突き放し(5-2)、GK西も攻撃に参加します。
終盤に失点したものの(5-3)で勝ちました。 伊達中の横断幕
今年コンサU-18に入団した鈴木理久くんは、伊達少年団→伊達中という経歴で、岩内町長杯(U-10)で対戦しています。カブスリーグではどうだったか・・旭川U-15は対戦したことがありますが。 コンサ旭川の第2戦は遅い時間帯だったので見ませんでした。 結果はSC釧路に(1-2)で敗れてグループ2位となり、当日の夜に行われたフェニックストーナメントの1回戦で札内東中(十勝地区)に(3-3)からPK(3-1)で勝って、翌日の2回戦に進みました。
2日目(2014/3/2) フェニックストーナメント2回戦 帯広FC(十勝地区・白) vs コンサ旭川(赤黒) 前半は得失点なく、後半に大西が打ち込んで先制しましたが(1-0)、終盤に立て続けに失点して敗退しました。(1-2)
決勝トーナメント1回戦 コンサ札幌(赤黒) vs LIV FC(札幌地区・白)
前半に失点しましたが、
大屋の右クロスを山本が押し込んで同点に追い付きました。(1-1)
後半にも失点しましたが、大屋の左クロスを藤村(10)が押し込んで何とか同点で終わりました。(2-2)
PK戦となり、LIVは3人目が外してコンサは4人目の宮崎まで全員が得点、
LIVの4人目が外して勝ちました。(PK4-2) 決勝トーナメント準決勝 コンサ札幌(赤黒) vs 枝幸町立枝幸中(宗谷地区・白)
準決勝からはベンチメンバー全員が整列します。 前半の左からの攻撃で勢い余って壁まで届く
この後に相手の左から狭いシュート打たれて失点しました。(0-1) 後半に佐藤のシュートがバーに当たる
この後、さらに失点して点差が広がります。(0-2) 続いてFKを与えたピンチは凌ぎ、
GK西がここまで上がってシュートを打ったりするものの活かせず、
焦っているせいか決定力が無くて敗退しました。(0-2) 決勝は、札幌地区のSSSが(2-1)で枝幸中に勝って優勝しました。 会場内で見かけたOB:もんじゃ(阿部哲也)氏
現在は苫小牧の「WINGS」というチームの、U-15監督・U-12総監督を務めているようです。
なお、2月22日・23日に帯広市などで行われた全道フットサル選手権(U-12)は、コンサU-12が優勝しています。→結果(PDF) 2月16日に準決勝・決勝が行われた札幌フットサル(少年団)は、6年生が優勝したものの、5年生と4年生は全市大会で途中敗退しました。
2014年03月14日
常呂アメダスの次は、佐呂間へと向かいます。 北見市仁頃のハッカ御殿に立ち寄った都合上、山間部の仁頃トンネルと新佐呂間トンネルを経由する国道333号を通って佐呂間町へ抜けることになりました。 昔は、仁頃トンネルの次にサロマトンネルを通ってルクシ峠を越えるルートでしたが、2001年にルクシ峠で土砂崩落が起こって2名が死亡しています。 峠付近には同様な地質が残っているため旧ルートを放棄し、仁頃トンネルの先に別の「新佐呂間トンネル」を掘削するルートに変更されました。この新しいトンネルは全長4,110mで、当時は道内の国道で2番目の長さになる長大トンネルでした。(現在では黄金、穂別、野塚の各トンネルに次いで第4位) 新佐呂間トンネルの工事は2004年に着工して2007年に貫通する予定で、両側から掘削を進めて中央部の1,000mほどを残していた2006年11月7日、オホーツク海側の地域としては珍しい竜巻が佐呂間町若佐地区に襲来しました。 トンネルの工事事務所や宿舎となっていた2階建てのプレハブが跡形も無く崩壊し、工事関係者9名が死亡しました。 トラックが横転したり車が空中を飛んだほどの激しさで、竜巻の強さを示すランクである「藤田スケール」は「F3」と判定されました。→気象庁の竜巻災害データベース、札幌管区気象台の調査報告 死者の他にも重症6名、軽傷25名、住宅被害25棟となり、被害のほとんどが若佐地区に集中しています。飛散物は15km以上先まで運ばれて落下していました。(その先はサロマ湖だから落下地点が分からない) たまたま他へ移転したばかりだった旧若佐小学校跡の校舎に工事事務所・宿舎が間借りし、空き家となっていた教員住宅で被災住民が避難生活を送りました。
これがまず「仁頃トンネル」の入口(というか出口)続いてちょうど5年前の3月14日に開通した「新佐呂間トンネル」の入口(同上)
トンネルの右側に旧道が伸びています。
アメダス探訪「佐呂間」の巻(2013/10/14) ここが街の復旧とトンネル工事の再開に役立った、旧若佐小学校です。学校の前には大木があり、この辺は同じ町内でも竜巻の被害が少なかったようです。
竜巻が起こる年の春に若佐中学校が閉校し、夏にはその跡地へ小学校が移転していました。 大樹の陰には開校百年の記念碑などが立っていました。
この左側に教員住宅も残っていました。 工事事務所となった校舎の玄関と校章
その後、校庭に新事務所・宿舎を建ててトンネル工事は1ヶ月後に再開され、予定より2ヶ月ほど遅れた2007年秋に貫通し、遺族などが参加して慰霊式や貫通式が行われました。 アメダスはこんな感じで立っているはずでしたが、
グラウンドは災害の廃棄物集積所として使われた後、現在はメガソーラー発電所のパネルが広がっています。
アメダスは太陽光パネルの右寄りの奥に見つかるつもりが結局は発見できず、アメダス佐呂間は翌年への積み残しとなりました。 竜巻は若佐地区の中心部を通過した後、奥の山麓に立つ若佐神社の方へ向かったそうです。
この日は折りしも神社の祭礼日、屋根が飛ばされたコミュニティーセンターの駐車場(左)も賑わっていました。 毎年11月7日には慰霊式が行われており、日本風工学会主催による「強風災害フォーラム」もここで開催されたそうです。 昨年12月付けで気象庁から発表された位置データには変更されたアメダス佐呂間の位置が載っているし、佐呂間町の街中を2時間ほど捜し回って土地勘もできたので、次回は簡単に見つかるだろうと思います。
アメダス探訪「生田原」の巻(2013/10/14) 佐呂間でかなり時間を費やしてしまい、昼近くになってしまったけど気を取り直して先へ進み、オモチャの町・生田原へ着きました。 地図上では、街外れに造成した運動公園のような場所にあるらしく、途中の道はくねくねしてたけど無事に辿り着けました。奥は野球場のようです。 田舎町の郊外だけあって、障害物などもありません。
道路の向かいに並んでるのは公務員住宅のような雰囲気です。
風向計は南を指していました。
さて次は、置戸町のアメダス「境野」へ向かいます。
2014年03月08日
みんなで自分たちのクラブを作ろう! コンサドーレ札幌『松山 光プロジェクト』・・「みなつくプロジェクト」か。 今シーズンは、U-18から内山裕貴くんと前寛之くんの2名がトップチームに昇格しました。 最近入手した今年のオフィシャルガイドブックには、二人で先輩のゴメスをいぢくってる様子が存分に窺えます。 その対談の前に載ってる、ヒロ・拓郎・ミツの対談も面白いけど、うっち・ゴメス・ヒロくんの対談は退屈しない内容でした。
その二人の若かりし?時代の写真を探してきました。これは、2007年6月に滝川の河川敷サッカー場で行われた、「全日本少年(U-12)サッカー大会」の北海道予選で優勝した時の記念写真です。 前列中央のトロフィーの後ろが岡田洋平くんで、その右で賞状を立ててるのが内山くん、左隣のカップの後ろが前くんです。 コンサU-18まで進んだ選手では、鈴木くん・輪島くん・平川くん・井端くんなども見えます。 中央部を拡大した図
さて、オフィシャルガイドブックの58ページに載ってる寛之くんは、他の選手と違ってわざとらしいポーズを取っていませんが、奇しくもこれが60ページの松山光のポーズに最も似てるように見えます。 さらにU-15チームの名簿を見ていたら、コンサU-18出身(3期生)でクラブフィールズのコーチを務めていた中村拓朗くんが、コンサ札幌U-15のコーチになったようです。 先週末に行われた「全道フットサルU-14」の大会でも見かけました。 クラブフィールズU-15からコンサU-18に入団した濱くんの
お目付け役介添え役なのか・・という冗談はさておき、これも一種のサーモンでしょう。 アカデミーのスタッフも着々と道産子率が高まっていますが、トップチームも含めると今年はタクローが3人になりました。 ずいぶん前に、村田コーチが東京ヴェルディへ移籍する話が発表されましたが、こういうことだったんですね。 しかし、今年のアカデミーのスタッフの全容はまだ発表されていなくて、例年より発表時期が遅れています。
ドールズのメンバーも新しくなって、もうじき引退かも知れないとは思っていたものの、そのメンバーが実際にいなくなると寂しいですな。 代わりに入ったメンバーの「ふわふわsmile」とは言い得て妙で、笑ってしまいました。 今年の新人はドールズOGの誰かに似てるなぁ・・と思いつつ、古新聞を片付けてる時に出てきた2003年の新聞記事を眺めてたら、ディレクターの上田(旧姓・渡部)藍さんがこの年のキャプテンだったんですね。結婚して子供を持ってるOGもいるそうだから、そろそろドールズOGの二世がドールズになってもおかしくないほど歴史が流れたのだと・・。 「親子二代でドールズですっ!」って言えたら、すごい事だよね。
2014年03月03日
アメダス小清水から常呂を経て佐呂間へ向かう途中に、あちこちで少し寄り道しました。
網走市内の港に近い「ポンモイ」地区に、柱状節理が明瞭に見える崖があります。崖の写真を撮影するため向かいの空地に車を停めると、妙なモニュメントがありました。
右手前に横たわっているのが(多分、崖から剥れて落ちた)柱状の岩石です。上の写真で崖の中ほどに黒っぽい(風化していない)部分が見えるので、そこから最近落ちてきたのではないかと。 ここは、明治30~31年に現・北見市に入植した野付牛屯田兵が上陸した地だそうです。
裏面には、入植者594名の名簿も記されていました。
北見市と屯田兵といえば、信善光寺の屯田兵人形が思い浮かびます。 隣の端野町には歴史民俗資料館があって、屯田兵屋が保存されています。
次いで、能取湖の南岸にある卯原内サンゴ草群生地に寄りました。サンゴ草の正しい植物名は「アッケシソウ」で、丸太の看板には「日本一サンゴ草群生地」と記されていますが、赤い珊瑚の絨毯のように群生してるどころか、ぽやぽやとしか生えていません。 駐車場に立ってた説明板などによると、日本最大級というサンゴ草の色付き不良を改善しようとして、観光協会が土砂を搬入したのが原因で群生地が大幅に縮小してしまったとか・・ずいぶんとお粗末な話です。
群生地回復に向けて原因調査と対策を進めていると言っても、そんなことは土砂を搬入する前に済ませるべきこと。 木道から見る干潟はこの程度の惨状で、これでも綺麗に色着いている部分を探した結果です。
近年になって、流氷がサロマ湖へ流入しないように、オイルフェンスのような仕切りを湖口に張り巡らしたらしいです。 しかし流氷というのは底面にプランクトンが沢山生育していて、それらの養分を海岸へ運ぶ役目を果たしているとも言えるのに、それを拒否してしまったら養分の供給が無くなると思うんですけど・・。 オホーツク海へは、網走地方の河川や大陸のアムール川などから陸上の養分が供給されているので、海を育てるためには森を育てなければなりません。 「海は海、川は川、森は森」という単独に閉じた回路ではなく巧みに連鎖してるのに、その連鎖を断ち切ってしまったらどうなるか・・よく調べないうちに軽率な改変を加えてはイケナイはず。
常呂から佐呂間へ向かうのに遠回りして、北見市の仁頃地区に寄ります。 ここには「仁頃はっか公園」(北見名水公園)という長閑な田園公園があって、ハッカの町・北見らしく「ハッカ御殿」と呼ばれる屋敷が修復・移転されています。 ハッカ商で財を成した五十嵐弥一氏が昭和12年に建てた自宅の建物で、
世界シェアの7割を占めていたという北見のハッカも今は昔、化学合成品に取って代わられました。 こちらは脇玄関と勝手口だろうと・・出入口が3つも。
屋敷を修復する様子がパネル展示されていました。
どうせだから屋敷の隅々まで見学します。
なぜに婦人用だけ使用禁止なのか。 仕方がないから殿方用の内部を激写
屋敷の周囲には物置や納屋なども保存されています。
その中に展示してあったハッカの蒸留装置
桶の中にハッカの草を入れて蒸し、右側の冷却塔で液体に凝縮させて甕の中に溜めます。 溜まった「ハッカ油」を精製して結晶として抽出するという工程で・・一字違いだから余市のウヰスキー工場を思い出します。 公園の周囲は「北見田園空間博物館」として整備され、
左奥の建物は北見田園空間情報センター「にっころ」だそうです。 さて次は、今回のアメダス調査予定も残り5ヶ所となった、佐呂間と生田原、境野、置戸常元、留辺蘂を巡回して帰ります・・ロスタイムに思わぬどんでん返しが待っていることはママある。
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作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。
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