コンサドーレ札幌サポーターズブログ

スポンサーリンク

2010年11月06日

2003年アウエイ観戦の記憶

時節柄とはいえ、いろいろな話が出てくる。
私自身はリアルタイムで接していないのだが、去就絡みの話についてはどうにも釈然としないものが付きまとっているのが実態で、現状で論評する気にもならない。

ただ公式ではなくメディア先行という、今年の状態については何らかの意図を疑ったりもするのだけれども、果たして実態はどうなのか。

以前からあれこれと考え巡っている中で、間違いなく言わなければならないのは、チームの方向性についてHFCはきちんとした形で説明しないと、考えている以上に問題を残すのではないのか、ということでもあったりするのだな。

このことはまた改めて書きたい気分だけれども、いつまとめられるかは定かではない。


予定ネタとして用意した今日のタイトルではある。

2003年はアウエイ参戦3年目、J2では初めての年であった。
何試合か見ているのではあるが、何かまとめた方がいい感じになったのでそうする。


1回目は6/6の等々力。

何故か金曜の試合で。入場料が安かった記憶もあり、なぜかメインアウエイ側ベンチ裏あたりで見ていた。
周囲に背広姿の人の様子を見れば、元々東芝サポだったような人もいて。まあ「元川崎ダービー」みたいなものだよなあ、との感慨もあって。

この試合の特徴は、曽田のバックパスを奪われてゴールされたのが決勝点だったという実に寂しいものであった。

現地で貰ったマッチディプログラムが今でも手元にある。
B4番1枚もので。それも毎試合出すような形でもなく、その後等々力には道外の観戦回数としては最多を記録することになるが、現在の有料で立派なものとは比べるまでもなく質素なものであった。
そこのメイン記事には監督が第一クールを振り返るものがあって。有望選手の紹介にはルーキーイヤーで今や日本代表の中村憲剛の紹介もあり(当時は背番号26だった)、今になっては貴重なものかもしれない。
ちなみに当時のフロンターレの監督は、改めるまでもなく石崎氏であるが、写真紹介の名前表示が「石崎監督選手」となっているのが、また何ともでもある。


2回目は小瀬。

先制されて、堀井が古巣に存在を示す同点ゴールで引き分けたのだが、正直試合全体の印象は薄い。花火が見えたのが記憶にあるくらい。

それよりも、行きか帰りか忘れたが、会場までの呉越同舟常態のシャトルバスの中で甲府サポが「いつかはJ1の舞台で云々」ということを言っていたのが印象的で。
当時はこちらはJ1から来た状態、あちらは到底J1を望めるような成績ではない状態であったものだから、正直夢物語だと思っていたのだが、現在は主客転倒したといってもいいだろう。
このことを思い出すとき、果たして我々は何をしているのか、反省を迫られる気分に至る。

このときは翌日にサテライトがあって、埼スタ隣まで向いていた。試合内容としては、新居が2得点したものの追いつかれての引き分けであったのだが、それよりも印象深いことがあって。
当時大森が負傷中で、このゲームでテスト出場したのだが、途中負傷交替したのだな。今にして思えば、このときの無理が選手生命を縮めたような気がしてならないのだが。


3回目は横浜国際(現、日産スタ)。

最終戦だったがいいところがなく0-2で完封負け。この試合の記憶では、THE ALFEEが歌を歌った、というのもあるのだが、コンサOBで引退していた後藤がシーズン途中で選手登録していたものの、今度こそ本当の引退試合となって途中出場したことである。
で試合後のコメントで、コンサの行く末を心配するようなものがあったのだが、結局それは現時点で当たっている、ということになるのか。

ちなみに翌日は東京ドームに出向いていた。すでに翌年から札幌にフランチャイズ移転が決定している公の東京最後のファン感で。
確か他の用事もあったので、最初と最後の方だけ見たのかな。勿論現在の札幌での異常なものと違うから、入場に制限がなくて。
抽選でレトルトカレーが当たって、前日の横浜ではスポンサー提供の福島の米が先着で貰えていたから、確かカレーライスができる旅、という形でどこかで書いたかもしれない。


と今気づいたのだが、この年行った3試合(サテライトを入れたら4試合)の相手はすべてその後J1経験することになるのだな。

で比較してみるに、我がチームが一番惨めな気分になってしまうのが、極めて残念、という想定外の感想で今朝はおしまい。

posted by akira37 |05:25 | 雑記 | コメント(0) | トラックバック(0)