2014年10月25日
一緒に作り上げる
昨夜はkitaraで札響の定期を聴いていた。 演目は11年ぶりのマーラーの交響曲第9番ということで。 演奏時間約1時間半。休憩は勿論なく、聴く立場としてもそれなりの覚悟はいる。 別段戦いをするのではないが、曲調からしても気楽に聴けるものでもないから、向き合う姿勢は半端ないことにもなるのだな。 この曲の最後は細微弱音になる。 交響曲で最後が静かに終わるといえば、チャイコフスキーの第6番「悲愴」が有名なわけだが、マーラーのこの曲はそれをさらに上回ることになる。 並のホールでは捉えにくいのであるが、さすがkitaraにあっては、私の指定席である、ホール最後部であってもしっかり把握できるのだな。
マーラーは今の私の年齢よりも若くして亡くなっているから、今の自分と比較すれば、果たしてこんなに真剣に考えているのかを思うのだな。 こと第4楽章ともなると、人生の回顧とも思われるようなものが溢れるから、何とも杜撰な自分のあり方が問われるようでもあるのだな。 でぐったりして帰宅となるわけだ。
ここでタイトルとそぐわない、と思われる節があるのだろうが、言いたいのはこうなのである。 一人でCDを聴く分には、どんな格好でスタイルであったとしても自由なのであるが、ことコンサート会場にあっては、そういうわけにいかない。 この様に最後が微弱音で終わる曲は、少しでも拍手がフライングしようものなら、台無しになってしまうからね。 何年か前であったが、札響の東京公演を聴く機会があったのだが、その時の演目も最後が静かに終わる曲であった。 本来であれば、余韻も大事にしたいところであるのだが、終わるや否やの拍手があって、気分を害したことがある。 まあこれなど、東京だから聴衆が素晴らしいとは言えなことの証左にもなるのであるが、コンサートを作り上げるのは、演奏者だけではないことの事例にもなるのだな。
と更に話は脱線していくのであるが、これは試合観戦でも言えることなのだろうと。 一人一人の参加姿勢が、結局は試合においても効果的になるかどうかであって。 ネガティブな反応というのは、まず良い結果に至らない。 明日は久しぶりに民放でも放送があるけれども、是非現地で参加を。 試合を作るのは、選手・スタッフだけではない。 我々も参加して作り上げるものだと。 それが今回のまとめ。
ついでにkitaraについてのインフォメーションを。 来年は2-6月の約3か月間、改修のため閉館となる。 で今は10月であるから、札響の方は来年度の主催コンサートスケジュールが出てくるのであるが、閉館中は定期演奏会はやらない。 つまり3-5月はないという変則スタイル。 6-3月に10回、8月は休みで10月が2回とのことで。 指揮者の面子を見れば、10回中8回が外国人なものだから、まるでN響並だな、と反応したことではありました。
posted by akira37 |05:39 | 雑記 | コメント(0) | トラックバック(0)
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