コンサドーレ札幌サポーターズブログ

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2009年10月27日

「感動」について考える

昨今、また氾濫している気がするのは私だけだろうか。

随分と「安く」なってしまったなあ、というのが大きいのだろうが、その起源を私なりに遡ってみれば、元首相が大相撲の表彰で「感動した!」と言った部分に行き着く気がする(あくまでも個人的見解である)。

その後かどうかハッキリしないけど「感動をありがとう」という妙な表現が普通に聞かれるようになってきて、最近ではS局が「感動だいすき」なる、どう見ても不可解なことを平気でやるに至っている。


「感動をありがとう」に対しては、かつてから感動にお礼を言うのはおかしい、と何度も繰り返してきたのではあるが、そうなる部分を冷静に考えてみると、ことスポーツに関してみれば、そうなる素地はあるんだなあ、とも感じるわけで。

かつて「ファンとサポーター」の違いについて書いたことがあったのだが、その差を別な面で見ると、ファンというのは基本的にこういう存在だとも言える。

「無責任で受動的な存在」

サポーターについては、また改めて書いてみたいと考えているのだが、基本的にはファンとは逆の存在だと言い切ってもいいだろうから、ファン主体の競技では、「感動をありがとう」に至る部分には違和感がないのかもしれない。

そう、観戦に対する姿勢は基本的に受身であり、サービスは受けるものであるからにして、感動も与えられるものになってしまうのだろう。

私は天邪鬼だから、そうそう何度も簡単に感動していては、疲れてしまうだろうと考えてしまうし、余程のことでもない限りそこに至ることはない。

何もそんなにむきになって力むこともないのだろうけれども、そこかしこに見られる「感動」の氾濫は、安っぽくて貧しくさえも感じてしまうのは、過ぎたることなのでしょうか。

posted by akira37 |05:10 | その他 | コメント(1) | トラックバック(0)

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この記事に対するコメント一覧
Re:「感動」について考える

日ハムのリーグ優勝に「おめでとう」と言うファンを見て、
何か違和感を感じていたんです。
コンサがJ2優勝した時には「おめでとう」というより
「やったー!」という気持ちになったので。
その違和感はこういうことだったのか~と、
akira37さんのエントリーを読んで思いました。

posted by ひとみ | 2009-10-27 13:16

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