2015年04月07日
ハーモニーベイの夜明け(映画)
どうも、邦題って、視聴者に媚びているというか、見るのどうしようかと迷ってしまうようなものがよくありますが、原題は「instinct(本能)」。 こっちのほうがズバッと言えてます。 アンソニー・ホプキンズが重要な脇を務めています。 殺人で監獄に入っている彼と、その犯罪心理をとこうとする若い研究者(=主人公)の交流から、彼が罪を犯した経緯を明かしていくという映画です。 と書くと、彼の代表作の一つ、「羊たちの沈黙」を思い出す方も多いかも。 残念ながら、「羊たちの・・」ほどの身の凍るような凄みはなく、ホプキンズ(イーサン)が、ゴリラと共に生活していた人類学者というあたりの展開が、ちょっと軽い感じが否めないんですけど、そこはさすがホプキンズですから! 十分楽しめました。 近頃、映画を見ると、セリフそのものに妙に感じ入ることがあって、今日、う~ん、なるほどと思ったのは、囚われの身のイーサンが、自由の身で囚人を評価する立場にある主人公に激しく問いかけた「私が君から奪ったものはなにか?」 普通に考えれば、囚人から奪われるものなどないわけですが、イーサンが、受け入れてくれたゴリラの群れとの生活から得たのは、現代世界で人間が持っている、持ちたいと思っているものは、ことごとく「幻想」にすぎないということ。 もしかすると自分の得たものを理解できるかもと、イーサンは、主人公からそれを奪い、目覚めさせてやろうということを言っています。 本来人間のあるべき姿を取り戻すために、どうすればいいんだという主人公の問に、 「独占欲を放棄すればいい、世界は全生物のもので、人間は神ではない。放棄できるか?支配力に未練があるか?神の地位が惜しいか?」と問いかけます。 (文字で書くと、ちょっと空々しい感じもしますが、これをホプキンズがいうと、実感がこもります。) で、そこで主人公はようやくイーサンをわかりかけてくる・・・。 なんか重い言葉なんですよねえ。 ここでは動物と人間の関係ですけど、人間と人間、国と国でも、同じこと言えそうに思います。
posted by じゅうよっつ |19:46 | 映画 |
2014年02月15日
13デイズ、マジェスティック
近頃なかなか、映画館に行く時間がなくて、でも映画は好きで時に無性に見たくなるので、ついお手軽にスカパーやアマゾンで映画を見ることになってしまいます。 「13デイズ」は、風邪ひきをいいことに最低限の主婦業のあと、毛布にくるまってみてました。 (おかげで、そのあと、熱が下がっては上がりを何度も繰り返してしまい、今に至る・・) 見る映画は割と偏っていて、ダメなのは戦争もの、アクションもの、ホラーもの、これは”戦争になりかけもの”なので、偶然始まらなければ見なかったかもですが、見始めると手に汗握ってしまい、終わりまで。 内容は、1960年代はじめの、ソビエトがキューバにミサイルを配置していることを知ったアメリカ合衆国のケネディ大統領と政府陣が、相手の出方を読み、どう対処すべきか、どう相手と交渉するか、一発触発の緊迫する空気の中を追っていった、いわゆる”キューバ危機”の13日間です。 本当にソ連はキューバにミサイルを設置しているのか? 設置されたミサイルの撤去をめぐる裏取引をどこまで信用できるのか? 何もかもが疑心暗鬼なうえ、国内の首脳陣内でさえ、やられる前に攻撃すべき、いやまだとどまるべき、と意見や恣意はまちまち。 映画で見ていても、こんなの、よく回避できたなあと思ってしまいます。 でも回避できてなかったら、残念ながらフィクションじゃないので、現実の世界が今頃どうなっていたか、考えると恐ろしいことです。 その後見たのが、「マジェスティック」という、戦時下のハリウッドで、とても成功しているとはいえない脚本家が、”アカ”の濡れ衣を着せられ、ようやく日の目を見そうだった映画がボツ、やけを起こして運転中、事故をおこし、橋から車ごと落ちて、記憶を失って流された先で、9年前に出征した息子と間違えられて暮らすことになり、親子で「マジェスティック」という映画館を再建します。 ところが、恋人もでき、全てが順調に行っていた矢先、「マジェスティック」に来た自分の作った映画のポスターをみて記憶を取り戻し、同時に、”アカ狩り”の追っ手につかまり、ハリウッドに連れ戻され、、裁判にかけられます。 そこで、仲間(ということになっていた)の共産党員の名前を上げて「反省しました」と声明をよめばいい手はずになっていたのに、これまで多くの犠牲を払ってきた村のこと、恋人、本当の「マジェスティック」の息子のことを思い、「ここは自由の国だ」と反論し、傍聴席から喝采を浴び、恋人からも村人からも歓迎され、「マジェスティック」の支配人にもどる、というお話。 (かなり先が読めてしまうストーリーではありますが、こういうハートウォーミングな映画は、アメリカうまいです) どちらの映画も、たまたま戦争と関係のある映画だったんですが、どちらも、もし日本だったら、と考えてしまいました。 日本の政治家に戦争を回避できる度胸や度量があるのか? ”自由の国”でさえ自由でななくなった戦争がおこれば、そうでなくとも同じ方向を向くことに重きをおく日本なら、もっとそうなるのでは・・と、どうしても今の憲法改正や、特定秘密保護法や、お隣さんとの関係のように、政治が大きな変化をおこそうとしている日本ではどうなるだろうと、思わずにはいられませんでした。 13デイズのなかで、すぐに攻撃を、と迫る軍部との話し合いが終わったあと、ケネディ大統領の弟、ロバートが言った言葉が身にしみました。 「あいつらは、第二次世界大戦で何も学ばなかったのか?」
posted by じゅうよっつ |10:13 | 映画 |
2011年06月23日
マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋
あんたいくつさ?といわれても、この手のディズニー映画(かな?)は外せません。 都合よく最初から見られたし、今日は夕飯を作らなくていいので、ここぞと、最後まで見ることにしました。 子供の頃は、誰しも多かれ少なかれ、このおもちゃ屋さんの子供たちのように、お人形や虫と話したり、空中に輝く川の流れを追ったり、お月様に挨拶したり、サンタさんや物語の主人公の存在を疑わず、この世のすべてのものに驚き、信じ、自分と同じように心を持ったものだと感じていたはず。 それが、生きていくうち、いい思いより、苦しいことや悲しいことのほうがずっと多いことがわかってくるに連れ、そんな気持ちを意識的・無意識的になくしてしまいます。 ほんとうは、そんな苦い経験のためこそ、輝いていた気持ちをなくしてはいけないんですよね。 1770年(若干前後)生まれのマゴリアムおじさんは、まとめてかったお気に入りの靴も、これが最後1足、しかももう穴あき。 自分は明日旅立つと、自分の才能と進むべき道に迷いながらもおじさんの魅力に惹かれて店を手伝うモリーにつげ、跡を継いでほしいと言います。 戸惑うモリーの努力もむなしく、おじさんは旅立ちますが、まだ決心のつかないモリー。 しかし、この店に必要な人間だとおじさんに見込まれて雇われた会計士のジェフの、不器用ながら子供の心をなくしてなかった励ましに、モリーは自分の夢や力を信じる事ができ、おじさんがいなくなって人形もロケットも、ゲームも、ボールも、すべてがすっかりグレーになったお店を、もとの魔法のお店に戻すことができました。 というハッピーエンド。 (ハッピーエンドは、魔法の世界にはつきものです!) マゴリアムおじさんのお店を、不思議なお店と思って映画を作っていて欲しくないというのが私の願いです。 こういうお店、ほんとうはあるのに、忘れてない?と、いうのが本題だと思いたいなあ。
posted by じゅうよっつ |19:50 | 映画 |
2011年03月10日
映画鑑賞
今月はCSのシネフィルイマジカで「Mr.レディMr.マダム」(仏)と、そのリメイクの「バードケージ」(米)をやってます。 実は、「Mr.レディMr.マダム」のほうは何度かリクエストしていたので、やっと願いかなって嬉しい! 映画は、ナイトクラブ”ラ・カージ・オー・フール(狂人の籠・これが原題)”を経営するゲイのカップルが育てた息子が、お堅い政治家の娘と結婚したいと、両親の商売と素性を隠して招待する、そこで起きるどたばたなんですが、好きなんですよねえ、この映画。 リメイク版の「バードケージ」を今日見ましたが、アメリカ映画とフランス(正確にはイタリアと共同)映画の違いが如実でした。 きっと「バードケージ」を単独で見ていたら、それはそれで楽しめてたと思います。 主演のロビン・ウィリアムズも好きですし。 でも、オリジナル(と言っても、もとは舞台が先ですが)の映画のほうが、後味がいいんですよねえ。 フランスの「セラビ(これが人生さ)」という生き方、不条理を不条理のまま受け入れる生き方が心地いいんです。 アメリカのほうは、なんかぴっちり終わりましたって感じ。 人生はコメディ、人生は哀しくていとおしい、泣き笑い、それでもどっこい生きてる、そんな矛盾は、そのまま終わらせるのが、このゲイのカップルにとても似合ってるんですよねえ。 アメリカ人とフランス人の人生観の違いなんでしょうね、きっと。 そういえば「Mr.レディMr.マダム」主演のウーゴ・トニャッツィはだいぶ前に、ミシェル・セローも5年ほど前だったか、もうこの世の人ではなくなってしまいました。 日本では今日は、坂上二郎さんの訃報も聞いて。 コメディを演じることのできる大きな役者さんが亡くなっていくのは寂しいです。
posted by じゅうよっつ |22:53 | 映画 |
2010年08月18日
ガメラ2
たまたまつけたチャンネル(CS)で、「ガメラ2」をやってました。 怪獣ものは嫌いじゃないのでそのままにしていると、シーンは雪景色。 どうやら場所は札幌らしい。 そういえば、ガメラのロケ、私がまだ札幌にいた頃にあってたよなあ。 懐かしいすすきのや狸小路、大通りや五輪橋の風景が映って、ロビンソン(当時)からは、巨大な草体が現れて花まで咲いちゃって。 でも最初のシーンで1つだけ不満が残りました。 どうしてキリンビールの倉庫なのお? 札幌だったらサッポロビールでしょ! うちなんか福島に来てもサッポロなのに。(意味違いますが・・) で、やっぱりガメラは、昔の方が好きだなあ。
posted by じゅうよっつ |20:26 | 映画 |
2010年07月07日
ザ・コーヴ(続き)
昨日は寝るときもまだ、映画の内容を引っ張ってたんですが、イルカ漁(イルカもクジラの仲間ですから捕鯨の一種とも言えますが、この場合、わかりやすいように大型クジラのそれとは区別して)ってどのくらいの歴史があるんだろうとか、どれくらいの収入になるんだろうとか、どれくらいの太地町の人が関わっているのだろうとか、いろんな疑問がわいてきました。 確かに、太地町には長い捕鯨の歴史があるけど、太地の捕鯨というと、絵巻ものにでてくる、セミ鯨というずんどうで泳ぎの遅い大型クジラが代表格のようになってます。(もっとも今はセミ鯨は捕れませんが) 昨日の映画によるとイルカ漁は、船から大きな音を出し網で追い込む漁だったので、昔でもできなくはないんですけど、捕鯨と同じように、イルカ漁も歴史がふるいのでしょうか? 大型クジラの捕鯨とイルカ漁は、別の方が携わってらっしゃるのかしら? あるいは、捕る方だけでなく、イルカを食べる文化もまた、太地町には古くから或るものなのでしょうかね。 昨日は、第一次産業は国の補助無しに続けるのが難しいと書きましたが、もしかしてイルカ漁の収入ってそんなに悪くないのでしょうか。 もしかして、国の援助無しに独立してやっていけるほど収入あったりするかしら? イルカを水族館に売るのは、ほぼ太地町のイルカ漁のみ。ただ、海棲ほ乳類を飼育する館はだんだん減ってきているので、イルカの需要も少なくなってきているかもしれません。 イルカ肉の需要のほうはどうなんでしょう?需要過多?供給過多? 映画には映っていなかったけど、知りたいことがでてきました。 やっぱり情報は、いろんなスタンスから得ないと、正しく判断できません。 人間、いきなり責められると、自己防衛のために貝のように閉ざしてしまうものですが、ここは、同じようにやっぱり太地町の方も、自分たちの思ってること、やってることを公表してくれないかなあと思います。
posted by じゅうよっつ |23:12 | 映画 |
2010年07月06日
ザ・コーヴ
福島ではやってない映画「ザ・コーヴ」を見るために、仙台に行って来ました。(ややネタばれです) 和歌山県・太地町のイルカ漁を取り扱っているため、上映させるのさせないのと言う時点で既に話題になりましたが、見るなと言われると見たくなるのが人情ってもんです。 第一、誰かが映画を見る権利を勝手に奪っていい法はありません。 やっぱり見てから考えたいと思いました。 映画の中心を流れるのは、元イルカの調教師で、日本でも大いにはやったアメリカTV映画「腕白フリッパー」のフリッパーも調教したリック・オバリー氏のイルカに対する気持ちです。 日本では、映画中のイルカ漁のことだけに焦点が集まっています(確かに一番のインパクトです)が、おそらく彼が映画に載せたいメッセージは、太地町に限らず、世界中のイルカを自由にしたいと言うことです。 彼は、調教師としてイルカとつきあううち、囲いの中でイルカを飼うことには無理があると考え始めたんですが、解放運動に向かう引き金になったのは、フリッパー役のイルカのうちの一頭が、鬱状態になり、最期は、オバリー氏の腕の中で自殺した(意識的に呼吸~海上に噴気口を出して息をする~をしないと呼吸できない鯨類であるイルカが、意識的に呼吸しなかった)のを見たときだそうです。 彼は、フリッパーで儲けたお金でイルカを買い戻して解放すれば良かったのに、いい気になって車なんか買ってしまった、と自嘲的に話していました。 太地町では、彼を含む映画の製作者と、「この場所やこの場所には入らないで」とか、「イルカ漁に反対するのが目的ではないですか?」など一応、彼らに確認をとるのですが(一応いい返事)、もちろん彼らの目的は、なんとかイルカ漁の様子、特に、イルカを追い込んでいるところでなく、その中から水族館などに売るためのイルカを除いた食料となるイルカをと殺する現場を撮ることです。 そのために集めたスタッフが凄腕揃い、映画の小道具専門家(カメラを岩に見立てた中に隠す)や、素潜りの名人、どんな凄い場所でも撮影してきたというカメラマンなど、一流の腕の人間が太地町に集まってきます。 当然、こんな大がかりな計画に、1つの小さな漁師町が太刀打ちできるものではないことは明らか、見つかったりしながらも、隠し撮りの撮影は成功しました。 映画を見る前に、どんなシーンでも感情的には見るまいと思っていました。 と殺の現場は、イルカでなくても、どんな食料とされる動物の場合も、それが見るに忍びないものであることは想像がつきます。 もともとは、それだって各人がやらなければ食べられない約束だったわけですし、ここで感情移入してはいけないと自制しつつ、それでも、血を噴きながら逃げようとするイルカが沈んでいくシーンなど、感情的にならずにおれないシーンもありました。 (が、それは同じ生き物として当然の感情でもあるわけですしね。) ただ、この映画、私には、かわいそうなイルカを救おうと果敢に挑むヒーロー映画には映りませんでした。 やっつけるべき悪者不在の映画です。 イルカへの純粋な思いを語るオバリー氏にも、生活のためにイルカ漁をする漁師さんの側も、おそらく双方とも、根っこのところに悪気はない、それなのにぶつかり合わないといけないのは、見ていてつらいところです。 責める側も抵抗する側も、相手を間違えているような気がするんです。 映画のストーリーに悪者が必要なら、それはもっと別のところにいるような気がしてなりません。 オバリー氏(前に彼の本を読んだときにはあまり共感してなかったんですが。たとえば、水族館から解放したあとのイルカが野生で生き残れるのかと思うと、あまりに無責任に感じて)の側から言うと、彼のイルカへの純粋な気持ちには共感できるものがありましたが、それを映画にしようとするととたんにうさんくさいものもつきまとってくるものです。 太地町の側から考えると、日本の第一次産業で、国から何の補助も受けずにやっていける産業なんてないと思いますが、太地町の漁師さんも、そうだと思います。 昔、ホエールウォッチングを始めようとする町の役場の方とお話する機会があったんですが、ホエールウォッチングは始めたいけど、国(農水省)からの補助金がでなくなるような方向(反捕鯨とか)のイメージになると漁業を営む町としてはまずいという思いもあるようでした。 それに、正義を真っ向からぶら下げて来られたら、逃げ道なくなっちゃいますから、漁師さんたちの中には、意固地にならざるを得ない部分もあると思います。 (でも、漁師さんって一本気な、わかればとことん分かってくれるような人が多いんです。) 文化の違いもあると思います。 考え方や感じ方、交渉の仕方、互いが各自正しいと思ってきたやり方で真っ向勝負するので、混じり合うところを見失ってる感じがします。 映画の中では、イルカ肉の水銀量についてもインタビューがあっています。 イルカは食物連鎖のほぼ頂点にいる長生きの動物なので、補食する下位の魚の体内にある水銀が長年に渡って蓄積されるためです。 今日のニュースによると、そのインタビューをうけた准教授が、反捕鯨のために使われるとは思わなかったのでと、シーンの削除を求めているそうですが、それが圧力によるものなのか?データが間違っていたのか?どうして削除を求められたのか、理由が知りたいところです。 (本当にそのデータが正しいのなら、隠しておくような数値ではなかったんですから!) どうも、とりとめない長文になってしまいました。 尻切れトンボですが、エネルギーがそろそろ終わりです。
posted by じゅうよっつ |22:59 | 映画 |