2021年09月29日
哀悼!〜進化〜コンサの産み親・育て親の逝去
コンサの発足にも深く関与し、北海道におけるサッカー界のけん引役としても知られ、コンサドーレの運営会社・株式会社北海道フットボールクラブ(現・株式会社コンサドーレ)の代表取締役を1997年から2005年まで務め、2005年6月より同社取締役、2017年4月に取締役会長を経て2018年4月より同社最高顧問と、コンサの全歴史で、一貫して支援・愛護を受け続けコンサを産み、育て上げた大恩人が、77歳の御逝去となり、これまでのとんでも無く、数々のご苦労へのご慰労の念と、深く深く感謝の心を捧げます。
コンサドーレ誕生は、jリーグブームで全国が湧く中、
1993年10月に、同氏が中心として参加されていたと思われる札幌青年会議所が中心となりJリーグチーム誘致に向け誘致推進特別委員会を設置し署名活動を開始、1994年1月27日には誘致活動母体となる「札幌SJクラブ」を立ち上げ9月22日までに約31万人・18%の署名を集める。1995年3月25日には官民の代表を集めた「Jリーグ札幌ホームタウンチーム設立推進協議会」を設立、その後プロ化や実業団チームとしての存続に消極的だった東芝サッカー部に札幌への移転を提案し、7月に受け皿として「札幌フットボール設立企画」を発足。1996年1月11日に東芝サッカー部の札幌移転を正式発表、2月8日に日本サッカー協会が移転を正式承認し3月2日に新チーム名「コンサドーレ札幌」を発表し4月に運営会社「北海道フットボールクラブ」を設立。この過程全てにおいて同氏の中心的活躍によるものでした。
元々、1993年に開幕したJリーグは、一大ブームを巻き起こし、それまでメジャーだったプ ロ野球を凌ぐ人気を獲得し、順調なスタートをきることになり、大都市を中心に本拠地を持っていたプロ野球とは対照的に、Jリーグでは、「企業に過度に依存しない経営」「地域住民や自治体との連携」という考えの下、日本各地にチームが誕生し ました。
しかし、冬季環境が厳しい北海道では、設立可能条件が不足し、ウィンタースポーツ以外のプロスポーツは、極めて困難な状況でした。そこに、2002日韓W杯会場のため、全天候型スタジアムの札幌ドーム設立が決定し、冬季試合も可能とする事から、不可能な環境を可能環境へ転換させる事態となり、その計画確定を受け、一気に、事前にチーム設立機運が上がり、その流れの中、1995年に「Jリーグ札幌ホームタウンチーム設 立推進協議会」が発足し、Jリーグサッカーチームの誘致活動を活発化させていました。その 一方で、川崎に本拠地を置く東芝サッカー部はJリーグ昇格を目指していたものの、同じく川 崎に本拠地を置くヴェルディ川崎の陰に隠れ、昇格は厳しい状況にありました。この両者の利 害が一致する形で、1996年に設立された運営会社である北海道フットボールクラブ株式会 社が東芝サッカー部を受け入れることになり、「コンサドーレ札幌」が誕生、との事情があったものでした。
更に、チーム誕生後、リーグ昇格のためには、総年俸拡大を要し、そうすると、その分経営赤字発生、との悪循環に陥り、経営は連続赤字の累積赤字経営と、戦力上下連動の順位上下のジレンマで、破綻寸前まで追い込まれ、同氏により、その獲得費用や赤字支援をカバーされ、ギリギリで存続、その苦境を打開する秘策として、日本代表監督だった岡田監督の招聘を仕掛け、その縁で、野々村社長の移籍獲得も含め、経営と戦力立て直しを果たした、主役でした。
ノノ社長が、同氏が居なければ、コンサの今はあり得ない、とのコメントは、その通りですね。
返すがえすも、コンサがタイトル戦に近づき、獲得する姿こそが、これまでの膨大な御尽力に報いるものでした。
あらためて、コンサの誕生から、これまでに育つまでの御努力と御配慮と愛情に、敬意を表し、深く感謝し、心からお悔やみするものですね。本当に!
本当に、これまで有難うございました。そして、莫大なご尽力お疲れ様でした。
天国から、コンサの試合と輝くサッカーと支える大きな声援を、ご覧頂き、お楽しみください。
そして、サッカーの女神の御加護を沢山授けて頂ける様に、暖かいご支援を続けてお願い致します!
有難うございました。安らかにお眠り下さい。
天国への旅立ちの門出、餞は、コンサ勝利しか有りませんね。
<最高顧問へ勝利を捧げる!>を合言葉に!
posted by yuukun0617 |18:50 |