2010年01月11日

大分サポへのエール

昨日の告白(?)で勢いがついてしまい、シーズンオフの自分語り第2弾です。

大分トリニータが財政問題でクラブ存続の危機に立たされています。
私が初めてコンサドーレの試合を、というより、サッカーの試合を生で観戦したのは1999年の夏でした。夏休みに札幌の実家へ帰省した機会に厚別へ行ったときです。そのときの対戦相手が大分でした。大分との試合を選んで行ったわけじゃなくて、たまたまその時期に試合があったのが大分戦だったという理由ですけれど。
そしてそのときにサッカーの試合とコンサドーレに魅了されてしまった私は、当時福岡に住んでいたものですから、その後鳥栖との試合と大分との試合を見に鳥栖スタジアムや大分市陸へ出かけていきました。ですから大分は私にとって、わりとなじみの深いチームだったのです。

このあたりの思い出話はこのブログを始めたころに書いています。
1999年第21節 大分戦@厚別
1999年第24節 鳥栖戦@鳥栖スタジアム
1999年第29節 大分戦@大分市陸

2000年になって東京に引っ越し、それとともに私は全国各地のアウェイにもホームの試合にもガンガン出かけていくようになるわけですが、2000年のコンサにとって大分はほんとにギリギリの身を削る戦いを強いられるライバルでした。(これは多分その前からずっとそうだったのでしょうが、私が知るようになったのはこの年からということで。)
6月の晴れた厚別で、アジアの大砲こと高木琢也が(キーパーに対するファウルじゃないの?と思うような)ゴール前の競り合いでボールを落とし、それを播ちゃんが拾って延長Vゴールを決めた試合。あのときの厚別の空気を今でもはっきりと覚えています。
また、8月2日水曜日の大分市陸での試合は、播ちゃんの誕生日でした。その前節7/29の浦和戦では、真っ赤に染まった満員の厚別で、龍ちゃんと健作のゴールで浦和に逆転勝ちをするという大興奮があり、その熱気とチーム連勝記録の更なる更新への期待を抱えて大分に乗り込んだのですが、平日ということもあってかスタジアムはがらーんとしていました。メインスタンド以外、両方のゴール裏もバックスタンドもすべて芝生席だったように思います。私たち数少ないコンササポは、芝生のバックスタンドのアウェイ側で応援していたわけですが、すぐ目の前でプレーしていたサイド(ウイングって言うの?)の若い池内が、サポに「池内~!走れ~!休むな~!」って檄を飛ばされ(?)て、大きな目をちょっとおどおどさせるような表情をしていたのが懐かしく思い出されます。
大分側のサポーター席(←芝生だから席はないけど)には、ボールの着ぐるみを着たボールくん(←と私たちが呼んでいたサポ)もいたなあ。
その試合は0-1でコンサが敗れ、コンサの連勝記録もそこでストップしてしまった(←今の基準で言うとその前に室蘭で浦和と引き分けた時点でストップしたことになるけれど、当時の意識ではこの試合でストップでした。)わけですが、コンサのDF森くんのオウンゴールによる勝利だというのに大分サポの喜びようはそれはそれは大層なものでした。
その夜大分の居酒屋での宴会(残念会)では、同じ店に居合わせた大分サポの人たちが「あの札幌に勝てて本当に嬉しかったから」と言って、私たちに関サバと関アジのお造りを差し入れてくれました。そのお店の関サバ・関アジは私たちが注文しようとしても無理だったので、みんな大喜びで大分サポのご厚意に甘え、美味しいお刺身を食べながら大いに飲んで食べて大分サポとも交流して、負け試合の憂さをすっかり晴らして大分から帰ってきたのでした。

2000年シーズンが終わるとその後しばらく大分とは接点がなくなりました。2002年にコンサがJ2に降格した際に大分とはすれ違いになったので。その間私は大分のことはほとんど意識することもなく長い時間が過ぎました。なぜ新潟に対する意識とは違ったのか、自分でもよくわかりませんけれど。

2008年にJ1で久しぶりに対戦するまでの間、大分との接点は、天皇杯で対戦した2回だけですかね。2002年シーズン後の天皇杯でビッグアイで対戦し、翌年監督に就任する予定のジョアンの目の前で0-5で虐殺されたときと、2004年の天皇杯のとき熊本で対戦し、ゴンちゃん(中山ゴンじゃなくて権東勇介)のゴールで勝ってベスト8進出を決めたとき。

2008年に大分がナビスコカップで優勝したときは、あの大分がねえ・・と感慨深いような眩しいような気分になりましたけれど、なんか素直に「おめでとう」と思いました。地方クラブの雄として大分を讃え、「それにひきかえコンサは・・」みたいな論調に対しては「うるせー。」と思いましたけれど。

あのような喜びがあっただけに、その1年後に急転直下なこの状況では、大分サポは心の準備もなく、さぞやつらい思いをしていることと思います。
あのとき居酒屋で大喜びで祝勝会を開いていた大分サポの人たちや、ボールくんになって周囲の笑いをとり雰囲気を明るくしていた大分サポの人。そして当時楽しく読んでいた「鳥日新聞」の中の人。
あの人たちは今ごろどんな気分で過ごしているだろう・・と、ふと思ったりします。

大分トリニータを取り巻く状況はかなり厳しいようですから、他サポが軽々しく言えることではないですが、チームを支える地域とサポの人たちが「チームをなんとしても存続させたいんだ」という強い意欲があるならば、なんとかうまくいきますようにと遠くから祈っています。

posted by あきっく |15:15 | コンサ周辺のいろいろ | コメント(2) | トラックバック(0)

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この記事に対するコメント一覧
Re:大分サポへのエール

2004の我々のシーズンって、どこかで公平な見方で形になった方がいいのではないか、という気がしました。確かに「潰れるくらいなら絶対に昇格すんな」「当然負越しでしょ」ぐらいに思ったけど、いくらなんでもあそこまで徹底的に負けんでも、と思いましたよ。でもあのバラ色の暗黒期はそれなりに楽しめたし(楽しみ方を見つけた、かな)。まして大分U18はかの名門広島ユースの従兄弟みたいなもんで、ひょっとすると望外の喜びがあるかもわからんし。

あの時の佐々木社長は、コンサ歴代で最高の社長さんで(市役所の人だから謂れ無き中傷も多かったことも含め)、柳下正明というやや頑固で偏屈なロマンチストが監督だから、駄目なりに楽しめたと思うんで、犯人探しよりは「少数の重要人材を適所に配置し、借金を早く完済して、それから本格的に楽しめばいい」くらいに思えばいいんですよね。返済なきゃ、ユースはえぬきが他チームの人材源になる状況は変わんない。
この類の事件のたび、最初の降格のときに「フリューゲルス消滅」という経験を目の当たりにしたのは、サポの入れ替わりがあってもまだ有効な経験智だと思います。多分似た話が札幌におきたら、まず「存続以外の条件はなし」でサポ世論は大同団結できるもん。

posted by さいとー@横浜| 2010-01-11 21:03

Re:大分サポへのエール

>さいとー@横浜さん
確かに今のコンサが似たような状況に置かれたら、サポの考えは「何よりも存続が大事」で一致するだろうと私も思います。現に五段階計画のときも「お金がないなら、財政を立て直すために仕方がない」とみんなわりとすんなり事態を受け容れましたものね。その前提にはあのときHFCが現状をすべてぶっちゃけて説明してくれたことや、その前から何度も財政危機には直面していたという経験があったからだとしても。
大分サポはそこまでの意識統一はできていないような気がします。議論とかはしているのかしら?よそからは分からないけれど。大丈夫なのかなあ、時間がないだろうに間に合うのかなあと気が揉めるところです。
でも一方で、クラブを存続させるのは並大抵じゃない覚悟と忍耐が要ることだと思うので、関係者(サポや地域の人々を含む)がそこまでの執念と意欲を持てないならそれまでなのかもしれないとも思います。
引退を考えている選手にサポが気軽に「現役を続けてください」とは言えないのと同じように。

2004年は私はそれなりに楽しかったですが、確かにあそこまで負け続けなくても・・とも今となれば思いますね(笑)。あれはどういうわけだったんでしょうね。清々しい気分で楽しかったからいいけど。

posted by あきっく| 2010-01-11 21:59

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