スポンサーリンク

2015年09月07日

十勝の歴史的建造物探訪

前回の記事に書いた日本クラブユース選手権U-15の折に、十勝地方や日高地方などを探索してきました。

二回に分けた紀行文のうちの第一弾として、今回はグループステージの試合の合間に見聞した、十勝地方の歴史的建造物などを紹介します。


定宿である道の駅「しかおい」の前にいたシカ
カクカクシカジカ

朝早く清水町へ向かう途中で、どう見ても駅逓の雰囲気なので寄ってみました。
どう見ても駅逓
「クックガルデン」という特産品販売所で、甘味処でもあるらしいです。

ここは「クテクウシ駅逓」があった跡に駅逓を模した建物を再現したらしく、東ウリマク駅逓の看板(の写真)も見えます。
再現
周囲には「鹿追発祥の碑」もあり、この辺が鹿追町発祥の地なんだそうです。
「ク・テク・ウシ」とは「仕掛け弓でいつも鹿を捕る処」という意味らしく、それが鹿追の地名になったとか。

芽室町の奥にある「松久園」(まつひさえん)の建物を見学
田舎にいた頃、釣り堀があった
この家は、岐阜県より渡ってきた松久さんが大正7年に住宅として建て、現在はニジマス料理店として古民家をほぼそのままの形で転用しています。


夕方に大樹町の海岸へ向かい、生花苗沼の近くに晩成社跡入口がありました。
この藪の奥にある・・のではない
この藪をこいで進む訳ではなく、

車が通れる道を進むと「晩成社史跡公園」があります。
集落配置図
十勝開拓の祖・依田勉三の晩成社は、こんな配置になってたそうです。

物置のような開拓小屋が建っていました。
納屋か物置か

「依田勉三翁住居」と書かれた標柱が寄り掛かっています。
明治26年建立
依田勉三は大正4年までここに住んでいたそうですが、今は豚もいません。

玄関正面の台所と風呂場・・流しの下に置かれているのが、ひとつ鍋でしょうか。
台所と風呂場

その右手には四畳の居間と茶ぶ台
リビングと茶ぶ台
開拓初期は生活が極端に苦しく食事も粗末で、客人が豚の餌と勘違いするほどだったとか。

ここは井戸の跡
井戸の跡

そして天然の省エネ冷蔵庫である室の跡
天然冷蔵庫

現在の牧場・・豚も成長して牛になったようです。
牛に引かれて牧場参り
などと見学して車に戻ったら蜂が飛び回っていたので、急いで乗り込んで窓を閉め、退散しました。


日中に暑くて汗をかいたから、海岸にある晩成温泉に浸かります。
宿泊施設もキャンプ場もある
向かい(手前)に晩成の宿「原生花園」という安い宿泊施設もあるし、キャンプ場もあります。

眼前に太平洋を眺められます。浴室はもっと海に近いですが、さすがに防水じゃないカメラを浴室までは持ち込めません。
この高さなら津波が来ても大丈夫

いい気分で風呂から上がると・・最速で降格した2012年の防火ポスターを貼ってありました。
昇格もう一度

食堂があったので海鮮の丼を食べてると、珍しい知人に遭って互いに「なんでこんな所で・・」と。
彼は仕事で来てて晩成社史跡公園の近くでスズメバチに刺され、病院で点滴を受けたそうです・・まさか、あの蜂じゃあるまいな。


翌日の早朝に、♪花咲く六花亭の「六花の森」に寄ったら、入場券のスタンプが前日の日付のままでした。
「マルハナバチ」が花粉を集めていました。
大丸花蜂
こんな図体のデカい蜂が飛んで来たら大抵の人は逃げますけど、この蜂は花を愛する優しい蜂であって、掴んだりしない限り刺しません。

夕方に訪れた「士幌町発祥の地記念公園」にも開拓史跡があります。
士幌の家美濃の家」と呼ばれる岐阜様式の屋敷
大正5年頃の建築
以前に見た田守邸(富山様式)などと似ており、松久園が岐阜で川西町の川原家と中札内村の開拓記念館が富山となると、十勝って中部地方からの流れ者が多いのか・・?

時間外なので玄関の外から土間とカマドと台所を写す
なぜに自転車

窓の外から覗く居間と茶箪笥
リビングと茶箪笥

庭に井戸がありました・・依田勉三の住居と同じ展開。
ここにも井戸
「この公園内での洗車はご遠慮願います」と書かれています・・そんな人がいるんだぁ。

隣に「伝統農業保存伝承館」という体験学習館?もありました。
ちょっと違和感がある


帯広市の電信通りの商店街には面白い建物が多いです。
国道イーストの電信通り

大正2年に建てた旧岩野商店
うだつが上がっている

モダンな銭湯の「櫻湯」・・営業再開しないかな。
湯船があったら入りたい

広告にしては目立たないデザインと色だなぁ・・と思ったら、
コンクリート製のバス・・ではない
芽室町の「高嶋コンクリート工業株式会社」の広告で、コンクリート打ちっ放しの壁面を表現してるようです。会社のHPには、このバスの写真も出てきます。


なかなか開館時間が合わなくて未訪だった「本別町歴史民俗資料館」に来れました。
昔から訪れてみたかった施設

通常は本別町の歴史的な資料を展示していますが、この時期だけに広島原爆の遺物を展示してあり、特別展として本別空襲の資料もありました。

昭和20年にホントは帯広を空襲する予定だったんだけど雲に遮られていたので、代わりに雲の隙間から見えた本別を空襲したんだそうです。爆撃した本人達もそこは隣の池田だと勘違いしていたとか。

1932年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルをもらった「バロン西」こと西竹一の貴重な資料もあります。
彼は軍馬補充部十勝支部に配属されて、本別町に滞在していたことがあるそうな。

暗くなる前に、急いでナイタイ高原牧場へ行きましたが、予想通り濃霧の中でした。
ここは行き止まりにある「レストハウス」
五里霧中
晴れていれば景色が良いらしいですが・・

「家畜感謝の碑」が立っていました。
家畜には見えない


以前にふざけて「十勝ではケーキを鍋で買う」と書いたことがありますが(記事)、ホントにカレーライス用のカレーを(タッパーじゃなくて)鍋で売ってくれるんですよ。
半信半疑でしたが、「鍋で売ります」という表示をコンビニで確かに目撃しました・・おでんだったかな。

考えてみれば、家族4人分のおでんをスチロール丼に分けて渡すなんて、合理的じゃないですよね。
具材を必要なだけ鍋に入れてもらい、帰宅してそのまま火にかけて温めれば良いんですから。


posted by 雁来 萌 |22:34 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

スポンサーリンク

スポンサーリンク

コメントする