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2006年08月06日

遠過ぎる記憶

7月30日(日)に、ニセコ(倶知安)へ行ってきました(前報)。この地は、小学生時代に住んでいたことがあります。●●オリンピックの頃ですが。

その後、スキーなどで何度も訪れてはいましたが、いつでも来れると思うからなのか、街の中をゆっくり見て回ることはありませんでした。今回はちょっとした目的があったので、ついでに少し探索してみました。

小学4年生の年は、倶知安町内の南寄りに住んでいました。JRの「ニセコ山の家」などへ登る道の脇で、JRの線路を跨ぐ陸橋(当時は踏切)の側にあり、そこから歩いて30分ほどの倶知安小学校へ通っていました。
それにしても、校歌の歌詞に見覚えがありません。羊蹄山ニセコ尻別川が使われていることは記憶と合致しますが、旋律が全く出てきません。


倶知安小学校の校門と羊蹄山(2006.7.30)
当時はこのグラウンドの場所に校舎があり、現在の校舎の位置がグラウンドでした。


現在の校舎(共和町役場に似てるかも)
当時はもちろん木造の校舎で、「学校の沿革」に写真が載ってます。

「山階資料室」とかいう部屋があって、鳥類の標本をたくさん並べてありましたが、その部屋には自由に出入りできなかったような。
とにかくこの辺は、鳥でも虫でも魚でも、捕りたいだけ捕れるような環境なので、丸々と太った魚を毎日捕まえては、おかずにしてました。一匹ずつ釣るなんていう面倒なことはしないで、「ドウ」と呼ばれる、一升瓶の2倍くらいの太さのガラスの筒で捕ってました。


学校の横から眺める羊蹄山
毎日こんな風景を眺めてノビノビと育った大人がコレですよ。

5年生と6年生の年は、町内の北寄りの場所に引っ越したので、別の小学校へ転校しました。その学校は開校5周年というほどの新しさで近代的な造りだったので、最近新築された校舎を見ても何も感じず、写真は撮りませんでした。

その次の年にここへ引っ越しました。


さて、次は今回の本命を訪問したいのですが、場所や施設名を詳しく調べてこなかったので、駅へ行って調べることにしました。
倶知安駅の佇まいはホントに昔のままで、よく長持ちしてるもんだ思いましたが、構内の観光案内図を見ても目的の「郷土館」らしき施設は見つかりません。役場などがある中心部から少し離れた場所にあると記憶してるので、とにかくそっちの方角へ行ってみました。

駅に置いてあったのでパンフレットをもらってきた「小川原脩美術館」を示す案内看板が道端に立っており、「風土館」という施設が隣にあるようです・・そうだ、「郷土館」じゃなくて「風土館」ですよ!

「倶知安風土館」に着きました。ここは、日本体育大学の合宿施設として建設した建物を改修したそうで、トレーニングのための陸上競技場だった部分は公園に整備されて美術館が建っていますが、複雑な事情があったようです。
 

建物の事情はどうでもよく、私のお目当ては「ゼロ戦の翼」です。これは、60数年前の第二次大戦中(生まれてませんよ!)に、墜落事故につながる航空機への着氷を調査する目的で、ニセコの山頂に実物の機体の一部を運び上げて野外実験した材料です。

もちろん、飛べる機体はもったいなくて使えないので、壊れた機体を集めて台座の上に据え、冬場の雲の中の低温・強風の環境に曝して着氷させるという、画期的な実験を行った証拠物件です。ちょっとした関係があって、翼やプロペラの図面や、実験場の写真を見たこともあります。

何も、実物の機体の一部を使わなくたって、丸太を鉄板で覆ったハリボテでもいいじゃないか?と考える人もいるでしょうが、飛行機は翼やプロペラに着氷したら揚力が無くなって墜落してしまい、機体とせっかく養成したパイロットが失われます。
そんなシビアな実験をするんだから、実際の素材を使って実機の形に加工した標的じゃないと役に立つ実験にはならない、という論理ですね。

日本が敗戦したので、軍事研究の証拠を隠滅するために、この機体は捨てられました。
この実験に加わっていた人物のほとんどは既に他界してしまいましたが、何人かは私が知ってた方々です。実験をやめた後で「沢に捨てた」という話も人伝に聞いていたので、どの辺に落ちてるかは想像がついていました。山頂から慌ただしく機体を捨てられる手っ取り早い沢で、しかも人目に付き難い沢は、そう多くはありませんから。

近年になって「ゼロ戦の翼が発見された」という報道を見ましたが、新しい天体などが発見されて「よく見つけたもんだなぁ」という驚嘆とは違い、「ぁ、ついに見つけられちゃったか」という感想でした。元々、その辺にあることは分かっていたんだから、「発見」と言われても・・。


ゼロ戦32型の右翼(2006.7.30)
手前が翼の上面、右側が胴体側、左側が翼端側で、翼端に近い部分の円形の灰色は、「日の丸」が描かれていた名残です。補助翼は失われています。

翼の長さが思ったより短い感じがして・・古い写真やプラモデルなどでは日の丸はもっと内側に描かれていたように記憶していますが、32型は翼を切り詰めた型だし、翼端灯の一部が残存しているので、元々こういう長さだったようです。


翼の下面側から見た燃料タンクのスペース?
この下方に脚が格納される?
翼の後縁に付いていたフラップは失われています。
 

機体のより詳しい説明は、この辺や、この辺を参考にして下さい。

この実験を行った研究者は、この方です。


「くっちゃん」という地名ですが、テレビやラジオなどで、「く」にアクセントを付けて「ゃん」と発音するのは間違いで、「ち」にアクセントを付けて「ゃん」と発音するのが正しい呼び方です。「ゃん」の発音と同じで・・。


posted by 雁来 萌 |23:01 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

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