2010年06月17日
山と海と砦の街・函館
♪函館には、もう何度も行きましたね~ ・・と、軽い調子で書き始めて美流渡・万字炭山。 コンサドーレが最初に千代台競技場のピッチに立ったのは、1999年の夏でしたか、へぇ~・・月日が経つのは早いもので。 2000年からJリーグの公式戦が開催されるようになったのに、よりによってその最初の試合は都合がつかなくて行けなかった、という痛恨な出来事がありました。 それから10年、毎年の函館開催に泊りがけで行ってましたが、昨年の函館開催はプリンスリーグの日程と重なってしまったため、止むを得ず欠席しました。 コンサドーレ時代以前にも何度か函館を訪れているので、次第に見たい場所も少なくなってきて、札幌から千代台まで往復しただけの年もありました。 今年は、12日(土)にカブスリーグU-15の試合を見た後、芸術の森を散策してから、のんびりと寄り道しつつ函館へ向かいました。 中山峠の売店で買ったチョコレート インパクトが弱く、イマイチ中途半端なデザインですな。
函館到着は19時頃かと見積もっていたら、1時間ほど遅くなりました。 日中だから道路の流れが悪いし、海岸部では霧がかかってたし、急ぐ旅でもないと思うから、どうしても時間を費やしてしまいます。 洞爺湖芸術館にも寄ったし 開館時間が終わりそうな時刻だったのに、展示してある作品の一つをスタッフが解説してくれました。 数年前まで開催されていた彫刻ビエンナーレは、初回から毎回見てるのでそのカラクリは知ってるんだけど、知らないフリして驚いてみせたり。(笑) 函館の中心部を抜けて電車通りを走っていると、「ゆうすけ」という飲食店があってビックリ・・よく見ると「ゆうすげ」でした。 湯の川温泉に並ぶ高層旅館などを眺めながら通り過ぎ、今回の宿は行き当たりバッタリで「函館空港」にしました。 空港内にはホテルなんか無い?・・駐車場に車を停めて素泊まりすれば、駐車料金が1時間当たり150円(5時間以上なら1日800円の定額)だとすると、ホテルに泊まる費用の10分の1で済みます。 温泉は体質に合わないし、美味しい物を食べたいとも思わないので、高い温泉宿に泊まる理由が無いのです。 夜に車の中でカブスリーグの写真を整理してたら眠るのが遅くなった上、翌日も朝早く目が覚めたので睡眠時間は少なかったものの、1泊750円を払っただけのエコ宿泊でした。
翌日の早朝は、まず函館山に登って朝日を拝みました。 函館に来たから、という理由で「うに丼」や「いかめし」や「チャイチキ」や「やきとり弁当」を食べても、腹は満たされるけど脳みそは満たされませんから、興味がありません。 霞がかかって景色が見難かったので風景写真は省略し、シマフクロウの学名(ketupa blakistoni)にも使われている「ブラキストン」先生に謁見しました。 「ブラキストンライン」となった津軽海峡を見下ろしています。 函館山に登る場合、いつも立ち寄る場所があります。 国鉄連絡船「洞爺丸」に乗っていた遭難者の慰霊碑は七重浜にありますが、こちらは連絡船に乗務していて殉職した職員の慰霊碑です。 あまり知られていないんですけど、連絡船が戦争中に空襲を受けて沈没した時や、洞爺丸台風で沈没した時などの殉職者をまとめて合祀しています。 洞爺丸台風(昭和29年台風第15号)に伴う荒天では、連絡船5隻が沈没して379名が殉職しています。 乗客が乗っていたのは洞爺丸だけなので、一般には洞爺丸しか知られていませんけども。 「洞爺丸」と刻まれた石碑の右下には、海底から引き上げた北見丸の船底の一部を嵌め込んであります。 「洞爺丸」の裏側は「第十一青函丸」になっています。 第十一青函丸はいったん出港したものの荒天のため引き返して乗客を降ろし、乗員90名が乗務したまま停泊していましたが、船体が真っ二つに折れて沈没したため、生存者は1人もいなくて全員が死亡(半数は行方不明のまま)となり、遭難の状況を証言出来る人さえ誰もいなかったんです。 国鉄青函局が昭和40年にまとめた「洞爺丸台風海難誌」という、B5・312ページの報告書(のコピー)を持っています。 連絡船の図面や運航ダイヤ、遭難時の状況、救助や捜索の状況、犠牲者の葬儀や補償、後日の海難審判などについても詳しく書かれています。 これは当日(1954/9/26)の実績の運航ダイヤで、途中から遅れが出て遂には欠航になったことが分かります。 各船の海難推定図(上が南)で、オレンジの線が「洞爺丸」の経路、青い線が同型の姉妹船「大雪丸」の経路です。 洞爺丸は貨車や乗客を満載した状態で港外に投錨・停泊していましたが、錨が効かずに流されて七重浜に座礁・転覆しました。 一方の大雪丸は、貨客を積載する前に港内で停泊しており、「このままだとヤバい」と判断して沖へ逃げました。 大雪丸はエンジンが生きていたから逃げられましたが、洞爺丸は満載状態なので喫水が深くて波をかぶり、蒸気機関のエンジンルームにも浸水して機関が停止したため、風や波に押し流されるままになったのです。
函館山から下りて、五稜郭に行きました。 五稜郭を訪れた目的は、桜の開花状況を調べる「標本木」を観察するのと、建築中の箱館奉行所を見物することです。 五稜郭の中には函館博物館の分館があって、箱館戦争の資料などを展示してありましたが、現在は奉行所の普請が行われているため、主要部分に立ち入ることはできません。 工期ごとに立入禁止の区域が変わります。(現在は左下の状態) 朝もやに煙る奉行所・・現代でいえば支庁(振興局)や警察署や裁判所のようなものだから、なるべく近付きたくはありません。笑 7月29日から公開されるそうで、現在は外観を遠くから眺めるだけです。 でも、直接このページに飛んだら、既に開館していて見学できるような誤解を受けそう。 葉桜を眺めながら園内を歩きます。 これは多分、土塁が地滑りした跡ですね。 五稜郭に限らず、あちこちでツツジが満開になっていました。 藤棚も綺麗で、いい匂いがしました。 天邪鬼ですから、濠の水面に映った五稜郭タワーを撮ります。 市の北部に急造された「四稜郭」も見に行ったことがありますが、合戦の役に立つとは思えない簡素な構築物でした。 そもそも千代台競技場のあたりさえ、かつて仙台藩や津軽藩の「陣屋」があった訳で、函館は北海道支配の現地拠点であったし、さらに北方の民族との国境地帯でもあったのだから、昔から諸勢力が衝突する前線だったと考えると、蝦夷のチームと伊予のチームが対戦して痛み分けになるのも不思議ではありません。
函館空港の近くにある史跡「志苔館(しのりたて)跡」も見てきました。 ここの地名は「函館市志海苔町」で、古くは「志濃里」とも書かれました。 室町時代というか「もののけ姫」の頃に和人豪族の館があった場所で、「コシャマインの乱」というアイヌの武装蜂起(和人の暴挙に対する反乱)があった舞台(の一つ)とされています。 土塁と堀に架かる橋 砦を構築するには理想的な眺望です。(遠方は函館山) 空が霞んでいない日にも訪れたことがあり、素晴らしい景色でした。立地条件としては、道内各地にあるアイヌの「チャシ」に似ています。 これは「もんぜき」と読まれそう・・。 屋敷跡や井戸跡(の標石)もありましたが、こんな丘の上から井戸を掘り下げたとしても、地下水脈まで届くのは難しいんじゃないかと思われ・・不思議です。 この近くに「銭亀」という土地があって、古銭が詰まった大きな甕3個が発掘されました。 そのうち2個の甕はかなり損壊した状態だったのに、中に詰まってた貨幣は回収されただけでも37万枚余という膨大な数だそうで、重量は(甕も合わせると)1.6トンにもなるなんて、開いた甕の口が塞がりません。 主に中国製の貨幣37万枚を、種類ごとに分類して数える作業を続けたかと思うと、気が遠くなりそうです。 これを埋蔵した理由や人物がまだ分かっていないんですから、「道南七不思議」の一つですよね。(←いつ制定したんだ?)
posted by 雁来 萌 |20:45 | 蝦夷の細道 | コメント(1) |
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函館開港150周年写真集
函館港の開港記念日である7月1日を控え、写真や新聞記事を集めて掲載したページがありました。
↓「函館開港150周年:北の街に開いた外国、本州への扉」(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/hakodate150/
posted by 萌| 2010-06-21 19:02