スポンサーリンク

2006年04月28日

函館戦争回顧(敗走の段)

我らの魂娑闘霊教団が函館戦争で敗北を喫したため、宗敵の追手どもから逃れなければならなくなりました。

逃走の詳しい経路や日時を記すと、残党狩りの追手に潜伏先を察知される恐れがあるので、要所のみを説明するに留めます。途中までの経路は他の門徒と類似しているようなので、そちらの手記の前偏後編と比較しながら読まれることをお勧めします。
 

決戦の翌朝、どちらの方角に逃げれば良いのかを判断するために、星型をした砦の横に立つ物見櫓に昇ることにしました。
この物見櫓は、鋼鉄の「とも綱」と「つるべ車」とを用いて、方形の籠を上下させるからくりを用いており、妙齢な娘の案内に従って籠に乗り込むと、瞬く間に上層の物見台へと到着したのです。
物見台の 四方 五方は「ぎやまん」の板で囲まれており、雨風を防ぐとともに見通しが良い巧みな造りになっております。さらに、敵の動静を伺う遠眼鏡や、櫓をよじ登って来る曲者を発見する覗き窓も備わっておりました。

砦の構造・配置を記した見取り図や、諸派の兵法書なども供覧されており、深く得心すると同時に、万一これらが宗敵の手に落ちたりすれば、我が教団にとっては存亡の危機に陥るという懸念も感じました。
至る所に「どかた」と申す侍の肖像を描いた護符が貼られており、この蝦夷地にさえも彷徨っている平家の亡霊を近寄らせない目的なのでしょう。

下層の土間に降りると、蝦夷地の村々から献上された産物などが誇らしげに並べられており、篭城の折にはそれらを糧食として転用する備えと思われます。
ひもじさに堪え兼ねた門徒の中には、言われるままに多額の金子と引き換えて僅かな携行食を受け取り、その場にて食する者もおりました。戦とは田畑ばかりか民の心までも荒れさせるものであり、商人とは如何なる世でもしたたかに生きる術を備えているようです。

魔除けのためか、前述の侍の偶像や「誠」と記した護符・装身具などを娘どもが競って買い求めており、霊験あらたかな護符のようです。しかしながら娘どもの顔立ちを窺えば、必ずしも魔除けを身に付ける必要があるやなしや。

多くの門徒達は、噴火湾沿いに第五街道を北上し、あわよくば途中から早馬街道に移りて郷里を目指すものと思われます。しかしながら、手前の山越内に設けられた関所を通るのは危険であり、多少は遠回りになるものの、人家が少ない日本海側の海岸伝いに北上する経路が比較的安全であろう、という結論に至りました。

茂辺地を過ぎて渡島当別に近付き、山麓に築かれた女人禁制の切支丹城が見えてきましたが、異教徒の呪文が聞こえない距離を保って立ち去り、正月の寒中みそぎで知られる木古内の佐女川神社に詣でる時間も惜しいので、知内の駅逓所まで進んで一休みしました。
各地の駅逓所には、ご当地の名所旧跡や名産品を象った印判を備えてあり、自ら集印帳に押印して旅の記録を残すとともに、集めた印判の数を競う趣向もあるようです。まるで四国八十八箇所を巡る遍路旅において、霊場ごとに朱印を頂戴するような有難味を感じます。

山道に入って千軒に差し掛かると、残雪の量が多いことに気付きます。標高がやや高いことも一因ですが、この一帯は夏場でも雨量が特に多く、蝦夷地内でも有数の多雨地域として知られています。
福島の駅逓所には立ち寄りましたが、相撲道の聖地は参拝しませんでした。近在の村では「女相撲」などという、はしたない競い合いも奉納されるとのことですが、恐いもの見たさを押し殺して先を急いだのです。

我が教団と松前藩とは親交関係にありますが、それ故に敵方の探索も厳しいと察せられるので、福山城のご天守を遠くに望みながら、そそくさと通り過ぎました。
ここから先は右手に急峻な山地が迫る道が続き、左手には日本海から荒波が押し寄せています。道を踏み外せば、せっかく拾った命を失うことになるので、松前小島や渡島大島などの島影を愛でる余裕はありませんでした。

やっとのことで上の国の駅逓所に辿り着き、断崖の上に構えた茶屋で昼食を所望しました。丼に盛った飯の上に、雲丹や鮑、鮭とその魚卵、鮪、烏賊、海老などの切り身を乗せてあり、下の飯が見えないのです。この地では、年貢を軽くする工夫として、安価な魚介類を用いて高価な白米を隠す手法を編み出したようです。

街道に面している笹浪家に立ち寄りました。鰊漁が栄えた時代に普請された由緒ある屋敷は、ご当主が住まわれていた頃にも訪れたことがありますが、後に当主・奥方ともに他界されたため、屋敷や蔵を修復して旅人にも公開されています。
床の間には円空の作と伝わる煤けた木像仏が鎮座しており、この仏は、蝦夷地の首府において昨年開催された円空仏の展覧会に出展されたそうです。それを観覧したことを案内役のご婦人に伝えると、たいそう喜んでおられました。

上の国のすぐ先は、江戸をも凌ぐ栄華を誇った江差になります。甲高い声を張り上げる謡曲の競い会いは耳障りなので、街外れにある駅逓所まで足を伸ばして休みました。繁次郎(すぃげずろ)と申す知恵者を称えた像について地元の者に尋ねてみましたが、この辺りで使われる言葉は訛りが強く、まるで異人の話を聞くようで要領を得ませんでした。

脇街道に入って厚沢部の駅逓所に向かう途中、奉行所の役人や手下どもが集まって、不届き者を探知する怪しげな器具を道端に据えておりましたが、易々とそんな罠にかかる旅人などおりません。昨年、『寺子屋の師範が厚沢部の街道で26里(13里超)でお縄になる』という捕物があったせいでしょうか。

さらに進んで乙部の元名台という駅逓所に着きました。夏場ならば、このあたりの海辺は水遊びや魚釣りに興ずる人々で賑わうようですが、乙部と聞いてまず思い浮かんだのが葡萄酒でした。
知内でも見かけましたが、我らの門徒と思われる人物達とすれ違いました。身なりや所持品を見れば同胞であることは明白ですが、敗走の途中なれば名乗り合うことも叶わず、ただ互いの身を案じて目礼を交わすのが精一杯でした。

獣の形をした奇岩が立ち並ぶ海沿いの道をしばらく進むと大成に着き、駅逓所には・・何もありませんでした。ここも所詮、夏場の水遊びのための厠に過ぎないのでしょう。旅人に売るような品はほとんど無く、集印帳を売るためだけに滞在しているような看板娘が店を守っていました。

道がさらに険しくなったかと思うと急に山中に入り、再び海岸に出た地が瀬棚です。杉には見えないような太い岩塊が、確かに三本並んでいます。刀剣の刃紋にも「三本杉」と呼ばれる文様がありますが、それにも似ていない代物でした。
近くの海上では、巨大な竹とんぼのような白い羽根がぐるぐる回っておりました。あの羽根で風を起こしているのかと思いきや、逆に風の力で羽根を回す「かざぐるま」だとは思いも寄りませんでした。しかし一体、何の役に立つのでしょう・・沖を通る船の目印にする位しか思案が及びません。

狩場山の残雪を眺めながら茂津多の岬を越え、「よってけ!」と誘われた島牧の駅逓所に立ち寄ると、既に門は閉ざされていました。上の国での逗留が長過ぎたようですが、暗くなれば追手に発見される恐れも少ないので、この先は内陸の街道を進むことにしました。

その後は提灯も持たずにひたすら夜道を歩き続けたため、どこをどう通ったのか見当も付きませんが、追手や役人に捕えられることもなく、何とか郷里に帰り着くことができました。

これもひとえに、教祖様のご加護とお導きのお陰に相違ありません。


ということで(どういう?)、カテゴリーを増やしました。
「蝦夷の細道」というカテゴリーには、道内を旅行した際の紀行文を集めます。
今回のような文体にはなりませんので、ご安心を。

posted by 雁来 萌 |00:07 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

スポンサーリンク

スポンサーリンク

コメントする