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2006年04月25日

函館戦争回顧(戦闘の段)

※この回顧談は妄想の産物であり、登場する人物・団体などの名称は架空のものです。
 

我らが魂娑闘霊教団およびその門徒達は、邪教を信奉する宗敵により度重なる迫害を受けて参りました。砂を噛む思いで不当な弾圧や蔑視に堪え、様々な職人の姿に身をやつして、人目を避けながら毎日つつましく暮らしていたのです。

加えて、豚肉を海鼠状に固めた生臭い食物を神体として崇めている、排他的な棒球教団によって、我々の約束された土地が侵略され続けており、崇高な我が教団に対するこれ以上の狼藉を許すことができません。

恨み重なる宗敵を排除して我らの大地と家族と生活とを守り、失われかけた栄光を復活させることを期して、おびただしい数の門徒衆が松前藩の出城に集結したのです。
聖戦に備えて、敵の好物である柏餅を絶やすために買い込み、地元の商家・長谷川家の謹製による携帯兵糧も携えて、篭城の準備を整えました。
 

この戦のために築かれた城内の野外講堂において、教団専属の歌舞団による華麗な舞を奉納しつつ盛大なる祭礼を執り行い、梟の化身である我らが教祖様への絶対的な忠誠を誓って、邪悪な侵略者どもを迎え撃つ聖なる闘いを、武者震いしながら待ち構えておりました。

十里四方にも轟く太鼓の音とともに合戦の火蓋が切られるや、門徒達は二本の棒で張った筵旗を両手で掲げたり、棹に帆を巻いて作った大旗を打ち振ったり、手に手に赤い手拭いやら褌やらを持って横に広げる者は数知れず・・と同時に、教祖様の御真影が描かれた「きんと雲」の如き巨大な風呂敷を、寄ってたかって頭上で波打たせて敵を威嚇し、我らが戦士達を勇気付けたのです。

柳の木の下にお住まいになる、やんごとなき将軍様の指揮に従って戦士達は奮戦し、一時は宗敵を打ち破って蝦夷地から放逐するほどの勢いを見せたのでした。
積年の艱難辛苦から開放されるであろう次の世を想い浮かべ、豆の蔓をよじ登って天に達する少年のように、爽快な気分に浸っておりました。
 

しかしながら、忠臣と見せかけて謀反の大罪を犯した戦士や、己の戦闘技術を過信した戦士の軽薄な振る舞い、鍛錬を怠った戦士達の見当外れな射的、古典的な軍装、慢性的な兵糧不足など、我が教団には不利な条件が多く揃っていました。

勝負は時の運と申しますが、我らは運にも見放されたのでしょうか・・津軽海峡の潮の流れと共に形勢が逆転するのに、さほど時間は要しませんでした。

わずかに一矢を報いることはできたものの、あろうことか、その射手が実は裏切り者だったのです。後になって冷静に考えれば、彼が敵陣地の方角に駆け寄って喜びを表わしていたことに気付くべきでしたが、我らは予期せぬ勝利の瞬間を空想して浮かれていたため、敵に内通しているとは疑いもしなかったのです。

おそらく敵の一味である忍びの者どもが、呼び子を鳴らしたり、懐から黄色い紙やら赤い紙やらを取り出して裏切り者に合図を送る一方、側方からは怪しい色の小旗を振って、我らが戦士達の目を眩ませておりました。
何分にも、愚直に正々堂々と闘うことを常としている我らが戦士達にとって、このような卑劣な戦法は想像だにできず、対抗する術など持ち合わせていなかったため、敵の術中にまんまと嵌ってしまいました。
 

勝敗が決して後、戦士達は法輪を前後に備えた箱形の馬車に飛び乗り、一目散に蝦夷地の奥深くへと落ち延びて行きました。
門徒達も散り散りに敗走したため、仲間がどうやって逃げ延びたのか、互いに知る由もありません。ある者は松前藩の親類を頼って福山城にかくまわれ、ある者は江差の豪商の使用人として身を隠しているとも聞き及びます。千軒岳の麓の切支丹部落に命からがら辿り着き、介抱されて切支丹に改宗してしまった者もいるとか。


げに、慢心とは人の心の常なれど、恐ろしき事かな。

posted by 雁来 萌 |00:48 | トップチーム | コメント(2) |

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この記事に対するコメント一覧
Re:函館戦争回顧

萌ちゃ~ん。例え方が・・・(苦笑)
思わず、笑っちゃいました。

>豚肉を海鼠状に固めた生臭い食物
好物だったりする。(笑)
最近の私のなりたいもの・・・。
棒球教団のマスコットの○ムリンズ。(爆)

posted by 奈々子| 2006-04-25 23:01

敗走経路も・・

まぁ、こんなひねくれた見方もできるんじゃないかと・笑。
次の次のエントリーで、敗走の道中記も書こうかと思っています。

遅きに失した感はありますが、世界中の指定した都市の、天気実況や潮の干満時刻などを見れるサイトをリンク集に加えました。

posted by 萌| 2006-04-26 01:00

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