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2008年06月17日

90年前から50年前まで

先日、プリンスリーグの試合のために室蘭へ行き、朝早く目が覚めたので、あちこちを回って歴史を探訪してきました。
過去を振り返るようになったら、先が長くないらしいですが・・。

私は室蘭(母恋)生まれで・・わ、笑うな!  小林亜星・・
下ぶくれし過ぎてないか



出生地は室蘭新道の真下になってしまいました。
萌え出ずる生誕之地
・・いや、ここに捨てられてた訳じゃなくって、生家があったんです。
「萌ちゃん生誕の地」という石碑・・はまだ建っていません。

現在の母恋駅は、当時とあまり変わっていませんね。
駅弁「母恋めし」販売所
私は貝類が嫌いなので、ホッキを混ぜた飯なんて食べたいとは思いません。

待合室に入ったら、管理を委託されている職員が事務室におり、怪訝な目で見られた気がしました。
見たことあるポスター
入場券を買う観光客がたくさん来るんだろうから、別に怪しくも何ともないだろうに・・入場券を買わないから怪しいのか・・大体、私の父はそこで出札をしていたのだ。

東室蘭方面のホーム
ぷらっとフォームへ
ホームの後ろに宿直用の小屋があったんですが、宿直と言っても翌朝まで暇ですから、夜は同僚が集まってマージャンをしていました。
そこへ夜食を届けたついでに、マージャンを見ていたことがあったような・・父の後ろに立って、覚え立ての数字を読み上げていったら、何面待ちの手かバレてしまうわな。

御前水にある某小学校に入学した頃・・賢そうなお坊っちゃまだこと。
いちねんせい
この校章に見覚えのあるブロガーが、少なくとも1名はいると思われます。

この学校は歴史が長く、開校90周年の式典が昨年行なわれたんですが、私は卒業した訳ではないので案内が来ませんでした。(中退ではなくて転校)
90年前といえば・・大正時代が始まった頃ですよ。

校名の由来は、学校の下の方にある泉です・・バレバレ。
この湧き水が流れ下って「天の川」になる

現在の生徒数は百数十名だそうで、驚いてしまいました。
私が在学していた頃は、各学年に10~13クラスあって、全校生徒は2千7百人もいたんです、ホントに。

信じられないでしょうけど、学芸会って毎年は出れないんです。在校生全員が登場してたら、夜になっても学芸会が終わりません。なので、「去年出た人は、今年はお休み」というルールがありました。今時そんなルールを行使したら、父母が怒鳴り込んで来ますよね。
田舎に転校したら生徒数が少なくて、1回登場するだけだと午前中で終わってしまうので、衣装を替えて1人で何回も登場しました。

「映画会」というのが月に1回程度あり、みんなで体育館に座って、天井から吊るされたスクリーンに映される映画を鑑賞するんです。
「キューポラのある街」も、確か学校で観たと記憶しています・・若かったんです、さゆりちゃんが。当時の川崎の街は煙っぽくて、何だか室蘭に似ていました。

図画の時間には、校舎の裏山へ登って写生をしましたが、
変わり映えのしない景色
手前に見えるのが校舎(当時は木造)で、視界には港と船と工場しか見えないんですから、構図は毎回決まっていました。
最近、左端の小山の裏側でサッカーの試合とかやってるらしいです。
昼になると、工場でやかましいサイレンを鳴らしますが、それはかつて空襲警報に使われたサイレンだと思われ・・。

お昼は給食が出たけども、コッペパンとおかずと脱脂粉乳・・なんて覚えてる人はどの程度いるのか・・マズくて飲み難かったです。これが原因で牛乳嫌いになった人も多いのではないかと。

大体、脂肪分を除いた粉乳を溶かして温めるだけですから、美味しいはずがありません。その原料は、ドラム缶のような形をした、ボール紙のような材質の容器に入って学校に届くんですけど、表面には英語が書かれていて、アメリカから届いたことは子供でも分かります。

今でいう「グミ」のような、鯨の「肝油」という物を定期的に食べさせられて、栄養失調を防ぐための対策だったのではないかと想像します。味は良かったんですけど。

校歌の歌詞が難しくて・・「ばんだのさくらさくところ」で始まるんですけど、いきなり冒頭から、小学生には理解不能な日本語を発声させられます。
この歌詞を音で聴いた子供が、どんな漢字を思い起こせばいいのか・・正しくは「万朶の桜咲くところ」なんですけど、こんな漢字を卒業までには習わない・・どころか、今でも書けませんよ。

途中で、この機関車を置いてある地域に引っ越しました。
鐡原(←製鐵原料=コークス)
ほとんどサービスショットだな。
夜中に「イワシが上がった」と叩き起こされて、バケツやら籠やらを持って浜でイワシを拾ったことがありました。

当時は自宅の横に防空壕があって、夏場は湧き水でスイカを冷やしてました。
防空壕
数年前の春先にはベニヤ板で塞いでありましたが、草が生い茂った現時点では壕が有ったこと自体を想像できません。


posted by 雁来 萌 |07:56 | 思い出話 | コメント(3) |

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この記事に対するコメント一覧
Re:90年前から50年前まで

母の日に「母恋」のキップを、友人サポから貰った事があります(母かぃ‥w)
輪西に身内がいたことがあり、母恋の駅も利用したことがあります
生家を訪ねて子供の頃を懐かしく顧みる場所があるなんて、
街中で育った私にはとっても羨ましいですよ
脱脂粉乳は大嫌いで吐きそうでしたが、肝油は美味しかったですねぇ
小学校は今でも同じ場所にありますが、建て替えられていて校門の位置だけが同じでした

posted by akamini| 2008-06-17 22:59

Re:90年前から50年前まで

>この校章に見覚えのあるブロガーが、少なくとも1名はいると思われます

呼ばれて出てきましたよォ~~~(笑

いやァ、この徽章、懐かしいっす! 
裏面には薄い金属板で出来た取り付け金具があって、これがまたよく壊れたもんです。父親がハンダ付けで治してくれましたっけ……

一昨年のお盆かな、モトマリ墓地から観光道路に出て地球岬→チャラツナイ→南町→北町と歩きました。街中の風景はすっかり当時と変わってしまいましたが、ところどころに懐かしさを見つけてはニヤけてました。

天沢には去年の初夏に訪ねましたよ。駅前からラッパ森→御前水…… 昔は山にくっつくように社宅が沢山ありましたね。天沢にはあの手摺りのある長い階段がまだあって感涙ものでした。

あ、サービスショットもダンケです!!!

posted by ボーナス| 2008-06-17 23:39

同年代連合

輪西ですか・・伯母さんが大沢小学校(宮澤くん出身)にいたし、叔父さんは富士鉄に勤めてたので、よく遊びに行きました。
国道から2本くらい入った道に市場があったけど、今はマーケットに集約されているのかな。
すっかりシャッター街と化して、「てつプロジェクト」が頑張らないと・・

子供の頃から何度も引越したので、あちこちに故郷(のようなもの)があり、「室蘭で生まれて△△で育った・・」と言えるのが便利である反面、その分、郷土意識が薄い気がします。

学校なんて、卒業する年にたまたま「その学校にいた」だけなので、「卒業した」という感覚にはなれないんです。

今回は久し振りに地球岬にも寄ってみたら、みやげ物屋まであった。
歓迎看板は日本語と英語と中国語とハングル文字で書いてあって・・小樽ならばロシア語もあったに違いない。

今なら、手摺を使わなければ登れないような坂の上に小学校を建てるのは・・って考えますよね。当事者の身では何とも思わなかったけど。

ケアハウスか刑務所で一緒になったらよろしくね(笑)

posted by 萌| 2008-06-18 08:31

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