2014年01月12日
無線通信所と海底ケーブル
アメダス厚床の次に根室へ向かう途中で、太平洋に向かって盲腸のように突き出ている落石岬に寄りました。 続いて西和田や花咲にも寄って歴史を勉強し、さらに根室市近郊の遺構なども探索してきました。
落石岬の灯台を見物する訳でもなく、サカイツツジの群落を鑑賞するためでもありません。 車止めからしばらく歩くと、こんな廃墟があります。 石碑には開局時(明治41年)の名称である「落石無線電信局之跡」と記されていますが、読み難いので木製の標柱の方を載せます。 こちらには後の名称:「落石無線送信所跡」と書かれています。 この無線送信所は、1929年にヤクーツクを飛行中だったドイツの飛行船ツェッペリン号と日本初の交信に成功したとか、1931年にアラスカからカムチャツカ半島、千島列島を経て根室に向かっていたリンドバーグ機の不時着を知って救助要請を通報したとか、1939年には太平洋無着陸飛行中のリンドバーグ機を無線によって誘導した、とかいう由緒のある施設です。 現在は根室出身の版画家・池田良二氏の個人スタジオとして使われているそうで、玄関の上にイニシャルの「R・I」をデザインしたマークが掲げられています。 2011年はリンドバ-グ来日80周年に当たり、この廃墟の内部に版画の作品や銅版を展示するなどの企画展「落石計画」が開催されて、リンドバーグ夫妻の二女であるリーヴ・リンドバーグさんからお礼の手紙が届いたそうです。 これは無線用鉄塔の台座だったのではないかと思われます。 裏から眺めるとこんな佇まい 訪問時は時期外れなため、窓なども閉ざされていました。 周囲には送信所の付属施設の土台などが残っています。 これは専門分野だ・・換気扇用の穴まであるし。 残雪を踏み抜いて、こんな穴には落ちたくないもんだな・・。 車止めの横にバイオトイレがあって、研究対象ですから調査しました。 使用後にスイッチを押すと、除雪機のようなブレードが回転して試料がオガクズと一緒に攪拌され、微生物によって分解されるそうです。 あいにく、実証用の試料を投入できる体調ではなかったのが残念ですが、室内は全くの無臭でした。 便座の下でブレードが回転してる場面も撮影したんですけどぉ・・。
昆布盛の先に西和田という地区があり、ここに「和田屯田兵村被服庫」があります。屯田兵関係の遺構はあちこちに残ってますが、現存する被服庫はここだけです。 ただし、野幌の第二中隊本部の裏手にも、小さな被服庫が修復・保存されているとか。(未確認) 和田屯田兵が入植する前年の、明治18年頃の建造らしいです。 アメリカ開拓時代の建築様式を、お雇い外国人が北海道に導入したもので、バルーンフレーム構造は時計台と同様の様式だと説明されるよりも、モデルバーンに似てると言われた方が納得します。 普段は無人で、見学希望者は電話しろと書かれていましたが、時間が無いので窓から内部を撮影します。 かなり年季が入った建物で何度か移設されているしで、土台は腐りかけています。 隣には和田小学校の校舎と古い校門がありましたが、 平成18年に閉校しています。→学舎の風景
続いて花咲にある「根室市歴史と自然の資料館」を見学するために花咲の街を通過しようとしたら、ちょうど祭りの日だから通るべき道路に屋台が並んで通行止めになっており、見知らぬ街で迂回させられると方向感覚が狂ってしまいます。 北方領土に近いだけあって、ロシア語の看板がかかった店(会社?)もあるし、ロシア人(多分)も街中を歩いていました。 左奥が「根室市歴史と自然の資料館」で、右が花咲港小学校です。 この資料館は旧海軍大湊通信隊の根室分遣所だった建物で、終戦後は花咲港小学校としても利用されていました。 ここにはラクスマンの根室来航関係の資料や、樺太の北緯50度に設置されていた旧日露国境の標石などの資料が展示されています。 しかし樺太に立っていた国境標石が、稚内じゃなくて根室にあるというのも相応しくないような・・。 国境関係の文書類の展示には力が入っていました。個人的には、奥にある収蔵展示室(というか物置)のような部屋の方が面白かったです。 ここにお目当てのケーブルがありました。 スキー場のリフトに使われていたケーブルのようにも見えますが、これは明治33年頃に根室市と国後島との間(距離30km以上)に敷設された海底ケーブルで、当時は電信回線が択捉島の北端近くまで繋がっていました。 1945年の旧ソ連軍侵攻の際も緊迫した島の状況がリアルタイムで根室側などに伝えられましたが、旧ソ連軍に占拠された択捉島との通信が同年9月に途絶え、間もなく国後島とのケーブルも切断されたそうです。
その海底ケーブルの根室側の上陸地点を見てきました。 根室市内を流れるハッタリ川の河口(ハッタラ浜)に陸揚庫が残っているので、駐車スペースに車を停めてどこかなぁ?・・と思ったら目の前にありました。 ここが海底ケーブルの出口(というか入口)でした。 鉄筋コンクリート製で造りは頑丈なんだけど、ホントに「跡形が残っている」という程度の廃墟です。 ケーブルが切断されて陸揚庫の役目を終えてからは荒廃が著しく、近くの漁家の倉庫に使われたこともあるとか。 根室市が買い上げて保存する方針を決めたらしいですが・・。
根室市の郊外・友知の近くで国道から逸れて砂利道を進むと、ケーソンのようなコンクリートの塊が並んでいます。→根室半島のトーチカ群について これも当然、造りだけは頑丈で銃眼も残ってましたが、草が深かったので近付きませんでした。 向こうの丘の上には自衛隊のレーダーが設置されていて、対照的な光景でした。
日いずる町というか国境の町・根室市を後にして「穂香」(ほにおい)まで来ると、北海道立北方四島交流センター「ニ・ホ・ロ」がありました。 ここに寄る予定は無かったんだけど、再び訪問することは無いかも知れないので寄ってみました。 道立だけあって建物は立派ですが、展示はイマイチ・・2階の北方資料館の展示室が面白かった程度です。(規模は小さいけど) 無料の展示観覧よりも、貸し室を有料で利用されることを期待している施設のようです。 ウズベキスタンの民族衣装を着て記念撮影できるコーナーがありました。 お約束のトイレ探査 二か国語の併記ならともかく、ロシア語の表記だけでした。 意味は「トイレを汚さないようにしなさい。」←最後の単語だけは分かるでショ。笑 「穂香」という地名も好きだけど、昔この辺を走ってた時に場違いと思えるほど上品なレストラン(オーベルジュ)があって印象に残っています・・ここみたい。 でも「ニ・ホ・ロ」で時間を食って急いでたせいか、今回は気付かずに通過してしまいました。
posted by 雁来 萌 |18:22 | 蝦夷の細道 | コメント(2) |
スポンサーリンク
スポンサーリンク
この記事に対するコメント一覧
端野町にも被服庫が残る
端野町に、「旧野付牛屯田第四大隊第一中隊本部被服糧秣庫」という建物が残っているらしいです。↓
http://www.kitamikanko.jp/kanko/see/see24.html
改修して神社として使われていた時期もあるせいか、それらしい外形をしています。
野付牛(のつけうし)とは野付半島で育てられる牛の種類・・ではなく北見市の旧名で、北見屯田兵が上陸した地の話が出てくる記事を2月下旬に予定しています。
posted by 萌| 2014-01-16 21:53
野幌の屯田兵被服庫
野幌の屯田兵第二中隊本部の裏に、被服庫が残っていました。↓
http://www.consadole.net/kariki/article/1279
posted by 萌 | 2014-11-30 10:44