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2005年12月30日

裏口になった函館

トップチームの試合は、今年も函館で1試合開催されました。
試合に関する話はこれだけにして。(笑)

かつて、函館は紛れもなく北海道の玄関口でした。
内地から来る場合には青森から連絡船に乗り、しょっぱい川の津軽海峡を渡って函館に上陸すると、文字通り「北海道の地を踏んだ」ことになりました。

連絡船には数え切れないくらい乗りました。周遊券を買って、夜行列車で眠りながら全国を旅して回ることは、体力と時間がある年代ならば楽しいはずです。それでも、1週間くらい旅を続けると三半規管が異常を示すようになり、列車から降りても地面が揺れているように感じる頃が、家路につく頃合いです。

青函航路の途中で函館山が見えてくると、「北海道に帰ってきた」という実感が湧いたものでした。たとえ寒風の中に浮かぶ函館山が雪を被っていて、立ち木の薄墨色と混じってモノトーンの風景を見せていても、空気には暖かさを感じました。函館の桟橋に降りて、動かない地面を踏んだ時の安堵感は、どんなに高額な生命保険よりも有り難いものです。(船の揺れに強くない自分にとっては尚更です。)

ところが、青函トンネルが開通して連絡船が無くなると、函館はただの「途中下車駅」のような存在になってしまいました。
玄関口が函館から千歳空港に変わってしまったことが決定的ですが、寝台特急「北斗星」で帰って来るにしても、トンネルを出て目が覚めて、駅弁と朝刊を買うための駅(というか、単にホーム)でしかなくなりました。その駅が函館である必要はまるで無くて、停車時間が短いし、わざわざ降りて別の列車までの間に街を見て回る余裕が無いし、という生活様式に変わったことも一因です。

試合があって函館を訪れる機会が増えてくると、どうせ函館まで行くんだから、ついでにどこかに寄ってこよう、という企みを実行する余裕が出てきました。
大抵の場合、試合の前夜に札幌を発ち、夜中に函館に着く行程になります。朝まで眠っても、試合開始までには時間があるので、のんびり見て回れます。

前回は、隣町の上磯町七重浜にある「台風海難者慰霊之碑(いわゆる、洞爺丸慰霊碑)」を見てきました。心なしか、ゆったりと砂浜に寄せ返す波が、50年前の悲劇を洗い流そうとしているようにも感じますが、そう簡単に忘れてはいけない事故です。ここのすぐ近くに「慰霊碑前」というバス停があるので、場所は分かりやすいはずです。

今年は、函館山の登山道入口の脇にある「青函連絡船海難者慰霊碑」を訪問しました。ここはあまり知られていませんが、国鉄青函局の殉職者のための慰霊碑です。戦時中の連絡船空襲によって殉職した乗務員や、洞爺丸台風で沈没した連絡船(5隻)の乗務員を合祀しています。歴史の証言者として、沈没した船体の一部を石碑に貼り付けてあります。

函館を訪れたら「海鮮丼」や「やきとり弁当」を食べるっていうのも、一つの選択肢には違いないですが、歴史探訪も腹や脳を膨らませることができます。せっかく函館なんだから。


追記(2006-01-03 16:56)

【地名の変更】
洞爺丸台風の日にも連絡船に乗務していた叔父さん(上磯町七重浜在住)からの年賀状によると、上磯郡上磯町は亀田郡大野町と合併して、2月1日から「北斗市(ほくとし)」に変わるそうです。


posted by 雁来 萌 |22:42 | トップチーム | コメント(0) |

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