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2006年12月08日

福蟻城の攻防

※この話は妄想の産物ですから、お忙しい方は読む価値がありません。

もう、一箇月以上も前の話ですが、上総の国で珍しい果たし合いがありました。
市原藩の武術指南役である、尾占家の道場の門を叩き、身のほども知らずに他流試合を申込んだ浪人がおりました。

どうやら蝦夷地から流れてきた者らしいのですが、かつて仕えていた魂娑藩は、諸国に武勇の名を轟かせるほどの軍団を抱えていたにも拘らず、藩の財政が逼迫して藩士達を養えなくなり、藩主自身が行方不明になったのを始め、多くの藩士が流浪の生活を強いられることになったと聞き及びます。

その浪人の風体たるや、髭や髪は伸び放題、身に纏った着物は継ぎ接ぎだらけで裾は摺り切れており、細い帯にて腰の大刀をやっと留めている有様にて、咳き込んだ弾みにでも滑り落としてしまうかに見えました。

奥州を経て陸路を歩いてきたのか海路を辿ってきたのかと問えば、「翼から火を吐くの背に乗って飛んできた」などと戯けたことを申す始末で、窮乏した生活の所為か思考までもが冒されてしまったように見受けられます。

詳しい事情は判然としないものの、その浪人は何やら市原藩に遺恨を抱いている模様で、道場に乱入した折には意味不明な言葉を発していた、という証言もございます。

市原藩では犬をたいそう大事に扱い、態々犬のために調理した朝食が夜明けと共に家々の門前に並べられる様は、一見の価値があるほど見事な光景だそうです。
犬を粗末に扱ったり苦しませたりした飼い主は、厳罰に処されるとも言われており、あるいは浪人の親類等がそのような仕打ちを受けたが故に、恨みを抱いているのでしょうか。

さて果たし合いの刻限が近づくと、城下の姉崎の海岸には物見高い者どもが集まり、遠巻きに事の成り行きを見守っていましたが、太鼓の音が鳴り響いて果し合いが始まりました。

お世辞にも洗練された太刀筋とは言い難く、腰を落として走り回る様は見物人の失笑を誘うほどなのですが、正統的ではない剣法なるが故に尾占氏も処し難い様子です。
天下に名を馳せた剣術指南役との対決なれば、哀れな田舎侍が一刀両断にされるものと誰しもが思っていましたが、あに図らんや、近寄れば下がられ、退けば詰められるという戦法で、次第に尾占氏には焦燥感が見え始め、額には汗も浮かんできました。

にじり寄った尾占氏が打ち下ろした切っ先を寸前でかわしたかと思うと、浪人はそのまま尾占氏の懐に飛び込み、足を取って尾占氏を仰向けに倒してしまったのです。運悪く砂の下には小さい岩が隠れており、後頭部を打った尾占氏は不覚にも気を失ってしまい、難無く浪人に討ち取られてしまいました。

蝦夷地では、羆に襲われた時には逃げずに懐へ飛び込むという風説があるようです。その方法で首尾よく助かった者はいないのですが、逃げれば確実に食い殺されてしまうことを考えれば、万に一つの可能性に賭けるのも、あながち間違いではないのかも知れません。

大方の予想に反した結末に、しばしの静寂があった後、見物人の間からはどよめきとも歓声ともつかぬ声が湧き上がりました。
今年になって、尾占家では先代の当主である揖斐茶公が隠居し、家督を継いだ尼留公の代に替わった頃からは、武術の鍛錬を疎かにしていることが傍目にも分かるほどで、先行きを悲観して道場を去る者も出たとか。

この果たし合いの顛末は幕府重鎮の耳にも入り、浪人相手に不甲斐ない負け方をした市原藩には重い罰が下されました。
指南役の尾占家はお家断絶となったのはもちろん、市原藩は領地を召し上げられ、福蟻城を明け渡すこととなったのです。

一方、単身で見事に市原藩の指南役を打ち負かした浪人は、武士の鑑として賞賛を受け、仕えていた魂娑藩までもが恩恵を浴することになり、福蟻城を受け取りに出向く大役を仰せ付かりました。この役目を無事に果たせれば、さらに恩賞や仕度金が授けられることも期待できます。

師走の9日、魂娑藩を出発した本隊と江戸詰めの警護隊とが合流して、総数二千人の軍勢が福蟻城へと向かったのですが、領地境の峠に差し掛かった所で、市原藩の領地を横取りしようと企む越後の有備藩の兵が待ち伏せていました。

さらに、幕府による厳しい処置に承服できない市原藩士達も多く、藩主からの密命を帯びた刺客や不穏分子が領地内に潜んでいる上、城内に送り込まれた忍びの者どもは、城を受け取に来る魂娑藩士に対して徹底抗戦する構えであるとも噂されております。

(つづく・・かも)

posted by 雁来 萌 |23:57 | 雑念 | コメント(0) |

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