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2014年03月14日

ルクシ峠の事故と竜巻災害

常呂アメダスの次は、佐呂間へと向かいます。
北見市仁頃のハッカ御殿に立ち寄った都合上、山間部の仁頃トンネルと新佐呂間トンネルを経由する国道333号を通って佐呂間町へ抜けることになりました。

昔は、仁頃トンネルの次にサロマトンネルを通ってルクシ峠を越えるルートでしたが、2001年にルクシ峠で土砂崩落が起こって2名が死亡しています。

峠付近には同様な地質が残っているため旧ルートを放棄し、仁頃トンネルの先に別の「新佐呂間トンネル」を掘削するルートに変更されました。この新しいトンネルは全長4,110mで、当時は道内の国道で2番目の長さになる長大トンネルでした。(現在では黄金、穂別、野塚の各トンネルに次いで第4位)

新佐呂間トンネルの工事は2004年に着工して2007年に貫通する予定で、両側から掘削を進めて中央部の1,000mほどを残していた2006年11月7日、オホーツク海側の地域としては珍しい竜巻が佐呂間町若佐地区に襲来しました。

トンネルの工事事務所や宿舎となっていた2階建てのプレハブが跡形も無く崩壊し、工事関係者9名が死亡しました。
トラックが横転したり車が空中を飛んだほどの激しさで、竜巻の強さを示すランクである「藤田スケール」は「F3」と判定されました。→気象庁の竜巻災害データベース札幌管区気象台の調査報告

死者の他にも重症6名、軽傷25名、住宅被害25棟となり、被害のほとんどが若佐地区に集中しています。飛散物は15km以上先まで運ばれて落下していました。(その先はサロマ湖だから落下地点が分からない)

たまたま他へ移転したばかりだった旧若佐小学校跡の校舎に工事事務所・宿舎が間借りし、空き家となっていた教員住宅で被災住民が避難生活を送りました。

これがまず「仁頃トンネル」の入口(というか出口)
仁頃トンネル

続いてちょうど5年前の3月14日に開通した「新佐呂間トンネル」の入口(同上)
新佐呂間トンネル
トンネルの右側に旧道が伸びています。


アメダス探訪「佐呂間」の巻(2013/10/14)

ここが街の復旧とトンネル工事の再開に役立った、旧若佐小学校です。
食品工場のようにも見える

学校の前には大木があり、この辺は同じ町内でも竜巻の被害が少なかったようです。
寄らば大木の陰
竜巻が起こる年の春に若佐中学校が閉校し、夏にはその跡地へ小学校が移転していました。

大樹の陰には開校百年の記念碑などが立っていました。
色々な碑があった
この左側に教員住宅も残っていました。

工事事務所となった校舎の玄関と校章
現在時刻は8時49分
その後、校庭に新事務所・宿舎を建ててトンネル工事は1ヶ月後に再開され、予定より2ヶ月ほど遅れた2007年秋に貫通し、遺族などが参加して慰霊式や貫通式が行われました。

 
アメダスはこんな感じで立っているはずでしたが、
脳内イメージ画像

グラウンドは災害の廃棄物集積所として使われた後、現在はメガソーラー発電所のパネルが広がっています。
今回の探索旅行で初めてのギブアップ
アメダスは太陽光パネルの右寄りの奥に見つかるつもりが結局は発見できず、アメダス佐呂間は翌年への積み残しとなりました。

竜巻は若佐地区の中心部を通過した後、奥の山麓に立つ若佐神社の方へ向かったそうです。
神社へ向かうとは神をも恐れぬ竜巻
この日は折りしも神社の祭礼日、屋根が飛ばされたコミュニティーセンターの駐車場(左)も賑わっていました。
毎年11月7日には慰霊式が行われており、日本風工学会主催による「強風災害フォーラム」もここで開催されたそうです。

昨年12月付けで気象庁から発表された位置データには変更されたアメダス佐呂間の位置が載っているし、佐呂間町の街中を2時間ほど捜し回って土地勘もできたので、次回は簡単に見つかるだろうと思います。


アメダス探訪「生田原」の巻(2013/10/14)

佐呂間でかなり時間を費やしてしまい、昼近くになってしまったけど気を取り直して先へ進み、オモチャの町・生田原へ着きました。

地図上では、街外れに造成した運動公園のような場所にあるらしく、途中の道はくねくねしてたけど無事に辿り着けました。
学校でもあった?
奥は野球場のようです。

田舎町の郊外だけあって、障害物などもありません。
立地に問題なし

道路の向かいに並んでるのは公務員住宅のような雰囲気です。
助炭が太陽光を集光して雨量計を照らしてる

風向計は南を指していました。
指南役という言葉の語源(笑)

さて次は、置戸町のアメダス「境野」へ向かいます。


posted by 雁来 萌 |22:30 | 気象細事記 | コメント(0) |

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