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2014年02月17日

朱円周堤墓から越川橋梁へ

ウトロから斜里へ向かう途中で内陸の方へ進み、朱円周堤墓と越川橋梁を見学しました。

「朱円」の現在の読みは「しゅえん」だけど、元々の地名は「シュマ・トゥカリ」で、朱(シュ)+円(マドカ)というトンチ的な組合せになっています。
川の名前だった「シュマトゥカリペッ」の発音は残っていますが、漢字で「島戸狩川」と記されると元の意味が分からなくなってしまいます。

斜里の近くで国道から少し内陸へ入ると、「朱円周堤墓」(環状土籬)の遺跡があります。
墓だけに舎利町

以前は「朱円ストーンサークル」とも呼ばれていましたが、「土籬」だったら「アースサークル」の方が正確だと思うし、「~サークル」という呼び方は遺跡の形態に基く命名であって、遺跡の使用目的から考えると「周堤墓」が相応しいのだとか。
配置図
出土した土器は栗澤式土器と呼ばれます。(栗澤喜重郎氏に因む)

手前のA号土籬では石を何ヶ所かに分けて敷いてあり、
A号土籬

奥のB号土籬では中央にまとめてあります。
B号土籬
その地下に土坑墓があったそうな。

「周堤墓」は野花南(芦別市)やキウス(千歳市)にも残ってるし、「ストーンサークル」は忍路(小樽市)・西崎山(余市町)や音江(深川市)、最近発掘された鷲ノ木(森町)にもあります。一説では開陽台にも。(嘘)


さらに内陸へ進んで根北峠へ向かう途中に、「旧国鉄根北線第一幾品川橋梁(通称:越川橋梁)」の残骸が残っています。
凱旋門ではない

斜里に来たら、ここを見ない訳にはいきません。
タコ労働で少なくとも11人が死亡したらしい
戦前に作られた10連のアーチ橋で、鉄筋を使わず(使えず)にコンクリートだけで出来ています。

雨降りだったので、落ち着いて写真を撮って回る気にならなかったから、かもめさんのブログ記事や、Wikipediaも参考にして下さい。
道路で分断

 
斜里町の知床博物館協力会が発行した郷土学習シリーズ・第20集「斜里・知床の近代化遺産」(1998年)というハンドブックの中に、
郷土学習シリーズ

橋脚が健在だった頃の写真が載っていました。
ビフォー

こちらは橋脚を撤去する工事中の写真
サイチュー
まるで石橋を叩いて壊す?工事だったようです。

橋脚2本を壊したりしないで、上りと下りを分けて片側1車線ずつを別々のアーチに通す方法もあっただろうに。
当時は、どうせ使わない邪魔な橋という認識だったんでしょう。

橋を渡った先には、標津方面へ続いていた線路(予定)の痕跡が延びています。
線路跡は続くよ どこまでも
この道を進んでみたかったけど私有地のようだし、雨降りだし石だらけで路面状態も良くないので、諦めました。


昨年から、腰を痛めることが時々あり、現在も1月からの不具合が完治していない状態・・今年のドーム除雪は無理っぽいので自重します。
決して、全道フットサルを観戦するためではありません。


posted by 雁来 萌 |21:39 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |

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