2013年11月16日
国境に接する町の軍事遺構
前々回の記事で紹介した沼川と稚内空港との間に、「恵北」〈けいほく〉という地区があります。
ここには、太平洋戦争が始まる時、択捉島の単冠湾を出港してハワイに向かっていた日本海軍の空母機動部隊(司令官:南雲中将)に向けて、開戦(真珠湾攻撃)の指令である「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という電報を発信した通信所の遺構があります。
この片田舎に軍の指令部などあったはずもなく、大本営からの指令を中継打電しただけですけど。
道道の(信号も無い)交差点の脇に、目立たない看板が立っています。 正式な名称は「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」ですが、通称「稚内赤れんが通信所」と呼ばれるようです。 この施設は戦後に米軍が駐留し、昭和47年に日本へ返還された後も非公開でしたが、平成18年には稚内市に移管され、民間団体の「稚内市歴史・まち研究会」によって少しずつ修復復元されていました。 しかし近年の豪雪に堪えられず、屋根が崩れ落ちて壁にも亀裂が入るなど、かなり損傷が進んでしまいました。上が隊舎で、下が庁舎だった建物のようです。 昔は内部に入れたらしいけど、今は近付くだけでも危険な様子で、この状態から修復・保存するのは難しいかも。 いくらレンガ製とはいっても屋根はトタン葺きで、今から80年以上前の昭和6年に建てられた施設ですから。 NHKのドキュメンタリードラマ「望郷」のロケにも使われたそうで、倉庫だったらしい建物だけは原形を保っています。 不釣合いに立派過ぎるかも知れない看板 玄関のガラス越しに内部を撮影:郷土の歴史学習などに利用される雰囲気。
宗谷岬の背後は丘になってて、宗谷海峡を見下ろすことが出来ます。 宗谷岬公園内には「大岬旧海軍望楼跡」が残っています。 当時最強だったバルチック艦隊の動向を早期に察知するため、明治35(1902)年に建造された要塞であり、稚内市内に現存する唯一の明治時代の建築物なので、市の有形文化財に指定されています。 望楼から宗谷海峡を監視する光景を想像 はるか沖行く、外国船が見えるかも・・宗谷岬だから。 国際的には、欧州人として初めて海峡を通過したフランス海軍士官・ラペルーズを記念して「ラペルーズ海峡」と呼ばれ、顕彰記念碑も立っています。 彼がこの海峡を発見した訳ではないし、間宮林蔵が間宮海峡を発見した訳ではないのですが。 うねうねした宗谷丘陵に突出する小山の頂上に、自衛隊のレーダーが設置されています。 これが言うなれば現代の「電子望楼」な訳で、近付くと撃たれるかも知れないから遠景写真を撮って退散。
日ソの国境も難しい問題ですが、領空を侵犯したとして大韓航空機が撃墜された事件がありました。昭和58(1983)年9月1日のことです。30年も経ったというか、わずか30年前というか・・。 自動操縦の入力値を間違えて飛行コースが逸れたとか言われてますけど、戦争中でもないのに民間の旅客機を戦闘機が撃墜するという、前代未聞の衝撃的な事件でした。 確かに領空侵犯には違いないですが、図体のデカい航空機に爆弾でも積んでると思ったのでしょうか。 機体の残骸や遺体はオホーツク海を流れ下って、しばらく後には能取岬でも発見されたりしました。(前日に、その辺を旅行してた) 事件の2年後に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願って「祈りの塔」が建てられました。右は「世界平和の鐘」です。 曲がった先端は撃墜された位置の海面に向かっていて、高さ19m83cmは1983年に因み、搭の全体は犠牲者の人数に因んで269片の花崗岩で作られ、左右の翼壁は犠牲者の国籍数に因んで16枚で構成されているとか。 参考:北海道無料写真素材「祈りの塔」 日本人なら鶴に見えますが、鶴といえば・・復活した鶴丸マーク(24日のギラヴァンツ北九州戦は、JALサンクスマッチ) かつて、太平洋岸の某市に「鶴丸デパート」という百貨店がありました。学生服を買うくらいしか行ったことが無かったけど。 最近、ニュースで「日-ソ」や「日-ロ」と書かれた文字を見て、どんな国際問題が起こったのかと思ったら野球の話でした。紛らわしいから他の略記を考えて欲しいな。
posted by 雁来 萌 |07:16 | 蝦夷の細道 | コメント(0) |
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