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2012年02月11日

帰国

1982年4月1日(木)、エイプリルフールですが、何事もなく宿で朝食。
イギリスは美味しいものがないと良く言われますが、「イギリスで美味しいものを食べたければ1日に3回、朝食を食べれば良い」と言われるように、朝食だけは充実しています。
ちなみに、そう言ったのはイギリス人(月と6ペンスを書いたサマセットモーム)ですから間違いありません (笑

宿は定年退職して家族で経営しているような感じで、ご主人が食事を運んでくれました。
紅茶を運んできて、コーンフレークスに牛乳を注いでくれました。
ほどなくしてベーコン&エッグスとイギリスらしくウェルダンのトーストが来ました。
サラダと、あと何か1品あったと思いますが思い出せません。
スープもあったかな? とにかく豪華でした。

宿はラッセルスクエア駅の近くなので、地下鉄ピカデリーライン1本でヒースロウまで行けますが、当時は各駅停車しかなくて1時間もかかるのですが、13:10発の飛行機のため宿をチェックアウトして、まっすぐ空港へ向かいました。

空港は当時IRAが活発にテロ活動をやっていたため、荷物検査とかは厳重でした。

ブリティッシュエアウェイズのジャンボ機で、アンカレッジが14:15着、成田は翌日の14:30着という具合に、ずっと昼間なのでオーロラは見えません。

それにしても成田までアンカレッジ経由は疲れます。
当時ブリティッシュエアウェイズのロンドン・成田便は週7往復あり、アンカレッジ経由(17時間20分)が4往復、モスクワ経由(14時間)が1往復、直行便(11時間30分)が2往復ありましたが、アンカレッジ経由が一番安かったです。

最近は少ないかも知れませんが、海外に行くと食事が合わなくて食欲がでないとか体重が減るという人が少なくなかったですが、私はそういうことはなかったのですが、さすがに帰国したら寿司を食べたいと思いましたね。

海外を旅すると、日本(日本人)の良い面、悪い面がよくわかって勉強になりました。

posted by かもめ |12:35 | 海外旅行 | コメント(8) |

2012年02月10日

ロンドンでショッピング

1982年3月31日(水)
まず、タワーブリッジに行きました。
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内部を見学できるのですが、もの凄い行列で諦めました。 女の子がいっぱい並んでいたから、ハイスクールの社会見学かも。 次に1年前にダイアナさんが結婚式を挙げたセントポール大聖堂へ。 近くのショップでは、ダイアナグッズが沢山ありました。 ダイアナさんの写真付きの缶に入った紅茶やボールペンなどを買いましたが、さすがに現存してません。 のどが渇いたので商店(コンビ二にあらず)で牛乳買って飲んだのですが、濃くて美味しかったです。 ジャージー種なのか、あるいはクリーム添加の加工乳なんでしょう。 ランチはヴィクトリア駅のセルフのレストラン。 ビーフシチューだと思って注文したら、ライスを付けるか聞かれました。 意外に思いながら付けてもらったのですが、口に入れて初めてカレーだとわかりました。 大きな肉の塊がごろごろ一杯入って黒かったので、てっきりシチューだと思ってしまいました。 とても美味しかったです。そういえばダイアナさんが一番好きな食べ物はCurry & Rice と言っていました。 レコード屋を覗いてみました。高校時代、クリフリチャードをよく聴いたので、「C」で探したのですが、見つかりません。すぐに理由がわかりました。 電話帳などと同じく、苗字で並べてあるのです。そりゃあそうですよね。 「R」のところにありました。LP盤を持って帰るのも大変だし、眺めただけ。 地下鉄駅のエスカレーターのステップが木製のがあって驚きました。 5年後にキングスクロス駅でエスカレーターが燃えて31人が犠牲になったため、木製エスカレーターはすべて金属製に置き換わっています。 雨ではないのにコウモリ傘を持ったイギリス紳士は、やっぱりいるものですね。昔の話だと思っていたんですが。 欧州最後の晩、宿はイギリスらしいB&Bにしました。 アットホームでよかったけど、お風呂はバスタブだけでシャワーがなくて戸惑いました。 せっけん(シャンプー洗剤)を十分流すのが難しいけど、不便だと思わないのかな。


posted by かもめ |19:37 | 海外旅行 | コメント(6) |

2012年02月09日

ウィンザー城とハンプトンコート宮殿

1982年3月30日(火)、ロンドンでレンタカーを借りました。
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事前に新潟の自動車運転免許試験場へ行って、国際運転免許証を発行してもらっておきました。 ヴィクトリア駅近くのレンタカー会社に行き、予約はしてなかったけどスムーズに借りることができましたが、私が泊まっているホテルへ電話して「ジャパニーズジェントルマンがそちらに泊まっていますか?」と、確認していました。外国人は要注意なんでしょう。連泊で、その晩も同じ宿に泊まることになっていたからよかったけど、そうでなければどうなったのか? デポジットを多く預けたのか? 料金はそんなに高くなかったと記憶していますが、22歳未満は保険料が高かったです。あと9日で22歳になるのに。 右ハンドル・左側通行なので楽でした。方向指示器は左側にありますが。 まずはロンドンから30kmくらいのウィンザーへ。ウィンザー城は駅のすぐそばなので、電車でも便利なんですが、外国で車を運転してみたかったのでレンタカーにしました。
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駐車場がわからなくて路上に駐車したら警官が通りかかり、「城にいくのか?」「ここは駐車禁止だよ」「罰金20ポンドだよ」「あっちに駐車場あるよ」と言われて駐車場に入れました。
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次にハンプトンコートパレスへ。
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宮殿はあまり記憶に残ってないのですが、庭園がとてもよかったです。日本でイングリッシュガーデンブームが起こる前でしたが、気に入りました。 庭を見ていると、急に爆音が聞こえて来ました。どこかで工事をやっているのだろうかと思って見渡しても何も見えなかったのですが、どんどん激しくなり、いったい何が起こったのかとだんだん不安が募ってきたんですが、空を見上げたら怪鳥が近づいてきたんです。 ヒースロウ空港から近く、離陸してすぐの低高度で真上とはいえ、ここまで騒音がひどいとは驚きました。 時間があまったのでオックスフォードまでドライブしました。
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駅は地味です。 町もこじんまりして落ち着いています。
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ロンドンに戻ったらこんな光景が。
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最後にガソリンを入れたのですが、初めてセルフを体験。 想定内の少しの戸惑いだけで無事、給油と支払い完了。 楽しい一日でした。


posted by かもめ |11:10 | 海外旅行 | コメント(0) |

2012年02月08日

ロンドンへ

1982年3月29日(月)、ダンケルクで船に乗ります。
ダンケルクは第二次大戦の激戦地ですが、夜明け前で、激戦が繰り広げられた海岸を見ることはできませんでした。  
あと、ダンケルクは1メートルの長さ(子午線の1/40000000)を求めるための測量を、こことバルセロナとの距離を測量で求めたことでも有名です。(バルセロナと同経度なので)

船は4:10に出帆し、2時間20分後のイギリス時間5:30にドーバーに着きます。
イギリス国鉄の船なのか、フランス国鉄の船なのか不明でしたが、青函連絡船くらいのサイズでした。
船内に免税店があり、酒などを買う人で賑わっていました。
ドーバーに着く前から、下船口に大勢の人が並んでいました。
並んでいたというより、船倉のような車両甲板のような広い場所に大勢がひしめきあっていました。
豪華客船だとは思ってなかったけど、難民ボートに近い状態に戸惑いました。
案の定、近くで立っていた10歳くらいの男の子が泣き出しました。父親と思われる人は、なだめるどころか、「男の子なんだからしっかりしなさい」というような感じで叱責して、余計その場の雰囲気が悪くなり、早く下船になることを願いました。
まだ暗く、ドーバーの白い海岸(崖)・ホワイトクリフを見ることはできませんでした。

下船後、ドーバー6:30発のイギリス国鉄でロンドン・ヴィクトリア駅へ。ヴィクトリアは8:10着のはずが、8:30くらいに着きました。さっそくイギリスらしいと妙に感心しました。
ドーバーで列車に乗った際、4人ボックス席に2人で座っていたら、高校生くらいの女の子2人が来て相席なりましたが、ちょっとしたらいなくなりました。他に空いている席を見つけたのでしょう。
怪しい日本人の隣が嫌だったということはないと思いたい (笑
その女の子、フランスなまりの英語だったみたいで、言葉自体はよくわからなかったけど、ボディランゲージで「空いてますか?」「どうぞ、空いていますよ」とのやりとりは容易にできました。

ロンドンに着いたらさっそく観光を開始。ロンドン交通博物館へ。
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大英博物館は入館無料でした
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小学生の団体がいて、どこから来たのか互いに聞いたりして楽しかったです。 英語が通じるのは凄くありがたいものです。 これは見逃さないようにと思ってました。触るなと書いてあるけど、触る人が多いのか、今はガラスケースに入ってます。
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ここは戦利品蒐集館という感じですが、まさにこれは戦利品ですね。
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高校時代、BBCの短波放送でビッグベンの鐘はよく聞きしたが、生のは初めてでしたが、17:15なので1回だけ「カ~ン」でした。
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毎正時には学校のチャイムでおなじみのメロディー「キンコンカンコン」が聞けます。


posted by かもめ |17:16 | 海外旅行 | コメント(0) |

2012年02月07日

ダンケルクへ

1982年3月28日(日)
アムステルダムの怪しい宿をチェックアウトし、アムステルダム中央駅へ。
東京駅はアムステルダム中央駅を真似して設計したと言われていたのですが、現在ではその説は否定されています。でも、アムステルダム中央駅と東京駅は姉妹駅になっています。

ところで、昨日書いた、日本人バックパッカーからの聞いた話では、浦河で地震があって40人が亡くなったとか。たしかに北海道では観測史上初めて震度6を記録し、167人が負傷しましたが、死者は実際には発生しなかったので、帰国してデマの恐ろしさがわかりました。

アムステルダムを朝9時前に出るTEE、エトワール・デュ・ノールでパリまで移動するつもりで駅に行きました。
パリ行きの列車がホームに入線していたんですが、TEEとは書いていないし、TEEにしては少々老朽化した車両でした。
この列車は1時間前に出発するはずのパリ行の列車なのか?
フランスはまだサマータイムに入ってなくて、オランダ発の国際列車は1時間遅れなのか?
1時間待てばTEEが入線するのか?
駅員さんに聞こうかと思ったのですが、同行したバックパッカーが、この列車で良いと言ったので、従いました。
昼食はTEEの食堂車でとるつもりだったのが、こんなわけで貧乏旅行に付き合ってサンドイッチになってしまいました。
アムステルダムで1泊したのは、エトワール・デュ・ノールに乗れるという理由もあったし、乗らないのなら遠回りのパリ経由でロンドンに行く意味がないというもの。北極星は遠かった。
そのかわり、パリに着いたら美味しい物喰ってやるぞ!! と心に決めました。

パリで時間があったので散策したら、凄い光景。
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渋滞で先が詰まっているのに交差点に入ってしまって赤信号になり、横方向の車が進むことができず、交差点内で双方入り乱れているのです。交通整理の警官もお手上げ? 秩序を重んじる日本やドイツでは、ここまでひどくはならないと思います。フランスらしいですね。 夕方になり、美味しそうなレストランを探しました。 私は美味しい物が食べられる店かどうかを見極める能力に自信があります (笑 ほどほど良いお店で、そう値段が高くないレストランを見つけました。 私はエスカルゴを食べました。(他にも注文したはずですが、何だったか忘れました) 美味しかったです。 この日は夜行列車でダンケルクへ行き、ドーバー海峡の船に乗ります。 パリ北駅22:35発の列車で、ダンケルクに着くのは4時間40分後の3:15。船は4:10発で2時間20分でドーバーに着きます。 今なら3時間でパリからロンドンに着くのですけど、ホテル代を節約できるメリットもあります。 かつて青函連絡船の夜行便が人気あったのと同じですね。(ドーバーのは横になって寝れる席はありませんが)


posted by かもめ |11:32 | 海外旅行 | コメント(2) |

2012年02月06日

アムステルダムへ

1982年3月27日(土)、朝8時くらいにケルンで列車を降ります。
2等の定員8人のコンパートメントで、ベルリンを出るときは私の一行3名だけでしたが、真夜中なのにハノーファーあたりでは満員になりました。
年輩の男性がお孫さんと思われる10歳と12歳くらいの女の子に「ここに座って行きなさい」というようなことを言って去って行きました。女の子はとても緊張していました。
怪しい日本人が怖かったということはないと思いますが (笑
日中なら話しかけるのですが、夜中で眠くて直ぐにまた眠ってしまい、気が付いたらドルトムントあたりで、すでに私の一行3名だけになっていました。
ケルンでアムステルダム方面へ行く列車に乗り換えるのですが、1時間くらい時間があるので、駅前にある大聖堂を見ました。
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第二次大戦の空爆で、連合軍はこの大聖堂には爆弾を落とさないようにケルンを空爆したそうですが、そう上手くできるはずはなく、内部はかなり被害が出たようですが、幸い、建物全体が崩壊することはなく、修復したそうです。 ケルンからアムステルダムへ向かいます。約3時間です。 ケルンを出ると、デュッセルドルフ、オーバーハウゼン(タコのパウル君が有名になりました)を通り、オランダへ入ります。国境でオランダの税関職員が列車に乗り込んできますが、若い女性で、どうも新人の実地研修のようで、後ろに年輩の職員が見ています。 マニュアル通りというか、まるで犯罪者の取り調べのような応対で、ちょっと不愉快でした。 この数年後にはシェンゲン協定で国境検査はなくなったのですけどね。 アムステルダム名物の運河の観光船に乗りました。
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オランダがスケートに強いのは、運河が発達しているからだそうです。(冬は凍るので) ダッチロールという言葉も生まれるくらいですから。 運河沿いを歩くと、名物のニシンの屋台がありました。 よく日本で売っているような、酸っぱいマリネではなく、ほとんど生です。 三枚におろした半身のニシンの尻尾をつかんで顔の上に持っていって口に入れるシーンをTVで見た人もいると思いますが、たしかにそういう店もありますが、食べやすいサイズにカットして皿に載せてみじん切りのタマネギをかけてピクルスを添える店が多く、それを食べました。 美味しくて感動しました。屋台にジョンデンバーの写真があり、彼もその屋台で食べたそうです。 今度ヨーロッパで最も食べたい物はこれですね。 これを食べるためだけにオランダに行っても良いと思います。イタリアやデンマークでも食べることができるようですけど。 ちなみに、レッズの監督のペトロビッチさんが日本で好きな食べ物はホッケだそうですが、ヨーロッパの人はニシンを食べ慣れているからホッケが好きでも不思議ではないと思います。 次にアンネフランク記念館に行こうと思ったのですが、まだ午後4時前と思っていたら5時前。
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夏時間は今日からだった? てっきり4月上旬からだと思っていたんだけど・・ 実は翌日から夏時間になるため、この時計塔は前日から1時間早めるということが、あとでわかりました。 アンネフランクは諦めてホテルを探していると、数人の日本人のバックパッカーと出会い、近くに安いユースがあるよとのことで案内してもらいました。 どうも怪しいユースで、自称ユースでユースホステル協会に登録されてない宿のようで、とても粗末な宿でしたが、安いので我慢しました。 大部屋にベッドが並んで男女混合でした。シャワーはありましたが、脱衣スペースもない簡素なもので、私以外、ほとんど誰も利用しなかったようです。 晩ご飯はバックパッカーら、総勢8名ほどで安そうな食堂へ。 そこのご主人、「日本にはソニーがあるけど、オランダにはハイネケンがある」と、しきりにハイネケンを自慢していました。 本当はもう少し良いレストランで落ち着いて美味しい物を食べたかったけど、大勢で楽しく過ごすことができました。


posted by かもめ |15:07 | 海外旅行 | コメント(1) |

2012年02月05日

東ベルリン

1982年3月26日(金)、東ベルリンへ行きます。共産圏への入国は初めてです。
通常、日本人が東ドイツへ入国するのにはビザが必要ですが、西ベルリンからの日帰り観光に限り、ビザなしで入国できます。
ただし、25マルク(日本円で3000円程度)の両替(西ドイツマルクから東ドイツマルクへ)が強制されます。
しかもそのレートは銀行の1/5の極端に不利な、ぼったくりレートです。
(2000円程度の入国税だと思えば良いのでしょう)

泊まった西ベルリンのホテルをチェックアウト。
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右は前日に知り合った名古屋工業大学の学生で、2日間行動を共にしました。 地下鉄に乗って東ベルリンへ入ることのできるフリードリッヒ通駅で降り、厳重な入国審査と強制ぼったくり両替を済ませて、晴れて入国。
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見えているのは地上を走る鉄道のフリードリッヒ通駅。 西ベルリンと違って車の往来が少ないし、走っている車もトラバントなどのしょぼい車ばっかり。 ホーネッカーは高級車に乗っていたそうだけど。 以前紹介したことがある写真ですが、ブランデンブルク門
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壁のあった1961年から1989年までの28年間はこういう光景でしたが、現在はもちろん、過去も往来の激しい通りだったそうです。 ベルリンテレビ塔へ行きました。
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この写真でも、車も人も往来が少なくて活気がないのがわかると思います。活気に満ちた西ベルリンとは大違いです。 ちなみに、人が多く集まって賑やかだと思った場所があったのですが、賑わうはずです。 商店らしき店で行列しているのですから。何の行列かわからなかったけど、物を買うのに行列するのが毎度のことなのは気の毒ですよね。 ランチはテレビ塔の上にある展望レストランで食事しました。ステーキを食べ、ビールを飲んでもお金が余りました。 25東ドイツマルクは、銀行で両替したら、日本円で600円くらいなのに。(プラザ合意後は400円くらいに) このあとコッホ記念館で入館料を払い、さらにセルフのレストランに寄ることもできるほど、東ドイツの物価(というかレート)が安いので驚きました。それだけ経済力が弱いという証拠でしょう。 東欧の経済は脆弱なのは知っていましたが、東欧の中でも東ドイツは優等生だと言われていたのにこんなレベルでは、他の東欧諸国の経済力は、どんだけ弱いのか。 いかに共産経済が上手くいかないのか、容易に想像できました。 ちなみに、コッホ記念館では北里柴三郎の業績が紹介されていて嬉しかったです。 ただ、ドイツ語があまりわからなかったです。大学ではドイツ語習ったのですが。 セルフのレストランでアメリカからの旅行者と親しくなったのですが、その人は「ブロイラーって何?」と聞くので、「ヤングチキン」と教えて上げました。 アメリカでブロイラーは通じないようですね。 その人、付け合わせのキャベツの浅漬け(ザワークラウト風)がとても美味しいと言っていたので、私はソーセージ(キャベツの浅漬け付き)を食べたら、確かに美味しかったです。 共産圏の体験は、とてもよかったです。1989年以降は北朝鮮など、ごく一部しか残ってないし、ビザなしで気軽に入国できないし、30年前に行っておいてよかったです。 フリードリッヒ通駅から地下鉄で西ベルリンへ戻り、夕食をとり、23:26発の夜行列車でケルンへ向かいます。 もちろん、ちゃんとキップを買いました。


posted by かもめ |07:45 | 海外旅行 | コメント(2) |

2012年02月04日

ベルリンへ

西ベルリンではほとんど写真を撮らなかったので、今日は写真はありません。

ドイツのアーヘンでモスクワ行きの列車に乗り換えたわけですが、空いていて、コンパートメントはベルリンまで貸し切り状態でした。
気楽と言えば気楽ですが、アーヘンまではサンフランシスコの人と楽しく会話していたので、ちょっと寂しい気分になりました。
それと、ちょっと不安が募ってきました。何に不安なのかと言うと、ユーレイルパスは東ヨーロッパはエリア外でした。(現在はでもポーランドやスロバキアはダメではなかったかな)
だから、ベルリンに行く際、東ドイツ内のキップを買って乗車しないといけないようなのです。
ところが、地球の歩き方に「ユーレイルパスを見せただけでフリーパスだった」との情報が載っていて、上手くいけばキップを買わずに済むと思ったのです。ドイツが分断されているから仕方なく東ドイツを通らないといけない事情から大目に見てくれるのかという気持ちからであって、無賃乗車してやろうという、ずるい気持ちはあまりなかったのですが。
アーヘンを22時くらいに出て、ケルン、デュッセルドルフ、エッセンを通り、日付が変わった頃にドルトムントを通りますが、すでに眠っていて、目が覚めたのは西ドイツと東ドイツの国境での停車で未明の4時頃。3月ですから夜明け前ですが、もの凄く明るいのです。監視塔がいくつもあり、凄い数の照明と兵隊で厳重に監視しているのです。
東西冷戦が終わる7年前で、まだベルリンの壁もあった時代ですから。
ここで降りず、西ベルリンに行くのならビザは不要ですが、キップを持ってないし、なんだか不安になってきました。
ここで列車から引きずり降ろされて収容所に収監されることはないだろうけど、銃を持った兵隊が大勢で列車を監視しているので、とても怖かったです。こんな光景は生まれて初めてですから。
20分くらいして発車しましたが、それでも不安でした。ベルリンへ行かず、列車ごと収容所へ行くのではないかと。
そうこうしているうちに車掌さんがきました。
ユーレイルパスしか持っていないと知り、たいそう怒りました。もちろん、割増運賃を払いました。
かなり怒っていたので、きっと地球の歩き方を見て、キップを買わずに乗る日本人が激増して問題になっていたのでしょう。
無事、朝7時頃にベルリンに着きました。西ベルリンの中央駅はBerlin Zoo駅という名称だけあって、駅前にベルリン動物園があります。朝食後、動物園へ行きました。
ここで初めてパンダを見ました。最近有名になったクヌートはこの動物園です。
駅前(町のど真ん中)に大規模な動物園があるのは凄いです。

東ベルリンは翌日に行くことにし、この日は西ベルリンを観光。
地下鉄が面白かったです。ここもスリリングだとは予想してなかったです。
西ベルリンが運行しているのは数路線あるのですが、そのうち2路線は始点と終点が西ベルリンですが、途中、東ベルリンを通るのです。
1路線の1駅だけは東ベルリン内で乗り降りができ、東西ベルリンを行き来できるのですが(もちろん出入国審査は厳重ですが)、それ以外の駅は徐行で通過するのです。
薄暗くて広告等もなく殺風景な、まるで廃墟のようなホームに監視の東ドイツの兵隊が立っている横を電車がそろりそろり通過するという、なんとも異様な光景です。もちろん、兵隊は銃を肩から下げています。
写真を撮ったら問題になるのではと心配で、写真を撮らなかったのですが、撮っておきたかったです。
この光景はベルリンの壁が崩壊する1989年秋まで続いたはずですが、この時代に見ておいたのは貴重な体験でした。
幽霊駅とも言われていましたが、こちらに詳しく書かれています。

posted by かもめ |20:05 | 海外旅行 | コメント(0) |

2012年02月03日

パリ市内観光第2日目

1982年3月24日(水)、晩の夜行列車でベルリンへ向かうため、日中はパリ観光しました。

まずはルーブル美術館へ。これが問題の写真。
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ストロボを焚かないつもりが発光してしまい、ひどく怒られてしまいました。 ここは1日では全部見れないくらい、見る物が多かったです。 ランチは手頃なレストランへ。 ここで事件が。 近くのテーブルで食事していた30歳くらいの男性が、食べている途中で急に外へ出ました。それに気づいた店員が走って追いかけてなにやら外で言い争っていましたが、やがて男性は戻ってまた食べ始めました。 無銭飲食未遂なんでしょうか。全部食べ終わる前だから呼び止められても適当に言い訳できるという魂胆なのでしょうか。 後味の悪いランチでした。 午後は蚤の市へ。ソルボンヌの赤いトレーナーが気に入って買いましたが、ガイドブックでは値切るようにと書いてあるので値切ろうとしたら「ノンノンノンノンノンノン!!」と、おばさんが凄い剣幕で怖かったです。 もともと妥当な価格だと思ったので値切らなくてもよかったのですが、日本人は値切ろうとせずに買うカモと思われたら良くないかと思って値切ろうとしました。 ここでまた事件が。 人混みを歩いていたら、前を歩いていた青年2人組の歩きが急に遅くなったのです。2人のうち1人がウォークマンを操作し、故障したそぶり。 すると後方から歩いてきた別の青年2人が、早く歩いてくれないかという感じで迫って(接触して)来たのです。 4人に挟まれてしまったわけです。 私は何か嫌な感じがして横に避難し、友人にも促したのですが、すでに友人のショルダーバッグのファスナーが開いていました。 バッグにはカメラが入っていたくらいで、財布は入れてなかったせいか、何も盗られないですみました。 私と同じくらい(当時私は22歳)の年齢の4人組でした。 危ない思いをしました。 憧れの花の都パリの現実です。 そういえば、歩道は犬の糞だらけでしたが、その後、パリ市は清掃に力を入れていると聞きましたがどうなんでしょうか。 飼い主の意識が変わらないとダメという気がしますが、変わっているでしょうか? 最後に下水道博物館へ。当然、博物館は地下にあります。 レ・ミゼラブルでジャンバルジャンが下水道を走って逃げるシーンがありますが、パリでは下水道網が古くから発達しています。パリの電線が地中化しているのも下水道網のおかげだそうです。 市内観光を終え、パリで最後の仕事。 今回の旅行の最後はロンドンですが、ユーレイルパスではドーバー海峡の船やイギリス国鉄には乗れないので、キップを購入する必要がありますが、事前に学割で買いたいので旅行代理店へ行きました。 今後の行程だと、ベルギーのオステンドからドーバーまで船に乗るのが便利なのですが、フランスの旅行代理店でベルギーからイギリスへのチケットを購入できるのかわかりませんが、ダメ元で窓口のパリジェンヌに聞いたら、This is France と言われてしまいました。やっぱりねぇ。あっ、でも珍しくフランス人が英語しゃべってくれたので、少し嬉しかったです。 ダメだったときはフランスのダンケルクからドーバーへ渡るのを考えていたので、ダンケルク→ドーバー→ロンドンのチケットを買いました。 おかげで数日後に列車乗り換えのため、またもパリに寄ることになりました。 パリ北駅(Paris Nord)の周辺には、殻付きの生牡蛎を売っている店が軒を連ねていました。釧路や函館なら、駅そばで海産物売っていますが、少し内陸のパリでも売っているとは、フランス人は牡蛎が好きなんでしょう。 パリ北駅17:10発のコペンハーゲン行に乗りました。 本当は同じ時刻発のモスクワ行に乗るはずでしたが、列車がありません。 コペンハーゲン行にモスクワ行が併結されているのかと思ったけど、端から端まで車両を調べてもベルリン方面へ行く車両がありません。 じゃあ、ベルリンは諦めてスウェーデン方面でも良いかな? なんて思って乗りました。 時刻表を見ると、ベルギーのオステンド発モスクワ行に、ドイツのアーヘンから乗り換えができることがわかり、そうしようと思いましたが、時刻表を信じていいのかちょっと不安でした。 あとでわかったのですが、季節によってパリ発モスクワ行は17:10から16:20に繰り上がるようでした。 1日パリ観光をし、いろいろと事件もあり、さらにモスクワ行の列車がないなどであたふたして疲れてます。
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最初はコンパートメントに私と友人だけでしたが、途中で満員になりましたが、ベルギーに入ったあたりでは私と友人と、サンフランシスコで眼鏡店をやっているというご夫婦との4人になり、会話が弾みました。英語が通じるのはありがたいです。 とても真面目なご主人で、時事問題なども話題になりましたが、政教分離の話は難しかったです。結局、彼は政教分離が良いのか悪いのか、私の英語力ではわからなかったです。 ご夫婦は終点のコペンハーゲンから乗り換えてスウェーデンへ行かれるとのこと。 で、私と友人はベルリンに行くので、ドイツに入ってすぐのアーヘンで乗り換えです。 本当にベルリンへ行く列車に乗り換えできるのか不安でしたが、サンフランシスコの人がドイツ語ができるため、ドイツ人車掌に聞いてくれ、間違いないと教えてくれました。 オステンド発モスクワ行の列車ですが、ソ連は線路幅が違うので、座席車と食堂車はワルシャワ止まりで、寝台車はソ連国境で2時間停車して台車を交換してモスクワまで行くという凄い(?)列車です。 初めて行く共産圏。想像の100倍スリリングでした。明日紹介します。


posted by かもめ |15:08 | 海外旅行 | コメント(5) |

2012年02月02日

パリ市内観光第1日目

パリでは2日間、市内観光しました。
1982年3月23日(火)、まずはメトロとバスを乗り継いでル・ブルジュ空港へ向かいます。
フランス語がわからないと、バスに乗るのは少し戸惑いがあります。乗るバスを間違えないか、降りる場所を間違いないかはまだ良いのですが、運賃支払いがわかりにくいのです。
カルネという10枚綴りの回数券を購入し、距離に応じた枚数を運賃箱に入れる方法で、下車するときに6枚入れたのですが、どうも3枚でよかったような気がしました。
パリ市の財政に貢献して無事目的地に着きました。
ブルジュ空港はパリで最も古い空港で、定期便は飛んでいませんが、航空ショーをやる空港として有名です。リンドバーグが大西洋横断したとき、パリに降りたのもこの空港でした。
ここにある航空宇宙博物館に行きたかったのです。
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モンマルトルの丘はパリらしいですね。
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セーヌ河畔を歩いてみました。
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こんびにさんのこの写真と全く同じ場所から撮った写真に笑ってしまいました。
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こんびにさんは電車を入れてますが、私は遊覧船を入れました。 晩ご飯はベトナム街へ行ってベトナム料理を食べるはずだったのですが、ベトナム街を探しているうちに良さそうなタイ料理の店があったので、そこにしました。良かったです。 日本製の電器炊飯器がありました。 帰りはメトロに乗らず、ホテルまで歩いたのですが、途中にノートルダムがありました。
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posted by かもめ |10:51 | 海外旅行 | コメント(2) |

2012年02月01日

シャモニー・モンブランとTGV

1982年3月22日(月)、シャモニーのホテルをチェックアウトして、モンブランのロープウェイに乗ります。
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フランス国鉄の駅です。ロープウェイ駅まで徒歩10分くらいだったと思います。 シャモニーの駅や町中には日本人の姿は見かけなかったのに、どこから湧いてきたのか、ロープウェイの駅は日本人の団体で超満員でした。 乗車までかなり長時間並びました。 ときどき駅員さんが「マエエ~」と、大声で日本語みたいな言葉をしゃべっていたのですが、やはり日本語なんでしょう (笑 モンブランに興味があったのは、第1回冬季オリンピックが開催された地だということと、私が行く少し前に両親がロープウェイに乗った話を聞いていたこともあります。 ちなみに母が高山病で具合悪くなって下山時は優先乗車だったそうです。 ロープウェイの終点。
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寒くてふるえています。ここの標高は3842m。富士山頂よりも高いです。
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モンブラン山頂はここより1000メートルくらい上の4810m。西ヨーロッパ最高峰です。 (コーカサスはヨーロッパではないとして、モンブランがヨーロッパ最高峰だという考えもありますが)
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山頂のあちら側はイタリアです。10kmくらい左はスイスです。 スキーヤーなんでしょうか、稜線にたくさん人がいました。
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シャモニーからジュネーブまで移動しましたが、列車でシャモニー・ジュネーブ間を移動する人はほとんどいないようで、スイス国境からは1両だけで、しかも他に乗っていたのは日本人数人だけ。 そんな路線だから、95kmを3時間もかかりました。そういうところをのんびり行くのも悪くありません。 終点のジュネーブも、TGVが発着する駅ではなく、町はずれの小さな小さな駅で、本当にここがジュネーブ?と心配していたら駅員さんが乗ってきて、なにやらフランス語で言うのですが、きっと「終点だけど、折り返すのか?」と言っていると思ったのですが、それをフランス語で確認するだけ私はフランス語はしゃべれないのですが、とっさに「フィニッシュ?」と言うと、駅員さんも「フィニッシュ!!」。他の日本人も私に続いて下車しました。 ちなみに、競技等でゴール地点に到達することを「ゴール」というよりも欧州では「フィニッシュ」の方が通じると聞いていたからです。 「ゴール」というとあちらの人は得点を連想するかも知れませんね。 ジュネーブからパリ・リヨン駅まであこがれのTGVに乗りました。 開業して半年くらいだったので、最高時速は260kmでしたが、翌年に270kmになりました。
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中間車は連接台車です。
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よく、「両端が機関車で中間が客車」といいますが、一番機関車よりの客車の台車(写真中央)にもモーターが付いています。 なお、2階建てのは中間台車(連接台車)の一部にもモーターが付いているし、開発中の新型車は全軸駆動軸だそうです。
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初期の東北新幹線と同様、座席は回転しないので、中央に向かってお見合いの座席配置です。(東北新幹線は反対に背中合わせ)。 ちょうど中央の席だったので、向かい合わせ4人の場所になり、半固定式テーブルが付いています。広げるとこの2倍の面積になります。 食堂車はなく、飛行機のように座席に食事を運ぶ方式のミールサービスがあります。 機内食のように、温めるだけで出すのかと思うような食事で、ちょっといまいちでした。食器もまるで機内食ですから。 デザート(ケーキ)がいるかどうか聞かれたのですが、別料金なら不要と言いたかったけどフランス語がわからないこともあって注文しました。 激甘ケーキだったので、やっぱり断ればよかった。 無事、パリに着きました。 パリは物価が高いので安いホテルにしようと思い、すぐに安宿が見つかりました。


posted by かもめ |12:27 | 海外旅行 | コメント(0) |

2012年01月31日

マルセイユ

1982年3月21日(日)。
なんでマルセイユに来たかったかというと、昔、船で日本から欧州へ行く場合、たいていマルセイユに上陸したので、身近な感じがあったし、デュマの小説「モンテクリスト伯」の舞台だったこともあります。
鴎外は1884年マルセイユに上陸し列車でベルリンへ行ったし、漱石は1900年マルセイユから列車でパリ経由でロンドンへ、島崎藤村は1913年マルセイユからパリへ行きました。
与謝野晶子は往路は1913年シベリア鉄道経由でパリへ行きましたが、復路はマルセイユから船でした。
アインシュタインは1922年、マルセイユから船に乗って日本へ向かいました。
帰りはパレスチナ(現在のイスラエル)に寄ったから、マルセイユ経由かどうかわかりません。トルコへ船で渡り、オリエントエクスプレスだったかもわかりませんし、あるいはジェノバかどこか、イタリア上陸だったかも知れませんね。
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日曜なので市もたっていたし賑やかでした。 ストリートパフォーマンスもやっていましたが、いかついお兄さんが針を頬に刺す芸には驚きました。(本当に刺した?) その人、オーディエンスに強引に投げ銭要求して、若い女の子はとても怖がっていました。 私は後ろの方で見ていたので、金を出さずに逃げるようにその場を離れました。 町が一望できる小高い場所へ移動。
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沖に見える島(手前の小さいほう)にはエドモンダンテス(モンテクリスト伯)が幽閉されていたイフ城と呼ばれる牢獄跡があります。
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昼食をマルセイユですませてから列車でシャモニーへ向かいます。 ニース発マルセイユ・リヨン・ディジョン経由メス行きの列車に乗ります。 リヨンまでは351kmで、3時間13分で疾走します。現在はTVG新線を走るから、もっと速いですが、当時でも日本の在来線よりも速いです。札幌・釧路間はほとんど同じ349kmですが、最速でも3時間46分です。 アヴィニョンからリヨンまでローヌ川沿いに走りますが、ここは原発銀座です。
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シャモニーに着くのは夜遅くになるし、乗り換えのリヨンでの乗り換え時間は短いので、晩ご飯は車内販売か、リヨン駅のキオスクでサンドイッチかと思っていたら、列車に食堂車が連結されていました。時刻表には食堂車の記載がなかったので嬉しかったです。 食堂車に行くと、壁に「本日のメニュー」の張り紙がありました。 フランス語の「メニュー」とは定食(コース)のことです。 フランス語しか書かれてなかったので、どんな料理かわからず注文しましたが、アラカルトだとフランス語を解読してたら日が暮れるし、メニュー(定食)は1種類だけだったので、それを注文しました。 注文後に仏和辞典で解読したら、メインディッシュはウサギのソテーでした。 凄く美味しかったです。 欧州で一番美味しかったものは、これかも知れません。 ちなみに、スペインの料理は全般的に美味しいものの、味付けが雑でしょっぱい傾向がありますが、さすがにフランスはエレガントです。


posted by かもめ |11:03 | 海外旅行 | コメント(5) |

2012年01月30日

カタランタルゴ

1982年3月20日(土)、バルセロナのホテルガウディをチェックアウト。この日はマルセイユまで移動です。
列車の時刻まで時間があるので、港へ行きました。
コロンブスが乗ったサンタマリア号の実物大レプリカです。
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ちなみに、大阪に2倍のレプリカがあります。大阪のは遊覧船として営業しているので実物大では小さくてキャパシティーが足りませんから。 バルセロナ10:02発のカタランタルゴに乗りました。ジュネーブ行きですが、現在はモンペリエまでしか運行してません。モンペリエ以遠はTGVが連絡します。食堂車もなくなったそうです。寂しいものです。 食堂車で記念撮影。
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この車両は見た目はバルセロナ・マドリード間の列車と同じですが、こちらはは車輪幅を変換できる構造になっていて、国境のポルトボウ駅で早歩きくらいのスピードで変換ポイントを通り抜けると自動的に幅が変わる仕組みになっています。 機関車は対応してないので、一旦止まって機関車を後ろに付け替え、半分くらい変換したら再度止まって後ろの機関車を外し、前方にフランスの線路幅の機関車を付けるという算段です。 15:27、アヴィニョンで下車し、パリ発ミラノ行きの列車に乗り換えます。
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機関車はSNCF(フランス国鉄)ですが、客車はイタリア国鉄のです。
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アヴィニョン停車時間は3分しかないのに頑張って写真撮りました。 以前は1等しか連結されないTEEだった名残で、車両にはTEEと書かれていますが、2等車が連結され、IC(インターシティー)となっています。 なお、わずかこの1ヶ月後に、パリ・マルセイユ間はTGVになり、この列車はマルセイユ・ミラノ間の運行になりました。 TGVはあとで何回も乗るし、むしろイタリア国鉄の車両に乗れて良かったです。 アヴィニョン駅近くでローヌ川にかかる橋を渡りますが、アヴィニョンの橋は見えなかったです。 マルセイユには夕方に着き、夕食前に散策。
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この港(旧港)から森鴎外や夏目漱石、島崎藤村らが欧州上陸したし、アインシュタインが日本に行ったときもここから乗船しました。 ところで、バルセロナで印象的だったことがまだあります。 駐車している車が、どれも、ハンドルに大きな大きな盗難防止のカギ爪(ハンドルを回せなくするための)が付いているのです。 車泥棒が多いということなんでしょうけど、驚きました。 それと、スペインではあちらこちら、主要な建物には軽機関銃を肩から下げた警官(軍人?)が目に付いたことが印象的というか、ちょっと怖かったです。 警官が手持ちぶさたに機関銃をかちゃかちゃ音を立てながらちょしている側を通るのは嫌でした。 今でもそうなんだろうか。


posted by かもめ |11:16 | 海外旅行 | コメント(0) |

2012年01月29日

マドリード市内観光とTalgo-PENDULAR

1982年3月19日(金)、欧州6日目、安宿をチェックアウトして午前中はマドリード市内観光をしました。

最初に向かったのは世界的に有名なプラド美術館。
荷物を預かってもらいましたが、館員さんの対応はとてもきびきびしていて、さすがスペインを代表する一流の施設だと感服しました。
30年前のスペインの美術館等は昼休み(シエスタタイム)は閉鎖するところが多く、ピカソ美術館などもそうでしたが(現在は通しでやっているようですが)、さすがにここは通しでやっていました。
ちなみに、スペインでは6年前に公官庁の昼の休業時間は廃止されたそうです。
南欧の慣習も、世界標準に押されるのは時代の流れですね。

プラドに限らず、スペインでは宗教画などが多く、あまり楽しいという気はしなかったけど(印象派とかの方が親しみ持てるのだけど)、勉強だと思ってしっかり見ました。

次にろう人形館へ行きました。ここも人気のスポットです。
札幌オリンピックのアルペン・回転で金メダルをとったスペインのオチョアの人形だけは覚えています。
冬季オリンピックでスペイン人が金メダルをとったのはオチョアが初めてですから。
その後40年たってもそれが唯一の金メダルのようです。銅メダルは彼の妹がとったことがあるようですが。
でも、彼は6年前に56歳の若さでなくなっているのですね。

お昼ご飯は比較的庶民的なレストランで食べました。美味しかったです。ワインが美味しいのに驚くほど安かったのが嬉しかったです。そのワイン、素焼きの壺で出てきたのが印象的でした。

マドリードを14:35発のタルゴでバルセロナへ向かいます。バルセロナ着は約8時間後の22:30。
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2等車はそこそこの乗車率のようですが、1等車は往路と同じくがらがらでした。
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往路と違い、1980年にデビューしたTalgo-PENDULARというタルゴ4代目の振り子式車両で、3代目は約9時間かかるところを、これは約8時間です。 この車両、スペインから国外にも輸出され、バンクーバー・シアトル間などでも使用されています。 ドイツでも夜行列車で使用されていたけど現在は使ってないようです。 もちろん晩ご飯はタルゴの食堂車で楽しくとりました。 バルセロナに夜遅く着きましたが、さすがにこの時間はジプシーもいなく、むしろ夜の方が安全だったのは嬉しいといえば嬉しいけど、ちょっと複雑な心境。 一度泊まったホテルガウディが空いていれば良いと思い、ホテルに行ったら空いててホッとしました。 ジプシーはいないとはいえ、夜遅くに荷物を抱えたままホテルを探しに町を歩きたくないし、疲れてもいるし、このホテルに泊まれてよかったです。


posted by かもめ |09:25 | 海外旅行 | コメント(5) |

2012年01月28日

アランフェスとトレド

マドリードの安宿には連泊しました。 (トイレットペーパーが堅いのは我慢)
それまでは機内泊・ホテル泊・車中泊・ホテル泊という具合でしたから、これで少し落ち着いて過ごせます。

1982年3月18日(木)、マドリード郊外の観光名所に行きました。
まずはマドリードのアトーチャ駅へ。この駅は8年前にアルカイダの爆弾テロで191人が犠牲になっています。
この駅から50分ほどでアランフェスに着きます。ギターの名曲、アランフェス協奏曲で、この地名は有名ですよね。
アランフェス協奏曲を知らないならこちらを。 聞いたことのない人はいないはずです。
平原綾香も歌ってます。
アランフェスには王宮があるのです。世界遺産です。
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駅は王宮を模した建物です。
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アランフェスから30分くらいで古都トレドに着きます。もちろん町全体が世界遺産。
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かつての宮殿、アルカサル。 スペイン内戦のときの銃弾のあとなどがそのまま保存されています
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これほど中世の姿を残した町は、なかなかないと思います。
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posted by かもめ |14:17 | 海外旅行 | コメント(4) |