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2015年02月22日

猫の日

今日は猫の日アニマルプラネット(スカパー677ch)はネコ祭りやっています。
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posted by かもめ |08:03 | 動植物 | コメント(0) |

2015年02月19日

再び「三たて」の茹でたて

津軽ソバのような例外を除くと、ソバは茹でたてが一番に決まっていると思っていましたが、面白い話を読みました。

21年前に閉店した有楽町更科の四代目、藤村和夫さんの著書「蕎麦屋のしきたり」では、「更科蕎麦の茹でタテは、全く美味しくありません」「水が切れるまで待っていなくてはなりません」「早くメシャガりたければ種物(温かい汁もの)が無難です」「箸でほぐし、ときどきつまんでゆっくり一杯やるのが最高です」と書かれています。

更科蕎麦は、1番粉(中心部分のデンプン質が多い粉)で、しかも小麦粉をつなぎを使うので、伸びにくいソバだそうですから、こういうことが言えるようです。

事実、藪は出前をしないけど、更科は(現在は違うと思いますが)出前が主体のお店ということで、伸びにくいソバだというのは納得です。

もっとも、具体的に何分後が良いのかはっきり書いてないし、著書にも「ご自分の好みまで・・・」と書かれています。
たぶん、5分とか10分とかいうレベルでしょうし、何時間たっても美味しというはずはないし、いずれにしても、伸びてしまったソバは美味しいわけではないですから、その程度の待ち時間でしたら「茹でタテ」の範疇に入ると言えなくもないと思います。

使う粉によって、伸びるのが早い・遅いがあるのを知った点では、この本はとても勉強になりました。

わざわざ待つこともないと思いますし、「白いソバはゆっくり食べても良い」くらいに考えて良いのではないでしょうか。

1番粉+つなぎに小麦粉を2割入れた白いソバです。
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やっぱり私は黒いソバの方が好きですね。


posted by かもめ |10:52 | 料理の神髄 | コメント(2) |

2015年02月17日

本当に新ソバは美味しいのか?

新ソバが美味しいとされていますが、本当に新ソバは美味しいのでしょうか?
私は新ソバが美味しいと感じたことがありません。
それなのに、新ソバがもてはやされているので、自分は味覚音痴なのだろうかとも悩みました。

ソバに詳しい片山虎之助さんの本には「冷蔵庫のない時代は夏場はソバの風味が落ち、新ソバが出ると大変喜ばれたはずだが、保存性がよくなった現在は夏になっても新ソバに負けないソバを味わうことができる」と書いてあります。

こちらでも同じようなことが書かれています。

また、実は新ソバよりも2~3か月たったソバの方が美味しいと、多くのソバ職人が認めているそうです。
たしかにカボチャやサツマイモなど、2~3か月たった方が甘みが増して美味しくなるものもありますよね。
夏の方が美味いとか、2年たったソバが美味いという意見もあるようです。

しかし、そばもん「新そば」の巻では、新ソバは肯定的に描かれていますね。
ただし、「乾燥機で熱風乾燥させたら香りが飛び、新ソバの意味がなくなる」と書いてあります。

美味しんぼも新ソバは肯定的で「真夏のそば」の題名だったと思いますが、ソバが美味しくない時期の夏なのに美味しいソバがあって、不思議に思ったら、そのソバは日本と季節が反対のタスマニア産のソバ粉なので新ソバだったという話でしたが、30年くらい前の話ですから、その頃はまだ夏場は味が落ちていたかも知れませんね。

そういえば、お米も、昔は新米と新米が出る前のお米の味の差は大きかったけど、最近は昔ほどの差がないように感じます。
保存技術が向上したせいでしょうか。

posted by かもめ |10:07 | 料理の神髄 | コメント(2) |

2015年02月12日

竹鶴物語・その6

竹鶴さんは1935年末に余市の工場に蒸留器を設置し、ウイスキー製造の準備を始めました。
札幌税務監督署に日参し、よくやく1936年夏に酒造免許が下り、秋に大麦を買い入れ、ウイスキー製造を開始しました。
リンゴジュース製造より2年遅れで始めたことになりますね。

1937年にはアップルゼリーとグズベリーゼリー、1938年にはアップルワインを発売したそうです。
当時のゼリーは余市のニッカの工場資料室で展示しています。
ブログで紹介している人がいます。こちらです。
  
ゼリーの容器はガラス瓶にブリキの蓋でしょうか。
このブログには、ウイスキー製造初年の1936年に仕込んだ樽(中身が入っているようです)の写真や、販売初年のウヰスキーやブランデーの写真もありますから、是非ご覧ください。

工場では毎朝7時に竹鶴さんが始業の鐘を鳴らしたそうです。
ドラマでは8時になっています。
当時は朝7時くらいから仕事を始めるのが世の常識でした。
だから、私はドラマに違和感を覚えたのですけど、もしもドラマで7時始業にしたのなら、当時の常識を知らない視聴者が不思議に思ったり、とんでもない会社だと誤解しかねないから8時の設定にしたのでしょうか。

ドラマで1940年の設定になると思うのですが、「国産ウイスキーは鴨井商店のだけ」というセリフがありましたが、当時は寿屋のサントリーウイスキーの他、東京醸造のトミーウイスキーが1937年に発売されています。

1940年10月に、ニッカウヰスキーの販売が始まりました。ドラマでも同じく昭和15年10月に初出荷になっていますね。

ドラマではウイスキーが売れないことになっていますが、実際はすぐに良く売れました。
まず、海軍が沢山購入しました。
また、1940年は、すでに物資の統制が始まっていて、清酒などの酒の生産量が減っていたため、酒であれば何でも売れたそうで、サントリーウイスキーや東京醸造のトミーウイスキーは、飛ぶように売れたそうです。
さらに配給制度もこの年に始まり、4月に清酒、6月にはビールが配給品目になっています。
ウイスキーが配給品に指定された正確な時期はわかりませんが、ニッカがウイスキーを販売開始した10月頃は配給品目になっていたようです。
配給品ということは配給組合が全量買い上げてくれるわけです。
だから営業も宣伝もせずに売れ残らずに全量販売できるのです。
もっとも、配給は一般に供出価格を低く設定されることが多いという問題はあるのですが。

そんなわけで、ウイスキーを出荷してからはどんどん経営状態がよくなり、すぐに赤字解消のめどがついたそうです。

まあ、それではドラマのストーリーとしては面白くないのでしょうけど、事実と正反対の筋書きはどんなものかな。

posted by かもめ |09:33 | その他・分類不能 | コメント(2) |

2015年02月11日

ソバは茹でたてが一番か

今日は「三たて」の最後、「茹でたて」です。

ソバは茹でてから時間がたつと伸びて美味しくなくなるのは言うまでもない常識中の常識で、茹でたてが良いに決まってますよね。

茹で置きでも平気な人もいるでしょうけど、茹で置きの方が好きという人がいたとしたら例外中の例外です。
立ち食いソバや学食などは、仕方なく茹で置きで提供するわけで、「茹で置きの方が美味しい」などということはありえないと思っていました。
しかし、例外もあるようです。

ソバに詳しい片山虎之助さんが、ご近所の青森出身の人からソバをいただいたのですが、それは、青森在住の妹さんが作って宅配便で送ってきたとのことですが、当然、生のソバだと思ったら、茹でてあるソバでびっくり。
茹で置きソバなので落胆したものの、捨てるのも失礼だから試にかけそばで食べてみたら、たしかに柔らかくて歯ごたえはないものの、味わい深くて美味しかったとか。

片山さんの本にはそこまでしか書いてなかったのですが、調べてみたら、弘前地方には津軽そばというのがあって、つなぎに大豆を使うとか。
そして、あえて茹で置きで食べるそうで、半日は置いておくそうです。
もりではなくかけで食べるそうです。

茹で置きでも美味しいのは、大豆をつなぎに使うのが関係しているかも知れませんが、いずれにしても、茹で置きで食べるのが一般的というのは不思議です。
茹でたてならもっと美味しいのではないかと思ったりもしたんですが、どうも大豆つなぎの場合は茹でおきの方が美味しいとか。

私は読んだことがありませんが、美味しんぼの青森編にも津軽ソバが登場すると、弘前出身の知人に教えてもらいました。

函館にかね久山田という大豆つなぎの蕎麦屋があります。
お店は津軽ソバであることは秘密にしているそうですけど。
6年前に食べたときは歯ごたえは普通だったと記憶しているので、茹でおきではないように思います。
あまり美味しく感じなかったけど、茹でおいたら美味しいのかも。


ちなみに、乾麺ですけど、茹で置き用のソバがあるのですね。
グルテンが添加されていて、茹で置いても腰があるのでしょうか。
ソバ粉よりも小麦粉の方が多いから、食べてみたいとは思いませんが。

posted by かもめ |13:06 | 料理の神髄 | コメント(0) |

2015年02月10日

ソバは打ちたてが美味しいのか?

美味しんぼの「そばツユの深味」は、こちらでアニメが見れます。是非ご覧ください。
「大木屋」というソバ屋が登場しますが、浅草の並木藪蕎麦がモデルです。

さて、今日は「打ちたて」についてです。
私は片山虎之助さんの本を読んだ最近まで知らなかったのですが、業界では打った直後のソバは「包丁下」と呼ばれ、美味しくないのが常識なんだとか。
打ちたてだと、茹でるときに浮き上がって生煮えになりやすいとか。
たしかに私の経験でも、打ちたては浮き上がりやすいと思います。
打ってからどれくらい時間をおくのが良いのか、本やネットで調べたら、「30分」「1時間」「2~3時間」「6時間」「夏は15分・冬は20~30分」など、さまざまです。

一夜そばという、一晩おいて美味しくなったという意味の業界用語もあります。

熟成ソバという用語もあるようで、二晩おくと美味しいという考えもあるようです。

業界では常識なのになぜ「三たて」を謳う店や地域が少なくないのか?
会津も「三たて」を謳う地方だそうですが、しかし、会津では打ちたてを指す時間の範囲が長く、ある程度時間が経過していても「打ちたて」と言い、包丁下というわけではないとか。

しかし、昨日紹介した、「みたて」(休業中)や十割蕎麦本舗(廃業)は、客が来てから挽くわけですから、当然、もろに打ちたての包丁下ということになります。
業界の常識を知らないのか? あるいは知っているけど客寄せのうたい文句にしたいからなのか? 

以前、あるソバ屋へ行ったところ、昼の遅い時間だったため、「今朝打ったのがなくなり、追加して打ったので、打ちたてですよ。」とお店の人に自慢げに言われました。
その人は包丁下は美味しくないことを知らないのですね。
私も当時は知らず、追い打ちを喜んで食べました(笑

片山虎之助さんの体験を紹介すると、よく地方のソバ店から生のソバを取り寄せて食べていたのですが、あるときお店まで行って食べました。
取り寄せだと打った翌日のものになるけど、お店では打ったその日のだから当然美味しいと思ったら、味が薄く感じ、ためしにお店に頼んでその日に打ったのを翌日まで置いて、翌日茹でて食べさせてもらったところ、いつもと同じ豊かなうまみを感じたとか。

そういえば、ラーメンは製麺してから1週間くらい寝かせて熟成した方が美味しいということで、そうやっているお店が少なくないですよね。
ソバも多少、そういうところがあようですね。

でも、私は一度、打って6時間経過したのと打って直ぐのとを食べ比べたことがありますが、違いはわかりませんでした。
それほど大きな違いではないということでしょうか。
自分で実際に確かめてみないと気がすまないので今後、研究をかさねて行きたいと思います。

posted by かもめ |09:36 | 料理の神髄 | コメント(0) |

2015年02月09日

ソバは「三たて」が本当に美味しいのか?

ソバは挽きたて・打ちたて・茹でたての「三たて」が美味しいと言われていますよね。
みたてという屋号のソバ屋もあるくらいです。(休業中みたいですが)

でも意外にも、実は必ずしも三たてが美味しいとは限らないようです。

今日は「挽きたて」について書きたいと思います。

ご存じのようにソバ粉はソバの実の殻を取り、挽いて粉にします。
製粉したのなら、なるべく早く打つ必要があります。
製粉してから何か月もたった粉、特に高温多湿状態で保管したソバ粉だと美味しくないし、そもそも打つことが困難(打っても短く切れてしまう)と言われています。
そういう意味ではたしかに「挽きたて」が良いのですが、しかし、挽いた直後のは美味しくなく、一晩おいた方が美味しいと言っているソバ職人が多いそうです。
小麦粉も同様で、製粉してから少し寝かせた方が、パンがよく膨らみ、美味しくなるとか。

上記「みたて」さんとか、以前紹介した、旭川に存在した「十割蕎麦本舗」などは、客が注文してから挽きますが、意味がない、いや、かえって美味しくないソバになるわけですね。

しかも、挽く時間、客の待ち時間が長くなってしまうし、十割蕎麦本舗は店内にミルがあったので、騒音で落ち着かなかったです

三たてを謳うお店や地方は少なからずありますが、「〇〇たて」の範囲が、どれくらいなのか明確ではないでしょうし、必ずしも「直後」ではないでしょうから、一概に三たてがダメというわけではありません。


ところで、和寒に新種のクマがいると話題になっているようです。この写真はいくつかのブログで使用されているものです。
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実物を見に行こうと思って昨日、山に行こうとしたら林道は雪で入れませんでした。
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春になったら探しに行きます。


posted by かもめ |11:06 | 料理の神髄 | コメント(2) |

2015年02月08日

ソバをつゆにどっぷり漬けてはいけないのか?

ソバはつゆにどっぷり漬けずに、少しだけ漬けるのが良いとされ、落語にもありますが、本当にそれが美味しいのでしょか?
それが粋だからというだけで、実際は美味しくないと、ほとんどの人は考えていると思います。

ではなぜ、どっぷり漬けるのがダメと言う考えがあるのか、それは、ソバの香りがしなくなるからとされています。
東京(というか、関東と言ったらいいか)のソバは、白くて細いソバが主流です。
ソバの実の外側を沢山削って、中心に近い部分の粉を使っているので白いのですが、そういうソバは香りが少ないのです。
外側のソバ粉も含む、黒っぽいソバなら香りが強いので、つゆにどっぷり漬けても良いのです。

もう一つ理由があります。
東京(関東)では、そばつゆが濃い目(しょっぱい)です。
北海道でも、大丸に入っている布屋太兵衛はかなり濃いですね。

だから、どっぷり漬けるとしょっぱいので、どっぷり漬けない方が良いのです。
しかも、東京(関東)のソバは細いから、表面積/体積比が高く、よりしょっぱくなりやすいのです。

先日紹介した浅草の並木藪蕎麦は、東京で一番辛い(しょっぱい)つゆだと言われています。(ということは日本一辛い?)
なので、どっぷり漬けるとしょっぱくて美味しくないと言われています。
たしか、美味しんぼで「そばつゆ」の話のとき、某有名店というのは並木藪蕎麦がモデルだったかと思います。

でも、塩分のバランスが合っているのなら、少しだけ濃いつゆに漬けるスタイルは、本当に美味しいものなのか、私は疑問です。
つゆに浸かっていない部分が多いと、ぱさついて食べにくいと思います。
ソバ全体が均一な味でなく、口のなかでしょっぱい部分と塩分の少ない部分に分かれているのもなんだかあずましくありません。
それに、だし(鰹節、または鰹節+鯖節など)が不足します。
江戸時代のソバつゆは鰹節を使わない「精進つゆ」と鰹節を使った「生臭つゆ」の2種類が存在したそうですが、やはり鰹だしがしっかり効いた方が美味しいと思います。

だから、あまり濃くないつゆにどっぷり漬けるのが一番美味しいと私は思います。

そもそも、ソバの香りって、そんなに重要でしょうか?
昔、冷蔵庫がない時代は夏場、味が落ちたソバは香りもしなかったので、ソバの良い香りは美味しいソバの証拠でもあったと思いますが、現在は季節でそれほどソバの味は変わりませんから、ソバの香りをありがたく思うこともないと思います。
香りよりも味や歯ごたえ、のどごしなど、他の要素の方が重要だと思います。
わずかな香りを重視するあまり、他の要素を犠牲にするのはトータルではマイナスだと思います。

どのくらいソバをつゆに漬けるかの適量は、そばやつゆによって変わってくるので、結局は食べてみて一番美味しいと感じる程度に調整するのが良いのです。

粋がって無理に少量にするなんてナンセンスで、特に田舎ソバでそれをやるのは愚の骨頂です。

posted by かもめ |12:56 | 料理の神髄 | コメント(5) |

2015年02月07日

生粉打ち(十割ソバ)が一番?

すでに江戸時代から生粉打ち(十割ソバ)が人気があり、つなぎに小麦粉を入れたソバは評価が低かったそうです。

たしかにソバ粉100%だと打つのに技術がいります。
上手に打たないと切れて短くなってしまうのです。
(客に出すのでなければ切れてもさほど問題ないのですけど)

でも、本当にソバ粉100%が、つなぎ入りよりも美味しいのか?

もちろん、スーパーで売っているような、ソバ粉よりも小麦粉の方が多い代物は論外ですよ。
ここで言う「つなぎ入りソバ」は、ソバ粉8割程度(最低でも7割)のものを指します。

片山虎之介さんが書いた「蕎麦屋の常識・非常識」という本には静岡の宮本さんという有名店のご主人の話が紹介されています。
「目標としているのは、のどごし、香り、味のすべてが揃ったソバ。生粉打ちではできない。」と、つなぎを入れた方がむしろ美味しいと考えています。

名人とまで言われている達磨の高橋さんは二八(8割ソバ)で打つそうです。

ちなみに、札幌の喜香庵さんや正直庵さんは達磨で修業されています。

私はこの2か月ほど、ほとんど毎日ソバを打っていますが、ニ八に落ち着いてきました。
味は生粉打ちも二八もほとんどかわらず、二八の方が切れにくいからです。

結論です。ソバ粉の割合が一定以上あれば、8割とか10割とかはそれほど問題ではないと思います。
それよりも、上手に打って上手に茹で、美味いつゆであることが重要だと思います。

もちろん、十割ソバも美味しいとは思いますけど、つなぎ入りよりも十割ソバがランクが高いなどと十割ソバをもてはやすのはナンセンスではないかと思います。

じゃあ、江戸時代の生粉打ち人気は何だったのかと言えば、江戸時代はソバ粉よりも小麦粉のほうがはるかに多い、とんでもないソバが多く、本当の(八二でなく)二八、つまり、ソバ粉2割・小麦粉8割が当たり前だったからだと思います。
10割まで行かずとも、8割で十分なのです。

posted by かもめ |16:34 | 料理の神髄 | コメント(0) |

2015年02月06日

ソバの歴史

ソバは海外でも食べられ、ロシアや東欧などで粥やピラフにしますし、フランスのガレットなども有名ですよね。
ソバや中国南部原産らしいですけど、日本では縄文時代、すでに栽培されていたようです。
古来、そばがきやソバ餅、粥(雑炊)などとして食べられていたそうです。私もソバ粥(雑炊)は大好きです。

麺の形状のソバ切りは室町末期の頃、長野が発祥と言われているようです。
江戸中期には全国に広まり、江戸っ子もソバの食べ歩きを楽しんだようで、1751年には「蕎麦全書」という本まで出たほどです。
蕎麦全書によると、当時すでに江戸では蕎麦屋間の競争が激しく、味以外にも特色を出すため、器に凝ったり、庭に凝ったりする店も少なくなかったとか。

幕末には江戸に4000軒もソバ屋があったそうです。屋台も含めると、もっと多くなります。
江戸の人口は200万人ほどでしたから、人口500人に1軒ですね。
本当に4000軒もあったのか信じられない気持ちです。札幌に4000軒もありません。
食べログランキングにある札幌のソバ屋は449軒です。
まあ、江戸時代はソバ屋以外の飲食店が少なかったからソバ屋が多いのでしょうけど、それにしても多いですね。

しかし、どうして関西などではソバ文化が発達しなかったのか、不思議ですね。


浅草にある並木藪蕎麦
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以前、たまたまお店の前を通りかかったのですが、時間がなくて寄れませんでした。 藪蕎麦御三家の一つの超有名店で、ここで食べないでソバを語ることはできません。(語ってるじゃないかって) 雷門の近くですから、浅草観光のついでに寄ると良いと思います。 「この店を知らずにソバの歴史は語れない」としては、横浜にある角平という鴨せいろ発祥の店も外せません。 4年前、平塚で試合を見た後に食べたのを以前紹介しています


posted by かもめ |15:18 | 料理の神髄 | コメント(2) |

2015年02月05日

ソバ屋の屋号に「庵」が多いわけ

ソバ屋の屋号は「庵」が付くのが多いですよね。
私が好きなソバ屋も庵が付くお店が多いです。
札幌の喜香庵、旭川の正月庵きっぽう庵、士別の吉祥庵、栗山の北の錦の錦水庵など。
うどん屋で庵が付く店(ほくほく庵)もありますが。

蕎麦屋ではないのに「○○庵」という施設があると、蕎麦屋かと誤解してしまうほどですね。

なぜ庵が多いのかは、以前書いたかも知れませんが、昔、お寺で精進料理としてソバを出すことがよくあったのが関係しているとか。と、札幌の西町にあった古一というソバ屋さんから聞いたのですが、そういえば深大寺そばが有名だし・・などと思ったものの、それ以上詳しいことはわからなかったのですが、調べたらわかりました。

「蕎麦屋の常識・非常識」という本に書いてありました。

江戸時代、浅草の道光寺で参拝に来た檀家にソバを振る舞ったところ評判になり、やがてソバ目当ての人で大賑わいになり、お寺なのかソバ屋なのかわからない状態になったとか。

それにあやかってソバ屋の屋号に「庵」が使われるようになったみたいですね。

その後、道光寺は深大寺に移転したようですが、本業がおろそかになるということでソバ打ち禁止になり、その碑があるそうです。こちらで紹介されています。

その本には他にも面白いこと、ためになることが沢山載っているので、徐々に紹介したいと思います。

posted by かもめ |15:24 | 料理の神髄 | コメント(2) |

2015年02月02日

竹鶴物語・その5

竹鶴さんは1933年4月に単身で余市へ行った際、かねまた服部旅館に泊まったのですが、その旅館は今でも営業しているようです。
国道5号線が90度曲がる大川交差点のすぐそばにありますね。

その旅館のご主人は、余市のりんごをロシアへ輸出していたけど、ロシア革命で輸出できなくなり、ルーブル札は紙くずになり、蓄えた財産を失って、実家の旅館を継いだとか。

ドラマでは会津の侍が入植し、開拓使からリンゴの苗木の配布を受け、りんご栽培を始めたとありますが、それは事実のようです。1875年(明治8年)に苗木を植え、4年後から収穫が始まったのですが、日本初のリンゴの商業生産で、海外でも評価が高かったそうです。
リンゴは青森が有名ですけど、余市がリンゴ栽培の元祖で、青森よりも春が遅い分、保存が長期に効くメリットもあったそうです。

鰊御殿の親方が、急に鰊が獲れなくなって借金に追われるとドラマで描かれていますが、たしかにそのころから鰊が獲れなくなっていったようで、1926年に1万トンの水揚げだったのが、1927年にはその1/3を割り、1928年には1400トンほどまで激減したとか。
さらに1930年はわずか1トンで、全く取れなかったと言って良いほどだったんですね。
ただ、1931年には5000トン、1933年には9000トン弱と、一時的に盛り返していました。
(その後1935年からまた獲れなくなるのですが)

ドラマの設定とは2~3年ずれがありますが、昭和初期から急に鰊が来たり来なかったりで翻弄されたのは間違いないようです。

1934年7月に会社(大日本果汁)を設立し、その秋の収穫期からリンゴジュースの製造を始めました。
ドラマでは1933年からリンゴジュースを製造してますが、そんなに早くスタートはできないと思います。

寿屋の工場(横浜のビール工場)で働いていた技術者5名と地元の20名の25名の社員でスタートしました。
資本金は10万円で、現在の3億弱くらいだと思いますが、土地代・建築費・機械代などで10万円近く必要で、原料などの仕入や人件費などの費用が不足し、銀行から借り入れました。
ウイスキーの出荷をするまでの間に10万円の増資をし、住友銀行から100万円借りたそうですが、よく銀行が100万円(現在の20億円くらい)も貸してくれたものです。

リンゴジュースは1935年5月から販売を開始しました。冬場は売れないと思ってのことでしょうか?
しかし、価格が高いのが災いし、あまり売れなかったそうです。
当時、ラムネが6銭、サイダーが10銭だったのに、日果林檎ジュースは30銭もしたのです。
現在の600円くらいに相当すると思います。
(ドラマではラムネ6銭、サイダー20銭、リンゴジュース30銭とされていましたね)
また、当時のリンゴは酸味が強く、酸っぱくて飲みにくいと感じた消費者も多かったとか。

当初、竹鶴さんは単身赴任でしたが、1935年に自宅を建て、鎌倉に留まっていたリタさんは9月から余市で暮らすようになりました。
ドラマでは1933年にはすでにリタさんが余市に住んでいますね。

posted by かもめ |12:29 | その他・分類不能 | コメント(0) |

2015年02月01日

竹鶴物語・その4

帰国して最初に住んだのは帝塚山。 
帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から住吉区北西部にまたがる地区ですが、新居も勤め先の摂津酒造も住吉区帝塚山東だったそうで、長居スタジアムから西に2㎞くらいの場所です。

借家の家賃は55円で、現在の16万円くらいになりますが、月給は150円で、現在の44万くらいだったから無理なく支払うことができたようです。

ドラマで描かれていたように、摂津酒造は大戦後の不景気の影響でウイスキー事業を始めることができず、竹鶴さんは模造ウイスキー造りに嫌気がさして、1922年春に退職しました。

ドラマでは退職後、なかなか仕事が見つからず、飲食店で皿洗いや芋の皮むきなどをして家賃もろくに払えないと描かれていましたが、実際は桃山中学で化学の教師をやっていました。
(ドラマでは確かに化学の教職の誘いがありましたが辞退してますよね)
桃山中学は英国伝道協会が設立したので校長は英国人だったようで、校長婦人(たぶん英国人)とリタさんが仲良くなっていた関係で、教職の話になったようです。

教職を始めて1年の1923年春、寿屋の鳥居社長がヘッドハンティングし、その年の6月に竹鶴さんは寿屋に入社し、念願のウイスキー造りに従事することができました。
年俸はドラマと同じく4000円。
現在の1200万円くらいの破格な高給です。

1929年(昭和4年)4月1日、最初に出荷したウイスキーは、ドラマでは煙臭くて不評でしたが、実際もピートを焚きすぎたのか、相当不味い代物だったみたいです。
当時ジョニ赤が5円だったところ、1割安いだけの4円50銭。
現在の1万3千円くらいになります。
かなり味の差があって値段がわずかな差なら、ぼったくりかも。
実際、ドラマと同じく、あまり売れなかったようです。
味が悪かったのは熟成期間が短いのと、ピートを焚きすぎてしまった他に、スコットランドではビールの廃酵母を使っているので、同じく廃酵母を使ったものの、イギリスのビールはエール(上面発酵)に対して日本のビールはラガー(下面発酵)の違いがあるので、純粋培養酵母を使う必要があったとか。

大量の在庫を抱えたわけですが、他の商品なら「不良在庫」になるわけですが、ウイスキーの場合は熟成してより良い商品になるわけで「優良在庫」に変身するものの、資金繰りは相当厳しかったようですね。
戦争の影響でスコッチの輸入が途絶えた1940年頃には飛ぶように売れるようになったそうです。

1930年に養女・リマさんを迎えていますが、どうも折り合いが悪かったのか、自伝には養子は威氏のことしか触れらていないなど、あまりリマさんのことは知られていなく、竹鶴さんに関するwikiも、少し前まで記載がなく、私も養女がいたことを知りませんでした。
彼女に関してはこれくらいしかわかりません。
ご尊命なら現在80代半ばだと思いますが、どうされているのでしょうか。

寿屋の長男を預かって帝王教育をしたのはドラマと同じで、1931年には竹鶴夫妻とリマさん、鳥居吉太郎の4人でスコットランドへ行っていますね。

その後、ドラマでは確かに事実と同じく横浜のビール工場の工場長になるのですが、横浜や鎌倉に引っ越すことが描かれてなかったですよね。

寿屋の横浜にある67万円(一説では100万円強)で買ったビール工場を300万円以上で売却し、現在の貨幣価値では数十億円も転がり込んできたので、やっと資金繰りが落ち着いたのですが、工場長の竹鶴さんに一言も相談がなく売却したので不信感が募り、1934年(昭和9年)3月1日に退職しました。

1934年(昭和9年)4月に竹鶴さんは余市へ行きました。
最初は水質が良く、石狩川河畔にピートがあって石炭の産地が近い江別を工場建設地の候補にしていたけど、石狩川が氾濫して洪水が良く起こるのを知って、余市に変更したそうです。
江別はウイスキーの里になりそこねましたね。
江別には悪臭を放つ製紙工場があるので(1908年創業)水害がなくてもやはり江別は断念したかも知れませんね。

posted by かもめ |09:46 | その他・分類不能 | コメント(9) |