2008年12月22日
○たさんに捧げる短波放送とおまけ
このあいだ短波放送のラジオを紹介しましたが。その後で「たしか箱があった筈」といったん寝付いたのですが、気になって家中を探したら押入れの奥から出てきました。 問題のSONY ICF4900です(1985年製の誤りでした)箱・ソフトケース・取説と共に各放送局の周波数一覧も出てきましたこのタイムテーブルの記載で85年製と判りました。裏面にもビッシリ記載が。まだ冷戦時代でしたが共産圏の放送も詳しく載っています。(日本語表記はありません)ここからはおまけです。家の片隅にはうず高く積まれた・・・。時刻表の山があります。大半は友人から譲ってもらったものです。これより古いものはかもめの家にあります。ちょうど30年前の12月に発売の79年1月号を見ると・・・道内に網の目の様に張り巡らされている路線網が。万字線もあって懐かしい限りです。ところで昨日の昼過ぎに1万アクセスを超えました。二日に一度程度の更新ペースですので、1月足らずで超えるとは思いませんでした。これも皆様のお陰ですm(_ _)mこれからもよろしくお願いいたします。 (追加分です)いなかのおばさんさんの地元の胆振線のアップです♪ついでにオオドサの地元です♪
posted by 大阪の道産子 |08:59 | 非コンサネタ | コメント(9) | トラックバック(0)
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この記事に対するコメント一覧
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
あっ胆振線があった!懐かしいです。自転車で30分かけて駅に着き、それからジーゼルカーに乗って高校に通いました。それで体力がついたのかな?今じゃ動かないおばさんです。
posted by いなかのおばさん| 2008-12-22 11:53
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
>いなかのおばさんさん。ご来訪ありがとうございます。
胆振線のアップを加えておきました。昔の北海道は鉄道だらけで懐かしいですねェ。
posted by 大阪の道産子| 2008-12-22 12:56
一万アクセスおめでとうございます(^^)/
うわあ,さすがは物持ちいいオオドサさんご一家ですねえ。(^^)
私の場合,結婚してから住んだアパートが狭かったのと,その後実家が道路拡張に引っかかって移転したこともあって,“昔の宝物”はほとんど捨ててしまいました。ずっと取っておくにはそれなりにご苦労されることもあると思いますが,こうやって拝見するとホントうらやましいです。
>箱・ソフトケース・取説と共に各放送局の周波数一覧も出てきました
私のラジオだと(中途半端なものでしたので(^^;)マトモに聴けるのは日本短波放送ぐらいでしたのですぐに飽きてしまいましたが(☆),これくらい本格的な短波ラジオだとワクワクしますね。
(☆)そもそも飽きっぽい性格ではありますが。(^^;
「VOA」とか「RADIO MOSCOW」とか書いてあるのを見るとまさに“冷戦時代”というものがかつてはあったのだと実感します。
よく知らないのですが,「冷戦終焉前後」の時代にも短波放送は活躍したのでしょうか。例えばポーランドの“連帯”とか,ベルリンの壁崩壊前後とか,東欧民主化とか,ユーゴ内戦の頃とか。
※そういえば『オシムの言葉』の中のユーゴ内戦のときのエピソードでは,(これもオオドサさんの守備範囲である)アマチュア無線が活躍しましたね。:-)
>ここからはおまけです。家の片隅にはうず高く積まれた・・・。
ヨダレが止まりません。(笑)
時刻表って,こうやって積まれた背表紙をながめてヨダレを垂らすためにあるんですねえ。つくづくそう思いました。
>道内に網の目の様に張り巡らされている路線網が。
>万字線もあって懐かしい限りです。
あの頃は路線網が充実していましたね。
それに,当時はまだ特急は「全席指定」が基本で(一部の「L特急」は除く),急行列車がとても多くて便利でした。道内を走る寝台車つきの夜行急行が4系統もあったとか,札幌発札幌行きの急行「胆振」があったなんて今では信じられないほどです。
万字線は中学2年のときに上志文までは乗ったことがあります。当時岩見沢にいた従兄弟とスキーに行ったんです。
この頃は大夕張鉄道もまだあったんですね。(^^)
posted by ○た | 2008-12-22 13:00
どういたしまして♪
○たさん。ありがとうございます♪
>こうやって拝見するとホントうらやましいです。
いえいえ、私も度重なる引越しなどでかなりの資料・書籍等を失いました。そのうち
ネタ切れになるのは目に見えています(^▽^;)
>「冷戦終焉前後」の時代にも短波放送は活躍したのでしょうか。
多分一番活躍したのはDEUTSCHE WELLE(ドイチェ・ヴェレ)の短波放送で
しょう。前身は戦前からあるのですが、戦後冷戦下で組織が対共産圏に対する放送となり
当時の西ベルリンからロシア語・ポーランド語・チェコ語・スロバキア語・ハンガリー語
セルビア・クロアチア語できめ細かい情報を大電力で提供していました。
当時ドイチェ・ヴェレの局舎には大きな短波用アマチュア無線のアンテナが設置されて、
放送に対する共産圏のリスナーはアマチュア無線(以下ハム)でレスをしたようです。
そして、そのレスに対して適切な(暗号もどきを含んだ)情報提供をしていたそうです。
(日本も主要放送局には今でもハムの通信を聞くシステムが報道部に設置されています)
当時の東側は自国ハムに対する規制が極て厳しく、遠距離通信の出来る大出力の無線機は
許可されませんでした。でもそこが日本製です!1968年に発売された八重洲無線の
FT200は真空管2本とトランジスターのハイブリッドで(真空管は送信出力段のみ)
Sタイプなら送信出力管は1本のみなので、わずか送信出力10ワットでたいがいの国の
規制内でなんとか輸出できました。値段は定価で日本円で6万9800円だった筈です。
(それでも当時の東側の方々は入手するのに大変苦労された筈です※註・下段別述)
でもスゴイのはその送信真空管1本のヨコの空いているソケットに、さらに同じ真空管を
挿入し(当時どこでも手に入るテレビの水平出力管の12足ピン6JS6A等のビーム管)
配線を少し変えると送信出力100ワットになりました。短波と超短波では単純な比較は
出来ませんが例えば三角山放送局は20ワットなので5倍の電力です!
さらに電源トランスのタップを変更すると最大送信出力180ワットまで上がります。
でもプレート電流が多く流れて真空管の寿命は短くなりますが。
FT200はDC12Vでも動作しました。高能率DCDCコンバータを内蔵していて
自動車のシガーライターから電源を取れば通信可能でした。(27アンペア!ですが)
きっと東側の崩壊には日本の通信機の技術の助けもきっとあったのでしょう。日本製の
ハム用の通信機は性能も良く国境を越えて連絡をするのには最適だった筈です。トリオ
や井上無線(ICOM)も優秀な無線機を作っていました。↓FT200です
http://www.vmarsmanuals.co.uk/newsletter_articles/ft200.pdf
八重洲無線は60年代半ばからアポロ計画に参加していました。当時のNASAは信頼性で
国を問わず選択したようです「こちらヒューストン(ピーッ)こちらイーグル(ピーッ)」
のピーッは遠距離通信のタイムラグで交信が重複しないような八重洲無線の独自の工夫です
その後で調子にのった八重洲無線はアマチュア無線向けに「スタンバイピー」内臓の通信機
を発売しましたが、元々不必要でしたのでヒンシュクを買いました(^▽^;)
でもNASAのそれがあったから当時の東欧圏も研究の為にも輸入を許可したのでしょうし、
東欧向けの製品はまだ真空管式だったのでココム(対共産圏輸出統制委員会)の最先端技術
に抵触せずに済んだのかもしれませんネ。
1971年に札幌で八重洲無線の当時の長谷川社長の講演会がありその当時の話を思い出し
ながら書きました。
印象的だったのは「最近はテレタイプしか交信してないよョ電話(音声通信)なら『オマエ
のトコの無線機はなあッ』て文句言われるから」でした。(シミジミ)
posted by 大阪の道産子| 2008-12-22 15:43
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
追記が多すぎるのでまとめましたm(_ _)m
>当時岩見沢にいた従兄弟とスキーに行ったんです。
萩の山はスキー授業もあったので良く行きました。リフト降りたら万字線が奥にカーブして
いたのが見えましたね。(さらにシミジミ)
>FT200は真空管2本とトランジスターのハイブリッドで(真空管は送信出力段のみ)
それは後のFT201でFT200にはドライバーアンプで12BY7と言う真空管も
が使われていました。記憶違いで申し訳ありませんm(_ _)m
かもめは西ベルリンの地下鉄に乗り東ベルリンの止まる事のない地下鉄駅の体験をしてます。
posted by 大阪の道産子| 2008-12-22 20:00
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
くだらねなぁ・・・・。
posted by kokoha| 2008-12-22 21:08
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
>kokohaさん♪ご訪問ありがとうございます。
そうなんですよッ!ほんとうに趣味とかなんかのファンとかはくだらないですね!
だから人間ですよねェ他の動物は下らない事はしませんから。
※以下の記載は全て架空のものです、実在する団体・個人等とは何の関係もありません。
西 大伍「へーッ昔は京都から江戸に行くのが下りだったんだァ」
曽田雄志「だから当時醸造技術に劣る江戸に対して伏見の蔵元から、わざわざ江戸城下に
送った酒を下り酒と称したそうだ」
藤田征也「でもいくら伏見とは言え全部美味しい酒では無かったのですよネ?」
曽田雄志「だから出来の悪い酒を『下らない酒』で下らんの語源になったみたいだネ」
中山元気「下りそうなオレのギャラは何時上がるんだ?」
posted by 大阪の道産子| 2008-12-22 21:41
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
恒例遅コメ失礼。おー、もうこの時は大夕張鉄道は南大夕張が終点ですね。私はこの鉄道に乗って大夕張から明石町まで通学してました。と言ってもこの図には出てこない駅です。当時は、南大夕張の次がシューパロ湖、明石町、千年町、大夕張、そして終点が大夕張炭山でした。
posted by ヨーデル| 2008-12-30 12:33
Re:○たさんに捧げる短波放送とおまけ
>ヨーデル様。 遅レスですみませんm(_ _)m
シューパロ湖と大夕張鉄道は今でも記憶にあります。
また機会があれば行きたいものです。シミジミ
posted by 大阪の道産子| 2009-01-06 11:09