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2008年04月13日

aftertalk #39

clasics #39でした。

幼い頃から一人で何事かをしているのが好きな人間だった。

特に親が共働きだとか、一人っ子だったからとかいう理由ではない。でも引っ込み思案で臆病な、おとなしいタイプの性格だったことは間違いない。そしてそれはいまでもそうだ。自分が覚えている最初の記憶は、本を読んでいるところから始まる。一人で畳の上に腹這いになってページをめくっている自分の姿が、どこかおぼろげな記憶で保存されている。本を読むだけではない。一人でカセットテープを聴いていたり、一人でブロックで何かを黙々と作っていたりしていた。こういうことを書くと自分が暗い性格の人間であるかのように思われるが、実際そうだから仕方がない。それで今では、一人で散歩したり、一人で本を読んだり(これは変わらない)、部活や習い事も一人でできること(武道――剣道とか――なんて孤独なスポーツの極みだと思う)ばかりやってきた。人並みに野球やバスケットなんかのチームスポーツも好きだが、実際やるのは気が引ける。それで一念発起してやってみたり、学校の体育で嫌々ながらやらされたりしてみるとこれがまた案の定できない。球技なんてそもそもパスが回ってこない。下手なのをもう見抜かれてしまっているわけだ。そんなわけで、一番好きだった体育は無難に長距離走だったりする。でもやっぱり遅かったけど。

今でも一人で何かをしている、というか、せざるを得ない。人とふれあうというのがどうにも辛くなってしまって一時期自分の外側に強固な殻を築いて生きていた時期があったけど、今はそれほどでもない(と思う)。一人で本を読む。一人で散歩をする。一人で映画を見る。一人で焼肉をする。一人で生活しているということが当たり前になりすぎて、どこか麻痺してしまっているような気もする。「誰か誘って来ればなあ」と思うこともあるが、だいたい2,3秒すれば「ま、いいや」で済ませてしまう。それが自分の性にあっているんだろうと納得してしまうのが、なんだか寂しい。ここで、それもまた人生とか言ってしまうと何かを悟ったような感じになってしまってこれまた寂しい。なんでこういう性格の自分がサッカーを好きになったのだろうか、と今も昔も不思議に思っている。時々考えすぎることもあるが、それでも私は元気です。

それでもまあ、サッカーという存在に出会えたことは感謝している。出会わないままずるずると生きていたらどうなっていたかわからない、と本気で思うこともある。そういう意味で、サッカーというのは人生を救ってくれた存在だとちょっと大げさに言ってみたい。

えー、今日は手抜きをしてしまいました。すんません。

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2008年04月09日

CONSAISM clasics #39

clasics #39です。
この回と次の回は「何書いてるんだかわからないシリーズ」と勝手に名付けたい。


幼い頃から一人で何事かをしているのが好きな人間だった。

特に親が共働きだとか、一人っ子だったからとかいう理由ではない。でも引っ込み思案で臆病な、おとなしいタイプの性格だったことは間違いない。そしてそれはいまでもそうだ。自分が覚えている最初の記憶は、本を読んでいるところから始まる。一人で畳の上に腹這いになってページをめくっている自分の姿が、どこかおぼろげな記憶で保存されている。本を読むだけではない。一人でカセットテープを聴いていたり、一人でブロックで何かを黙々と作っていたりしていた。こういうことを書くと自分が暗い性格の人間であるかのように思われるが、実際そうだから仕方がない。それで今では、一人で散歩したり、一人で本を読んだり(これは変わらない)、部活や習い事も一人でできること(武道――剣道とか――なんて孤独なスポーツの極みだと思う)ばかりやってきた。人並みに野球やバスケットなんかのチームスポーツも好きだが、実際やるのは気が引ける。それで一念発起してやってみたり、学校の体育で嫌々ながらやらされたりしてみるとこれがまた案の定できない。球技なんてそもそもパスが回ってこない。下手なのをもう見抜かれてしまっているわけだ。そんなわけで、一番好きだった体育は無難に長距離走だったりする。でもやっぱり遅かったけど。

一人で何事かをするのが性に合っている、というのはスポーツやそれ以外の娯楽を見に行くときも同じことだったりする。札幌以外のフットボールの試合に限らず、野球でもバスケットでも映画でもひとりで見に行くことがよくある。面白いプレーや笑えるネタの話をしたくて「誰か誘って来てればなあ」と思うこともあるが、だいたい2,3秒すれば「ま、いいや」で済ませてしまう。そもそも面倒くさがりなところもあるのだけれど(面倒くさがりすぎ、という話もある)。そんなわけで、物心ついてからの生活というのは引っ込み思案で臆病→他人とのコミュニケーションが得意でない(もしくは人を選ぶ)という孤独ライフサイクルの悪循環をたどっている。まあこんな悪循環にはまりこむとろくな事はないので、やっぱり人と一緒に遊んだり、コミュニケーションをとる能力があるに越したことはないと思います。

さて、ここで今まで語っていることとは一つ矛盾が生じてくる。そもそもチームプレーが好きではない自分が、なぜチームプレーの上に成立するフットボールを好きになったのか、もう一つは、なんでこういう性格の自分がゴール裏で飛び跳ねたり叫んだりするようになってしまったのか、ということだ。チームプレーとしてのスポーツも突き詰めると個人のプレーに当たると思うけれど、それはそれで今ここで書きたいこととはベクトルが違う気がする。一人でいるということに違和感を感じなかった自分が、なぜ他人とのコミュニケーションを必要とする場所にわざわざ飛び込んで行って、人間関係だとか議論に時間を費やしているのだろうかと最近思うようになった。自分の中にある価値観に、何らかの転換がもたらされたと言えばそれまでなんだろうけれど、その転換のそもそもの起点はどこかと考えるとやっぱりゴール裏のことにつながる。どこかに今までの自分とは正反対の行動的な自分がいて、それがフットボールによって目覚めさせられたということなのだろうか。

と、ここまで書いてきてなんだか雲をつかみ霞を喰うような話になりつつあるし、これ以上考えていてもどうやら埒が開きそうにないのでとりあえずこの疑問はこれからも考え続けることにしてみる。厄介なことに、自分はこういった日々の生活に役に立ちそうもない、ある意味下らない疑問にはやたらと食いついて考えるので、しばらくはこのことが頭の片隅に残っていそうだ。ただ解っていることは、フットボールというスポーツには、いや、フットボールという社会的存在にはそういった自分の知らない自分を目覚めさせてくれる何かがある、ということだ。けれど人がなにがしかのタイミングで全く変わってしまうと言うことは良くある話なので、自分の場合それがたまたまフットボールだった、ということかもしれないけれど。というわけで自分を変えてみたいという人は、フットボールに限らず、大きな野望でも小さな事でも何か今までとは変わったことをやってみると良いんじゃないでしょうか、春だし、という無茶なまとめかたでこの話はとりあえずはおしまい――と。

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2008年04月06日

aftertalk #38

clasics #38でした。文章の締めにものすごく恥ずかしい思いをしている現在ですが、とうとうこのブログも10000アクセスを突破していました。ひっそりやっていても見ててくれる人たちに感謝。

この文章を書いているときはブログなんていう気軽に書き込めるメディアというのはなくて、何かを書きたければフリーソフトを導入して、Readme!とか(懐かしいなあ)に登録して更新するっていうのが主流だったと思う。2003年だったらブログも萌芽期で、RSSってなにそれ?状態だった時代だったっけ。それが今や文章を書くだけでなくコミュニティメディアとしてブログが重要なツールになり、データを調べたくなればWikipediaで(データの真偽はともかくとして)とりあえず調べられるような時代になった。そんでもって動画共有だとかSNSとかほんとうにネットの世界は何がどう進化するのかわからない。昔は重いデータなんてネットに上げられなかったから、やたらと思いのほとばしる長い文章を書くことが多かった。かくいう自分もテキスト系サイトばっかり見ていた。まあ今もGoogle Readerの中にははてなダイアリーとかいっぱい登録されているんだけどね。ともあれ、語られる場所が増えたというのは嬉しいことだ。願わくばそれがネットという世界にとどまらず、いろんな場所に飛び火して欲しい。いろんな人とサッカーについて言葉を交わす、そしていろいろな影響を受けて自分自身の語るサッカーの言葉も充実していくというのはとても面白いものだ。札幌だけでなく他チームのサポーターとか、他のスポーツを見ている人でもいい。恥ずかしがらずに語ることができれば、それはとても充実したものになるだろうと理想論。

そういう人たちの「思い」みたいなことを本にできたら面白いだろうな、なんて書いていたけど、96年にはそういうのは既に自主制作本という形で出てはいた。だけどもっと分厚くて読み応えのある10周年記念本が出て、これだけ語ってくれる人が増えたんだ!と嬉しくなったそこにブログやSNSといった「気軽に語る場所が増えた」ということがあって、サッカーを巡る言葉の世界というのは確実に広がっている。その世界が充実したものになるかどうかというのは、まだわからない。ネットをはじめとするメディアでの言論の場がどれだけ成長できるのか、ということとも繋がっていると思う。

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2008年04月05日

CONSAISM clasics #38

clasics #38です。しかしどうしてこんなに過去と現在のネタがかみ合うんだろう。
自分のスケジュールに合わせて上げているだけなのになあ。


残り43試合の前途多難をあっさりと予想させながら、今年もまたフットボールのシーズンが始まった。札幌にとって、8回目の早い春の訪れである。そしてこのチームができてもう7シーズン、自分が応援するようになってから6シーズン半。思い起こせばもう立派にそれなりの年月が経ってしまっていて、思い出としてしまっておきたい試合や、誰にも話したくないタブーのような試合や、伝説としてとうに誰もが知ってしまっている試合が、歴史という層の中に薄いながらもそれぞれの色を見せている。「99年開幕当時のイレブンを答えなさい」とか「札幌に在籍したことのある外国人選手をすべて挙げよ」なんて質問をされても、自分はもう立派に答えきれる自信はない。そんな過去の記憶を覆い隠してしまうだけの歴史がちゃんとあるということだ。この原稿を書きながら思い出してみて(あるいは思いだそうとして思い出せなくてデータを引っぱり出したりして)その深さが自分の予想以上であるということに気づき、少々びっくりした。そして同時に、良い色の地層や立派な年輪を刻んでほしいものだと願ってもいたけれど。

時々、そんな昔の記憶を持っている他のファンや選手たちに、あなたのベストイレブンとトップ5のゲームを教えてください、といってアンケート用紙を配ってしまいそうな気持ちになることがある。でも集計して「これがサポーターの選ぶベストです!」だなんてやりたくはない。そんなのは一人一人のファンの持っている思い出や歴史を踏みにじるものだからだ。逆にアンケートを書いた人一人一人にその選手やゲームを選んだ理由を、思い入れを聞かせてほしいくらいだ。彼(彼女)はその日どこにいて、どんな風に試合を見ていたのか。ゴール裏か、メインスタンドか、はたまたブラウン管の向こうか。どんな思いがあったのか。どんなところに目を惹き付けられたのか。それにまつわる個人の思い出(彼女と初めて行ったとか、初めて喉が嗄れただとか)とか。そんなことを100人くらいに聞いて回ったら、結構札幌的には興味深い本が一冊できあがりそうな気がする。

もちろん他のプロチームはもっともっと多くの歴史や、語られるべき選手や、事あるごとに思い出されるゲームを持っている。日本で最初のプロ選手から始まり、Jリーグ創設時の10チーム、それからどんどんと増えていったプロチーム、飛躍的に増大したプロ選手数とその質の向上、それに伴ったゲームの増加は週末どこかで必ず試合が見られるという恩恵を可能にさせた。そしてその分だけ、観る側の人間が語る言葉や、目に焼き付けられたプレーや、記憶から抹消したいほど恥ずかしいゲームが増えていった。Jリーグはフットボールの試合やこの国のフットボールのシステムを大きく変えただけでなく、僕らがフットボールについて語り合う機会とその言葉の量をも大きく増やしている。スタジアムで、フットボールカフェで、居間のテレビの前で、気の置けない仲間と、あるいは初めて会う人と、言葉のパスゲームが続く。それは皆で円く広がって、空き地でボールを回しあうような感覚。そんな中から伝えられるべきものが伝えられ、その土地の、そのチームにおけるフットボールの遺伝子が渡されてゆく。さながら現代的な口承文化、なんてのは言い過ぎだろうか。

今までも札幌のフットボールはありとあらゆるところで語られ、時にはこうして不特定多数に発信されてきた。その中で語られてきたのは必ずしも素晴らしい伝説ばかりじゃない。五分五分くらいで苦い思い出も混じってる。けれどもそうやって語られる事でフットボールはフットボールとしてのその地位と歴史を形づくってきたし、これからもそうだろう。なによりもフットボールを語るという行為そのものは、よほどの悪口雑言でもない限り楽しいものなのだ。そうして、

「ベストゲームは?」「昨日の試合だよ」
「ベストイレブンは?」「昨日のスタメンだよ」
なんてさらっと言えるほどの誇りも願わくば持ち合わせれば十分である。

さて今年は、どれだけ語りたくてたまらないことが増えて、嫌なことも笑い話で済ませられることができるだろうか。そのためにはまず、次の試合は勝っておかないとね。
 

posted by retreat |23:12 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年04月04日

aftertalk #37

clasics #37をお届けしました。前回の#36からは少しばかりの時間が空いた(つまりオフをもらった)ので、前回の正月に#36を書いて、この回を書いたときには既に03年の開幕直前という時期だった。

その間、僕はひとつの決断をしている。
会社を辞めるということ。
札幌に帰るということ。
札幌に帰って一向に良くならないパニック障害の治療に専念するということ。
従って、アウェイゴール裏からも距離を置くということ。

会社を辞めようと思い始めてきたのは02年の秋になってからのことで、いろいろ僕の勤めている会社は売り上げ的な危機に直面していた。そのなかで何もできずにただただ空気が悪くなっていくばかりのこの会社で働くこと、心も体もずたぼろになるまで働くということなんて僕自身には何も良いことをもたらすことはない、ということ。嫌気が差して会社に行くたびにどす黒い思いをしていた中で、片隅で、突き刺さっている思いもあった。

辞めていいの?ここで辞めたら負け犬になるよ?
他にもっと良い方法があるんじゃないの?

そう僕の中の一部分が僕自身に直接語りかけていた。
そしてもう一方で。

もう何もかも終わらせちゃおう。
ゴール裏も引退しよう。会社もおとなしく粛々と辞めていこう。
朝日がベッドを照らすたびに震える身体も、臆病で情けない心も捨ててしまおう。
もう、楽になろう。

そんな言葉が逆サイドから聞こえてくる。僕はどうすればいいのかわからなかったけど、どうにかしたかった、どうにかしたいから、どうにかできるだけの、ゆっくり考えるだけの時間が欲しかった。そこで年末年始の帰省を使って僕は青森を旅しながらゆっくりと考えることにした。2泊3日の行程の中で何らかの答えを見いだして、あとはそれを見いだした自分自身のことを信じてやって、生きていくことにしよう。

上野から寝台特急で秋田まで、そこから五能線で五所川原へ。そして当時僕が傾倒していた、太宰治の愛していた岩木山の麓にある岩木山神社へ。カーテンで仕切られた寝台車の中、ビールを飲み続けながら考えた。五能線の海岸沿いを走る風景を見ながら、津軽三味線の音とともに考えた。雪がしんしんと、しかし圧倒的に降り積もる岩木山神社のバス停で、缶コーヒーだけを暖房代わりにして、待合室の中でじっとしながら考えていた。青函トンネルを越えて乗り継ぎ、札幌へ到着する頃には既に悩みに決着がついていた。
アウェイの地を離れ、はずかしながらこの地に戻る。蝕まれているこの心と身体とを、どうにか自分で調節できるレベルにまで持っていく。そして、しばらくの間は何もせずにいる。(でも、そんなもんで回復できるほどの病気ではなかったと僕は改めて知ることになる)

僕があのとき、東京を離れるまえ、最後に見た試合はA3チャンピオンシップだ。あの記事を書いているころ、僕は引っ越しのために荷造りをしている最中だった。でも、その作業が終わっていようといまいと、「とりあえず最後の」東京での試合は見に行きたかった。そして韓国や中国のチームの試合を見ながら、ああ、これでとりあえず最後の国立だなあ、と寒さに震えながら思っていた。何泊したかわからないフランスW杯最終予選の青山門前、灼熱地獄の浦和戦、東京戦のあと担ぎ込まれた国立の医務室。それらすべてと、僕がサッカーに捧げてきた記憶の一部分と、これでお別れだ。そう思いながら、まばらな観客の中、ひとり試合を見ていた。
そうして、今でも病気は完治せず、ふらふらと人生をさまよい、国立には行けぬまま5年が過ぎた。

つまりは、まだ死ねないのだ。

posted by retreat |00:33 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年04月02日

CONSAISM clasics #37

clasics #37です。時間は一気に進んで2003年3月、開幕直前の回。


気がつけばあっという間に1月も2月も過ぎて、今年のシーズン開幕までの時間はもうわずかになってしまった。今年も選手達は札幌を離れ、オーストラリアや鹿児島や宮崎や、遠く離れた空の下で一年戦うための力を身につけ蓄えている。札幌のチームであっても札幌にはしばらく戻らない、今年も変わらぬジプシーのような合宿生活が続いている。
自分自身はというと、サッカーを生観戦することのないここ2ヶ月はなんだかんだいってやっぱり退屈なもので、2月になって開催されたA3マツダチャンピオンシップには尻尾を振って飛びつく犬のように国立競技場へ行き、普段見られない韓国や中国のチームのプレイを堪能し、鹿島の一層迫力を増したディフェンスラインに驚嘆した。秋田のあの強さは人智を越えたものになったんじゃないかなんて一瞬本当に思う。けれど2月の風は寒くて、自分は寒さに震える犬のような感覚で2試合を見てしまったのだけれど、それはそれで風邪さえひかなければプレシーズンの興趣の一つではある。そうして他のチームの試合を見ながら「札幌の仕上がり具合はどうだろう」とか、「今年の新外国人は当たりだろうか」とか、「ウィルは今年誰を蹴るのだろう」とか適当につらつら思ってしまうのもこの時期ならではの妄想でもある。
そうして3月になり、雪も風も日差しも柔らかくなり、首に巻くマフラーがいい加減うっとうしくなる頃にやっとリーグの開幕がやってくる。東京で、静岡で、大阪で、九州で、そして札幌で。そう、チームが出来て初めてのホーム開幕である。札幌ドームという場所が出来て、初めてその恩恵とにあずかることが出来る。この嬉しさは他のチームのファンには理解できないかもしれないが、とんでもなく嬉しいことなのだ。
ご存じの通りいままで札幌はホームで開幕を迎えた事がない。96年の福島に始まり水戸、清水、大分、鳥栖、長居、広島と、この時季は雪国チームのハンディを背負って戦う季節でもある。そして札幌のファンはそれをごく普通のこととして受け止めてきた。何試合かを(立地という点では)アウェイで戦い、そこでスタートダッシュを決めたりいきなり大失速したりしながらも北海道に戻ってくる。室蘭に、厚別に、そしてドームに。その季節が近づくたびにみんな我知らず高揚し、胸躍らせる。今まで見たくて見たくてたまらなかったチームの姿を、今日このホームでやっと見ることが出来る。その年初めてのホームは、そんな気持ちの爆発が選手達を迎え、札幌でしか味わえない興奮がピッチを包む。そんな光景は見ていて気持ちよく、晴れがましく、またチームへの自分の気持ちというものを再確認できる場所でもある。
それが今年は最初からホームでの試合になる。今までアウェイでしか開幕を迎えたことのない人間にとって、その日がどんなものになるかは正直想像もつかない。けれどそれはどうしようもなく嬉しい日になるだろう。7年分ホームでシーズン最初のキックオフを迎えていない分の気持ちが、そこに表れるのだろうから。そうして、その気持ちがずうっと続けばいいと思う。フットボールに我を忘れ、コンサドーレに我を忘れ、そのことをとてつもなく幸せだと思える週末が、ずっと。
今年の春の訪れは今までより少し早い。けれども、それを実りの秋にできるかどうかはこれからの戦い方次第だ。雪未だ融けぬ札幌の街で、緑のピッチが萌えるように映えるその日が、赤と黒の週末が、また今年も僕らを待っている。

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2008年04月01日

aftertalk #36

clasics #36でした。連載史上もっとも観念的で抽象的な回ですねこれ。

人生の面白さとサッカーの面白さ、というのをリンクさせて語ろうと思っていたんだろうけど、何でだろうというかやっぱりというか、最後の方ではそこはかとない悲しさと無情さが漂うような方向になってしまっている。もはや性分。サッカーには喜怒哀楽のすべてが入っているとも言っているけど、どうやらそうでもないらしいということがようやくこの歳になってわかってきたような気もする。確かにサッカーには喜怒哀楽がある。しかしそれはスポーツというカテゴリで展開される喜怒哀楽であって、人生とか生活とかそういうところと比べるとダウンサイジングされていることは否めない。人が生きることのすべてをサッカーで語ることは不可能だ。でもその不可能を何とかして可能に近づけたいと思うこと、語ることを止められないのもまた自分にとってのサッカーという存在。喜怒哀楽が90分に凝縮されている、というところもそういう気持ちを抑えられないひとつの理由だと思う。

とはいってもサッカーが面白くなくなったという意味ではない。サッカーに対する興味は昔も今もそれほど変わらっていないし、この回を書いているときから沈黙する時間が長かったからそう思えてしまうんだろう。実際、ここ数年で僕自身がサッカーを語ることのできる言葉というのはかなり少なくなってしまった。サッカーがつまらなくなったのではなく、サッカー以外で語りたいことがあったり、サッカーを言葉にすることから離れてしまっていたのが原因だ。何かを言葉にできるだけの語彙というのは確実に僕の頭の中から減ってしまった。だからともあれリハビリにこうやって書いているというのもあるけれど、語る内容はサッカーから離れているという不思議。いやべつに不思議じゃないか、自覚的に書いてるんだし。サッカーを見ること、応援するということが自分にどんな影響を及ぼして自分がどんな風に思ったり考えるのかということに興味を持ち続けている、あるいはそれを形にできる方法を探り続けているといったほうが正しいのかもしれない。そして今も昔も、形にできる方法でいちばんどうにかなりそうなのがこうやって何事かを書き連ねていくことなんだというところは変わっていない。もっと語り、もっと考える。そしてもっとその産物をどこかにまき散らしていく。恥ずかしげもなく、悪びれもせずに。そんなことが今必要なんだろうと思う。

ああ、ちょっと思ってしまった。ひょっとして自分は「サッカーに興味がある」のではなく、「サッカーに興味がある自分自身に興味がある」という場所から抜け出せていないのではないか。悪い癖だとは思うけれど、ひょっとしたら僕は「自分」というフィルターを通さないとすべてのものごとを把握できない人間なんじゃないかとも思う。それはそれで問題だろうけど、抜け出す方法も知らないままここまで来てしまっているのでどうやっていいのかもわからないというのが今の正直な心境だ。

posted by retreat |23:33 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

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