2008年07月25日

冬瓜の味

取り立ててなんにもないままに誕生日が過ぎて、またひとつ歳を取った。直前になってまたなにか余計な感傷を呼び覚ましたりするのだろうか、と思ってはいたが(そもそも今があまりにも感傷的でありすぎる)恬淡としたものだった。そうか、これが三十路というものか、とひとりごちて、昼食をとりにいった。
仕事によるここ数日の疲労感はピークに達しつつあり、きちんと寝ないと体力及び気力の回復は覚束ない。しかし、ふとしたことで眠るタイミングを逸してしまう日々が続いていた。そんな身体に冬瓜のスープ煮(+たらばがにの餡かけ)はさくりとした食感の中にも中までしっかりスープの染みているしみじみとした味で、こうしたさっぱりした味を好むようになったというのは歳を取った証拠なのかな、と考えていた。茄子の美味さを改めて味わったり、漬かりすぎた塩のきつい漬け物が苦手になってきたり、味覚も少しずつ変わってきたかもしれない。まさかこの歳になって老齢ということでもあるまいに。

ぱっとしない曇り空の札幌市内を眺めて飯を食いながら、果たしてここまで何をしてきたのかと考える。たぶん、なにか人に誇れるようなことは何一つないなんてことはないけれど、ひとつくらいしかしていないだろう。そしてそれだってもう何年も過去のことだ。その過去から逃れようと、決別しようと、そんなふりだけをしてずっと同じ場所にとどまり続けているような気がする。何一つ決められず、何一つ動こうともせず。
果たして、こうして何も決めないというのは果たして、どちらを選び取ることもできない弱さなのか、決断主義を否定してとどまり続ける強さなのか。できることなら前者でありたい、もっとできることならそんなことすら思わないほどの気持ちでいたい。「河岸忘日抄」で堀江敏幸の描いた、主人公のように。何を手に入れたのか、何を喪ったのかもよくわからないまま日々は過ぎゆく。いっそのこと何かを喪失してしまえばはっきりするのに、そうしようともしないままの日々。

30歳からは、今までよりもっと歳を取るのが早く感じられると人々は口にする。一念発起して動くのならば今がちょうど良い時期なのだと思いながら、もう少し、ととどまる自分がここにいる。今の自分があまりにも無力であることに気づき、気づかないふりをしている。余裕を持って立っている振りをして、立ち竦んでいる。だけどそれは、内なる自分を把握できているということと、自分の心をごまかして過ごすことができる、ということにもつながっている。ただ、できることならもう少し内なる自己を補強したい。そう思って社会学や思想の本を読み進めている。杉田俊介「無能力批評 労働と生存のエチカ」は、今自分がこの場に立ち止まっている「とどまること」「弱さを肯定していること」を肯定し、そこから切り離せないものを提示してくれた。

まずはもう少し読んで、深めて、そこから表現してゆこう。表現したいことはいくらでもある。街の匂い、酒やたべものの味、人の様子、それらがある「場所」、そして、フットボール。そのために今は自分という名の「物語」を突き詰めて、突き崩して、新しい表現、新しい自分を掴もう。まずは急がなくてもいい、ゆっくりやろう。冬瓜にスープの味がゆっくりと染みこんでいくように。

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河岸忘日抄 (新潮文庫 ほ 16-3) 堀江 敏幸 (著)

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無能力批評―労働と生存のエチカ 杉田 俊介 (著)  


posted by retreat |21:45 | life | コメント(0) | トラックバック(0)

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