スポンサーリンク

2008年02月29日

aftertalk #25

clasics #25でした。
そして、今回のaftertalkはもう時効になった今だから話せる、重い話です。

この札幌に帰った時、というのは7月の中頃から下旬くらいのことだったと思う。仕事でさんざん疲れて精神的に参っているという話はさんざんここでしてきたけど、ついにそれが決定的な形となって現れたので休職して一週間ほど実家に帰っていたのだ。現状報告と、頭を下げに。
その決定的な形というのはいつもと変わらない、たいして眠れなかったまま朝を迎えたある日のことだった。いつもどおりにシャワーを浴びて目を覚まし、いつもどおりに電車に乗った。MDのボリュームを迷惑にならないギリギリまで上げて、ただ音楽に集中していた。仕事の事なんて考えたくなかったし、職場にいる先輩や上司のことはもっと考えたくなかった。でも、奥歯を噛み締めながら乗り換え駅の大岡山に着いたとき、それが爆発した。
目の前が真っ白になって、足はがくがくと震えだし、立っているのも辛くなってベンチにへたり込んだ。全力疾走を止められないかのように息は苦しく、呼吸を上手く行うこともままならない。

ここはどこなのか、ここにこうして立っているのは誰なのか、
果たしてそれはほんとうに僕自身なのか、
このまま死ぬのではないか、ひょっとしたらこのまま死んだ方が楽なのでは、
いや、
まさか、
ほんとうに、
どこかが壊れてしまったのか――

30分もするとその症状は治まり、ともあれ僕は汗びっしょりになりながら会社に行った。とりあえず最低限の仕事をして定時には帰ることにした。その間、いつあの朝に起きた発作のようなものが再発するのではないか、再発したらどうしよう、こんどこそ狂ってしまうのではないのか、なにかひどい病気だったらどうしよう、そんなことばかりを考え続けて、身体に始終弱い電流を流されているような震えを止められず、翌日に近くの大学病院に行くことにして、電車の中でもびくびくとおびえ、身を縮め、乗り換えの駅になるたびにベンチで休みながら家まで帰った。

この僕の症状はなんなのだろう。明日病院に行くにしても、どんな病気なのかの見当くらいつけておかないと心配だ。ましてや、いちばん近くの大学病院って言ったってバスにゆられて30分はかかる山の中だ。何も知らずにまた今朝のような突然の不安の渦に巻き込まれるようなことは避けたい。
とりあえず今朝自分がうけた症状から病名を検索してみた。

1,自律神経失調症
2,パニック障害

ああ。あああ。
とうとう、病んでしまったのか。
僕がいちばんなりたくなかった「弱い人間」に、なってしまったのか。
なんて格好悪い、なんて悲しい、なんて情けない、なんて恥ずかしい。
なんて、死にたいくらいに。

結局、その日も眠れぬ夜を過ごしたまま、キレイに青い夏空に輝く太陽が昇った。
やっぱり病院に行くまでの道中は怖かった。僕がこんな病気だと診断を下される事が怖かった。会社での反応と、僕に投げかけられるであろう蔑みと諦めの視線が怖かった。そして、もう札幌の応援ができなくなるんじゃないか、というのが、何よりも怖かった。
アンケートに症状を記入し、薄暗い病院の奥まった診療科で待つこと2時間。医師は初診の僕にあっさりと「パニック障害ですね」の一言を告げた。それを言われたときはなぜか気が楽になったのを覚えている。ああ、何はともあれ病気だったんだ、と。診断書を書いてもらって、薬を出してもらって(そしてその薬の高さにびっくりして)、とりあえず家に帰って薬を飲んで寝た。
今まで眠れなかったのが不思議なくらい、よく眠れた。

その翌日何とか出社した僕は、課長と部長を小さな人目につきにくいミーティングスペースに呼び、診断書を出した。2人とも部下からこういうメンタル系の病気になってしまった人間を出したのは初めてのようで、ただただ困惑していた。休養が必要ということだからということでとりあえず有給で2週間休むことがあわてて認められ、僕は実家に事情を話し、残っていた仕事を放棄して翌日には札幌へ帰る飛行機に乗っていた。とにかく一刻も早くこことは違う場所へ行って、気持ちを落ち着かせたかった。そしてそれができる場所は、僕には、実家しかなかった。千歳から列車に乗り、地下鉄に乗り、バスに乗り、そして歩いてきた僕は家のドアの前に立ち止まった。
なんて、なんてことになってしまったんだ――。
気づけば、自分は立ちつくしたまま玄関でぽろぽろと涙を流していた。涙は一向に止まらなかった。今の方向からは賑やかなテレビの声と、両親の会話が聞こえる。今から自分は、あの両親のささやかだけど幸せな生活をぶちこわしてしまうのかもしれない。自慢の息子が心を壊して帰ってきたなんてかっこ悪い喜劇のような悲劇で。でも、ここにしか身を寄せる場所もない。申し訳ない、ごめんなさい、そう思いながら、何かにすがるように、インターホンを押した。泣きながら、僕は、いきさつを話し、診断書を見せ、夕食も取らずに部屋に閉じこもってただ眠った。

何日かが過ぎて、突然に父が外で晩ご飯を食べよう、と言い出した。
家の近くに、イタリア料理店ができたのだそうだ。それが前回で出てきたお店のことだ。食事の間両親は特になにも僕には言わなかった。言わない方がいい、と気を遣ってくれたのだろう。僕にはその気持ちが本当にありがたかったし、本当に申し訳なかった。言ったとしても、それは「無理するな」「無理だと思ったらいつでも帰っておいで」というくらいの言葉だった。僕はそのとき東京に骨を埋める覚悟だったから、両親には申し訳ないけどそうならなければいいな、と思った。白身魚のソテーと白ワインとパスタが、ほんのちょっとだけ僕の心を緩めてくれた。とりあえず1週間ここで生きられると思った僕は、少しだけのワインでかなり酔ってしまった。

何も言うまい、余計な口出しはすまい、と両親は僕が帰ってくる前に決めていたのだろう。実家にいた間、病気のことを僕に細かく説明させようとしたり、生活態度が多少乱れても怒らなかった。いつも通りに、盆や正月に帰ってきた時のように、普通に接してくれた。それが僕にはありがたかったし、申し訳なかったし、余計なお世話だという気持ちも少しあった。素直にありがとうと言えなかった。僕は両親のその気持ちに気づこうともしなかった、というか、自分がこの先どうなるのかという事ばかりをずっと考えていたから、他のことを考える余裕がなかった、というほうが正しいかもしれない。でも、あの時のことを思い出していちばんに思うのは、両親への感謝と、自分の情けなさだ。

また東京に戻ったら原稿を書こう。がらっと文体を変えて、開き直って吹っ切れた、さっぱりした文章を書こう。ですます調をやめて、きっぱりと、淡々と。そう思って、僕は残りの1週間を会社復帰へのリハビリに充てるために、東京へと戻った。

そしてこの病気が、僕がコールリーダーを辞めた最大の理由。

posted by retreat |00:48 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月25日

CONSAISM clasics #25

clasics #25です。文体チェンジとリーグ再開直前の、ちょっと短めなヒマネタ。


 以前札幌の自宅に帰った時に、せっかく一家そろったのだからどこかに食べに行こうという話になり、自宅から歩いて5分ほどのところにあるイタリア料理店に入りました。そこは自分の通った高校のすぐ裏手で、もうその店が開店してから数年は経っているでしょうか、今までに何回か行った事があります。
 そのときはちょうど2,3年ぶりに店に入ったので、いろんなところが少しずつ変わっていてそんなところを見渡しながら夕食をとっていました。料理は昔食べた味と変わらずおいしく、サーヴィスや店のスタッフの人たちの人柄も変わらず暖かく、自分たちは十分に満足して食後のコーヒーを飲んでいたとき、店の白い壁の一角に見たことのなかったサインが書かれていることに気がつきました。
 サインの主は「Takeshi Okada」、岡田前監督のものです。日付を見ると「2001.12.17」と、ちょうどコンサドーレの監督を退任した頃のものでした。
 お店の人に話を聞いてみると、この日に岡田さんはごく親しい知人やお世話になった人たちを招待し、パーティを開いて感謝の意を表し、その後その様子も収めたアルバムを配ったという事でした。サインの上にはその日のメニューが、これも岡田さんの直筆で壁に書かれています。イタリア語はほとんど理解できない自分ですが、それでもいい素材をいい料理法で食べられたんだな、ということがよくわかるほどの内容でした。それにしても有名人が自分の店に来たときに色紙にサインを書いてもらって壁に飾っていたりするのはよく目にしますが、壁に直接書いてもらうというのはちょっと珍しいのではないでしょうか。ちなみにその隣には、知人に配ったものらしいアルバムの一ページを切り取って貼り付けてあり、そこにはコックの服に身を包んだ岡田さんとそのお子さんが手にサーモンを持って、壁のサインを背景に写真に写っています。その表情はとても柔らかで、監督とい重圧から解き放たれた安心感や、一つの仕事を終えた充実感のようなものが見ていて伝わって来たのと同時に、札幌という土地が岡田さんを受け入れ、励ましてきたその土地の暖かさというか、そんなものも同時に感じる事ができました。
 その後岡田さんが退任し、期待を持って迎えられた柱谷新監督は解任という結果に終わり、現在はイバンチェビッチ新監督の下でJリーグ再開へ向けてトレーニングを積んでいます。果たしてイバンチェビッチ新監督が岡田さんのように広くサポーターに受け入れられるかどうかというのは、余所者を暖かく迎える北海道人としての気質だけによるものだけではないと思います。新監督が記者会見で「自分の役目はこのチームを一部に残留させる事だ」と語ったように、勝利と残留という結果も伴わなければ札幌という土地に受け入れられたとは言いづらいのではないでしょうか。そしてその結果を残すために、自分たちは今このチームを支えていかなければならないと思うのです。ゴール裏だけでなく、街全体でこのチームを支えて、みんなで盛り上げて行かなければならないのではないでしょうか。札幌にはまだワールドカップの記憶が残っています。その記憶や熱気を、今度はコンサドーレのために注げたらいいな、なんてことを考えています。そして岡田さんと同じように、あの店の壁にサインをして欲しいなんて勝手な事を考えています。

posted by retreat |23:26 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月23日

aftertalk #24

clasics #24でした。ワールドカップの時に感じた違和感というのはaftertalk #20でも書いたんだけど、なんだったんだろうあの騒ぎ。
自分の代表に対する気持ちとかワールドカップへの期待とか、そういう気持ちっていうのは97年をピークにだんだん下がりつつあって、今では流す程度。札幌の選手が代表に選出ということもなくなって(たった一度しかないわけですが)、そのうちJ2に落ち、世代別代表からも遠くなり、という歴史も「代表離れ」が進んでしまったひとつの原因だと思うけど、もうひとつの大きな原因というのは「代表を取り巻く空気」が変わってしまったというか、自分にとって親しみの持てるものではなくなってしまったのもある。みんなこぞってカズの落選と、トルシエの戦術と、ジーコのカリスマを語り始めて、それが自分にとっては煩わしくなってきたのだろう。相変わらず心が狭い。ああいうふうにこぞって盛り上がると目をそらしてしまう性格の人間で、売れる前のアーティストとか無名の小説とかそういうのを好んでいて、いまでもそれは変わらない。そこにある(ある意味で)マイナー性みたいな空気が好きだから、ひょっとしたら札幌というプロビンチアを好きになったのも必然かも知れない。東芝の札幌移転まではガンバ大阪、とりわけヒルハウスとかスクリーニャとか森岡茂とかその辺りの選手が好きだったんだけど、札幌ができてからは足を洗った。正確に言うと国立でのワールドカップ予選の前の日になぜか浦和×ガンバというリーグ戦の試合が組まれていて、国立に並んでいた自分は抜け出してガンバを見に行った。それが応援した最後。あれ以降、ガンバの試合を第3者の立場で見たのもないなあ。万博に札幌の応援に行ったのが2回くらいあるだけ。

話を2002年に戻すと、あのワールドカップのあとでファンの底上げという一応の役割を果たしたとは思うけど、自分が思い描いていたほどみんなが「語る」という現象にはならなかった。もっと深いところで語って欲しいのにもどかしいような。自分の思い描いていたところが高すぎたというか、夢を見すぎていたところもあるけれど。いつだって理想論ばかり語りたがるのはわるいところ。代表の試合を見なくなっても、語らなくなっても、ブログが不満と愚痴と自己批判にまみれても、こういう無駄なところだけが積み重なっていくのがなんともまあ。

posted by retreat |21:24 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月21日

CONSAISM clasics #24

clasics #24です。シーズンオフの話から、ワールドカップで感じた違和感をかかえつつJ再開へと向かう気持ちを書いた今回のコラムです。


長かったような、短かったような、日本と韓国を中心にして世界を熱狂に、時には悲しみに染めたワールドカップという祭典が終わりを告げました。実際に現地で見る事ができた人も、テレビの前に毎晩かじりついていた人も、それぞれに感じるところは数多くあったのではないでしょうか。選手の見せるゴール、セーブ、ため息の出るようなスルーパス。スタジアムで感じた雰囲気。審判のジャッジ。そしてホスト国、日本と韓国の戦い、それを取り巻く国中の熱情、異常なまでの盛り上がり。
実際自分もスタジアムで、テレビの前で、街頭で、いろんなところでワールドカップの空気を肌に感じてきたつもりです。そしてどの場所に行っても、どこで見ていても感じられたのは、ワールドカップというのはサッカーだけにとどまらない、世界中の国の人々との交流であり、サッカーを中心にした全世界的なお祭り騒ぎであるということでした。

その中で自分が最も感じたのは、ワールドカップを、日本代表を取り巻く日本中の雰囲気の異様さのことです。本当に子供からお年寄りまで日本代表に関心を持ち、中田や小野や稲本を語り、みんなが青のユニフォームに身を包み、そしてひとたび勝てば渋谷で、新宿で、全国で人々が見知らぬ人とハイタッチを繰り返し、お祭り騒ぎになっていたこと。また別のところでは、ベッカムやバティストゥータといったスター選手を一目見ようと選手バスを待ちかまえ、あたかもアイドル歌手が顔を見せたかのような歓声をあげるファン(ビートルズ来日みたいだ、なんて思ったのは自分だけでしょうか)。日本人って、いつの間にこんなにサッカーが好きになったのだろう、いつの間にこんなにサッカーファンが増えたのだろうと思ってしまう盛り上がりで、なんだか嬉しいところもあるけれどそれよりも居心地の悪さというか、どことなく画一的で薄っぺらいファン感情への反発というか、そんな気持ちが渦巻いているこのごろです。
 
そう、自分が感じるのはなんだか「薄っぺらい」感じなのです。日本代表が初勝利を遂げた日、渋谷では多くの若者が狂喜して騒いでいました。韓国代表がベスト4に進出した日、新宿では韓国の若者と一緒に日本の若者も加わって騒いでいました。でも、そこには「自分の国が勝った!」という喜びではなく、「よくわからないけど騒いでおこう」という、サッカーとは全然関係のない、勝利の名を借りたただの馬鹿騒ぎにしか思えなかったのです。日頃のストレスがサッカーという代弁者によって都合良く排出されているような感じでしょうか。ワイドショーではワールドカップではなく、ベッカムの髪型、ベッカムの年収、ベッカムの奥さんと、サッカーとはとてもかけ離れたような話しかしない、それでいて「サッカーって面白いですね」なんてコメンテーターが言っているのを見ていて本当に嫌になりました。そんなピントはずれの盛り上がりを眺めて、これからの日本のサッカーがどうなるのかを考えると不安になって来ます。

おそらく、ワールドカップであることを「利用して」騒いでいる人たちや、選手の顔にしか興味のない人たちはこのままサッカーのことなんか忘れてしまってJリーグのことなど見向きもしなくなるでしょう。テレビもJリーグの事なんて、試合結果を見せてはい、終わりです。それでは次の話題・・・。それではワールドカップを自国で開催した意味などないのではないでしょうか。こうやってワールドカップを目の当たりにして、人々がもっとサッカーや、それ以外のスポーツに興味を持ってもらうこと、応援していたチームの勝利の喜びや敗北の悔しさを知ってもらうこと、サッカー(を含むスポーツすべて)が何故あれだけ人々に愛されるものなのかを感じてもらうこと、そういう人たちをたくさん増やすことで日本のスポーツがよりいっそう盛り上がることが究極の目標のはずではないのでしょうか。確かにあの日馬鹿騒ぎをしていた人のうち、幾人かはサッカーを本当の意味で好きになり、スタジアムに通うようになるのかもしれません。しかし、この盛り上がりを無駄にしないためにも一人でも多くの人たちがサッカーに興味を持ってもらうようにしなければならないのではないでしょうか。別に札幌の試合だけに来てくれ、というわけではありません。磐田でも鹿島でもいいのです。日本代表の礎を作っているのはJリーグであり、Jリーグもまた面白いものだと思ってもらえること、そのためには今まで以上にサポーターもJリーグを盛り上げなければならないと思いますし、それは札幌にも当然当てはまることです。札幌をより今まで以上に応援して、J1残留を果たすこともその一つです。

あっと言う間にJリーグは再開されます。それまでに気持ちをしっかりと切り替えてまずは神戸戦。リスタートはもうすぐそこです。
 

posted by retreat |23:11 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月20日

aftertalk #23

clasics #23でした。
まあ、新宿の話は置いといて、その直前に行った御殿場の話を。

柱谷監督が解任されてイバンチェビッチという監督が就任したとき、正直な反応を言えば「誰それ?」だった。その後の報道とかネットで、残留請負人とかサルベージとかそういうのを聞いたけどどうもピンと来ない。オビエドでコーディネイターやってたって言ってもなあ。だいたいコーディネイターって何する仕事?
まあ実際に見てみないとわからんわな、ということでワールドカップの中断期間にチームがキャンプを行っていた御殿場で練習試合をやるということで行ってみた。御殿場の時之栖という大学の合宿とか高校生年代の大会、時には代表合宿も行われるグラウンドだけど試合を行ったのは山の中を切り開いて作ったような場所にあった。イバンチェビッチは来日して間もないためか選手に指示を出すこともなく見ているだけで、彼と一緒に来た元福岡のボージョビッチ・コーチと、同じくやってきた助っ人外国人のバーヤックは試合には参加せずランニング程度の軽いメニューだった。ちなみに、バーヤックという選手名をどうコールしようかと相談したんだけど、自分の「ボーリック(ロッテの選手)と一緒でいんじゃね?」の一言でそのまま採用になってしまいました。ジャディウソンという選手もちょっと早いタイミングで新加入してきて、彼のほうは練習試合に出ていた。左サイドからどんどん仕掛けるタイプで、小柄だけど面白いタイプだなあ、と。左サイドで勝負する外国人と言えばその前年に在籍していたアダウトも思い出すけど、アダウトがパワー寄りのスタイルで突破するのに対して、ジャディウソンは細かくボールタッチを繰り返しながらドリブルで抜けていくタイプ。結局、余りフィットしないまま退団してしまったなあ。

いちばん驚いたのはDFの配置。小島をリベロに置くってどんな暴挙だ。案の定慣れないポジションで右往左往していて、あれだけは何をやりたいのかわからなかった。試合も横浜FCにいいところなく敗れて、当時横浜FCで現役だった後藤義一さんに「お疲れ様でした」と声をかけると、「札幌だいじょうぶ?」と聞かれてしまうほどだった。ええ、まったく大丈夫ではありませんでした。

そんなこんなでもやもやしながら帰ってきて、目にしたのが新宿駅東口でのあの大盛り上がりだったからなおのことインパクトが大きかった。韓国に限ったことでなく、店に溢れるほどの人がいるショットバーでみんなが注目してみているのがトルコ対セネガルなんていうどマイナーな試合で、ああみんな(自分も含めて)踊らされてんなあ、と思いながらビールをすすっていたり。そういえばこのワールドカップの開幕戦、フランス対セネガル(驚愕するほどひどかったフランスのコンディションを覚えてる)も新宿のスポーツバーみたいなところで見たんだけど、どこからかやってきた若者が「セネガル!セネガル!」とかコールしていたり「I'm Japanese Fooligan!」と叫んでいたりして、ものすごく居心地が悪かった。自分のことを顧みずにはっきり言ってしまえばそういう人間は大嫌いだし、すごく恥ずかしくて早いとこ帰りたかった。近くにいるドイツだったかイングランドの人だったかがものすごく怪訝な目で見ていたし。まあ自分の世界が狭いとか言われてしまえばそれまでなんだし、「日韓の新しい時代が来る」だなんて恥ずかしいことを自分も書いているのだけど。なんで人間ひとりひとりだといい人も多いのに、国家どうしになるとあんなにこんがらがってしまうんだろう。今にして思えば、ワールドカップで楽しかったというか記憶に残っているのはプレーよりもそれを見ている人間のほうが圧倒的だ。人間っていろんな顔をするんだなあ、と思いながらもそういうことを許容できない自分に腹が立ったりしながらも。

posted by retreat |21:32 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月19日

CONSAISM clasics #23

再び一回ずつの掲載ペースに戻って、今回はclasics #23。引き続きワールドカップネタでお送りします。ある意味、直前に御殿場で見た練習試合の惨状から目を背けるために書いたとか書かなかったとか。


22日の土曜日、自分は練習試合を見に御殿場へ向かいました。
けれど、今回書くのはそのことではなく、その後東京に帰ってから見た光景やそこで考えたことです。御殿場からJR、小田急を乗り継いで新宿経由で帰ったのですがちょうど新宿に着いた時間がスペイン対韓国の試合時間と重なっていて、延長戦をどこかで見られないものかと探していたら、とある喫茶店でテレビを放映しているのが見えてとっさにその店に入りました。
ブレンドを頼み画面に目を凝らすとちょうど延長後半も終わろうかというところで、さして時間をおかずに主審がPK戦突入を告げる長い笛を吹きました。ウェイトレスの女の子は韓国人らしく、店に来ていた友人らしい他の女の子と興奮気味に話しながら食器を片づけたりレジを打ったりしていました。そうしてホアキンのキックを李雲在がセーブすると飛び上がって喜び、そして洪明甫の足の動きをじっと見つめていました。
ゴールが決まった瞬間、さっきよりも大きな喚声をあげて喜ぶ彼女は、早口にうれしさをまくし立て、喜びを爆発させながらながら、それでもレジを打ったり食器を下げたりしていました。その目にはうっすらと涙が浮かんでいて、自分も何か「良かったね」と声をかけたくなるような、そんな気持ちになってしまいました。それにしても韓国というチームの粘り、どんな状況でもゴールをねらい続ける姿勢、そして圧倒的という言葉も霞むほどのスタンドの赤、そして声援。本当にすばらしいとしか言えない、スタジアムの雰囲気です。

そうして喫茶店を出て、少し新宿の街を歩いて、夕食をとるかと店に入ったところで道路から「テーハンミングッ!(大韓民国!)」の声がどこからか聞こえてきました。新宿やその隣の大久保は韓国人の多い街なので喜びあう人たちが結構いるだろうな、と思っていましたが、やはりその通りでした。顔に大極旗のペインティング、「Be The Reds!」のTシャツ、手には大極旗をはためかせて歌舞伎町を歩いています。その人々を目にして思わず顔がにやけてきて、なんだか自分もうれしくなるような感じでした。勝利の喜びを素直に、誰にもはばかることなく表しているその姿はほほえましいというか、うらやましいというか、通りすがりの人たちをも笑顔にさせるそんなパワーがあるんだなあと思いました。そんな人々の姿をもう少し見ていたくて、しばらく新宿にとどまっていることにしました。
歩き回っているとちょうどトルコ対セネガルを放映しているバーがあって、店の前に人だかりがしています。ちょうどいいや、と自分もその中に加わることにしました。店の内外の人だかりは日本人だけでなくどうやらいろいろな国籍の人たちがいるようで、そのうちにどこからともなくイングランド人のグループもやってきて、試合を見ながらなぜだかイングランドの応援歌を歌い始めたりして、訳が分からないけどなんだか楽しい気持ちでビール片手にテレビを見ていました。
後半もそろそろ終盤にさしかかろうかという頃、再び「テーハンミングッ!」の声が聞こえてきました。さっきよりももっと大きな声、たくさんの人。振り返ると100人はいたでしょうか、大極旗を振り回しながらこちらに向かって歩いてきます。そして店の前で「コリア!コリア!コリア!」の大コール。韓国人も、日本人も、さっきのイングランド人も国籍なんか問わないで、みんなが笑顔で手を叩き、声をあげています。みんなが韓国が無敵艦隊を打ち破り、4強入りを祝福して、見知らぬ日本人が見知らぬ韓国人とハイタッチをして、握手をして。「横浜へ行こう!」と肩をたたき合って。この瞬間、日韓の歴史や対立の感情が消えてしまったような、そんな感覚すら覚えさせる光景でした。
実は、大学時代に自分は日韓の交流サークルのようなものに顔を出していて、韓国に10日ほどホームステイをしながら旅行した経験があります。また、高校時代には修学旅行で3泊4日の韓国旅行に行った事もあります。そのときにやはり共通の話題となったのはスポーツ、特にサッカーでした。もちろん日韓のこれからのあり方、過去の歴史の捉え方で意見を戦わせた時間もありましたが、それを離れるとサッカーの話でみんな盛り上がったものです。
そんな昔の事を思い出し、やっぱりサッカーというものは世界の共通言語だと改めて感じたりしながら、そろそろ帰ろうかと新宿駅東口に向かいました。
そこにはさっき見た韓国人の大集団がさっきよりもさらに盛り上がりを増して「オー、ピルスン(必勝)コリア!」と肩を組んで歌っています。その輪の中には日本のレプリカを着た日本人も混じっています。その光景を見たとき、誇張でも何でもなく
「ああ、日韓の新しい時代が来る」
と思いました。
互いの過去やわだかまりや国民感情やそういう物をいっさい抜きにして互いが互いの健闘を祝福し、一緒に喜んでいる。この輪の中にはただ騒ぐのが好きだからという理由で加わっている人もいるのでしょうが、その中には「自分が一緒に肩を組んでいるのは韓国人だ」という感覚がないような感じがしました。互いが互いを憎み合い、反発する感情しか持ち合わせていなかった過去から確かに新しい一歩を踏み出したのだと思いました。少しながらも日韓関係について考えた経験のある自分にとって、こんなにうれしい光景はなかったのです。

そして願わくば、この関係がより深まって日韓がさらに進んだパートナーシップを築いていければいいな、と思います。自分にとってのその第一歩が、新宿駅東口のこの光景です。まだまだ感情や言葉や国民性や、互いに理解し合って、時には意見をぶつけ合って、越えていかなければならない壁はまだまだ多くあると思いますが、この場にいた人たちみんながこの記憶を忘れずに、これからも感情を共にできるようにできればいい、と思います。
 

posted by retreat |20:36 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月17日

aftertalk #21/22

clasics #21/22、変則的に2回分をまとめてという形でお送りしました。でまあなんでまとめたかって言うと、正直言って中身が薄かったから。メヒコの方々とエクアドルの方々とふれあって、テレビでは絶対に味わえないワールドカップの雰囲気を味わえたということを伝えたかっただけだし。そんな今となっては、思い出せるのは宮城スタジアムまでの殺人的な遠さ(仙台駅から2両編成の電車で20分→さらに田舎の一本道をバスで30分)と、バドワイザー一択のビール、特色がないけどバカ売れしていたグッズショップ(熱に浮かされて自分も買ってしまいましたが)という記憶くらいだ。あとサッカー的なところで言えばブランコ(メヒコの選手)はかっこよかったことか。

まあこの時期ぶっ倒れるかどうかのような生活をしてかなり荒んでいた自分いとってはいい息抜きだったんだろうけど、結局息抜きは息抜きでしかなかったというのも深く味わった経験でもあった。このころからさらに悪化していた仕事関係のこととか、それに伴って眠れないやら電車に乗ったら吐き気が止まらないわという毎日のオンパレード。ビールを何本も飲み干してやっと夜明け前に浅い眠りにつける、という平日を過ごしていた。どこか身体の調子が悪いんだろうけど、それは仕事に起因するものであって、仕事さえ何とか上手く回るようになれば自然とそういう毎日からは抜けられるようになるものだと信じてひたすらに我慢してた。結果としてはそれが大きな間違いで人生狂ったわけなんですが。あと、その少し前に患った蓄膿症がまだ治りきっていないからこんなに頭がふらふらしたり、集中できなかったりするもんなんだろうな、とも考えていた。どっちにせよ誰も気づいてはくれなかったし、自分で気づいて原因を探り当ててどうにかする以外にやりようもなく、何もない休日には病院に行く気力もなくベッドの上で眠れずにいるか、それともわけのわからない焦燥感に操られるがままにどこかの街をふらふらしているか、みたいな感じだった。こうやって書いているだけで相当ヤバいなこれ。

そのほかのことといえば、このころ自分の書いている文章がなんだか気に入らなくなってきていて、もうちょっといいもの書けないのかと悩んでもいた時期。体調が良ければパソコンの前で唸ったり、メモ帳持ってうろうろしたり。今のような文章だとあまりにも当たり障りがなさ過ぎるし、見かけのかっこよさばかりを追い求めているような気がするから、もっと強さというか、硬質で鋭い文章が書きたいなあ、と思っていた。それで7月の終わりくらいに開き直って文章の転換を図って、ようやく以前よりはしっくり来るものが書けるようになった。そういう転換期でもあったんだよなあ、この頃。

posted by retreat |20:38 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月16日

CONSAISM clasics #21/22

チームは既に熊本キャンプに突入していますが、こちらは粛々とclasics #21/22をお送りします。

なんで「clasics #21/22」っていうことかというと、このあと宮城にワールドカップを見に行けることになって、そのことを2回に分けてコンサイズムに載せていただいたんですね。で、まあわざわざこのブログにまで分けて載せるほどのものでもないだろうということで今回は2回分。それではどうぞ。


まずは渡辺さんのコラムに関して、自分は渡辺さんとchooさんに謝らなければいけませんね。
・・・ごめんなさい、ワールドカップをこの目で見てしまいました。(笑)
 
金曜日の夜遅くに宮城で行われるメキシコ対エクアドルのチケットが手に入り、そこから一気にアドレナリンが吹き出てきました。だって絶対手に入らないと思ってもうほとんど諦めの境地でしたから。大げさかもしれませんが、「世界がこの目に映る、この手で触れられる」のです。興奮しない訳がありません。テレビの前の日本戦より、自分の目で見る試合の方がずっと大事だし、価値あるものですし。
そして日曜日、早朝に一路仙台へ。ワールドカップの行われる街の雰囲気に早く触れたかったのもあるし、手に入れたのはチケットの「引換券」です。まずは指定場所で本券と引き替えなければどちら側のサイドなのかも全くわかりませんし、引き替え場所が混乱して時間がかかることも十分予想していたので。特に今回のチケットをめぐる騒動は何が起こるかわからないので、不安なところもありました。
朝6時半過ぎの新幹線はかなりがらがらでしたが、ちらほらとメキシコやエクアドルのレプリカを着た人たちを見かけました。夜が遅かったのでうとうとしながら新幹線に揺られ、仙台駅に着いてみるともう駅前には緑、白、赤の国旗を身にまとい、鍔の広い帽子をかぶった人たち。紛う事なきメキシコ人です。仙台の人には物珍しいのか(というか、どこでも珍しいですよね)格好の記念写真の的になってしまっていました。ともかくも、こういう人に出逢ったらまずは挨拶です。

「ビバ、メヒコ!」
 
そうしているうちに新幹線から降りるメキシコ、エクアドル双方のファンの数は日が高くなるにつれてどんどんと増えていきます。しかし圧倒的にメキシコ人が多いです。みんな改札を出て出口に向かいながら
 
「メヒコ、メヒコ、ラ、ラ、ラ!」
 
と歌っています。そしてその数は膨れ上がっていき、中南米の陽気な騒々しさが一都市の朝を賑わせています。たまにエクアドル人がちょっとした対抗意識で応援歌を歌いながら通りますが、その声を聞きつけるや一斉にブーイングです。でもそこに悪意は感じられません。ちょっとした礼儀みたいな感じです。今回、双方のファンがにらみ合うような場面には出くわしませんでした。それどころか互いにすれ違いながら握手したりとか、そんな感じで友好的な感じすらしましたし。
そうして引き替え開場の開く10時になり、チケットの引き替えも無事に済ませ(スムーズでした。5分も待たないくらいで本券が手に入りました)、会場の宮城スタジアムへ。列車とバスを乗り継いで行くのですが、乗り換えも待たされることなくすんなりと移動でき、特に迷うこともなく到着しました。行きも帰りも、交通機関の混乱というのは特に大きなものはなかったです。徹底した交通規制によって、バスと列車、地下鉄に輸送手段を絞り込んだのが良かったのでしょう。
この間にボランティア、駅員、警備員、警察官、消防などいろいろな人たちの姿を目にしましたが皆表情は優しく親切だったのが印象的でした。個人的にはもっとものものしい警備を予想していたので、とても好感が持てました。

到着したスタジアムの周辺では人々が思い思いに開場までの時間を過ごしています。ずっと騒いでいるというより、静かに皆佇んでいるという感じでしょうか。でもそこには、これから始まる90分を待ちこがれる高揚感がありました。強い風に時折あおられながら、青空の下で自分もその中の一人になっていました。
自分にとってのワールドカップが始まる、そう思うと自然と笑顔になってきます。そしてここにいる人たちも、みんな笑顔です。
仰ぎ見る宮城スタジアムの銀色と日光に照らされて、キックオフの笛の音を待ち望むのと同時に、このまま試合が始まらなければこのままみんな笑顔で、こんな幸福な時間が過ぎてしまうのがとてももったいないような気もしたりして、複雑な思いにふけりながら開場を待つのでした。
 


で、その続き。


そうして開場となり、早くスタジアムの雰囲気に触れたかったので早々に入場することにしました。ゲートの向こうではメキシコ、エクアドル双方のサポーターが集まり、歌を歌って騒いだり、のんびりひなたぼっこしていたり思い思いに時を過ごしています。
思っていたよりも入場はスムーズで、最低30分以上は並ぶのかなと思っていましたがそれほど待たされることもなく、ボディチェックも特に問題なく通る事ができました。今回は駅からスタジアムの流れがとてもスムーズで、関係者もとても好意的で気持ちよくスタジアムへ向かうことができています。
今回手に入れたのは赤色の区分のチケット、つまりはエクアドル側。郷に入れば郷に従えとばかりにエクアドルのマフラーを購入してにわかエクアドルサポーターです。後からは続々と入場してくるサポーターたち。陽気さをいっそう増して入場するなり歌い出します。4年に一度のこの祭典の場を楽しもうと、みんな明るく騒いでキックオフを待ちこがれます。そして選手が練習のためにピッチに現れるとその高揚はさらに高まり、声援が一段と大きくなります。
その中でよく聞いたのが「si se puede!」というエクアドルサポーターのコール。この言葉は日本語で言えば「やればできる」みたいな意味なのですが、エクアドルのサポーターが周囲の日本人を応援の輪の中に取り込もうと「si se puede! ガン、バ、ロウ!」と続けていて、それが日本人の観客にとても受けたらしくとても盛り上がっていました。単純に言えば「頑張ろう」っていう意味だよな、となんだか納得です。
そうして選手入場。一瞬スタジアムが静まり、その後に今までよりももっと大きい歓声が空を震わせるように上がる中、メキシコ、エクアドル双方の選手達が入場し、スタジアムの興奮が一気に沸騰します。もちろん自分もその中の一人になっていました。ワールドカップの舞台が今ここにある、テレビで見るだけでは終わらない自分のワールドカップが今始まったんだ、そんな気持ちが高まってくるのを感じながら、サポーター達が大声で、誇りを持って堂々と歌うメキシコの、そしてエクアドルの国歌を聴いていました。

試合開始の笛が鳴り、そして幕が開きました。
 
いきなり前半5分にエクアドル・デルガドがヘッドで先制、そしてこれがエクアドルのワールドカップ初ゴール。そのときのエクアドルサポーターはチーム初のゴールに驚喜するかと思いきや、ゴール裏からは見にくい位置のゴールだったので喜びよりも驚きの方が大きい感じで、でもなんだか激しく喜ぶというよりもこのワールドカップで点を獲ったという事をかみしめるような喜び方でした。しかしそれでかえって選手達は集中が切れてしまったのかボールを奪われる事が多くなり、ついには前半28分、メキシコ・ボルゲッティのゴールで追いつかれてしまいます。しかしエクアドルサポーターは落胆の顔を見せず、そんなことはわかっているさとでも言うような表情で応援を続けています。そこには自分の国を代表しているチームに注がれる変わらぬ愛情が感じられるような、そんな感じがしました。その後もなかなかボールをつないで攻めていく事ができず、後半12分、トラドのミドルシュートがエクアドルゴールに突き刺さり逆転を許します。それでもやや歓声は小さくなったとはいえ、途切れることのない「エクアドル! エクアドル!」、そして「si se puede!」の声。「やればできる、だから頑張ろう」と選手達に声をかけ続けます。

試合終了後間際に何度か惜しいチャンスがありましたがゴールにつなげる事はできず、結局エクアドルはグループリーグ2連敗となり、決勝トーナメント進出は絶望的になってしまいました。そのときにエクアドルサポーターは悲しいのか苦笑いなのかわからない、複雑な表情をしていましたが、その中にはチームが初めてゴールを決めたと言うことに対する満足の気持ち、「これがサッカーというものさ」という諦めにも少し似た感情も少し見られたような気もしました。いまでもあの表情は記憶に深く焼き付いています。
 
できればこのまましばらくスタジアムにとどまって、それぞれのサポーターの表情を見たかったのですが、ここから仙台駅まで混雑すると思われたので後ろ髪を引かれる思いで早足にバス乗り場へと向かいました。ワールドカップの余韻というものを楽しむという点においては、このスタジアムは少し遠かったのかもしれません。結局試合終了後すぐにスタジアムを出て、仙台駅から新幹線に乗ったのは7時少し前。そして家に着いてテレビをつけると横浜に試合終了の笛が響きわたるところでした。
 
人生で初めてのワールドカップ観戦は少し駆け足気味で過ぎて行った一日でした。しかしそこで触れたものはとても大きかったように思えます。サッカーを通して知らない人と言葉を交わし、気持ちを伝える楽しさや、サッカーがさらに祭典という場を得たことでその輝き、楽しさを増し、その場にいる人を笑顔にさせるということ。サッカーの楽しさという物を、この一日で改めて実感できたような気がしました。
 
ちなみにあの一日以来、少しきついな、辛いかな、と思うことがあると、こっそり口の中でつぶやく言葉があります。

「si se puede!」と。

posted by retreat |23:39 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月15日

aftertalk #20

clasics #20ということでした。見られないとかなんとかいってこの後ワールドカップ見られることになったんだけどね。

ワールドカップの開幕4日目、というと6月10日辺りかな。ワールドカップが生で見られないなんてと嘆きつつ仕事から帰ってきてBSの録画中継見たりしていたけど、夜更かし早起きして必死に見るなんてことはしなかったなあ。つまりそれほど肩入れしてみているわけではなかったってことか。まあ今もテレビつけてサッカーやってれば見る、大事な試合やどうしても見たいけど深夜早朝で見られなさそう(見ても記憶が薄そう)な場合は録画するというスタイルはずっと変わらない。当時は会社の人たちがワールドカップに浮かれていて(あえてこう書いておきたい)睡眠不足な人たちがイタリアとかベッカムとか言ってたのに背を向けて、アイルランドとかメキシコとかそういうところを見ていた。会社で馴染んでいなかったからひねくれた、もしくは元々人間がひねくれているだけなんだろうけどね。にわかフーリガン、みたいのが渋谷とか新宿にうわーっと出てきているのをニュースで見たときは、正直に言うと寒気がした。鳥肌が立って興奮してと言う意味ではなくて、恐ろしかった。
「サッカーが人々の心をひとつにした」なんてテレビのニュースで言っていそうな言葉はまったく思いつかなかった。思ったのは、サッカーが人々を「洗脳」するという恐ろしさと、社会の表面をなぞるように浮遊しながら生きていく人たちの恐ろしさだった。

あのときなんであんなことを感じたのだろう。自分の方がサッカーを長く見ているぞ、というくだらない自尊心?それとも単純に群衆への恐怖?そのわりにはぎゅうぎゅうに詰まったゴール裏に通ってるわけだけど。まあ、単純にうらやましかったんだろうな。まっすぐに物事を楽しめる人たちのことが。
自分はすぐに疑うし、すぐに諦めるし、すぐに嫌悪する。人の好きなことが嫌いで、人の目につかないようなところにあるマイナーさを好む。10年以上も同じサッカーチームを応援している、ということ自体が奇跡のようなものだ。コンサドーレは奇跡を生んだとかかっこいい言葉をほざくつもりはない。自分にとっては「奇跡」じゃなく、「そこにあるもの」だ。
ワールドカップの終わった後は札幌の試合を見に行く人が劇的に増えたというわけでもない(まあ弱かったしね)し、劇的に変わったとすれば練習場などのインフラ面が大きいだろう。ただ、それだけでもワールドカップの価値はあったのかもしれない。

posted by retreat |22:30 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年02月14日

CONSAISM clasics #20

clasics #20です。もう20回目。
この回からしばらく2002年ワールドカップネタになる……のかな?


これを書いているパソコンから少し目を上げると、そこにはブラウン管にワールドカップの映像。慣れ親しんだ札幌ドームの芝の上で戦う世界の選手達。まだ実感のわかない開幕四日目の今です。
いろいろと手を尽くしてチケットを当たってみたものの手には入らず、金券ショップに飾られるチケットは桁が一つばかり多い物もあってとてもじゃないけど手が届かない。そんなこともあって今回はテレビ観戦かな、と思っておとなしく家にいると、テレビに映るのは空席の目立つスタジアム。なんなんだ一体、と思って当日券の売られているらしいサイトにアクセスしてみてもいっこうに繋がらないチケット無間地獄。とにかくももどかしく憤りの深いワールドカップ。
というわけで一枚のチケットも手に入らないので、おとなしくテレビ観戦の毎日です。何試合か見ても「ああ、日本でワールドカップが行われているんだ」という実感には程遠く、日本によく似たどこか別の国で行われているような感覚さえしてきます。ことサッカーに関しては「実際に自分の目で見て、経験する」ことしか信じない自分の性格から、余計にそう思うのかもしれませんが。そうすると実際に会場に足を運ばれた人はどんな感想を持ったのかな、なんて思います。サッカーだけでない「世界」は体感できたのでしょうか。それとも「キリンカップの拡大版」くらいの感覚だったのでしょうか。
そして自分が思うのは、早くもワールドカップの終わった後の事だったりします。世界のレベルを目の当たりにした人たち、それまでサッカーのことを何も知らなかった人から何試合と見続けてきた人たちまでみんなワールドカップを見ることで、サッカーに対する見る目のレベルというのか、視線は間違いなくいい意味で変化すると思います。一言で言えば「目が肥える」とでも言うのでしょうか。前回のフランス大会でも同じ事は何回も言われてきたはずですが、今回は自国での開催、おそらくそのレベルはフランス大会よりも遙かに向上するでしょう。そういう人たちが増え、ワールドカップがどこかの国の手に渡り、日本にはつかの間の休息の後にリーグが再開される。そのときに今まで見てきた人、初めてサッカーにふれた人たちがJリーグに対してどんな見方をするのかがとても興味深いところです。
もちろんJリーグのレベルは世界に敵うべくもありません。スタジアムは観客の数より空席の数の方が多いかもしれません。でも、そこにあるものもまたサッカーなのです。ワールドカップの熱狂とはまた違う、手を伸ばせば届くところにある身近なサッカー。自分の住む街のサッカーがそこにあり、愛着のあるチームを応援できる喜びがあり、ひょっとしたらワールドカップ以上かもしれない歓喜があるのかもしれない。そういう良さも知ってもらえればいいなと思う気持ちです。
 
そんな中、札幌は柱谷監督の解任が報じられました。このニュースに溜飲を下げた人も入れば、解任の動きの遅さに憤る人、それぞれだと思います。それでも解任という動きに至った経緯には、政治的な事は抜きにしても一つの要因としてサポーターの行動の結果であるという事が言えると思います。そしてそういう行動には責任が伴うものです。自分たちは言い訳のできる逃げ場を一つ、自分たちの意志で切り捨てたのです。監督の首が一つ飛んだくらいで劇的に勝ち続けられるほど甘い世の中ではありません。これまで以上にチームを支えなければいけない状況になったのです。
おそらくリーグが再開されたあとは、甘えなど許されない試合が続くことでしょう。危機感がなければ、あっという間に2部行きです。まずはそれを絶対に許さないために応援していかなければならないと考えています。
そんな事も頭の片隅におきながら、まずはそのときまで、世界に触れて楽しむ事としましょうか。

posted by retreat |23:50 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)