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2008年08月01日

ライフプラン/リスタート

まだ三十路の話が続きます。

この間友人と深夜の電話で話しているときに、高校時代の思い出がよみがえってきた。
家庭科の授業で「ライフプラン」的なものを考えるというようなものがあって、大学を出た後は何歳くらいで結婚して、何歳くらいで子供ができて。家を買って、子供が育って、誰かが死んで、僕も死んで。とうようなことを人生のスケジュール帳のような一枚の紙に書いてみる、というものだった。たしか18か17か、そのあたりの時だったと思う。
紙を渡されて、どうしていいのかわからなくなってしまって途方に暮れてずっと考え続けていた。残りわずかな授業時間で書き上げただろう僕自身の人生設計はものすごくなげやりだった。

・22歳 大学卒業、就職
・30歳 まあそこそこ仕事してる
・40歳 死んでる

ってくらいしか書いてなかったはずだ。
当然のように僕は教師に怒られた。ただ、怒られたのはあまりにも簡素すぎるその内容ではなく、「40で死ぬ」と書いていたことだった。もうちょっと真剣に考えなさい、とその教師は言った。でも真剣に悩んで考えてあの結論を紙に書き写した僕にとっては、それ以上の「真剣」とは何か、皆目見当もつかなかった。同じ学級の人たちはそれなりに書き上げたのだろうと思う、たとえそれが方便であっても。でも僕はそれをしなかった。世間一般でいえば間違ってるとかずれているとか言われるのだろう。40歳以後の人生なんて今に至るまで思いも及ばないし、30歳で何をどうやって生きているのかということもわからなかった。ただ漠然と「いい歳をした大人」だということを考えていたくらい。
で、ここで言いたいのはステレオタイプな人生観を強制しひねくれた考えを矯正する学校教育が云々とか、こんなのただの中二病だとかいうことではなく、今こうしている現実まっただなかこの瞬間、「想像すらできなかった人生」を生きているというそのことにある。そのリアルに打ちのめされて、びっくりして、うわこれどうしよう、とうろたえているのが現在の状況。何していいのかわからないし、これからどうにかなるのかわからないし、わかったとしても他の誰にもわかられてたまるか、と思う。どれだけ生きるのが苦しくても、その苦しみも憎しみも悲しみもすべて自分のもので、他人には渡せない。なんかこういうセリフを「プラネテス」で読んで、とてもとても共感した。

僕がそのどうしようもない人生設計を書いていた頃、「ふてくされてばかりの10代を過ぎ分別もついて歳をとり」なんて歌が流行っていて、それを聴きながら僕はそのうちそういう分別のある大人になるもんだと思っていた。しかしながら分別なんて持ち合わせぬまま30歳になってしまった。でもって、その分別とやらを持ち合わせるためにはある程度の自分なりの努力と勉強が必要なんだということにたった今気づいた。俺遅い。
幸いにして相当な遅れはあるものの、自分なりの努力とやらをするにはまだ時間が残されている。高校時代の僕にして考えると、あと10年(今はそんなこと思ってもいないけど)。30歳になったら何か始めるとか言っている人を横目で見て、だったら今からやれよなんて思うことがあったけど今ならその人の言っていることがわかるような気がする。30歳というのは、リスタートを切るにはちょうどいいタイミングなんだ。スタート体制のまま固まって動けないでいる僕も、そろそろ。

posted by retreat |22:37 | life | コメント(0) | トラックバック(1)