2008年05月13日

aftertalk #48

clasics #48でした。この回で取り上げた「東京大学応援部物語」という本は文庫化されて出てます。お求めやすい値段なのでぜひどうぞ……、って、どっかの回し者のようですが単にこの著者の作品とこの本が好きなだけです。

「応援」という行動にのめり込んだきっかけとして運動会の応援団を挙げているけど、このときに経験した「応援」と、その後関わるようになった札幌の「応援」とはまったく毛色の異なるものだったのかなあ、と思う。だいたいにおいて、運動会ぐらいしか組織されることのなかった応援団という存在は、自分の通っていた高校においては、短期的に見れば「みんなの注目を集める手段」であり、長期的に見れば「風物詩」というくらいの存在だった。2年生になってから応援団に新規入団することは認められておらず、経験のある年長者が1年生を教えていくというけっこう古風なスタイル。なぜか運動会当日の弁当は自分の親などではなく、誰か女子に作ってもらわねばならないという謎の掟。自分は1年の時に経験したきり辞めてしまったわけなんだけど、まあお祭り気分がだいたいのところを占めていた活動だった。ただ、閉塞した人間関係を打開するためとか、クラスでの地位を確立させるために応援団に入る、というのは決してやるべきではないという事実は痛感した。事実自分はそういう目的のために応援団に入って、その後卒業するまでクラスでは浮いたまま過ごすことになる。部活と厚別がなかったら、あの3年間は危うく真っ黒に塗りつぶされるところだった。

で、(自分で引き起こした)閉塞感の漂う北海道を抜け出して内地へ進学したわけなんだけど、そこでアウェイの応援と出会って、「応援」というのは高校時代の応援団とかそういう生半可なものではないということをつくづくと思い知った。もっとごりごりしていて、痛みを恐れないような感じ。時々、応援をしていると自分がどんなに無力なのかというのを思い知ることがある。逆のことは無いわけではないけれど、ほとんど無いといっていい。それほど応援というのは労が報われることのない、自己犠牲と苦痛の共有で成り立っているものなんだろう。しかし、共有できるからこそ深く愛することもできる。それを乗り越えようと知恵を絞り、声を出し、少しでも選手に熱を送ろうと跳ぶこともできる。自分が何者で、自分の弱さを知っていて、自分のいる世界に何らかの回答を出せている人間であれば、なおのこと応援は深みを増す。少なくとも、僕はそういう深いものを愛する。
もちろん、応援という行動に伴う快感を否定するわけではない。「応援したい」という気持ちは、というか人間の行動原理なんていうのは、快感をどこかで味わっていないと続かないものなんだろうし。

ちなみに高校時代の応援団をなぜ1年で辞めたのかというと、齢16にして椎間板ヘルニアを患ってしまったからというのもあったりする。だから腰を痛めたままプレーを続けている選手や、腰のケガに悩まされている選手にはやっぱり少しばかりの思い入れを持ってしまう。腰は一度ケガしてしまうと一生治らないし、ヘルニアは再発する事が多い(実際自分も26歳で再発した)。移転する前の市立病院のベッドの上で、本ばかり読まずもうちょっと勉強していたらなあ……。

posted by retreat |21:36 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(1)

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