2008年04月20日

aftertalk #41

clasics #41でした。日韓ワールドカップのときに感じた違和感というのは、ちょうどここから一年前のclasics #24でも目の当たりにして書いているんだけど、また一年経って思い出していろいろと。ワールドカップ真っ最中の時より感情がこなれて落ち着いてきているなあ。
あれからサッカーのすそ野は広がり、Jを目指すチームも、プロにこだわらず地域に根ざしていくチームも増えた。「ゆるやかに」なんてもんじゃなかった。あれから6年でJとJを目指すチームが何十も存在するなんてことはとてもじゃないけど思っていなかったし、もっとゆるやかに増えるものだと思っていた。おそらくJを目指すチームが飽和に近づいた今、これからは淘汰と選択(経営的なリスクを冒してもプロを目指すのか、アマチュアのままでチームを続けるのか、ということ)の時代が来るだろうと勝手に思っている。ちゃんとした根拠はないけど。

もうひとつ決定的に今と昔とで異なることというのがあって、それは「夢を見なくなった」ということ。この当時、もっとサッカーを見る人も語る人も増えていけばきっといいことあるはず、みたいなことを書いていたけど、今の自分は「こうなったらなんて素晴らしい世界になるんだろう」と思うことがほとんどなくなった。全くなくなったわけじゃない。近い未来についての夢というのは持っていて、けれどもそれは大きなことではなく、自分とその周りの世界に対するささやかな希望、のようなものだったりする。生活についてとか、仕事についてとか。見切りをつけたわけではないんだけど、なんというか、夢を見るのにも疲れてきたというか、自分の度量とかこの能力でできることがだんだんとわかってきて、それ以上のことを背伸びして求めようとしなくなったというか。成長したくないなんて思っているわけではないし、伸ばしたいところ、直したいところというのはそれこそ齢を重ねるごとに増えていく。とりあえず目の前に立ち並んでいるそれらをひとつずつ解決していくだけで精一杯で、そこから先のことなんて見る余裕はないし、見えるわけでもない。歳を取るってこういうことなのか、と改めて思う。自分は小さいときから「大人びている」とか「子どもらしくない落ち着き方」だとか言われていたけれど、そういうのはすべて表面上のことで、内面は他の同年代の子ども以上に子どもっぽかったんじゃないだろうか。そう考えると、自分は今まで大人に対して取り繕うことだけで生きていたんだろうなと考えてしまって、俺の人生何なんだと少し落ち込んでしまう。

あきらめるということはないけれど、自分の持つことのできる「希望」というものの大きさと量は確実に小さく少なくなっていっている。いつかすべてを無くしてしまうんじゃないかって、少し怖い。何もない人間になるということが怖い。いつか来るであろう「幼年期の終わり」っていうやつに、怯えるこの頃の自分だ。いつか自分にも、何かできるのだろうか。

posted by retreat |19:53 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(1)

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