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プロフィール
1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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2008年03月18日
clasics #31でした。 この万博でのガンバ戦のことになると、多摩川の夜の河原を思い出す。 どうしようもなく負けが込んできてどうしようもなく降格の危機どまんなかにいたチームを見ていて、応援していて、それでも伝わらないことが多すぎて、伝えたいことが多すぎた。だからダンマクに書こう、せめて文字で伝えよう、そう思って白い布と黒のスプレー缶を買い込んできてメッセージを書くことにした。思いついたのは万博に行く直前のことだったろうと思う。時間はすっかり遅くなっていて、だからといって明るい室内で作業などできないし、何より六畳の部屋じゃ狭すぎる。だから近くの多摩川沿いの河原まで歩いてどこか街灯の下か、せめて月明かりの明るいところで作業しようと家を出た。 10月にもなるとすっかり秋の空気が伝わってきて、夜にもなると少し肌寒いくらい。その下を僕は歩いて、適当な広さと明るさの場所を見つけて布を広げた。メッセージの中身を決めて書いている途中で携帯が鳴った。近くに住んでいた、他サポの友人からだった。「どうしてる?」という問いかけの声に迷わず「ダンマク作ってる。河原で」と自分の行動に苦笑いしつつ答えると、彼も「今すぐ行く」と笑いながら言ってきた。 でも彼が来たときにはだいたいメッセージは書き終わっていて、あとは文字を太くしたり乾かしたりする時間になっていた。タバコを吸いながら彼といろいろ話をした。話の内容はもう忘れてしまったけど、降格という恐怖を直前に突きつけられていた自分にとってはだいぶ救われた時間だった。思い詰めていた気持ちがいくぶんゆるんで、ほっとした。サッカーを語れる、好きなチームを応援するということの幸せさを改めて静かに味わえたような時間だった。 ただ、そのダンマクを持っていった万博で現実を見せつけられてまた悲しくなったんだけど。雨の降る万博でまたも何もできずに何事もなく敗戦し、僕は怒りとか恐怖を通り越して淡々とした心持ちになってしまっていた。この文章でも書いていた、ひとりのサポーターの女の子が「応援します!」という力強い言葉を伝えてくれたこと、それだけが救いだった。試合前のゴール裏でのミーティング、負ければ翌日の他チームの結果次第で降格も決まってしまうという状況、みんな言葉が重かった。けれどもここでゴール裏の気持ちを固めないと、ある意味で「覚悟」とも呼べるものを決めておかないと、これからみんなバラバラになってしまうんじゃないかと思ったから。やせ我慢でも強がりでも、僕たちは「勝つ」という気持ちと言葉とをはっきりと出して再確認することが必要だった。でもそれは現実とはならず、僕は頭を抱えてどうすればいいのかもわからなくなって、パニックになりそうだった。仲間と酒を飲み、バカ話をすることで何とか紛らわせ、翌日はどうしようもなく海が見たくなって大阪港へひとりで行った。なんで海だったのだろうか。潮風に当たって頭を冷やしたかったのか、一人で考えたかったのか。 今にして思えば、昔から何かに行き詰まったときは水辺に行くことが多かった。横浜に住んでいたときはみなとみらい、川崎に住んでいたときは多摩川、札幌からは車で朝里の近くにある砂浜まで。ずっと水の動きを見つめてタバコを吸いながら考え事をしていて、それで考えがまとまったり悩みが解決する事なんてなかったけれど、一人で思う存分考えたり悩んだりすることができた。この万博の試合で翌日に唐突に海へ行ったのは、そんな僕のひとつの性格というか、癖が出たのかもしれない。当然のように、大阪港に行っても何も片付くものはなかった。できたのは少し冷静になることだけ。こんなふうに自分で悩みを抱え込み、誰にも渡そうとも告げようともしないのが僕の悪いところだ。今でもそれはあんまり変わらない。歓びも喜びも分かち合うけれど、憎しみや苦しみ、悲しみといったネガティブな情報は誰かに伝える事がないし、伝えることが上手くできないし、伝える気持ちもあんまりない。それは伝えてしまうことによってネガティブの伝染を恐れる気持ちと、それ以上に「自分の気持ちはすべて自分のもの」という自己愛と独占欲が強すぎたせいだ。 歳を取ればこういうところ、変わるんだろうかね。半分諦めてるけど。
2008年03月13日
clasics #30でした。 末期感がありありの文章だなあ。今とシンクロしてるのかも、と思ったけどそれは言い過ぎか。かたや崖っぷちからずり落ちそうな状況、今は開幕戦が終わっただけ。ともに初戦で大敗したという事実だけは変わらないけど、こんなところでフラグ立てたってしょうがない。 まあ、負けが込んでいて気持ち的にも荒れていたんだろう。こういう暴力的な文章を書くことはまずない人間だ(と思っている)し、こういう荒れているときに書く文章というのはたいてい内面を鬱々と垂れ流すか自己批判を繰り返すような内容になってしまう。って書いてて最低だな自分とか思ってしまった。このままいくとお家芸の自己批判無限ループ地獄にいってしまいそうなのでむりやりでも話題を変えてしまうことにしよう。 この時に僕が思っていた「泥臭い姿」の札幌を見たい、という夢は、昨年まででだいたい果たされたんじゃないかと思う。J2最下位をはじめ、たいていのアクシデントは経験してきたし、運命に流されそうになったこともあったけどそのたびにチームは乗り越えてJ1に戻ってくることができた。そのことは素直に嬉しい。見ていて気持ちの伝わるサッカーほど魅入られるものはない。海外のサッカーやテレビで見るJリーグでは、そのところがどうも伝わってこなかった。映像回線を経由すると、気持ちも減って伝わるらしい。でも、スペインリーグはちょっとのめり込んだ、特にベティス。ホアキンやアスンソンがばりばり言わせてたころのああいう戦術が好きなのかも。でもレアルとかバルサとかああいう華麗なサッカーはなんだか好きになれなくて、アトレチコとかベティスとかビルバオとか、そういう地味っぽいところのサッカーをよく見ていた。ちなみにスペインばっかり見ていたのは、当時BSアナログがリーガの中継をやっていたから。そのあとブンデスリーガばっかりとかアルゼンチンリーグばっかりとか見ている時期もあったし、どうやら海外リーグの好みというのはあまりないらしい。でもセリエAはあんまり積極的に見なかったかなあ。 結局僕が好きなのは「泥臭くて地味」というサッカーらしい。やれやれ。
2008年03月10日
clasics #29でした。 この回でいちばん悩んだのは最後の引用部分で、自分で散々悩んだ末に「これいいですかね」とメールを送ったら「載せちゃいますか」とあっさり返信がきてちょっと膝の力が抜けた。個人的にはそれほど載せたかった名曲ということ。前に何度か三角山放送局のラジオ「コンサドーレ GO WEST!」に出させていただいたことがあったけど、そのときもこの曲を持っていって「かけてください」とお願いした。そういうこともあって出るときはなにがしかの曲を持っていくのが通例というかお約束みたいな感じになっている。と書いたところで曲を聞き返そうとCDを探したんだけど、見つからないので諦めて戻ってきました。まあそのうち見つかるでしょう。 ラジオは一度紹介で出させてもらって、その後は予定していた方が出られないときに行くという代打的な感じだった。当然ながら持っていくのは全部違う曲で話すことも全部違う。坂本真綾はまあよしとして(するのかよ)、RAGE AGAINST THE MACHINEとかよくかけてくれたなーと思う。しかも「Gerrilla Radio」だもんなあ。次に出るときがあったらまた一日持っていく曲で悩むんじゃないだろうか。今度はもうちょっとサッカーに近いものにしよう。 話すネタも一日頭の片隅で考え続けて、順次メモに取っていくという方法だった。出なかったときは琴似駅前のミスドに入ってうんうんと唸ってた。でもそうやってまとめたネタで話すときはなんとなく堅い感じになっちゃって、話のノリも悪かった。やっぱり自然にでてくるのがいちばん良い。 あの頃はふらふらしてたから自由にラジオに出られたりしていたけど、毎週月曜日が必ずしも休みではない仕事についた(当然、土日も必ずしも休みではない)のでもういつでもどうぞというわけにもいかなくなってしまった。喋りたいこともかけたい曲もいっぱいあるし、また出たいなあ。
2008年03月07日
clasics #28でした。 もう明日は開幕か。早いなあ。 なかなかいいタイミングでこの文章が出てきてよかった。あんまり読んでる人いないけど。 この頃、よくサッカーの夢を見ていた。本当にこの文章で書いていたような夢を何度も。浅い眠りでこんな夢を見て、がばっと夜明け前に起き上がると寝汗でシャツがびっしょりと濡れていて、着替えてもう一度寝ようとしても再び眠気が訪れることはなく、はっきりしない意識のまま夜明けを迎えた。ラジオからは今日の天気と朝いちばんのニュース、憎たらしいほどの青空、きょうも暑くなりそうな日射し。身体を壊してからそんな日が多くなった。 とにかく治そう、病気に打ち勝ってやろう、ばりばり仕事ができるようになってあの連中を見返してやろう、と思いすぎていたのだろうか。肩の力が入りすぎていて、それがまた病気の進行を早めてしまっていたのだろうか。薬を飲んで一ヶ月、まだこのころ大きな変化は見あたらなかった。とりあえず普通に応援ができるようになったのはよかったけど、それ以外のところでは苦しい毎日が続いていた。 最近、あんな夢を見なくなってきた。もう自分に勝とうとか病気に勝とうとか、あんまり思わなくなったのだろうか。とにかく身体を休めること以外に病気を治す近道はない、ということに気づいたのは数年前になってやっとのことだった。それとも、人生全般において戦う気持ちが萎えてしまったのか、老成したのか、衰えたのか。自分の気持ちとうまくつきあう術を覚えたのだろうなあ、やっと。6年も経ってから、やっと。 でもあの夢を見て、少しだけがんばれたのも事実なんだ。サッカーで必死に戦うあの夢だけで、一日がんばれたことがあるのも本当のことなんだ。コンサドーレが、僕の人生を救ってくれた瞬間があるのも、本当なんだ。だから僕はコンサドーレに恩返しがしたい。今すぐじゃなくていい、遠い未来のことでもいい。どれほど感謝しても足りないくらいのこの気持ちを、応援というのもそうだけど、もっと他の方法でも。 でもその前に、僕は僕の身体を治さなくてはならない。普通に働ける身体を、あの日の恐怖を忘れるくらいの充実を、僕は取り戻さなくてはならない。それが僕にとっての、最初の恩返し。サッカーへの、支えてくれた人への、甘えさせてくれた人への、いろいろな人たちへの恩返し。
2008年03月05日
aftertalk #27でした。 世界は変わらないな、とつくづく思う。大きな意味でね。 飲み会から帰る途中の電車の中で、滅多にこない緊急配信のスカイメール(そのころはJ-PHONEを使っていた)が来ていることに気づいて見てみたら「航空機が衝突」みたいな簡単な中身だったので、せいぜい突っ込んだのはセスナとか小さいのなんだろう、大げさだなあ、つか緊急配信って初めてだなあ、と思いながら家に帰った。電車の中でも大して騒いでなかったし。で、帰っていつも通りにラジオをつけたまま寝ようとしたら、なんだか雰囲気が違う。いつもの番組じゃないし、緊迫してる。よく聴くと、どうもさっきメールで来てた事件のことらしい。これはちょっとおおごとなのかも、と思ってテレビをつけた。 画面の向こうには黒煙を上げる超高層ビル、そして突っ込んでゆく航空機、崩れてゆくビル、悲鳴、土煙、轟音、悲鳴、悲鳴、悲鳴。不思議と恐怖への実感はなかった。テレビの向こうの出来事、としか思えなかった。現実に感じたのは、翌日会社に行ってからだった。シンガポールの支社とアメリカの現地法人は大騒ぎ、社内メールが飛び交い、どこからか衝突の瞬間の動画ファイルが流れてきた。そこまできてはじめて、これは恐ろしいことが起きたんじゃないのかと思い始めた。そうして何よりもそれを感じたのが、やはりスタジアムで見た光景だった。半旗の掲げられたポール、戸惑いながらも黙祷を捧げる観客、そのなかの一人として僕もいた。正直、何に対して祈ればいいのかわからなかった。ただわかるのは数千人の犠牲と、世界に与えた衝撃の大きさ。 そうして酷薄かも知れないが、僕は海の向こうで起きたテロリズムよりも、サッカーの方が大事だった。サッカーを通してしか世界のことを考えられなかった。今でもそういう部分はある。そうして、事実を受け止める以上の勇気を持つことは、今でもできていない。自分が残酷だとか冷徹だとか、そういう事も書いているけど、本当のところはただひとつ、臆病者だった、ただそれだけ。 あれからテロと戦う世界が日常になって、その中でもサッカーは続いていて、僕らは違和感を持ちつつも従っていって(というか、そのまま押し流されていって)それに慣れていった。 あの時感じた無力感だけは、せめて忘れたくない。
2008年03月02日
clasics #26でした。 からっとした文章を、と言っていた割にはですます口調をやめたのと、過剰な表現を抑えたくらいで中身の湿っぽさは余り変わっていないと言うことに今更気づいた。どこかで達観しているように見えて、その実は中身が叙情に寄りかかりすぎているのがあからさまでなんだかなあ、というのがこの文章を読み返していて思う最初の感想。でもこれを書いたときの充実感というのは、コラムを書いていた中でいちばんだろう。やっと書きたいものに近づけたという気持ちと、ですます口調でおとなしくのっそりしていた文章の殻を一枚破ってやったぜというちょっとだけ凶暴な感情と、日常のショックを少しは振り払うことができたかなという爽快感があった。 これを書いたテキストファイルの日付を見ると、だいたい前回から一ヶ月。「aftertalk #25」で書いたように本当にぶっ倒れてしまってから2週間会社を休み、さらにサッカーを見に行くのも自重し、やっと見られたのがこの国立アウェイ2連戦だった。正直に言うと2週間会社を休むだけではなんの解決にもなってなくて、経過を観察した医者の人は「もう少し休んだ方がいいんじゃないか」というアプローチをしてくれたんだけど、自分から断ってしまった。なぜって、会社で「干される」ことが怖かったから。病気になってしまったことをカミングアウトした、その時点で干されることが確定だということにこのとき何で気づけなかったんだろうなあ。それも考えられないほどの状況だったのか。復帰してもまあ、仕事に関しては相変わらずだった。むしろ理解もされず、疎まれる視線を感じてしまうこともあるくらいだった。体育会系の人たちばかりが揃っている部署でわかってくれなんて、言う方が間違っているのかもしれないけれど。だから、誰にも理解してもらおうなんて積極的に言わないようにしたし、そういう人たちとは距離を置くようにした。ゴール裏の人たちの方が、よっぽど理解をしてくれた。なんで相談してくれなかった、って怒ってくれたのは同じくゴール裏で応援していた友人だったし、とにかく休めって言ってくれたのもその人だった。 ひょっとしたら自分は、この文章で浮世を離れたかったのかもしれない。地に足の着いたおとなしい文章をやめてきっぱりさっぱりと綴ることで、痛ましく疎ましくどうしようもなくふてくされてばかりいた、背広を着て淡々と仕事をする日々のことを。あんな毎日を送っているのは自分じゃないとでも言いたげな気持ちを、今読み返しているあの日の文章から感じている。まあその気持ちも間違っていたんだけど。それをどんどんと推し進めていった結果、僕の日常と休日との乖離はますます酷くなっていって、もはや自分が何者でなんのために生きているのか、どうしてサッカーを見てどうして仕事をしているのかもわからなくなっていった。そんな真夏の国立で、東京に3点取られて完敗したあの夜に、僕はまたぶっ倒れた。こんどは熱射病で。 どうしようもない試合内容(これ以上どこに手を施していいのかわからない、と言う意味で)でまたも完敗したあの夜、僕はゴール裏で選手が挨拶に来るか来ないかのところでくったりと手すりにもたれかかり、意識が混濁していた。そのまま立っているのも面倒くさくなってもういいや、とコンクリートにそのまま倒れ込んだら起き上がれなくなってしまった。身体がほてってだるく、なにもできない。明らかに脱水症状か熱射病かのどちらかだった。僕が倒れているのに気づいた誰かが警備員経由で担架を呼んでくれたらしく、抱えられて乗せられて運ばれていくのをかすかに記憶に残している。ちゃんと意識が戻ったとき、そこは国立競技場の医務室だった。付き添ってくれた川崎サポの友人に「コンタクト外して」って言ったのよなあ、確か。そのあとどこからかスポーツドリンクが差し入れられてきて、よくよく見たらサッポロビールのサプライしているやつだった。どうやら、どこかで僕が倒れた事を聞きつけたスタッフの人が持ってきてくれたらしい。7年も8年も経ってなんだが、あのスタッフのひとにはまだお礼を言っていない。その節はありがとうございました。 とりあえず一心地ついたあと、他の友人が車で送ってくれることになり僕はふらふらと乗り込んだ。首都高を抜けて走る車の中、シートを倒してずっと夜空を見上げながら過ごしていたけど、頭の中では「どうしてこんなことになっちゃったんだろう、どうしよう」という、明日の自分の姿さえも想像できないことへの恐れと不安にずっと追いかけられていた。 いくら考えても、どうしようもなかった。
2008年02月29日
clasics #25でした。 そして、今回のaftertalkはもう時効になった今だから話せる、重い話です。 この札幌に帰った時、というのは7月の中頃から下旬くらいのことだったと思う。仕事でさんざん疲れて精神的に参っているという話はさんざんここでしてきたけど、ついにそれが決定的な形となって現れたので休職して一週間ほど実家に帰っていたのだ。現状報告と、頭を下げに。 その決定的な形というのはいつもと変わらない、たいして眠れなかったまま朝を迎えたある日のことだった。いつもどおりにシャワーを浴びて目を覚まし、いつもどおりに電車に乗った。MDのボリュームを迷惑にならないギリギリまで上げて、ただ音楽に集中していた。仕事の事なんて考えたくなかったし、職場にいる先輩や上司のことはもっと考えたくなかった。でも、奥歯を噛み締めながら乗り換え駅の大岡山に着いたとき、それが爆発した。 目の前が真っ白になって、足はがくがくと震えだし、立っているのも辛くなってベンチにへたり込んだ。全力疾走を止められないかのように息は苦しく、呼吸を上手く行うこともままならない。 ここはどこなのか、ここにこうして立っているのは誰なのか、 果たしてそれはほんとうに僕自身なのか、 このまま死ぬのではないか、ひょっとしたらこのまま死んだ方が楽なのでは、 いや、 まさか、 ほんとうに、 どこかが壊れてしまったのか―― 30分もするとその症状は治まり、ともあれ僕は汗びっしょりになりながら会社に行った。とりあえず最低限の仕事をして定時には帰ることにした。その間、いつあの朝に起きた発作のようなものが再発するのではないか、再発したらどうしよう、こんどこそ狂ってしまうのではないのか、なにかひどい病気だったらどうしよう、そんなことばかりを考え続けて、身体に始終弱い電流を流されているような震えを止められず、翌日に近くの大学病院に行くことにして、電車の中でもびくびくとおびえ、身を縮め、乗り換えの駅になるたびにベンチで休みながら家まで帰った。 この僕の症状はなんなのだろう。明日病院に行くにしても、どんな病気なのかの見当くらいつけておかないと心配だ。ましてや、いちばん近くの大学病院って言ったってバスにゆられて30分はかかる山の中だ。何も知らずにまた今朝のような突然の不安の渦に巻き込まれるようなことは避けたい。 とりあえず今朝自分がうけた症状から病名を検索してみた。 1,自律神経失調症 2,パニック障害 ああ。あああ。 とうとう、病んでしまったのか。 僕がいちばんなりたくなかった「弱い人間」に、なってしまったのか。 なんて格好悪い、なんて悲しい、なんて情けない、なんて恥ずかしい。 なんて、死にたいくらいに。 結局、その日も眠れぬ夜を過ごしたまま、キレイに青い夏空に輝く太陽が昇った。 やっぱり病院に行くまでの道中は怖かった。僕がこんな病気だと診断を下される事が怖かった。会社での反応と、僕に投げかけられるであろう蔑みと諦めの視線が怖かった。そして、もう札幌の応援ができなくなるんじゃないか、というのが、何よりも怖かった。 アンケートに症状を記入し、薄暗い病院の奥まった診療科で待つこと2時間。医師は初診の僕にあっさりと「パニック障害ですね」の一言を告げた。それを言われたときはなぜか気が楽になったのを覚えている。ああ、何はともあれ病気だったんだ、と。診断書を書いてもらって、薬を出してもらって(そしてその薬の高さにびっくりして)、とりあえず家に帰って薬を飲んで寝た。 今まで眠れなかったのが不思議なくらい、よく眠れた。 その翌日何とか出社した僕は、課長と部長を小さな人目につきにくいミーティングスペースに呼び、診断書を出した。2人とも部下からこういうメンタル系の病気になってしまった人間を出したのは初めてのようで、ただただ困惑していた。休養が必要ということだからということでとりあえず有給で2週間休むことがあわてて認められ、僕は実家に事情を話し、残っていた仕事を放棄して翌日には札幌へ帰る飛行機に乗っていた。とにかく一刻も早くこことは違う場所へ行って、気持ちを落ち着かせたかった。そしてそれができる場所は、僕には、実家しかなかった。千歳から列車に乗り、地下鉄に乗り、バスに乗り、そして歩いてきた僕は家のドアの前に立ち止まった。 なんて、なんてことになってしまったんだ――。 気づけば、自分は立ちつくしたまま玄関でぽろぽろと涙を流していた。涙は一向に止まらなかった。今の方向からは賑やかなテレビの声と、両親の会話が聞こえる。今から自分は、あの両親のささやかだけど幸せな生活をぶちこわしてしまうのかもしれない。自慢の息子が心を壊して帰ってきたなんてかっこ悪い喜劇のような悲劇で。でも、ここにしか身を寄せる場所もない。申し訳ない、ごめんなさい、そう思いながら、何かにすがるように、インターホンを押した。泣きながら、僕は、いきさつを話し、診断書を見せ、夕食も取らずに部屋に閉じこもってただ眠った。 何日かが過ぎて、突然に父が外で晩ご飯を食べよう、と言い出した。 家の近くに、イタリア料理店ができたのだそうだ。それが前回で出てきたお店のことだ。食事の間両親は特になにも僕には言わなかった。言わない方がいい、と気を遣ってくれたのだろう。僕にはその気持ちが本当にありがたかったし、本当に申し訳なかった。言ったとしても、それは「無理するな」「無理だと思ったらいつでも帰っておいで」というくらいの言葉だった。僕はそのとき東京に骨を埋める覚悟だったから、両親には申し訳ないけどそうならなければいいな、と思った。白身魚のソテーと白ワインとパスタが、ほんのちょっとだけ僕の心を緩めてくれた。とりあえず1週間ここで生きられると思った僕は、少しだけのワインでかなり酔ってしまった。 何も言うまい、余計な口出しはすまい、と両親は僕が帰ってくる前に決めていたのだろう。実家にいた間、病気のことを僕に細かく説明させようとしたり、生活態度が多少乱れても怒らなかった。いつも通りに、盆や正月に帰ってきた時のように、普通に接してくれた。それが僕にはありがたかったし、申し訳なかったし、余計なお世話だという気持ちも少しあった。素直にありがとうと言えなかった。僕は両親のその気持ちに気づこうともしなかった、というか、自分がこの先どうなるのかという事ばかりをずっと考えていたから、他のことを考える余裕がなかった、というほうが正しいかもしれない。でも、あの時のことを思い出していちばんに思うのは、両親への感謝と、自分の情けなさだ。 また東京に戻ったら原稿を書こう。がらっと文体を変えて、開き直って吹っ切れた、さっぱりした文章を書こう。ですます調をやめて、きっぱりと、淡々と。そう思って、僕は残りの1週間を会社復帰へのリハビリに充てるために、東京へと戻った。 そしてこの病気が、僕がコールリーダーを辞めた最大の理由。
2008年02月23日
clasics #24でした。ワールドカップの時に感じた違和感というのはaftertalk #20でも書いたんだけど、なんだったんだろうあの騒ぎ。 自分の代表に対する気持ちとかワールドカップへの期待とか、そういう気持ちっていうのは97年をピークにだんだん下がりつつあって、今では流す程度。札幌の選手が代表に選出ということもなくなって(たった一度しかないわけですが)、そのうちJ2に落ち、世代別代表からも遠くなり、という歴史も「代表離れ」が進んでしまったひとつの原因だと思うけど、もうひとつの大きな原因というのは「代表を取り巻く空気」が変わってしまったというか、自分にとって親しみの持てるものではなくなってしまったのもある。みんなこぞってカズの落選と、トルシエの戦術と、ジーコのカリスマを語り始めて、それが自分にとっては煩わしくなってきたのだろう。相変わらず心が狭い。ああいうふうにこぞって盛り上がると目をそらしてしまう性格の人間で、売れる前のアーティストとか無名の小説とかそういうのを好んでいて、いまでもそれは変わらない。そこにある(ある意味で)マイナー性みたいな空気が好きだから、ひょっとしたら札幌というプロビンチアを好きになったのも必然かも知れない。東芝の札幌移転まではガンバ大阪、とりわけヒルハウスとかスクリーニャとか森岡茂とかその辺りの選手が好きだったんだけど、札幌ができてからは足を洗った。正確に言うと国立でのワールドカップ予選の前の日になぜか浦和×ガンバというリーグ戦の試合が組まれていて、国立に並んでいた自分は抜け出してガンバを見に行った。それが応援した最後。あれ以降、ガンバの試合を第3者の立場で見たのもないなあ。万博に札幌の応援に行ったのが2回くらいあるだけ。 話を2002年に戻すと、あのワールドカップのあとでファンの底上げという一応の役割を果たしたとは思うけど、自分が思い描いていたほどみんなが「語る」という現象にはならなかった。もっと深いところで語って欲しいのにもどかしいような。自分の思い描いていたところが高すぎたというか、夢を見すぎていたところもあるけれど。いつだって理想論ばかり語りたがるのはわるいところ。代表の試合を見なくなっても、語らなくなっても、ブログが不満と愚痴と自己批判にまみれても、こういう無駄なところだけが積み重なっていくのがなんともまあ。
2008年02月20日
clasics #23でした。 まあ、新宿の話は置いといて、その直前に行った御殿場の話を。 柱谷監督が解任されてイバンチェビッチという監督が就任したとき、正直な反応を言えば「誰それ?」だった。その後の報道とかネットで、残留請負人とかサルベージとかそういうのを聞いたけどどうもピンと来ない。オビエドでコーディネイターやってたって言ってもなあ。だいたいコーディネイターって何する仕事? まあ実際に見てみないとわからんわな、ということでワールドカップの中断期間にチームがキャンプを行っていた御殿場で練習試合をやるということで行ってみた。御殿場の時之栖という大学の合宿とか高校生年代の大会、時には代表合宿も行われるグラウンドだけど試合を行ったのは山の中を切り開いて作ったような場所にあった。イバンチェビッチは来日して間もないためか選手に指示を出すこともなく見ているだけで、彼と一緒に来た元福岡のボージョビッチ・コーチと、同じくやってきた助っ人外国人のバーヤックは試合には参加せずランニング程度の軽いメニューだった。ちなみに、バーヤックという選手名をどうコールしようかと相談したんだけど、自分の「ボーリック(ロッテの選手)と一緒でいんじゃね?」の一言でそのまま採用になってしまいました。ジャディウソンという選手もちょっと早いタイミングで新加入してきて、彼のほうは練習試合に出ていた。左サイドからどんどん仕掛けるタイプで、小柄だけど面白いタイプだなあ、と。左サイドで勝負する外国人と言えばその前年に在籍していたアダウトも思い出すけど、アダウトがパワー寄りのスタイルで突破するのに対して、ジャディウソンは細かくボールタッチを繰り返しながらドリブルで抜けていくタイプ。結局、余りフィットしないまま退団してしまったなあ。 いちばん驚いたのはDFの配置。小島をリベロに置くってどんな暴挙だ。案の定慣れないポジションで右往左往していて、あれだけは何をやりたいのかわからなかった。試合も横浜FCにいいところなく敗れて、当時横浜FCで現役だった後藤義一さんに「お疲れ様でした」と声をかけると、「札幌だいじょうぶ?」と聞かれてしまうほどだった。ええ、まったく大丈夫ではありませんでした。 そんなこんなでもやもやしながら帰ってきて、目にしたのが新宿駅東口でのあの大盛り上がりだったからなおのことインパクトが大きかった。韓国に限ったことでなく、店に溢れるほどの人がいるショットバーでみんなが注目してみているのがトルコ対セネガルなんていうどマイナーな試合で、ああみんな(自分も含めて)踊らされてんなあ、と思いながらビールをすすっていたり。そういえばこのワールドカップの開幕戦、フランス対セネガル(驚愕するほどひどかったフランスのコンディションを覚えてる)も新宿のスポーツバーみたいなところで見たんだけど、どこからかやってきた若者が「セネガル!セネガル!」とかコールしていたり「I'm Japanese Fooligan!」と叫んでいたりして、ものすごく居心地が悪かった。自分のことを顧みずにはっきり言ってしまえばそういう人間は大嫌いだし、すごく恥ずかしくて早いとこ帰りたかった。近くにいるドイツだったかイングランドの人だったかがものすごく怪訝な目で見ていたし。まあ自分の世界が狭いとか言われてしまえばそれまでなんだし、「日韓の新しい時代が来る」だなんて恥ずかしいことを自分も書いているのだけど。なんで人間ひとりひとりだといい人も多いのに、国家どうしになるとあんなにこんがらがってしまうんだろう。今にして思えば、ワールドカップで楽しかったというか記憶に残っているのはプレーよりもそれを見ている人間のほうが圧倒的だ。人間っていろんな顔をするんだなあ、と思いながらもそういうことを許容できない自分に腹が立ったりしながらも。
2008年02月17日
clasics #21/22、変則的に2回分をまとめてという形でお送りしました。でまあなんでまとめたかって言うと、正直言って中身が薄かったから。メヒコの方々とエクアドルの方々とふれあって、テレビでは絶対に味わえないワールドカップの雰囲気を味わえたということを伝えたかっただけだし。そんな今となっては、思い出せるのは宮城スタジアムまでの殺人的な遠さ(仙台駅から2両編成の電車で20分→さらに田舎の一本道をバスで30分)と、バドワイザー一択のビール、特色がないけどバカ売れしていたグッズショップ(熱に浮かされて自分も買ってしまいましたが)という記憶くらいだ。あとサッカー的なところで言えばブランコ(メヒコの選手)はかっこよかったことか。 まあこの時期ぶっ倒れるかどうかのような生活をしてかなり荒んでいた自分いとってはいい息抜きだったんだろうけど、結局息抜きは息抜きでしかなかったというのも深く味わった経験でもあった。このころからさらに悪化していた仕事関係のこととか、それに伴って眠れないやら電車に乗ったら吐き気が止まらないわという毎日のオンパレード。ビールを何本も飲み干してやっと夜明け前に浅い眠りにつける、という平日を過ごしていた。どこか身体の調子が悪いんだろうけど、それは仕事に起因するものであって、仕事さえ何とか上手く回るようになれば自然とそういう毎日からは抜けられるようになるものだと信じてひたすらに我慢してた。結果としてはそれが大きな間違いで人生狂ったわけなんですが。あと、その少し前に患った蓄膿症がまだ治りきっていないからこんなに頭がふらふらしたり、集中できなかったりするもんなんだろうな、とも考えていた。どっちにせよ誰も気づいてはくれなかったし、自分で気づいて原因を探り当ててどうにかする以外にやりようもなく、何もない休日には病院に行く気力もなくベッドの上で眠れずにいるか、それともわけのわからない焦燥感に操られるがままにどこかの街をふらふらしているか、みたいな感じだった。こうやって書いているだけで相当ヤバいなこれ。 そのほかのことといえば、このころ自分の書いている文章がなんだか気に入らなくなってきていて、もうちょっといいもの書けないのかと悩んでもいた時期。体調が良ければパソコンの前で唸ったり、メモ帳持ってうろうろしたり。今のような文章だとあまりにも当たり障りがなさ過ぎるし、見かけのかっこよさばかりを追い求めているような気がするから、もっと強さというか、硬質で鋭い文章が書きたいなあ、と思っていた。それで7月の終わりくらいに開き直って文章の転換を図って、ようやく以前よりはしっくり来るものが書けるようになった。そういう転換期でもあったんだよなあ、この頃。
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