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プロフィール
1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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2008年01月13日
clasics #10でした。 このときのちばぎんカップって確かPSMにもかかわらず荒れ気味だった覚えがある、と思って調べてみたら黄善洪が退場になったものの柳想鐵の得点で逃げ切ったという試合だった。個人的にも気分はPSMで、ここでどうコールするとか、このチャント歌うとか、そういうことを考えながら見ていたので正直試合内容は覚えていない。コールリーダーになりたてのころも、コンサドーレ以外の試合はそういうことを考えながらだったり、誰かと話し合いながら試合を見ていた。練習というか、タイミングと流れを読まないといい応援はできないなと思って。シーズンが開ける頃はやはりそういう感覚的なものは鈍ってきているので、そのあたりを取り戻すのに毎年開幕の何試合かは苦労したし、声の出しどころを掴むのに時間がかかったので自分自身にやきもきしていた記憶がある。 それよりもはっきり記憶しているのは安堵の気持ちだ。自発的にとはいえ「観戦断ち」をしていた自分にとってその年初めての生観戦。今となっては南武線から行ったのか新宿経由で行ったのかも覚えてないけど、一時間半の道のりをとてもわくわくしながら日立台へ向かったことだけは覚えている。スタジアムへ近づくにつれて訪れる高揚感は冬の寒さなんて感じさせなかった。キックオフの笛が鳴って、途端に僕は慣れ親しんだフットボールの世界に帰ってきたことにこころからほっとした。見ているチームは応援しているところとは別のところ同士とはいえ、ボールを蹴る音、コーチングの声、スタンドから飛ぶ声援と野次、両方のゴール裏から繰り出される絶え間ないチャント。いくら街を歩いても、いくら海を眺めても、いくら本を読んでも決して味わうことのできない幸せな感覚。毛穴が一瞬総毛立って、でもすぐにべた凪のような安心感が訪れる。ああ「帰って」きたな、と思う。やっぱり自分の居場所っていうのを感覚的に理解していたのかもしれない。
2008年01月11日
classics #9をお届けしました。完璧にヒマネタですねこれ。 たぶんネットをうろついて探してきたんだろうけど、この当時マリノスの社長だった左伴さんっていう人はけっこう熱い文章を書く人で刺激を受けた。その文章がネットに残っていないとので引用できないのが寂しいけど。 この時のネットはたいてい会社で、メール等は自宅からダイヤルアップ。カシオのA5サイズのノートPCを持っていたのでそこから電話線を繋いでぴーごろぴーごろ言わせてた。ブロードバンドというのを体感したのは、札幌に帰ってから。ADSLがそろそろ普及し出してきたけど料金はまだ高かったので、テレホーダイで寝る前にちょこっとだけ使ってた。次第に携帯メールで用が足せるようになって、自宅から遅い速度でネットに繋ぐこともあまりなくなってしまった。 これを書いたときから数年が経ったけど、札幌のDNAというのは醸成されてきたな、と思う。良いところも悪いところもあるけれど。でも精神的なタフさっていうのは(略)。 「受け入れる暖かさ」っていうのは、やっぱり開拓地だった北海道の気質なんだろうか。移籍してくる選手はみんな歓迎するし(まあ、歓迎されない移籍なんてないはず……なんだけど)、もてなす心はあると思う。でも「諦めない強さ」ってのはまだまだなんだろう。03年以降のJ2暮らしをくぐり抜けてきた人たちの強さはすごいと思うことがあるけれどすべての人がそうであったというわけでもないし、自分のことを考えてみてもメンタル強くなったとは言えない。むしろ弱くなったんじゃないか、以前ほど力を注げなくなってきて居るんじゃないのかという思いと場面はたびたびある。歳なのか、人間性の変化なのか。 まあこの回はヒマネタらしくあんまり具体的な話を書いてませんでしたね。 そんなわけで今思い返してもそんなに書くことがありません。
2008年01月09日
clasics #8をお届けしました。 ほんとうに良く言われた。「いつ田舎に帰るの?」と。 そのたびにはぐらかしたり困ったりして、なぜか田舎に帰らないということが悪いことのように思えてしまったこともあるけど、この言葉を自分に言ってきた人たちはそういえばだほとんど首都圏出身の人たちだった。 そもそも道外の大学に行く、という考えは子どもの頃から薄かった。大学付属の中学校から地区一番の進学校に行き、北大を受けるものだとばかり思っていた(そして、そう親にも言ってた)。その考えが揺らぎ始めたのはまず転勤によっていろいろと学校を変わり、考えていた附属中学校には行けなかったこと。ふつうの中学校で勉強していたときに、数学の出来があまりにも悪すぎて受験で数学を必要とする北大には行けそうもないんじゃないだろうか、ひょっとしたら私立文系まっしぐらの人生なんじゃないだろうかと思ったこと。高校でそれが現実になったのと同時に、このまま道内でずっと生きていくのはもったいないと思うようになって、道外の国公立大学で文系で試験科目に数学がないか、もしくは劇的に少ないところを選んだ。親元から離れて一人暮らしをしたいというのもあった。で、そこにコンサドーレの介在する余地は存在しなかった。応援ならアウェイでもできる。今必要なのは、これからの人生のための経験だ、と思って。 本音を言うと、死ぬまであっちで働いて暮らして死ぬつもりだった。いくら自分が北海道の人間だからといって、北海道が暮らすのにベストな土地だと思えなかった人間だっている。それが自分だっただけだ。「ふるさとは遠くにありて思うもの」であれば、それで良かった。だから仕事を辞めて札幌に帰って来たとき思ったのは「帰ってきたなあ」ではなくて「帰ってきてしまった」という悲しさのほうが強かった。そして今でも首都圏のほうが暮らしやすかったと思っているし、いつか戻りたいと思っている。だからといって、地元に帰って仕事をしたいと思ってる人や、コンサドーレのために札幌に移住した人のことを責めるだとかそういう気持ちは全くない。逆に、そういう人たちに自分が抱くのは敬意だ。 なぜこんなに首都圏にこだわるのかというのも、「東京」に住んだことがないまま札幌に戻ってしまったからかもしれない。最初は横須賀に限りなく近い横浜で、その次は近くの多摩川を渡ればすぐ東京に行けるほどの川崎だったので、「東京に近づいている!」というワクワク感もあったのかもしれない。は高校時代に芽生えた「東京」という場所への憧れは大学時代を経てより強くなり、東京に住み働くということにこだわっていた。でも応援するのは札幌以外にないと思っていて、それがなぜなのかはわからなかった。東京への憧れが地元への郷愁の裏返しだったのだろうか。だとすれば、自分というのは酷く不器用な人間だなあ。 まあ、札幌が好きだからとはいっても、必ずしもみんな札幌の土地にすべてを捧げるというわけではない、ということだ。これって自分のエゴが強すぎるだけなのかなあ。
2008年01月07日
clasics #7をお届けしました。 前回まで自分の過去を告白するような話だったせいか、この回は比較的のんびりまったりな書き方。フットボールを離れたときの過ごし方について書いているけど、このころは本当にシーズンが終わったらすっぱり見なくなってた。今ではCATVやスカパー!で録画放送見たり海外リーグを見たりしているけど、この頃は地上波とBSアナログくらいしか見られなかったので当然のように週末はヒマになった。見るといったら天皇杯と高校サッカーの決勝くらい。あとは積極的に忘れようとしていた。なんというか、フットボールだけでは人間が狭くなってしまうというような恐怖感もあったし、とにかく会社で働くことにほとほと嫌気がさしていて休みの時ぐらいは仕事を忘れたいと思っていた。はじめてデジカメを買った頃で写真を撮るのが楽しくて、どこに行くにも持ち歩いてとにかく撮りまくっていた。もう当時のデータは残ってないけど。そのうちに「町歩き」というのがすごく好きになって(毎月「散歩の達人」とか買っちゃう感じ)、ひとりでMDウォークマン片手にどこかに行っては歩いて、移動中は本を読んで、みたいな週末が開幕まで続いた。まあ、そんな幸せな週末は03年開幕での大虐殺ですっかり崩れ落ちてしまったわけですが。 切り替え方はちょっと極端だったとは思っているけど、フットボール以外のものに触れることで自分を高めるというか人間的に深くさせるみたいな考えっていうのは間違ってはいないと思う。応援だけでなく、応援文化みたいなことに興味を持っていたし、それを深めるにはフットボール以外のこともいろいろと見たり読んだり聞いたりすることになるのは必然のことで、早晩フットボール以外のサブカルな方向に自分が転ぶような気もしてたし、現実になっちゃったので始末に負えない。そのくせ「酒井と平間をどのように使うのか」とか書いてるあたりに時代を感じさせるというか斜め上しか見ていない自分にがっくし来たりしますが気にしない方向で。 確かこの文章を書いた少し前に初詣も兼ねて鎌倉に行ったんだった。川崎から横須賀線に乗って本を読みながら向かって、富岡八幡宮にお参りした後江ノ電に乗って海岸まで。ひとりで砂浜を歩いているのは犬を散歩させてる地元の人とかを除けば自分だけで、あとはカップル、家族連れ、友人同士。着いたときには陽も傾きかけてきていて、静かに寄せてくる波を足下にしながら、あるいは堤防に座って砂浜を俯瞰しながら、砂の上に座りながらして長い時間を過ごした。少し先の突端をかすめて落ちていく夕陽が見たかったので、ひとりで待つことは寂しくはなかった。そのうちに子どもが無邪気に散らかしたような輝きが波間に満ちてきて、次第にそれは金色から赤みがかったオレンジ色に変わり、夕陽が4分の3ほど落ちた頃には空にブルーグレーの闇がカーテンを掛けようとしていた。それまで、ずっとなにも考えることなどできずに海と夕陽と人の群れを眺めていた。 ゆっくりと暮れていく景色の中に、あんなに長い間砂浜に佇んでいたのは、後にも先にもあの日だけだ。
2007年12月28日
clasics #6をお届けしました。 これ書いてた時は社会人1年目だったのかと今更ながらにびっくりして、そして文章の青さにまた今更ながらにびっくりした。青臭いのは変わってないのかもしれないけど。そしてここで書いた内容については、自分の考えは今でも変わっていない。 結果と過程どっちが大事かっていうのをテーマにして書いているけど、どちらが重要かなんてのはその都度変わるものだよなあと思う。企業活動の中でも、新規に何かを立ち上げるときは過程を経験として蓄積することが大事だろうし、そのあとに結果を求める時がくる、ということもある。もちろんその逆もある。自分と自分の周囲が置かれている立場によってころころ変わる、その中でバランスをとっていくのが大事だし、結果ばかりを求められて生きていくのはしんどい。かといって過程だけを評価されるのも寂しい。大きく言ってしまえば人間のサガみたいなものなんだろうか。 論理と非論理の話だって、岡田さんも三浦さんもリアリズム重視の戦術ではあったけれど、その人間像からかいま見える中身を覗いてみればそれ以上に夢追い人というか理想像があって、そういうものを追い続けていられるからこそフットボールは面白いんだと思う。プレーの中でも論理的なものがあるし、センスという呼び方でしか言い表すことのできないプレーもある。それが良い。仕事で巻き込まれる非論理はごめんだけど。 こういうことを考えいる自分は良く言えば論理的で、悪く言えば理屈っぽいなあと思う。昔からそうだったし、今も未来においても変わることはないんだろうとも思う。だいたいのことが論理で片がつくと思っていたし、片をつけてきた。論理がなければ意味はないと思ってずっとやってきた。でもそれは言語的な「論理」の話で、肉体的行動や、瞬間的なものにも「論理」があると気づかされたのはフットボールを生で見始めてからのことだ。感情を表すという「論理」も、自分には長いことピンと来なかった。人間はシナプスから流れる微少なプラスとマイナスの電流で生きるデジタルな生き物だと知ったときに、ある程度そういうのは理解できるようになったと同時に、感情を表に出すのはそういう論理的でデジタルな思考回路を表現しているひとつの方法なんだと思うようになった。どうしてそういう表現になるのか、と戸惑ったこともあったけど。 なんて考える自分は、相当に理屈っぽい人間なんだなあ。
2007年12月26日
clasics #5をお届けしました。 「残留できるなら死んでもいい」って言葉は今思い返すとすごいよなあ。 結局降格したから生きてて良かったね、と友人にからかわれたのも今となっては思い出。生きてて良かったかどうかはまだわからないけど。 この回で書いたことはいちばんの若気の至り、かつ自分の情けなさをいちばん表しているエピソードだと思う。このダンマクを書いた時点で、自分は恐怖から逃げ出したのだろうし、弱さを露呈してしまっている。狂気に100%染まってしまうことはなにも良い結果を生み出さない。そして無用な諍いをして、降格した。 当時のアウェイサポーターとホームのサポーターはぎくしゃくした関係で、それは東芝移転というのもいくらか関係していたし、互いの住む土地との距離感にもとまどっていた。その小さな歯車の狂いが降格が近づくにつれてどんどん大きくなり、試合開始前に話し合いというか、アウェイ側から「もうお前達とはやっていけない」みたいなことを言い出してしまった。何もせっぱ詰まった博多の森でやることではなかったのに。結局その場は解決策もないまま(いきなり怒ったり怒られたりしてるんだから解決策なんてとりようがなかったろうし)試合に臨んでしまって、みんな声だけは出しているけど気持ちはバラバラ、みたいなことになってしまった。そんな状況じゃ、「残留できるなら死んでもいい」なんて言葉はなんの意味も持たない、過剰な自己満足でしかなかったと思っている。そしてその「ホーム-アウェイ問題」が解決を見るのは2000年頃になってから。勝つことが最大の薬だった、ということだ。 結局このダンマクは処分に迷って、結局正月に神社のどんど焼きに出して燃やした。こういうふうに処分していいのかどうかわからなかったけど、土の中に埋めるのも保管するのもどうかと思ったし、処分するにしてもゴミに出してしまうのはどうだろうとも思った。燃えるダンマクを見ながらずっと手を合わせていたけど、あの時の自分は何に対して祈っていたんだろう。悲しみや絶望も一緒に燃やしてしまいたいと思ったのだろうか、あるいはそういうものから逃げたかっただけなのだろうか。どちらにせよ、今でもこのチームを応援しているのはあのときの贖罪の気持ちが(年々薄れていくにせよ)少しでも含まれているからだろう。このチームに幾度も心を救われたという感謝と、あの時支えることのできなかった自分の無力に対する贖罪。自分の応援する気持ちというのは、そういったもので構成されているのかもしれない。 あれ以来、ダンマクを手書きしたのは一枚だけだ。
2007年12月21日
classics#4をお届けしました。 割り切ろう割り切ろうと考えてきたこの頃になっても、割り切ることのできなかったとある話。そしてそれは今でも割り切ることができていない。割り切らなくていいのかもしれない。フットボールのいくぶんかはそういった忘れられないことでできている、とも思っているから。 98年開幕から入れ替え戦までの話の流れを書いているんだけど、いま思い出してみると浮かれていたなあ、というのが最初に感想として出てくる。それでも開幕戦、日本平での興奮は覚えている。具体的に言うと、できあがったばかりのビッグフラッグ(の真ん中部分だけ)を運び込んで、ゴール裏で広げたときの「おおっ」というどよめき、普通にエスパルスのレプリカを来て座っていた人が「こうやって端っこをピンと張らないと見栄えが悪いから」と言って手伝ってくれたこと、はちきれそうなくらいの誇らしい気持ち。そしてそれが砕かれそうになった気持ち。 やっぱり勝てなかったからか、悔しいことばっかりだったなあ。 京都に負けてトラメガ地面に叩きつけて壊したりとかあったけど、そういうのは若かったからなのかなあ。あのあと秋葉原に買い直しに行って損したのは自分自身だったって思い知ったし(特に金銭面で)。 入れ替え戦に向かうときにまだ「安心感」があった、というのも読み返してみるとなに楽観視してやがるんだって過去の自分に怒りたくもなるし、人数の割に声が出ていないなんて書いているところに自分のことを差し置いて他人に責任をなすりつけているような嫌な気持ちもするけど、たぶんあの時は「恐怖感」を「安心感」に無理矢理上書きして(もしくはごまかして)試合に向かっていたんだろう。恐怖心と正面から向き合うような気持ちはまだ持ち合わせていなかった。今の自分にもそういうところがあるし、解決しなければならない大きな人生の問題なんだろうけど、まだ2002年の時のほうがそういう恐怖と向き合う気持ちを持っていたような気がする。 どこかで「なんとかなるだろう」という正体不明の安心感を引きずり出してきてそれにすがってしまったり、他人に自分の安心感を求めてしまったりするということが自分の人生の中において絶えずどこかにあって、そしてそれは今でも自分のどこかに巣を張っている。実際に「なんとかなってしまった」という経験がなまじあるがゆえに、そこから抜け出すことができない自分というのも感じている。やりきったからこその気持ちではない、やりきれなかったからこその依存心。自分の心の醜さをどこかで感じるのはいつも今でも同じことだ。きょうのテレビで見た三浦監督の潔さ、なにかを成し遂げた表情の素晴らしさといったら! 「過去に生きてはいけない、今何ができるのかというのが大事」と三浦監督が語る姿を今日のテレビで見ていると、今自分自身が書いているこの文章も、ものすごく後ろ向きで情けないことに思えてきた。ひょっとしたら今の自分は「アーカイブする」という「安心感」に、またもやすがっているのかもしれない。
2007年12月19日
はい、「classics」第3回でした。 昔も今もあまりカネのない生活をしてるんだけど、学生時代っていうのはいちばん「カネがなくても幸せ」な時期なんだろうなと思う。一度就職してそこそこの給料をもらうと、いざそこからドロップアウトしたときにカネのなさを身に染みてわかってしまうわけで。 「サッカーファン版エンゲル係数」の話は、その後小田嶋隆さんが「ギド係数」という言葉で書いていた。うちならばさしずめ「コンサ指数」とでも言うところだろうか。総収入におけるフットボール関係の支出が占める割合。月の総収入の半分くらいがフットボール関係(遠征費やらチケット代やら)で占められていたこともあったっけ。それでも必然的に遠征手段はできるだけ安い方法になってしまうわけで、とにかく学割や18きっぷは必須。というか当たり前だった。「ムーンライトながら」は何回乗ったかわからない。もう乗りたくないと思うくらい。 遠征でいちばんきつかったは97年のアウェー山形。1-4でさんざんに負けて怒って、そのあと天童のバスターミナルまで移動して(たぶん歩いたんじゃなかったか)やっと乗り込んだ夜行バスは普通の観光バス4列シートで、新宿に着くまでろくに眠れなかった。00年真夏の新潟(最高37℃という狂った気温)も、乗り込んだ「ムーンライトえちご」の空調が壊れてぽたぽた落ちる水を見ながら帰った。そんな金のかからない遠征ばっかりしていたこともあって、社会人になってから乗った新幹線には感動した。あれだけ時間をかけて移動してたところまで、3時間とかそこらで移動できるなんて!って。自由にできるお金が増えたぶん、衝動的に見に行ったりして。 たとえば「『日曜日だけど、近場で試合がなくて暇だから』という理由で新幹線に乗ってJ2を見に行く」っていう文があるけど、これは川崎サポーターの知人と飲んでいるときに「明日仙台行かない?」と誘われ、「応援研修」と称して新幹線に乗って仙台に行ったときのエピソード。睡眠時間3時間かそこらで始発の東北新幹線に乗り、仙台の知人にチケットまで用意してもらいコアゾーンで応援、帰りの新幹線は東京までデッキ座りっぱなし、みたいな強行軍。札幌の試合がない日に他チームの応援を勉強することは何度かあった。ナビスコで清水サポの端っこに混じったり、川崎のGゾーン行ったり、もっと昔なら平塚で神戸の応援(矢野マイケルとかいたころ)行ったりして応援のテンポやバランス、タイミングを勉強させてもらってたり。「他チームの応援するなんて何事だ!札幌サポの風上にも置けない!」と怒る人もいそうだけどまあ時効ということで。 もうひとつ、「余裕の持てる移動が出来るのだからその分もっと応援そのものに力をそそぎ込めるはずだ」なんて書いているけど、いちばん充実していたのはいちばん金のなかった学生時代なのかもなあ、と思う。移動していた時間すら楽しかったし、社会人以降は行きも帰りも疲れていた記憶のほうが多い。それでも苦にならなかったのは、旅をするということが昔から好きだったり(中標津に住んでいた小学生の頃、釧路まで通院するのに標津線を使っていたときから「鉄」な人間だ)、小説をみっちり読み込めることができたり(本格的に小説にのめり込んだのは大学生になってからだ)、ときには旅の時間を共にしてくれる友人がいたりしたからだ。今になっても、そういう人たちに恩を返せるような人間になれてないなあ。 あと前回からの流れでもあるんだけど、本当にこのときは応援と実生活を割り切ろう割り切ろうと必死に考えていたんだなあとつくづく思う。それだけ会社が嫌だったということなんだろう。正直、このころから夜眠れなくなったりしたし。そんなわけで私生活では泥沼の気配になりつつあったのでした。
2007年12月14日
そんなわけで、aftertalk第2回でした。 このころは社会人1年目の年も暮れようとしていた時期で、自分が思い描いていた社会人像と実際の自分の姿がかけ離れていることに悩んで近づこうとしたり、自分自身のスタイルはどこにあるのかと考えたりもして難しい一年だったなあという記憶がある。チームも残留を果たしたけれど岡田監督退任というショックがあり、来シーズンに関しては必ずしも100%ハッピーな想像ができていなかったころ。 で、この回では前回に引き続いて「自分とフットボールの関わり方」ということで話を続けている。学生から社会人になって生活と生きるスピード(大げさだけど)が変わり、そこらへんの線引きや割り切り方に苦労していた頃。そういうふうにフットボールと生活をわざと乖離させて考えようとしていたことが間違っていたのかもしれない。「平日=仕事の日、だから応援には行かない」なんて書いているあたり、ガチガチに堅い頭の人間だなあ。平日じゃないところでも働いている人たちがいるからこそ社会は回っている、ということを思いっきり無視しているというか、明らかに見下しているよなあ。と、自分の青さを恥じてしまう。そういう上から目線を持っていたにもかかわらず会社で働くということを猛烈につまらなく感じていて、このつまらない会社社会と楽しいゴール裏の世界がどこかで繋がっていて、フットボールも生活もすべて地続きだということを信じたくなかった。それでもミスで落ち込んだ気持ちなんかはゴール裏に持ち込まないようにしたし、コールリーダーをやっていたから余計にそういう所は見せないようにしようと強がっていた(と思いこんで、「コールリーダーとしての自分の姿」にすがりついて生きていた)。そんな矛盾がいずれ自己の破綻を生む原因になったのだけど、それは後の話。 もうひとつ、この頃に考えていたのは「ストレス解消の応援はしない」ということ。いち観客として試合を見に行く(他のチームとかリーグとか)のは趣味というかストレス解消になることはあるけど、札幌の応援をするときだけはそんなことを思っちゃいけないというスタンスだった。声を出すのも跳ぶのもチームのため、応援のすべてにおいて自分にも他人にも甘えは許さないというある意味思想的に極端で強制的でヤバい(苦笑)考え方をしていたんだなあと思う。この頃ってそういう自意識の水槽の中に自分で自分を縛ったまま勝手に落ちて溺れていたようなもので、ふとしたことで思い出して「あのときは人間としてマズかった」と落ち込んだりすることもあるけど、わたしは元気です。何この自己批判。 まあ、今はもうちょっとそのあたりをゆるく考えられるようになったというか、「『興行』としてのフットボールを楽しむという人を否定しない」という気持ちにはなっている。「楽しむ気持ち」をそれなりに持っていないと応援は続けられないし、続いたとしても唐突に冷めたり壊れたりしてしまうのだろうと思う。「ゆるい部分を持ちながら続ける」というのが今の自分のスタンスだ。それは意識の変化なのか、大人になったとういうことなのか、老成ということなのかはまだわからないけど。
2007年12月12日
そんなわけで「classics」第1回をお届けしました。 最初から中盤過ぎの回くらいまではですます調で書いていて、それはたぶんにかしこまった気持ちで書いていたというか、文章と自分の距離を測りかねてよそよそしくなってしまっていたような感じだったのかなあ、と読み返してみて思う。それに第1回だったし、丁寧に自己紹介をするような気持ちもこめて書いていた。核になる文体というのは今でも変わっていないけど。 ただ、考え方だけは変わったなあと思う。 仕事(生活)とフットボールに線を引くという考え方はあんまりなくなっていて、全部一緒くたにして考える、それもこれもまとめてひとつのものとして考えるようになった。線引きしても人生においては特に何も変わらなかったし、ちょっとゆるくしてみてもこれまた何も変わらなかった。なら、ゆるい方がいいだろうと思って今に至っている。20代の始め、就職したあたりはなにごともきっちりとやっていこうという思いがあったんだけど、そのうちに切り替えのスイッチが壊れてしまったというか、ONもOFFもうまく切り替わらないみたいなことになってしまって。 「No Life,No football」という考え方も、年が過ぎるにつれてゆるくなっていった。最初のほうは「生活がしっかりしてなきゃフットボールは見られない!だからがんばって働かないと!」みたいにきりきりしていたのが、今になっては「死んだらフットボール見れねーから生きとくか」てな感じに変わってきている。というか、あの頃は考えすぎていたんだろうと思う。それが良かったのか悪かったのかにかかわらず。ちなみに最初にこのコラムで書きたかったことというのは「人生におけるフットボール」とか、「生活の中のフットボール」みたいなことを考えていて、そこから生まれたのが「No Life,No football」ていうコラムのタイトルだったりする。いわゆる「日常系」を何となく目指していたわけだ(それがどういうことになったのかはおいおい語りたい)。当時様々なサイトで目にするコラムはゲームリポートやフットボール原理主義みたいなテーマに寄っていたものが多かったので、そういうのとは逆のアプローチをしてみたいと書いていたのを覚えている。 あのコラムを書いてから何年も経って、いろいろなシーンに遭遇し、いろいろな人生観が変わった(あるいは変えさせられた)。けど、変わっていないのは「フットボールに救われている」という思いじゃないかな。自分自身の状況にかかわらずフットボールはいつもそこにあって、フットボールを見て、応援すること、勝敗を超えてコンサドーレというクラブが「ここにある」ということだけで救われるような気持ちになったことは数え切れないし、いつかその感謝を何らかの形で恩返しできればと思う。昔も今もそれだけは変わっていない。
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1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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