2017年05月29日
それほど歩かないJ1観戦紀行(鳥栖)
5年ぶりの鳥栖。 5年前もすでに無くなっていたでしょうか? スタジアムDJの「聞くぜ、問うぜ、尋ねるぜ、勝つのはどっちだ」というあれ。このあと確かアウェイチーム名と「サガン鳥栖」と言って、スタジアムの観客が「サガン鳥栖」とレスポンスするんでしたっけ? 鳥栖といえばあれで、けっこう好きだったのですが。 試合はご存知の通り、見せ場を作ることができず0-1の敗戦。 セットプレーからの失点のシーン、一瞬エアポケットにはまったような。。。 後半にもセットプレーで、右サイドバックの小林が猛然とディフェンスの裏へ走り出すシーンがありました。さすがにこれはしのぎましたが、この攻撃、鳥栖は狙っていたんでしょうね。注文にはまってしまったという感じです。 さて、例によって翌日は観光。 そこだけのために九州まで行くのはちょっと。。。という感じだが、コンサドーレとセットならばという場所が九州にはけっこうあります。 で、まず向かったのが日田。 日田駅に到着すると、向かい側のホームにはピッカピカの車両が。 「seven star」とかあります。そうかこれが有名な「ななつ星」かということで一枚。あまりにピカピカで、向かいのホームの車両が写り込んでいます。 日田まで行ったのは、古い街並みを見るのが目的。まだ9時くらいだったので、交通量は少なかったものの、けっこう車も通る通りに面しており、趣という点では今一つでしょうか? 19世紀前半に咸宜園(かんぎえん)という塾を開き(主に中国の古典教育が行われたとのこと)、3000人を超える門弟が集まったという広瀬淡窓を生み出した広瀬家の旧宅が公開されていますが、この写真は、資料館として公開されている旧宅とば別の建物(南家隠宅)。 咸宜園跡。淡窓の門人は3000人を超えるようです。そんなに多くの人がどうしてというのが興味深かったので、管理の方にその辺のことを聞いてみました。いっぺんに3000人が学んだわけではなく、多い時は200人を超える塾生がいて、淡窓が咸宜園で指導した塾生の総数が3000人を超えるということです。一番多いのは豊後(大分県)からの塾生だそうですが、遠く東北地方からの塾生もいたとのことです。口コミなのでしょうが、かなりの評判の塾だったことがうかがわれます。 武士の塾生はごくわずかで(武士は藩学など学びの機会も多いですし)、僧侶や町人が多いそうです。塾に隣接したところに寮があって、多くの塾生はそこに寄宿しており、学費・生活費は自己負担だったそうです。自らの居所から遠く離れた場所で、この時代、そうまでして学ぼうという意欲を持った人が多くいたことは驚きです。 日田駅の近くで見かけた「プノンペンラーメン」 どんなものか? と興味をそそられましたが、試すことはせず。 日田からは日田彦山線に乗って筑前岩屋へ。 筑前岩屋まで行った目的はこれ。ちょっとわかりにくいかも、ですが、棚田が見られるのです。もう少し、綺麗かと期待して行きましたが、傾斜がそれほどでもないので、「ワーっ」という感じではありません。 近くの日田彦山線の橋(駅前の観光表示には「めがね橋」とありました)が見えるところまで行ってみました。 筑前岩屋駅の時刻表で日田方面へ向かう列車があることを見ていたので、それを撮影してみました。しかし電線が邪魔です。よいポイントを探すガッツがありませんでした(鉄分はそこまで濃くはないので)。 列車を見送ったあと、さらにその辺を歩いていると、機材を撤去しているベテランの撮り鉄氏が2名ほど。どうやらここは鉄道写真のポイントらしいです。 農道沿いに咲いていた花。 駅のあたりには水が湧いていて、その自動販売機みたいものがあり、ほとんど途切れることがないほど、水を汲みに来る人たちがいました。 駅の自販機。注目はカズではなく、水が売られていないこと。湧水を売っていますし、飲めるようになっているところ(飲んでも衛生上大丈夫なものだと思う)があるので、水を買う人がいないのだと思います。 以上で、この日の観光は終了し福岡空港へ向かいました。
posted by オフ |19:51 | 旅とコンサ | コメント(0) |
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