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1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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2009年03月10日
まだ秋春制に固執しているとは驚き。こんな人が会長とは情けないし恥ずかしい。 長沼さん、岡野さん、川淵さんと、素晴らしい人たちが会長やってきたのに、突然おかしな人が出てきたものだ。 3月1日はスカイマークで旭川に戻りましたが、バスでした。 安かったから文句言いません(笑このバスでした。かつて、子どもを連れて満員のバスは辛かったです。手前が新千歳空港。向こうが航空自衛隊の千歳飛行場。千歳にある、もう一つの飛行場。そんなの知らない? という人もいるでしょうか? 陸上自衛隊東千歳飛行場です。 自衛隊最大の駐屯地だそうです。 中央の黒い森は、栗丘から北に延びる丘で、その左の市街地は栗沢です。飛行機から生まれ故郷を見たのは初めてです。 桂沢湖です。
2009年03月05日
近藤勇が生まれたところには、こんな看板しかありません。 記念館くらいあってもいいのでは? なんて思ったりしますが、遺品などは全然ないでしょうし、難しいのでしょうね。 場所は、調布飛行場の北端からちょっと北の野川公園です。 ちなみに、戦時中、調布飛行場の拡張工事のために近藤勇の生家を取り壊したそうです。もったいない。調布飛行場は、たくさんの小型機が駐機してました。 大島や神津島、新島などへ定期便が飛んでいます。調布飛行場にはプロペラカフェというカフェがありますが、格納庫内にあるのです。 見えている飛行機は19人乗りのドルニエかな? 大島などへ飛びます。セスナのフライトシミュレーターがあります。 今度行ったら体験してみます。これはヘリコプターのシミュレーター。YS-11の模型。ドルニエDoX。世界最大の飛行艇。 12台もエンジン搭載してますが、100人の定員ではパワー不足で、低空しか飛べなったそうですが、それでも大西洋を往復した記録があります。 3機しか製造されず、2機は戦時中に解体、最後の1機はベルリン爆撃で破壊されたそうです。
2009年02月13日
シーチケ発売期間延長とのことですが、売れていないから、なんてことはないですかね? 今回初めてシーチケ買いました。 ドームゴール裏で、1万5千円なので、安くて気の毒ですが、15分早く入場できるので買いました。 (まだ届いてません) 安い分、厚別・函館・室蘭のときはSS席にしようと思ってます。 初めて旭川山動物園号に乗りました。(停車中の列車に乗っただけです) 1号車(旭川寄り)5号車(札幌寄り)1号車車掌室1号車フリースペースこれも1号車です。なんで旭川駅にいたかというと、神楽岡15:52発旭川15:55着の列車に乗り、引き続き16:09発岩見沢行きで近文まで乗ったので、乗り換え時間があったので、この列車に遭遇できました。
2009年02月03日
今日はいつものイコフが休み。火曜なので麦々堂も休みなので、神楽岡にあるナチュールでパンを買ってランチにしました。 私的にはライ麦パンがあればもっと良いのですが、添加物を使わないし、道産小麦なので安心です。 サイトを見ると、バゲットを試作中とのことだし、とても楽しみな店です。水曜~土曜なら、サンドイッチもあるので、今度また行ってみます。 1974年頃は、まだ環状運転してました。静修高校前(16条)です。
2009年02月02日
昨日、浜頓別へは自家用車で行きました。 旭川北インターの少し先、旭川刑務所付近からの写真で、左に見えるのは、ぴっぷスキー場。ぴっぷスキー場を過ぎると比布町と和寒町の境で、塩狩峠があります。三浦綾子の小説、「塩狩峠」で有名になりましたね。 昔は何度も映画やTVドラマになりましたが、最近はあまりやらないですね。 私が中学2年のとき、SLを撮影に行きました。(先日も紹介しましたが)このとき(1974年)も、ちょうど映画化されたばかりのときで、泊まったユースホステルには映画のポスター貼ってました。峠のちょっと先の陸橋の左がJR塩狩駅で、右に行くと、かつては塩狩スキー場がありました。 完全に樹木に覆われて、どこがスキー場だったかわかりません。 昔は列車に乗ってスキーに行くのが当たり前で、上志文とか塩狩とか、駅から徒歩で行けるスキー場は人気がありましたね。 塩狩は温泉もあるから、旭川から行く人も多かったのでしょうね。 自家用車の普及で、もう今は列車でなんか行きませんものね。 70年代中頃に劇的に変わりましたよね。 もちろん、東京から近ければ別ですし、実際私も横浜にいたころは新潟などへ新幹線で行ったし、フランスのTGVが最も混雑するのはスキーシーズンだそうです。今日のランチはイコフの日替わり。ハンバーグデミグラスソース。630円。
2009年01月31日
昨日は501もアクセスありました。やはりあのタイトルだと気になって覗く方が多いのですね。たいしたこと書いてないので申し訳ないですが、改めて、いかにタイトルの影響力が大きいかわかりました。 さて、スカイマークが旭川・羽田の搭乗率が55%しかないからということで、2往復のうち1往復を千歳経由にすることにしました。 旭川・千歳間の利用も可で、数千円の料金だそうですが、誰が乗るのだろう? マニアしか乗らないのでは(笑 <→私のことですが> 1969年頃は、羽田・旭川間の航空機(日本国内航空)は、1往復あり、丘珠経由でしたから、旭川・丘珠間は\3,400でした。 (旭川・羽田は\15,100) 当時、国鉄で札幌・旭川間は運賃550円、急行料金200円、指定席特急料金が600円なので、ざっと物価は5分の1ですから(駅弁も多くは100~150円で、長万部のかにめしが200円でした)今だと1万7千円くらいの感じですから、列車で2時間でいくのに、これじゃあ、乗る人いませんね。 数千円でも、どうでしょう? 私が自宅からドームまで行くのに最短で2時間半程度かかります。 飛行機でも、ほぼ2時間半なので、同じ時間で倍の費用がかかります。 でも、一度は試しに乗ってみますよ(笑 だって、どうせ直ぐになくなりますから。 旭川から羽田に行くのに、千歳経由だと1時間余計に時間がかかるので、さらに旭川から乗る人が減るでしょうから、千歳で乗り込んで来る人がいたって、収入はあまり増えないし、逆に余計なコストがかさむだけ損でしょう。 なんでこんな簡単なことがわからないのでしょう? 国内線で寄港便は効率が悪く、誕生しては直ぐに消えるのがくり返えされたことも知らないのですかね? (離島便のように、特殊な事情があれば別ですが) そのうち、千歳・旭川間の運行を取りやめ、やがて残った1往復も消えてしまうかも。 4月11日か12日にドームで試合があるみたいなので(カターレ戦という噂ですが、本当かどうか)、その時にでも乗れたら乗ってみます。 そうそう、旭川の人が仙台とか新潟などへ行く場合、今まではJRで千歳まで行って飛行機に乗っていたけど、今度は旭川から千歳までスカイマークで、ということもできるから、マニアでなくても少しは乗る人がいるかもね。でも、減る方が多いでしょうね。 ちなみに、離島便を除くと、最も短距離な航空路線は、たぶん伊丹・コウノトリ但馬だと思いますが、旭川・千歳はそれよりも短いかな? と思ったら、少し及ばないようですね。 JRだと大阪・豊岡は2時間半で、旭川・新千歳は2時間ですが、前者の方が距離は少し短いようです。今日は自宅の横に、カケスとアカグロゲラの両方が同時にやってきました。
2009年01月25日
新潟の話題ついでにもう一つ。10年前に廃止になった、新潟市と燕市を結んでいた路線。新潟市の中心部近くは道路併用軌道でした。 私が住んでいたマンションの直ぐ裏で、越後線と交差する地点。 越後線が電化工事始まる少し前の1982年1月。 富山地方鉄道と同じような配色なので、それと同じく「かぼちゃ電車」と呼ばれることがあったそうですが、私は聞いたことがありませんでした (笑 もともと、新潟駅はおろか、繁華街の古町(ふるまち)すら到達しない路線で、白山駅前(旧県庁前)までしか行ってないハンディがありました。 新潟駅まで延伸計画は昔からあったものの、実現しなく、併用軌道地区では、騒音・振動の苦情もあり(1時間に上下1本ずつしなかったのに)、92年には併用軌道部分は廃止され、いよいよ不便な状態に陥ってました。 目立った保存運動はなく、厄介者扱いされてなくなったのは、なんとも残念です。県や周辺自治体は、もっと早い時期に中心部への延伸を支援したらよかったのに。 越後線は84年に電化したのだから、越後線に乗り入れ、新潟駅まで運行したらよかったんですけどね。 以下、東青山駅で撮影した写真を追加します
2009年01月24日
1982年1月の新潟駅。上越線特急「とき」上野行が1番線に入線中。 この年の11月に上越新幹線が開業なので、在来線特急「とき」がなくなる10ヶ月前の写真です。 さて問題です。 この頃、新幹線には全列車にあるのに、在来線国鉄特急には、「とき」にしかなかったのはなんでしょう? ヒント : まさにこの写真の、とき12号車がそうです。
2009年01月21日
SLが続いたので、たまには電車の話題です。1975年3月。高校入試を終えたので、学校さぼって札幌に到着した新型電車を見にいきました。 この年の7月から、北海道で初の電車特急「いしかり」が運行始めました。山一証券やたくぎんの看板は懐かしいですね。 ちなみに、485系ですが、北海道の冬には対応できず運休続出し、翌年からは間引き運転を余儀なくされ、あえなく数年で引退(青森へ転属)。 道新には、「特休」などと揶揄されました。 その際、「本州で使っていた、お古」などと書かれたこともありましたが、これは完全にマスコミの間違った思いこみで、耐寒性を高めた北海道専用機で、耐寒試験を特急白鳥で9ヶ月やっただけのこと。 まあ、確かに耐寒性能は不十分でしたが・・ あと、急行と比べてわずか数分の時間短縮なのに高い特急料金をとると、道新は非難した記事も書きました。 でも、シートピッチが急行かむいの1.28倍もあるなど居住性が格段に違います。 当時は急行だと、トイレットペーパーも付いてなかったというのもあります。 無料の飲料水もあったかな? そんな点を評価しないで、やたら国鉄を非難した某マスコミは嫌でした。 この車両は、廃車になったのもありますが(30年以上経つから当然ですが)、ジョイフルトレイン彩に改造されたり、今も現役のもありますから、乗ってみたいものです。
2009年01月20日
中学2年の1973年5月15日に苗穂機関区に行きました。 この時期、大都会札幌にまだ意外とSLが残っていて、千歳線でC-57やC-58が貨物列車を牽いていました。 このC-57ですが、ドームの後ろに四角い箱がありますね。きっと重油タンクなんでしょう。 貨物だと投炭は重労働ですから、よくD-51なんかに重油タンクが付いてましたが、山越えもない千歳線のC-57で重油混燃とは意外ですが、千歳線に配属する前にすでに付けていたのかも知れませんね。1973年12月の月寒駅。 すでに千歳線は新線に切り替わっていましたが、貨物線として苗穂・東札幌・月寒間は残っていました。 重連の前の機関車はC-57ですが、後ろの機関車もC-57のようです。 サラブレッド(C-57)が2頭で荷物を牽くより、農耕馬(D-51)が1頭で牽くべきと思うのだけど、まもなくSLがなくなる時期だから、運用の都合でこうなったのかな? 車検にあたる全般検査には莫大なコストがかかるので、有効期限の残っているSLでやりくりして、こうなったとか?
2009年01月19日
今日のお昼は4週間ぶりに麦々堂のパン。焼きたては美味い!! 麦々堂さんは正月休みが長く、16日から再開でしたが、美味しいパンに飢えていた人がまだ沢山いるのか、あと少しで完売になるところでした。 左はイチジクパン。右はタマネギ田舎パン。(ライ麦が入っています) お昼に実際に食べたのはこれくらい。先週は違うパン屋に行ったけど、(ここの半値くらいの安さでしたが)満足できず、やっぱりここのパンは美味しい。 幸せを感じながら食べ、昨日の伊勢エビよりも充実感ありましたよ。 伊勢エビの話が出たついでで、伊勢奥津駅の写真です。 1982年だと思います。三重県から内陸にかなり入ったところで、奈良県に近いところです。 松坂から名松線というJR線の終点です。シーズンオフでコンサの話題がないと、食い物の話ばっかりですね。 まあ、オンシーズンでも食い物の話ばっかりだけど(笑
2009年01月17日
中学2年のとき、C-62の復活運転があり、小樽まで行ったのですが、ブレなどで上手く写真が撮れず、こんなのしかありません。1973年5月3日。小樽・塩谷間。 71年に急行ニセコの牽引から引退しましたが、73年に一時復活運転したのです。 悔しいので3日後に小樽築港機関区に行きました。止まっているSLなら上手く撮れると思ってのことです。 しかし、車庫に入ってお尻しか見えません。 この日はもう業務終了で、車庫から出ることはありませんでした。こなんことがあって、私はC-62が嫌いになりました (笑 嫌いになったというのは冗談ですが、それよりも他の機関車が好きになったのは事実です。 ちなみに、C-62のような、軸配置が2-C-2のタイプをハドソンと呼び、最初のコンサの胸スポンサーのハドソン社は、創業者兄弟がC-62のようなハドソン型SLが好きで、社名をハドソンにし、郵便番号が062になるよう、月寒に本社を置いたそうです。 そんなこともあって、コンササポになってからはC-62が好きになりました(笑 JR北海道が88年から95年まで、再度、復活運転していたけど、自動車でいうと車検にあたる検査に1億円もかかるため、運行をやめてしまったのは残念です。 北海道の大地にC-11じゃ、ちょっと物足りませんね。
2009年01月16日
あのころ国鉄はしょっちゅうストやってたけけど、SLの撮影名所を走るSLが団結号はないでしょう。73年5月3日。栗丘-栗山間。ちなみに、重連の後ろはC-57。C-57が貨物を牽引するなんて、サラブレッドがばんば競争に出るようなものでしょう。凄い違和感。 栗沢駅です。73年1月。今日の晩ご飯はイオン旭川西店の香港厨房。左は餅米肉団子。横浜にいたとき、中華街でよくこれを食べました。 横浜スタジアムで大洋ホエールズを観たあとに中華街によく行ったんです。
2009年01月10日
私が中学2年の夏休み、札幌から旭川に行って撮った写真です。1973年8月13日、めちゃ暑い日でした。人生で最も暑い経験をしたし、その半年後には、同じく旭川で人生で最も寒い経験をしたので、旭川だけは住みたくないと思ってしまいました(笑 旭川発稚内行普通列車で、旭川駅を出てまもなくの地点。 (宗谷線なのに架線があるので、旭川機関区の手前だとわかりますね) 昨日の塩狩峠の写真と同じく、C-55 50号機です。旭川機関区には、C-55 30号機が扇形車庫に入ってました。さて、何が偽装なのかというと、C-55 30号機を手宮の北海道交通記念館(現・小樽市総合博物館)で保存展示することになっていたのに、一時保管していた国鉄苗穂工場で、間違って解体してしまったのです。 そして、急遽、旭川に残っていた C-55 50号機を、手宮で展示することにしたのですが、なんと、50号機に30号機のナンバープレートを取り付けて30号機に偽装したのです。 直ぐにばれてしまってナンバープレートは元通りにしたけど、足周りにある刻印は、5の上から3を押した痕が残っているそうです。 だけど、50号機でも30号機でも、同じC-55なんだし、たいした問題でもなく、わざわざ偽装するなんて変だと思いませんか? 実は、50号機と30号機は全然違うのです。 30号機は流線型C-55、21両のうちの1両なんです。 50号機とは違って、とてもとても貴重な財産だったのです。 もちろん、戦後まもなく完全に流線カバーは取り外していましたが、そのなごりがよく見える機関車だったのです。その特徴がよく見える写真はこのサイトにありますので、ご興味あればご覧下さい。 運転台の上の屋根が、ロンドンの地下鉄みたいに深くカーブしています。 (頭がつかえそうです) 偽装に関しては、WikiでC-55のページにも書いてあります。1948年、尾久機関区。足周りのカバーははずしてますが、頭部やボイラーあたりのカバーは戦時中も付けていたのですね。 レーダー波を反射するステルス機、のわけないか。
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1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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