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1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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2015年02月11日
今日は「三たて」の最後、「茹でたて」です。 ソバは茹でてから時間がたつと伸びて美味しくなくなるのは言うまでもない常識中の常識で、茹でたてが良いに決まってますよね。 茹で置きでも平気な人もいるでしょうけど、茹で置きの方が好きという人がいたとしたら例外中の例外です。 立ち食いソバや学食などは、仕方なく茹で置きで提供するわけで、「茹で置きの方が美味しい」などということはありえないと思っていました。 しかし、例外もあるようです。 ソバに詳しい片山虎之助さんが、ご近所の青森出身の人からソバをいただいたのですが、それは、青森在住の妹さんが作って宅配便で送ってきたとのことですが、当然、生のソバだと思ったら、茹でてあるソバでびっくり。 茹で置きソバなので落胆したものの、捨てるのも失礼だから試にかけそばで食べてみたら、たしかに柔らかくて歯ごたえはないものの、味わい深くて美味しかったとか。 片山さんの本にはそこまでしか書いてなかったのですが、調べてみたら、弘前地方には津軽そばというのがあって、つなぎに大豆を使うとか。 そして、あえて茹で置きで食べるそうで、半日は置いておくそうです。 もりではなくかけで食べるそうです。 茹で置きでも美味しいのは、大豆をつなぎに使うのが関係しているかも知れませんが、いずれにしても、茹で置きで食べるのが一般的というのは不思議です。 茹でたてならもっと美味しいのではないかと思ったりもしたんですが、どうも大豆つなぎの場合は茹でおきの方が美味しいとか。 私は読んだことがありませんが、美味しんぼの青森編にも津軽ソバが登場すると、弘前出身の知人に教えてもらいました。 函館にかね久山田という大豆つなぎの蕎麦屋があります。 お店は津軽ソバであることは秘密にしているそうですけど。 6年前に食べたときは歯ごたえは普通だったと記憶しているので、茹でおきではないように思います。 あまり美味しく感じなかったけど、茹でおいたら美味しいのかも。 ちなみに、乾麺ですけど、茹で置き用のソバがあるのですね。 グルテンが添加されていて、茹で置いても腰があるのでしょうか。 ソバ粉よりも小麦粉の方が多いから、食べてみたいとは思いませんが。
2015年02月10日
美味しんぼの「そばツユの深味」は、こちらでアニメが見れます。是非ご覧ください。 「大木屋」というソバ屋が登場しますが、浅草の並木藪蕎麦がモデルです。 さて、今日は「打ちたて」についてです。 私は片山虎之助さんの本を読んだ最近まで知らなかったのですが、業界では打った直後のソバは「包丁下」と呼ばれ、美味しくないのが常識なんだとか。 打ちたてだと、茹でるときに浮き上がって生煮えになりやすいとか。 たしかに私の経験でも、打ちたては浮き上がりやすいと思います。 打ってからどれくらい時間をおくのが良いのか、本やネットで調べたら、「30分」「1時間」「2~3時間」「6時間」「夏は15分・冬は20~30分」など、さまざまです。 一夜そばという、一晩おいて美味しくなったという意味の業界用語もあります。 熟成ソバという用語もあるようで、二晩おくと美味しいという考えもあるようです。 業界では常識なのになぜ「三たて」を謳う店や地域が少なくないのか? 会津も「三たて」を謳う地方だそうですが、しかし、会津では打ちたてを指す時間の範囲が長く、ある程度時間が経過していても「打ちたて」と言い、包丁下というわけではないとか。 しかし、昨日紹介した、「みたて」(休業中)や十割蕎麦本舗(廃業)は、客が来てから挽くわけですから、当然、もろに打ちたての包丁下ということになります。 業界の常識を知らないのか? あるいは知っているけど客寄せのうたい文句にしたいからなのか? 以前、あるソバ屋へ行ったところ、昼の遅い時間だったため、「今朝打ったのがなくなり、追加して打ったので、打ちたてですよ。」とお店の人に自慢げに言われました。 その人は包丁下は美味しくないことを知らないのですね。 私も当時は知らず、追い打ちを喜んで食べました(笑 片山虎之助さんの体験を紹介すると、よく地方のソバ店から生のソバを取り寄せて食べていたのですが、あるときお店まで行って食べました。 取り寄せだと打った翌日のものになるけど、お店では打ったその日のだから当然美味しいと思ったら、味が薄く感じ、ためしにお店に頼んでその日に打ったのを翌日まで置いて、翌日茹でて食べさせてもらったところ、いつもと同じ豊かなうまみを感じたとか。 そういえば、ラーメンは製麺してから1週間くらい寝かせて熟成した方が美味しいということで、そうやっているお店が少なくないですよね。 ソバも多少、そういうところがあようですね。 でも、私は一度、打って6時間経過したのと打って直ぐのとを食べ比べたことがありますが、違いはわかりませんでした。 それほど大きな違いではないということでしょうか。 自分で実際に確かめてみないと気がすまないので今後、研究をかさねて行きたいと思います。
2015年02月09日
ソバは挽きたて・打ちたて・茹でたての「三たて」が美味しいと言われていますよね。 みたてという屋号のソバ屋もあるくらいです。(休業中みたいですが) でも意外にも、実は必ずしも三たてが美味しいとは限らないようです。 今日は「挽きたて」について書きたいと思います。 ご存じのようにソバ粉はソバの実の殻を取り、挽いて粉にします。 製粉したのなら、なるべく早く打つ必要があります。 製粉してから何か月もたった粉、特に高温多湿状態で保管したソバ粉だと美味しくないし、そもそも打つことが困難(打っても短く切れてしまう)と言われています。 そういう意味ではたしかに「挽きたて」が良いのですが、しかし、挽いた直後のは美味しくなく、一晩おいた方が美味しいと言っているソバ職人が多いそうです。 小麦粉も同様で、製粉してから少し寝かせた方が、パンがよく膨らみ、美味しくなるとか。 上記「みたて」さんとか、以前紹介した、旭川に存在した「十割蕎麦本舗」などは、客が注文してから挽きますが、意味がない、いや、かえって美味しくないソバになるわけですね。 しかも、挽く時間、客の待ち時間が長くなってしまうし、十割蕎麦本舗は店内にミルがあったので、騒音で落ち着かなかったです 三たてを謳うお店や地方は少なからずありますが、「〇〇たて」の範囲が、どれくらいなのか明確ではないでしょうし、必ずしも「直後」ではないでしょうから、一概に三たてがダメというわけではありません。 ところで、和寒に新種のクマがいると話題になっているようです。この写真はいくつかのブログで使用されているものです。実物を見に行こうと思って昨日、山に行こうとしたら林道は雪で入れませんでした。春になったら探しに行きます。
2015年02月08日
ソバはつゆにどっぷり漬けずに、少しだけ漬けるのが良いとされ、落語にもありますが、本当にそれが美味しいのでしょか? それが粋だからというだけで、実際は美味しくないと、ほとんどの人は考えていると思います。 ではなぜ、どっぷり漬けるのがダメと言う考えがあるのか、それは、ソバの香りがしなくなるからとされています。 東京(というか、関東と言ったらいいか)のソバは、白くて細いソバが主流です。 ソバの実の外側を沢山削って、中心に近い部分の粉を使っているので白いのですが、そういうソバは香りが少ないのです。 外側のソバ粉も含む、黒っぽいソバなら香りが強いので、つゆにどっぷり漬けても良いのです。 もう一つ理由があります。 東京(関東)では、そばつゆが濃い目(しょっぱい)です。 北海道でも、大丸に入っている布屋太兵衛はかなり濃いですね。 だから、どっぷり漬けるとしょっぱいので、どっぷり漬けない方が良いのです。 しかも、東京(関東)のソバは細いから、表面積/体積比が高く、よりしょっぱくなりやすいのです。 先日紹介した浅草の並木藪蕎麦は、東京で一番辛い(しょっぱい)つゆだと言われています。(ということは日本一辛い?) なので、どっぷり漬けるとしょっぱくて美味しくないと言われています。 たしか、美味しんぼで「そばつゆ」の話のとき、某有名店というのは並木藪蕎麦がモデルだったかと思います。 でも、塩分のバランスが合っているのなら、少しだけ濃いつゆに漬けるスタイルは、本当に美味しいものなのか、私は疑問です。 つゆに浸かっていない部分が多いと、ぱさついて食べにくいと思います。 ソバ全体が均一な味でなく、口のなかでしょっぱい部分と塩分の少ない部分に分かれているのもなんだかあずましくありません。 それに、だし(鰹節、または鰹節+鯖節など)が不足します。 江戸時代のソバつゆは鰹節を使わない「精進つゆ」と鰹節を使った「生臭つゆ」の2種類が存在したそうですが、やはり鰹だしがしっかり効いた方が美味しいと思います。 だから、あまり濃くないつゆにどっぷり漬けるのが一番美味しいと私は思います。 そもそも、ソバの香りって、そんなに重要でしょうか? 昔、冷蔵庫がない時代は夏場、味が落ちたソバは香りもしなかったので、ソバの良い香りは美味しいソバの証拠でもあったと思いますが、現在は季節でそれほどソバの味は変わりませんから、ソバの香りをありがたく思うこともないと思います。 香りよりも味や歯ごたえ、のどごしなど、他の要素の方が重要だと思います。 わずかな香りを重視するあまり、他の要素を犠牲にするのはトータルではマイナスだと思います。 どのくらいソバをつゆに漬けるかの適量は、そばやつゆによって変わってくるので、結局は食べてみて一番美味しいと感じる程度に調整するのが良いのです。 粋がって無理に少量にするなんてナンセンスで、特に田舎ソバでそれをやるのは愚の骨頂です。
2015年02月07日
すでに江戸時代から生粉打ち(十割ソバ)が人気があり、つなぎに小麦粉を入れたソバは評価が低かったそうです。 たしかにソバ粉100%だと打つのに技術がいります。 上手に打たないと切れて短くなってしまうのです。 (客に出すのでなければ切れてもさほど問題ないのですけど) でも、本当にソバ粉100%が、つなぎ入りよりも美味しいのか? もちろん、スーパーで売っているような、ソバ粉よりも小麦粉の方が多い代物は論外ですよ。 ここで言う「つなぎ入りソバ」は、ソバ粉8割程度(最低でも7割)のものを指します。 片山虎之介さんが書いた「蕎麦屋の常識・非常識」という本には静岡の宮本さんという有名店のご主人の話が紹介されています。 「目標としているのは、のどごし、香り、味のすべてが揃ったソバ。生粉打ちではできない。」と、つなぎを入れた方がむしろ美味しいと考えています。 名人とまで言われている達磨の高橋さんは二八(8割ソバ)で打つそうです。 ちなみに、札幌の喜香庵さんや正直庵さんは達磨で修業されています。 私はこの2か月ほど、ほとんど毎日ソバを打っていますが、ニ八に落ち着いてきました。 味は生粉打ちも二八もほとんどかわらず、二八の方が切れにくいからです。 結論です。ソバ粉の割合が一定以上あれば、8割とか10割とかはそれほど問題ではないと思います。 それよりも、上手に打って上手に茹で、美味いつゆであることが重要だと思います。 もちろん、十割ソバも美味しいとは思いますけど、つなぎ入りよりも十割ソバがランクが高いなどと十割ソバをもてはやすのはナンセンスではないかと思います。 じゃあ、江戸時代の生粉打ち人気は何だったのかと言えば、江戸時代はソバ粉よりも小麦粉のほうがはるかに多い、とんでもないソバが多く、本当の(八二でなく)二八、つまり、ソバ粉2割・小麦粉8割が当たり前だったからだと思います。 10割まで行かずとも、8割で十分なのです。
2015年02月06日
ソバは海外でも食べられ、ロシアや東欧などで粥やピラフにしますし、フランスのガレットなども有名ですよね。 ソバや中国南部原産らしいですけど、日本では縄文時代、すでに栽培されていたようです。 古来、そばがきやソバ餅、粥(雑炊)などとして食べられていたそうです。私もソバ粥(雑炊)は大好きです。 麺の形状のソバ切りは室町末期の頃、長野が発祥と言われているようです。 江戸中期には全国に広まり、江戸っ子もソバの食べ歩きを楽しんだようで、1751年には「蕎麦全書」という本まで出たほどです。 蕎麦全書によると、当時すでに江戸では蕎麦屋間の競争が激しく、味以外にも特色を出すため、器に凝ったり、庭に凝ったりする店も少なくなかったとか。 幕末には江戸に4000軒もソバ屋があったそうです。屋台も含めると、もっと多くなります。 江戸の人口は200万人ほどでしたから、人口500人に1軒ですね。 本当に4000軒もあったのか信じられない気持ちです。札幌に4000軒もありません。 食べログランキングにある札幌のソバ屋は449軒です。 まあ、江戸時代はソバ屋以外の飲食店が少なかったからソバ屋が多いのでしょうけど、それにしても多いですね。 しかし、どうして関西などではソバ文化が発達しなかったのか、不思議ですね。 浅草にある並木藪蕎麦。以前、たまたまお店の前を通りかかったのですが、時間がなくて寄れませんでした。 藪蕎麦御三家の一つの超有名店で、ここで食べないでソバを語ることはできません。(語ってるじゃないかって) 雷門の近くですから、浅草観光のついでに寄ると良いと思います。 「この店を知らずにソバの歴史は語れない」としては、横浜にある角平という鴨せいろ発祥の店も外せません。 4年前、平塚で試合を見た後に食べたのを以前紹介しています。
2015年02月05日
ソバ屋の屋号は「庵」が付くのが多いですよね。 私が好きなソバ屋も庵が付くお店が多いです。 札幌の喜香庵、旭川の正月庵、きっぽう庵、士別の吉祥庵、栗山の北の錦の錦水庵など。 うどん屋で庵が付く店(ほくほく庵)もありますが。 蕎麦屋ではないのに「○○庵」という施設があると、蕎麦屋かと誤解してしまうほどですね。 なぜ庵が多いのかは、以前書いたかも知れませんが、昔、お寺で精進料理としてソバを出すことがよくあったのが関係しているとか。と、札幌の西町にあった古一というソバ屋さんから聞いたのですが、そういえば深大寺そばが有名だし・・などと思ったものの、それ以上詳しいことはわからなかったのですが、調べたらわかりました。 「蕎麦屋の常識・非常識」という本に書いてありました。 江戸時代、浅草の道光寺で参拝に来た檀家にソバを振る舞ったところ評判になり、やがてソバ目当ての人で大賑わいになり、お寺なのかソバ屋なのかわからない状態になったとか。 それにあやかってソバ屋の屋号に「庵」が使われるようになったみたいですね。 その後、道光寺は深大寺に移転したようですが、本業がおろそかになるということでソバ打ち禁止になり、その碑があるそうです。こちらで紹介されています。 その本には他にも面白いこと、ためになることが沢山載っているので、徐々に紹介したいと思います。
2015年02月02日
竹鶴さんは1933年4月に単身で余市へ行った際、かねまた服部旅館に泊まったのですが、その旅館は今でも営業しているようです。 国道5号線が90度曲がる大川交差点のすぐそばにありますね。 その旅館のご主人は、余市のりんごをロシアへ輸出していたけど、ロシア革命で輸出できなくなり、ルーブル札は紙くずになり、蓄えた財産を失って、実家の旅館を継いだとか。 ドラマでは会津の侍が入植し、開拓使からリンゴの苗木の配布を受け、りんご栽培を始めたとありますが、それは事実のようです。1875年(明治8年)に苗木を植え、4年後から収穫が始まったのですが、日本初のリンゴの商業生産で、海外でも評価が高かったそうです。 リンゴは青森が有名ですけど、余市がリンゴ栽培の元祖で、青森よりも春が遅い分、保存が長期に効くメリットもあったそうです。 鰊御殿の親方が、急に鰊が獲れなくなって借金に追われるとドラマで描かれていますが、たしかにそのころから鰊が獲れなくなっていったようで、1926年に1万トンの水揚げだったのが、1927年にはその1/3を割り、1928年には1400トンほどまで激減したとか。 さらに1930年はわずか1トンで、全く取れなかったと言って良いほどだったんですね。 ただ、1931年には5000トン、1933年には9000トン弱と、一時的に盛り返していました。 (その後1935年からまた獲れなくなるのですが) ドラマの設定とは2~3年ずれがありますが、昭和初期から急に鰊が来たり来なかったりで翻弄されたのは間違いないようです。 1934年7月に会社(大日本果汁)を設立し、その秋の収穫期からリンゴジュースの製造を始めました。 ドラマでは1933年からリンゴジュースを製造してますが、そんなに早くスタートはできないと思います。 寿屋の工場(横浜のビール工場)で働いていた技術者5名と地元の20名の25名の社員でスタートしました。 資本金は10万円で、現在の3億弱くらいだと思いますが、土地代・建築費・機械代などで10万円近く必要で、原料などの仕入や人件費などの費用が不足し、銀行から借り入れました。 ウイスキーの出荷をするまでの間に10万円の増資をし、住友銀行から100万円借りたそうですが、よく銀行が100万円(現在の20億円くらい)も貸してくれたものです。 リンゴジュースは1935年5月から販売を開始しました。冬場は売れないと思ってのことでしょうか? しかし、価格が高いのが災いし、あまり売れなかったそうです。 当時、ラムネが6銭、サイダーが10銭だったのに、日果林檎ジュースは30銭もしたのです。 現在の600円くらいに相当すると思います。 (ドラマではラムネ6銭、サイダー20銭、リンゴジュース30銭とされていましたね) また、当時のリンゴは酸味が強く、酸っぱくて飲みにくいと感じた消費者も多かったとか。 当初、竹鶴さんは単身赴任でしたが、1935年に自宅を建て、鎌倉に留まっていたリタさんは9月から余市で暮らすようになりました。 ドラマでは1933年にはすでにリタさんが余市に住んでいますね。
2015年02月01日
帰国して最初に住んだのは帝塚山。 帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から住吉区北西部にまたがる地区ですが、新居も勤め先の摂津酒造も住吉区帝塚山東だったそうで、長居スタジアムから西に2㎞くらいの場所です。 借家の家賃は55円で、現在の16万円くらいになりますが、月給は150円で、現在の44万くらいだったから無理なく支払うことができたようです。 ドラマで描かれていたように、摂津酒造は大戦後の不景気の影響でウイスキー事業を始めることができず、竹鶴さんは模造ウイスキー造りに嫌気がさして、1922年春に退職しました。 ドラマでは退職後、なかなか仕事が見つからず、飲食店で皿洗いや芋の皮むきなどをして家賃もろくに払えないと描かれていましたが、実際は桃山中学で化学の教師をやっていました。 (ドラマでは確かに化学の教職の誘いがありましたが辞退してますよね) 桃山中学は英国伝道協会が設立したので校長は英国人だったようで、校長婦人(たぶん英国人)とリタさんが仲良くなっていた関係で、教職の話になったようです。 教職を始めて1年の1923年春、寿屋の鳥居社長がヘッドハンティングし、その年の6月に竹鶴さんは寿屋に入社し、念願のウイスキー造りに従事することができました。 年俸はドラマと同じく4000円。 現在の1200万円くらいの破格な高給です。 1929年(昭和4年)4月1日、最初に出荷したウイスキーは、ドラマでは煙臭くて不評でしたが、実際もピートを焚きすぎたのか、相当不味い代物だったみたいです。 当時ジョニ赤が5円だったところ、1割安いだけの4円50銭。 現在の1万3千円くらいになります。 かなり味の差があって値段がわずかな差なら、ぼったくりかも。 実際、ドラマと同じく、あまり売れなかったようです。 味が悪かったのは熟成期間が短いのと、ピートを焚きすぎてしまった他に、スコットランドではビールの廃酵母を使っているので、同じく廃酵母を使ったものの、イギリスのビールはエール(上面発酵)に対して日本のビールはラガー(下面発酵)の違いがあるので、純粋培養酵母を使う必要があったとか。 大量の在庫を抱えたわけですが、他の商品なら「不良在庫」になるわけですが、ウイスキーの場合は熟成してより良い商品になるわけで「優良在庫」に変身するものの、資金繰りは相当厳しかったようですね。 戦争の影響でスコッチの輸入が途絶えた1940年頃には飛ぶように売れるようになったそうです。 1930年に養女・リマさんを迎えていますが、どうも折り合いが悪かったのか、自伝には養子は威氏のことしか触れらていないなど、あまりリマさんのことは知られていなく、竹鶴さんに関するwikiも、少し前まで記載がなく、私も養女がいたことを知りませんでした。 彼女に関してはこれくらいしかわかりません。 ご尊命なら現在80代半ばだと思いますが、どうされているのでしょうか。 寿屋の長男を預かって帝王教育をしたのはドラマと同じで、1931年には竹鶴夫妻とリマさん、鳥居吉太郎の4人でスコットランドへ行っていますね。 その後、ドラマでは確かに事実と同じく横浜のビール工場の工場長になるのですが、横浜や鎌倉に引っ越すことが描かれてなかったですよね。 寿屋の横浜にある67万円(一説では100万円強)で買ったビール工場を300万円以上で売却し、現在の貨幣価値では数十億円も転がり込んできたので、やっと資金繰りが落ち着いたのですが、工場長の竹鶴さんに一言も相談がなく売却したので不信感が募り、1934年(昭和9年)3月1日に退職しました。 1934年(昭和9年)4月に竹鶴さんは余市へ行きました。 最初は水質が良く、石狩川河畔にピートがあって石炭の産地が近い江別を工場建設地の候補にしていたけど、石狩川が氾濫して洪水が良く起こるのを知って、余市に変更したそうです。 江別はウイスキーの里になりそこねましたね。 江別には悪臭を放つ製紙工場があるので(1908年創業)水害がなくてもやはり江別は断念したかも知れませんね。
2015年01月31日
竹鶴さんはグラスゴー大学の応用化学科へ入学しました。 事前に入学可能かなどを確認してなかったものの、イギリスの大学は、外国人であっても高卒以上であれば入れてもらえるとのことなので、大阪高等工業専門学校へ行って英文の卒業証明書を作成してもらい、それを持参して行きました。 新学期はとっくに過ぎていたけど、聴講生としてすぐに学ぶことができました。 先月お亡くなりになられた息子さんのエッセイで、グラスゴー大学のことがこちらにあります。 5か月間、アメリカにいたおかげで、英語には不自由しなかったようです。 というか、米語ではなく英語なので、とてもよく聞き取れたようです。 大学で最初の講義のとき、教授が「新顔のミスタータケツルですね。君はスペイン人かね?」 「日本人です」で、珍しい東洋からの聴講生に学生たちは驚いた様子だったとか。 すでに大阪で醸造学を学んでいたので、大学の講義は知っていることばかり。 ウイスキー製造の講義はありません。 やはり工場での実地見学が欠かせません。 大学教授は見学できる工場を紹介すると約束はしてくれたものの、なかなかOKの連絡が来ません。 4月になっても音沙汰がないので、意を決してウイスキー製造についての本を書いた権威を訪ね、教えてもらおうとしたところ、法外な謝礼を要求され断念。 その謝礼は現在の日本円では、最初の月が約100万円、次の月から毎月75万円、工場へは100万円(1回だけ)という金額でした。 そこで、アポなしで工場を当たってみることにし、ロングモーンという町の蒸留所へ行ったところ、実習を許されました。 こちらにそのことが記されています。 夏は大学も蒸留所も休みになるので、フランスへ渡り、ボルドーで1ヶ月間、ワイナリーを見学し、リタへは香水をお土産に買ったそうです。 リタは婚約者がいたけど、第一次大戦で戦死しているのですね。 ダマスカスで亡くなったということですから、映画・アラビアのロレンスで有名になったロレンス中佐の部下だったのでしょう。 1920年1月8日、竹鶴さんとリタさんは結婚しました。 結婚してからはキャンベルタウンという、余市と同じく鰊とウイスキーで栄えた町に住み、ヘーゼルバーン蒸留所で実習をしました。 ヘーゼルバーン蒸留所についてはこちらを参考に。 スコッチウイスキーがスコットランド以外で人気が出たのはそう古い話ではなく、1880年くらいからだとか。 1831年に連続蒸留器が発明され、大量生産できるようになったのと、イングランドではビール・ワイン・ブランディーが主に飲まれていたけど、19世紀半ばにフランスのブドウ園に病虫害が蔓延して供給不足になったのがきっかけで、スコッチがイングランドでも飲まれるようになったそうで、ウイスキーが世界に広がってからまだ40年くらいしか経ってない頃に竹鶴さんが渡英したことになるようです。 1920年11月、アメリカ経由(シアトルから船)で竹鶴夫妻は横浜港大桟橋に着きました。 運賃や日数などは記されていませんが、往路の1918年のときと同じくらい(太平洋航路は3等で84円)でしょうか。 ただ、1937年(昭和12年)の横浜シアトル間の氷川丸の運賃は1等 250円、2等 130円、3等洋食 95円 3等華食 75円 3等和食 60円となっていて、今の貨幣価値では3等和食は15万円くらいです。 船舶会社の競争が激しくなって価格が下がっていったので、復路は往路より、ちょっと安くなっていたかも知れません。 船には摂津酒造の社長も一緒に乗っていました。 欧州視察旅行をし、竹鶴夫妻と一緒に乗っていたのです。 このあたりはドラマと大きく違いますね。 結婚したことは事前に手紙で関係者に知らしています。当然ですね。 ドラマでは帰国するまで誰も結婚を知らなかったことになっていますが、いくら面白くする脚色とはいえ、あまりに不自然なストーリーですよね。 大桟橋には妹や摂津酒造東京駐在員などが出迎え、その晩は摂津酒造の東京宿舎で帰朝歓迎の宴を開いたそうです。
2015年01月30日
竹鶴さんが日本を発ったのは1918年(大正7年)6月29日。 神戸からサンフランシスコ行きの船に乗りました。 メリケン波止場には摂津酒造のスタッフ一同と、母や鳥居さん、山本為三郎さん(のちのアサヒビール社長)などが見送りに来たとか。 なぜスエズ経由の船ではなくアメリカ経由にしたかは、中学の先輩で、カリフォルニアで苺栽培をやっている人が一時帰国していて、その人が、ワイナリーを見学できるよう紹介するとのことでアメリカ経由にしたとか。 船賃は1等が415円、2等が207.5円、3等が84円。 教員の初任給が15円、大工の日当が1.5円なので、現在は8000倍とすると、1等が332万円、2等が166万、3等が67.2万円になります。 何等に乗船したのか書かれていませんが、3等ですよね。 船旅は20日間で1918年7月19日にサンフランシスコへ到着。 (「20日間」との表現ですけど、日付変更線を通るから、21泊22日になるような気もします) アメリカでの最初の買い物は90セントのワイシャツ。 当時1ドルが2円だったので、1円80銭ですが、今の貨幣価値では1万4千円くらいになるはずです。 アメリカの物価は日本の数倍ということになりそうです。 当時の経済力の差を考えると、そんなものでしょう。 サクラメントに1ヶ月滞在したそうで、日中はワイナリー見学、夜間は英語の勉強をしたそうです。 英語に自信があったのに、アメリカに着いたら聞き取れないし、通じなく、愕然としたそうです。 サクラメントに1ヶ月滞在してニューヨークへ移動し、イギリスへの船の予約とビザの申請をしました。 新学期に間に合わせようとの考えだったのですが、しかし、第一次大戦がまだ続いていた関係で、なかなかビザが下りず、約3か月後の11月に大戦が終結し、ビザが発給され、12月にリバプール行の船に乗りました。 スエズ経由を選択したら、もっと早く行けたのかも知れませんが、アメリカで語学力を高めることができてよかったかも知れませんね。 スエズ経由で行っていたら、フランスで足止めくらったかも知れません。 ひょっとして、フランス人と結婚し、ブランディーを作るようになったかも。 アメリカ大陸横断鉄道と大西洋航路の運賃と日数を知りたかったのですが、記されていませんでした。 次回はスコットランドでの話を紹介したいと思います。
2015年01月29日
私が竹鶴夫妻に興味を持つようになったのは、15年ほど前のことです。 知人を余市のニッカの工場へお連れしたところ、マッサンとリタのロマンスに凄く感動したのです。 その日は札幌から車でニセコへ移動したのですが、途中に綺麗なトイレがあって禁煙でお茶が飲める場所ということで寄っただけで、今なら余市ワイナリーに寄ったと思います。 15年前は禁煙でお茶が飲めるところはほとんどなく、タバコが苦手な私にとって、リタハウスは貴重な存在でした。 そんな、ついでの工場見学だったのですが、とても喜んでもらったため、マッサンとリタのロマンスが強く印象に残り、興味をいだくようになったのです。 ドラマが始まると、描かれていることは、どこまでが事実で、どこが創作なのかがとても気になるようになりました。 ネットである程度はわかりますが、情報は限られています。 先日、何気なく本屋で眺めていたら「ヒゲのウヰスキー誕生す」という本があったので、つい買ってしまいました。 多少は想像で描いた部分はあるとは思いますが、ほぼ、事実に相違ない内容だと思います。 興味深かった点などを紹介したいと思います。 竹鶴さんは大阪高等工業専門学校を卒業する1916年3月に摂津酒造に入社し、初任給は23円。当時の教員の初任給の倍近くで、大工の日当の約20日分なので、現在の貨幣価値では25万円くらいの、新人にしては、ちょっとした高給のようです。 このころ、日本各地でワインの瓶の破裂事故が発生していたものの、竹鶴さんが製造担当した赤玉ポートワインは、適切に殺菌作業が行われていたため、1本も破裂せず、寿屋の社長も喜んでいたようで、高給に恥ずかしくない仕事をしたのではないかと思います。 なお、ドラマでは太陽ワインも売り上げがガタ落ちになっていましたが、実際は破裂を起こしたライバル社の蜂印葡萄酒が売れなくなった分、寿屋の赤玉ポートワインがシェアを伸ばし、特需に沸いたようです。 当時、竹鶴さんは大阪で母と妹と3人で暮らしていたようです。 ドラマでは、母は広島を出たことがないと言っていたような気がするのですが。 その年の12月に徴兵検査があり、検査官がアルコール製造従事を知り「アルコールは火薬製造の重要な原料だから今後もお国のために精々仕事に励むように」ということで徴兵されずに済みました。 明日はスコットランドへ渡る話を紹介したいと思います。
2015年01月28日
ジャンプのハーフタイムにウインタースポーツミュージアムへ行きました。 札幌オリンピックの紹介が多いですね。 70メートル級でメダル独占したとき、3人が使っていた板です。西ドイツ製です。世界ノルディックの札幌ドーム会場の様子。日本でスケートを普及させたのは新渡戸稲造さんなんですね。フィギュアスケート発祥の地は仙台ですけど、スピードスケートは札幌なんですね。諏訪湖が良いスケート場になるようですが、名古屋でスケートが盛んになったのは、その影響でしょうか。 それから、スケートの語源はオランダ語で竹馬を意味する言葉だとか。 勉強になりました。 スキーやスケートの資料は多いのですが、カーリングはまだこれしかありません。 今後、増えて行くと思います。
2015年01月27日
25日は大倉山へ行きました。 円山公園バスターミナルから随時、シャトルバスが出ています。動物園バス停でも乗降可でした。 天気がよかったこともあり、6000人も訪れました。全然寒くなかったです。どこかで見たことあるビジョンですね。斜面に行ってみたのですが、ここからはアプローチが見えません。一番先まで行けば見えるかな。ここで見るのがいいようです。ここならビジョンも近いし。ランディングバーンの横にいる人は、多くはカメラマンです。昔は計測員がずらっと並び、飛距離を測っていましたよね。 今は器械が測るのでしょうね。 2階のレストランでジンギスカンを食べながら見るのもいいかも。外国人も多く見かけました。ポーランドの人ですね。こちらもポーランドサポーター。残念ながら日本人は伊東大貴の6位が最高で、葛西は8位でした。
2015年01月26日
24日に複合を見ました。後半のクロスカントリーだけですけど。 大谷地から白旗山まで無料のバスが出ていました。白旗山といえば、ヤンツーさんのころだったか、夏場はコンサがときどき練習してましたよね。 和寒出身の加藤大平選手の応援で、和寒から30人くらい来ていました。 滑っている選手は、競技開始前のウォーミングアップです。スタート10分前に試走の5人が滑ります。恵庭高校の高校生5人で、そのうち3人は女子でした。後ろはスタート地点へ向かう選手。試走は2.5㎞のコース1周ですが、本番は4周します。 大倉山で行われたジャンプで、渡部善斗選手は4位でしたが、クロスカントリーで順位を下げてしまいました。しかし、ジャンプで出遅れて11位だった兄・渡部暁人がどんどん順位を上げ、2位でフィニッシュという快挙でした。表彰台はドイツ・日本・アメリカの選手で、北欧やオーストリアの選手がいないのは意外でした。 1位スタートだったオーストリアの選手は4位に落ちてしまいました。 で、問題の加藤選手ですが、ジャンプは出遅れて18位。ちなみに、前日はジャンプが5位だったけど、苦手なクロスカントリーで順位を落として8位だったそうです。背番号18が加藤選手。この日は苦手なクロスカントリーが好調で、順位を上げて10位でフィニッシュしました。ワールドカップと名の付くものを観戦したのは1983年の富良野でのアルペン以来です。 そのときはステンマルクがいました。 アルペンだと一瞬にして目の前を通り過ぎるし、コースからかなり離れた場所での観戦になってしまいますが、クロスカントリーはコースの直ぐ脇で見ることができるのが良かったです。
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プロフィール
1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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