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1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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2012年01月23日
まず、チューリヒの写真を追加します。駅前です。露天のエスカレーターに驚きました。日本では必ず屋根が付いていますが、日本は雨が多いからでしょうか。 フランスやスペインも露天のエスカレーターを多く見かけました。 さて、1982年3月15日。欧州旅行第2日目です。 インターラーケンのホテルに泊まったとなると、スイスをある程度知っている人は「ユングフラウへ行くのだな」と思うことでしょう。 でも、当時はユングフラウという、牛乳を混ぜて冷凍庫へ入れるとアイスクリームになる製品のCMがあり、「ホイップして♪ホイップして♪ユウグフラ~ウ~♪」が有名だったので、なんだかミーハーな気がしたし、きっと日本人が大勢いるだろうし、ユーレールパス(欧州鉄道乗り放題パス)は使えなくて運賃がかなり高いこともあるし、モンブランは行く予定ということもあって、ここは諦めて世界遺産のベルンや鉄道博物館などを見ることにしました。 インターラーケン南駅です。ここからベルンまで1時間です。 ベルンの町全体が世界遺産です。ベルン大聖堂。ベルンでは怪しいおっさんがいました。 スリか、目を離した空きに鞄を盗むとかではないかと用心して、視線を離さないようにしたら、消えて行きました。 スイスはヨーロッパで最も治安の良い国のはずなのに、これではあとで行くフランスやスペインはどうなのか、ちょっと先が思いやられます。 実際、パリとバルセロナではスリや置き引き等になんども狙われました。(全て被害はありませんでしたが) ベルンの次はミュルーズへ行きました。 ミュルーズはバーゼル(中田浩二がプレーした町)の隣町で、フランスになります。 ベルンからバーゼルまでは1時間ちょっと。バーゼルで乗り換え、20分くらいでミュルーズに着きます。 ミュルーズはアルザス地方なので、ドイツ領になったりフランス領になったりした土地(小説「最後の授業」の舞台)ですが、アルザスでも最もスイスよりのミュルーズは、かつては神聖ローマ帝国だったし、その後はジュネーブとともにスイスと同盟関係を結ぶ小国だったり、なにかと複雑なのはヨーロッパらしいですね。 で、ミュルーズでは鉄道博物館へ行きましたが、写真がないので絵はがきです。![]()
1927年製、直流1500ボルトの電気機関車です。 ミュルーズにはバーゼル空港があります。 旭川空港が旭川になくて東神楽町にあるし、大阪空港の敷地の多くは兵庫県にあるし、新東京国際空港は千葉県にありますが、国境を越えて空港があるのは凄いですよね。 バーゼルに戻ったのは夕刻で、その晩はホテル代を浮かすためにバルセロナまで夜行列車に乗ります。 バーゼル17:59発で、ジュネーブ、リヨン、アヴィニョンを経由してバルセロナへ行く列車に乗りました。 875km、15時間40分の長丁場です。
2012年01月22日
1982年3月14日の正午頃、飛行機がチューリヒに着き、ここから欧州鉄道の旅が始まります。 チューリヒ空港からスイス国鉄でチューリヒ中央駅へ行きました。(現在は路面電車も空港まで乗り入れしているようです)チューリヒ中央駅はヨーロッパに多い、行き止まりの駅です。ドーム屋根もそれらしい雰囲気ですね。この日は宿泊地のインターラーケンまでの移動だけなんですが、チューリヒで乗り換えに時間があったので、駅前を散策してみました。 路面電車がとまっていたので乗ってみようと思ったら、ポイントのところで脱線して立ち往生していました。この写真ではわからないと思いますが、一番前の車輪が左折のレールに乗り、二番目の車輪が直進のレールに乗ってしまって動けないのです。 仕方なく駅近くをぶらぶらすることにしましたが、とても驚きました。 いくら日曜とはいえ、町が静かなんです。 金融の中心地で、とても賑わっていると思っていたのに、都会の喧噪は全くありません。 日本だとチリ紙交換や街頭放送など、何かとやかましいものですが、本当に静かで感心しました。 日本が異常なんだと思います。選挙の街宣もやめてほしいものです。 チューリヒから40分ほどのルツェルンでインターラーケン行きに乗り換えました。 とてもマイナーな路線で、以前紹介したことのある写真ですが、こんなスイスらしいところを2時間走ります。ベルン経由の幹線ルートもあるのですが、あえてスイスを満喫するためにこのルートにしたのです。 途中、ブリエンツにも停車します。 ブリエンツからは大井川鉄道と姉妹提携しているブリエンツ・ロートホルン鉄道がありますが、残念ながら冬場は営業していません。 アブト式のSL保存運転をやっているので、いつか乗ってみたいです。 シーズンオフ(スキーシーズンではあるけど)なので列車はがらがらだし、本当にこの列車がインターラーケンに着くのか不安になりましたが、無事目的地に着き、ホテルもとれ、めでたくヨーロッパ初日は終わりました。
2012年01月21日
私が海外旅行したのは1981年のサイパン、1982年と1985年のヨーロッパの3回です。 今日から10回くらいに渡って1982年の旅行記を書こうと思います。 1982年3月13日に伊丹発成田・アンカレッジ経由ヒースロウ行きのブリティッシュ・エアウェイズのジャンボ機に友人と2人で乗りました。 なぜか成田からではなく伊丹から乗りました。 当時、欧州路線の多くは北回り、つまりアンカレッジ経由でソ連を避ける北極ルートでした。 今は全てロシア上空を通るから、成田からロンドンまでは12時間くらいで着きますが、北回りだと16時間半、伊丹からだと18時間50分もかかります。 伊丹を晩に出て、成田に寄ってから、日本時間で翌早朝にアンカレッジに寄港しました。アンカレッジ時間は前日の午後の早い時間帯で、なんだか変な気分。 アンカレッジ空港ターミナルを散策して気分転換しました。 ターミナル内だけで入国手続きとかはしなかったものの、私の唯一のアメリカ体験でした。(1981年のサイパンは、まだアメリカの準州になる前なので) アンカレッジを出ると、大雪原に蛇行した大河が流れるだけで、他に何もない(人工物は皆無)の景色がずっと続きます。 同じ所をぐるぐる飛んでいるのかと思うくらい、1時間以上飛んでも全く景色が変わらず、スケールの大きさに驚愕しました。 やがて日没しました。 外が真っ暗になったと思ったら、なにやら不思議なものが見えてきました。 オーロラです。 オーロラが見えるなんて思ってもなかったのでびっくりしました。 本当に素晴らしいものでした。私が50年以上の人生で、最も素晴らしい景色でした。 こんな素晴らしいものが見れるのに、ほとんど全ての乗客は眠っていました。 機内アナウンスで叩き起こしても良いのではと思いました。 ヒースロウに着いたのは現地時間で早朝。時差ボケというよりは機内泊でちょっと疲れました。 珍しい飛行機が沢山駐機していました。(写真はぶれてます)727に似ていますが、これはトライデントです。 これに乗れたらいいと期待したのですが、乗り換えのチューリヒ行きの便は737でした。 乗り換えたチューリヒ行きの飛行機がヒースロウを飛び立つと、まもなくドーバー海峡を渡り、しばらくフランス上空を飛ぶと、大きな町が見えてきました。 もしかして、そうだ!! 翼よ! あれが巴里の灯だ。右の長方形の緑はブローニュの森でしょうか。 その下の放射状になっている道路の中心が凱旋門に違いありません。 凱旋門から左下への道がシャンゼリゼ通りで、その突き当たりの緑はコンコルド広場と宮殿。 その左に弧を描いているのがセーヌ川。 こんなにはっきりパリの町が見える遊覧飛行のサービスに感激でした。 (写真は少し霞がかって見えますが、肉眼では良く見えました) 次回はスイスです。
2012年01月20日
先週、浜頓別へ行ってきました。 この子は人見知りするので、ここでは暗くてストロボを焚いたので目が光ってしまいました。クッチャロ湖には現在400羽のコハクチョウがいます。30年前の欧州旅行の写真を整理しています。 明日から公開できると思います。
2012年01月18日
こんびにさんが凱旋門から見たシャンゼリゼ通りの写真を紹介してくれましたが、私が行った30年前と全然変わってないので驚きました。建物は全然変わってません。もう30年たっても同じなんでしょう。100年後はどうなんでしょうか。高層ビルが建つでしょうか。 さて、フランス語の問題です。 「オー・シャンゼリゼ」の「オー」の意味、知っていますか? (英語じゃありませんから) 30年前のパリ・リヨン駅です。中身が丸見えのエレベーターに驚きました。2階にはレストランがあります。こんびにさんの写真を見ると、改装して少し変わりましたが、全体の雰囲気は同じだと思いました。 ジュネーブからこの列車に乗って、着いたのがリヨン駅だったのです。ところで、3月17日はアウェイだろうと思い、J1は関東のクラブが多いから、この日のJAL旭川・羽田便を予約していたのですが、キャンセルしました。(神戸には行きません) せっかくクラスJがとれたのに。(週末の旭川便は売り出しと同時にクラJが売り切れになるので、なかなか取れないのです)
2012年01月13日
私はクリスチャンではないから嫌ってはいませんが、今日は13日の金曜日。 以前、オオドサが「13日の金曜日が必ず年1回以上出現する事を証明せよ」の問題を出したことがありました。 平均すると1年に1.71回あるわけで、1年に1回か2回あるのが普通です。 で、3回以上ある年があるのかと思いましたが、上記の問題で私が出した回答を12月まで延長すればわかります。 まず、うるう年でない年から。 xを金曜、x+1を土曜、x+2を日曜(以下省略)とすると、 1月13日がxなら 2月13日はx+3 3月13日はx+3 4月13日はx+6 5月13日はx+1 6月13日はx+4 7月13日はx+6 8月13日はx+2 9月13日はx+5 10月13日はx 11月13日はx+3 12月13日はx+5 従って、2月13日が金曜日なら年に3回あります。(4回以上はなし) 次にうるう年です。 1月13日がxなら 2月13日はx+3 3月13日はx+4 4月13日はx 5月13日はx+2 6月13日はx+5 7月13日はx 8月13日はx+3 9月13日はx+6 10月13日はx+1 11月13日はx+4 12月13日はx+6 従って、1月13日が金曜なら、年に3回あります。(4回以上はなし) つまり、今年は平均7年に1回しかない13日金曜日が3回ある年です。
2012年01月12日
飛行機がぜいたくなものだった時代、道外へ出るときや北海道へ戻るときは青函連絡船だったから、私の世代以上の道産子にとって津軽海峡はノスタルジーを感じるものです。 初めて青函連絡船に乗ったのは高校の修学旅行。大学生のときもよく乗りました。(新潟の大学だったので) 連絡船は海峡を横断しますが、今回乗ったフェリーは秋田発苫小牧行きなので縦断です。 強風で舷側のデッキは立入禁止でしたが、後ろの甲板には出れました。意外といい天気でした。 オオドサが親子の写真を撮ってあげてました。このフェリーで思い出すのは5年前の5月の連休に富山に行った際、行きの苫小牧から新潟まで乗った船内でザスパ戦の速報を見て(ダヴィが先制したけど逆転負け)がっかりしたけど、帰りはベガルタ戦の結果(ソダンのゴールで1-0)を船内で見て喜んだことです。 大間岬建設中の大間原発みたいです。建設中止してほしいものです。
2012年01月11日
旅行は、その土地の美味しいものを食べるのが楽しみです。 でも今回の三陸めぐりは正月だからやってない店も多いだろうし、被災地でもあるし、さらに過密日程ということもあって期待はしていませんでした。 どうせ大晦日に札幌でご馳走を食べるのだし、コンビニで何か買って食べるのでも良いと思ってました。 それでも、1月2日の晩は宮古の国民休暇村に泊まり、ちょっとだけご馳走が食べれるかと思っていたのですが、3日の八戸発のフェリーがとれなく(2等しかなく)、秋田発のフェリーに予定を変えたため、休暇村はキャンセルし、晩遅くに秋田のホテルに着く行程のため、完全にご馳走が食べれない旅だと思っていました。 で、1月2日の昼ご飯ですが、コンビニのサンドイッチを想像していたのですが、大船渡の道の駅のレストランが営業していました。(先日紹介した猫のいる道の駅) 3が日だけ1日20食限定の寿司セットがありました。アワビ付きは三陸らしいけど、エビは生でないのか。 新潟も茹でエビが普通だったけど、鳥取の回転寿司は生エビあったなぁ。 そのレストランのTVはアナログでした。どうってことない? (笑 3月31日までアナログ放送やるのですね。晩ご飯は、できたら盛岡で、わんこ蕎麦を食べたいと思ったのですが、翌朝は早く起きないといけないし、コンビニでも良いと思ったものの、東北道のサービスエリアなら、少しまともなものが食べれるかと思い、花巻近くの紫波サービスエリアに行ったら、レストランが営業していました。 ラー油とブラックペッパーの辛いタレに付けて食べる蕎麦がありました。普通の蕎麦が食べたかったのですが、これしかないようでした。 太くて黒い蕎麦にひかれてオーダーしたのですが、茹ですぎだし、辛いタレはやっぱり好きになれません。 でも、レストランで落ち着いて食事できるだけでもありがたいと思いました。 おかげで疲れもとれ、秋田まで1時間半、快適に運転できました。 秋田からの新日本海フェリーのランチバイキング、1200円。ラーメンは茹で置き、スパゲティーはアルデンテではないし、食器は樹脂製だし、これで1200円は割高感ありますが、仕方ないですね。カレーは美味しかったけど。 お客は子ども連ればかり。幼児無料だから子ども連れなら割高感ないかも。 でも、大海原を見ながらクラシックで乾杯できるのも良いものです。 船はほとんど揺れず、15分くらい遅れただけで無事苫小牧東港に着きました。 ところで、おみやげにホヤの薫製を買おうと思ったけど、どこにも売ってなくて残念。 大宮駅のキオスクで売っているのですけどね。
2012年01月10日
オオドサも紹介してますが、日本三大鍾乳洞の龍泉洞に28年ぶりに行きました。前回行ったのは三陸鉄道が開業した年でした。この鍾乳洞の見所は、鍾乳石ではなく地底湖なんです。 潜水調査をやっていて、ちょうど潜行開始するところでした。写真ではよくわかりませんが、綺麗で神秘的な湖です。 洞内の気温はいつも10度くらいだそうで、夏は涼しく、冬は暖かいのですが、たしかに寒くなかったです。お土産に龍泉洞ビール、龍泉洞サイダー、龍泉洞の水、龍泉洞の純米酒を買いました。ビールと酒は、かなり辛口でした。 龍泉洞近くの岩泉駅はJR岩泉線の終点ですが、一昨年の水害で運休したままです。このまま廃止になるかも知れません。
2012年01月09日
被災地見学は田老が最後です。 今回、知人を訪ねたのは石巻ですが、それ以外の被災地訪問は単なる見学なので、道路の渋滞等で迷惑かけるのも考えものだし、自粛するべきか悩みましたが、正月で復旧工事等は休みだろうし、むしろ飲食や土産物の購入とかで支援になると思いました。 宮古市の旧田老町は、1984年に行った想い出の地で、そのときお世話になった旅館がどうなっているか、とても気になっていて、被災地で最も行きたかった場所です。 田老は明治三陸津波や昭和三陸津波で甚大な被害が起こった地です。 どんだけひどい被害があったのかはこちらをご覧下さい。 そんな地区なので、標高10メートルの防潮堤を建設しました。 ご自慢の防潮堤は2重に設置し、チリ津波のときは町に全く被害を出さず、海外でも有名になったそうです。 しかし、昭和三陸津波程度を想定したのか、今回の津波は防潮堤を大きく越え、しかも防潮堤自体が倒壊してしまいました。二重にある防潮堤の山側の(奥の方)は壊れなかったものの、手前は流されているのがわかりますね。 水門部分を残して流されて消えた防潮堤。ちなみに、水門を閉じに来て犠牲になった消防団員もいるそうです。 水門は遠隔操作できないといけませんよね。 それ以外にも、避難を呼びかけて犠牲になった関係者も少なくないそうです。 避難は自主的にするのが鉄則で、見回りに来た人に呼びかけられてからでは遅かったり、見回りに来た人が危険になったりしますから、呼びかけは防災無線等にすべきだし、住民も、きちんと情報収集して自ら行動をしないといけませんね。 今回の反省で、今後は警察・消防等も一旦は避難しようということが各地で話し合われているようです。 防潮堤はあと6~7メートル高かったらよかったのでしょうか。この防潮堤があるからと安心して避難せず犠牲になった人もいるそうです。 かえって人的被害を大きくしたのかも知れません。 さて、それで以前泊まった旅館はどうなったか、町の中心部に行ってみたのですが、志津川や陸前高田の中心部と同様、ほとんど更地になっていて、残った建物は小学校と中学校だけで、旅館はあとかたもなくなっていました。 呆然として写真を撮ることも忘れた、というか撮る気にならなかったです。 その旅館の老夫婦や若旦那は無事だったのか心配です。 旅館の食事は、とてもホヤが美味しかったのが印象に強く残っています。 町が復興したら美味しいホヤを食べに行きたいです。
2012年01月08日
岩手県大槌町役場です。 町長以下数十人の町職員が、ここで犠牲になりました。地震直後、対策本部を庁舎内に設置したけど余震がひどく、駐車場に移したら大津波警報が出て、2階に避難したけど津波にのまれたそうです。 海の直ぐそばで、標高が数メートルくらいしかない場所なんですから、迅速に高台に避難してほしかったですね。 そもそも役場がここにあるは危険なんですから、せめて5階建て以上にしてほしかったですね。 この町は住民の1割以上が犠牲になったそうで、他の市町村よりも犠牲者の割合が高いようです。 いつかまた来る大津波では犠牲者を出さないよう、しっかり対策をとってほしいです。 釜石湾です。木がじゃまで見えにくいですが、湾をまたぐ大規模な防波堤がありますが、半分は倒壊してしまいました。この防波堤のおかげで、被害をある程度少なくできたそうですが、1200億もかかったので、費用対効果はどうなのか気になるところです。 数百億円かけて修復するそうですが、弱かった構造の原因がわかったそうですから、次に来る大津波では、今回よりも威力を発揮してくれるといいですね。 釜石は津波に対する防災意識が高いそうで、「津波てんでんこ」という言い伝えが浸透しているそうです。 家族が合流してから一緒に避難すると時間がかかって間に合わなくなるから、それぞれがまっしぐらに逃げろということで「てんでんばらばらに避難」という意味だそうです。 市民への教育での3原則は、<1、想定を信じるな>< 2、状況下で最善をつくせ>< 3、率先避難者になれ>だそうです。 今回は「釜石の奇跡」と言われましたが、学校管理下にある児童生徒約3000人は全員無事だったそうです。 最も注目されたのは鵜住居小学校で、児童は一旦学校3階に集まったものの、隣の釜石東中学校の生徒が校庭に駆けだしたのを見て、教師の指示を待たずに自ら校庭へ出て、普段から一緒に避難訓練している中学校の生徒と合流して高台へ避難し、間一髪で難を逃れたのです。
2012年01月08日
岩手県大船渡市の道の駅さんりくにいました。 大船渡市と合併する前は三陸町だった場所です。猫にえさをやらないで下さいと書いてありました。オオドサも紹介してますが、義妹が預かっている猫。外の空気を吸わせてみました。大阪生まれは寒さに弱い?風呂の残り湯が美味い (笑
2012年01月07日
陸前高田市は千昌夫の出身地なので、町の規模(2万3千人)の割には少し知名度があるような気もしてましたが(最近の若い人は千昌夫を知らない人が多いでしょうけど)、震災で大きく報道されて有名になりましたね。 ここが陸前高田市の中心部とは信じられません。志津川も衝撃的でしたが、もっとひどいありさまに絶句しました。 中心部から南東方向です。北東方向。西方向。500メートル先に駅があったはずですが見えません。奥の白い建物は県立高田病院だと思います。 最上階の4階まで浸水しましたが、大半の人は屋上に避難して救助されましたが、入院患者51人中12人とスタッフ82人中8人が犠牲になったそうです。 病院は別の場所の仮設で診療しているそうです。 南方向。 唯一の高層建築物と言われる(正しくは中層かな)、千昌夫が建てたキャピトルホテルです。 休業中です。3階の天井まで水に浸かったそうです。 陸前高田市役所。3階まで浸水し、屋上にいた約100人はヘリで救助されました。 市役所は現在1km内陸の仮庁舎を使っています。オオドサも紹介してますが、市役所向かいにある市民会館です。正面玄関から。ここは避難所になっているのに3階の天井近くまで浸水し、多くの犠牲者がでました。 陸前高田市の中心部には13カ所の避難所があり、そのうち8カ所が浸水したそうです。 4月14日の道新ですが、標高の低い場所にある建物を避難所にして犠牲者がでたことに触れています。高田高校には約250人の生徒が残っていたけど、すぐに裏の高台にあるグラウンドに避難して無事だったが、水泳部の9人は市民プールにいて、職員に車で避難所の市民会館まで送ってくれたとのこと。しかし津波がきて7名が犠牲になったそうです。遺族の親は「市民会館よりも近い高校に送ってくれれば」。 同様に、ある中学校の野球部員8人はプール近くの商業施設の係員に誘導されて市民会館から400メートル離れた体育館に向かったものの、全員が犠牲になったそうです。 その商業施設にいた地元の76歳の男性は自分で決めていた高台に避難して無事で、「あんな低い場所は危ないと思っていた」と、市民会館や体育館が避難所になっていることに普段から疑問だったとか。 このたびの震災で、しばしば「想定外」との言葉が使われましたが、想定が甘かったということです。 指定された場所に避難して津波の犠牲になるなんて、1000年に1回クラスのなら仕方ないかも知れませんが、100年に1回クラスでは残念でなりません。 明治三陸津波や昭和三陸津波を基準に想定すべきなのに、チリ地震の津波を想定することが多かったようです。福島第一は完全にそうですよね。
2012年01月06日
オオドサと重複する写真もありますが(普段は重複しないよう気を付けていますが)、記録として残しておきたいのでご容赦願います。 南三陸町の戸倉という集落(旧戸倉村)ですが、志津川と同じ湾に面しているため、ここも壊滅的被害を受け、地盤沈下して、まだ水が引いてません。野鳥の楽園になっているのは皮肉な感じもして、余計悲しいですね。このあたりにあったはずの戸倉小学校は全壊し、廃校になった登米市の校舎を借りて授業をやっているそうですが、一番遠い児童はスクールバスで1時間もかかるそうです。 戸倉小学校の体育館は震災10日前に完成したばかりでした。 戸倉駅付近の線路(JR気仙沼線)はこんな様子。トンネルの先は線路の路盤のほとんどが流されています。志津川の松原公園で保存していたSL。この公園で遊んだ子どもの想い出のSLだと思いますが、スクラップにされるのでしょうか。 公立志津川病院の仮設診療所です。イスラエル軍が医療活動をやっていたプレハブです。入院患者は登米市の病院施設を借りて収容しています。 南三陸町は志津川町と歌津町が合併した町ですが、歌津の中心部も壊滅的被害で、国道45号の橋桁はほとんとが流されています。ここが歌津で一番の繁華街だった場所で、橋は45号バイパス。手前の道路は旧45号だと思います。 9月に見学した臨床心理士がやっているカフェ(集会所としても機能)は、冬は寒くないようにしてオープンしていました。
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