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2023年07月14日

ラスト厚別

私が初めて厚別で観戦したのは2001年10月17日の広島戦でした。平日のナイトゲームで職場から駆けつけ、播戸とウイルのゴールでリードしながら、明らかな誤審のPKなどで一時追い付かれるものの、播戸とウイルがそれぞれ2点目を決めて4-2で勝ったことを覚えています。以来、可能な限り参戦し、選手たちやサポーターとともに喜怒哀楽を共にしてきました。2003年からはシーズンシートを買い、転勤中以外はほとんどの試合を観てきました。寒い日も暑い日もありました。雨風に震えたことも忘れられません。通算7年半、単身赴任したのですが、岩見沢と苫小牧はほとんど試合に通い、唯一、中標津に赴任した3年間だけは観ることができなかった試合が少なくなく、特に2009年8月5日の福岡戦で上里一将がハーフウェーライン手前から放った超ロングシュートを見逃したのが悔やまれます。この試合はカミさんに行ってもらったのですが、今でもロングシュートが話題になる度にカミさんに「上里の見たよ」と自慢されます。

喜怒哀楽と言っても、悲しい出来事もたくさんありました。観客席からピッチが近いため、負けが続いた時にサポーターから汚いヤジが飛び、選手と口論となったり、監督や強化部長を呼び出したり、興奮したサポーターが飛び降りたり、という暗黒時代がありました。それでも通い続けたのは、やはり喜びを選手、サポーターと分かち合えたからではないでしょうか。テレビ観戦では味わえない感動がそこにあったから通い続けました。

昨日の北海道新聞様朝刊に「聖地・厚別 思い出をありがとう。次に会えるのは3年後、新しい景色も、ともに。」というコピーの全面広告が載っていました。感動の日々を思い起こさせる写真が多数載っていました。3年後には新たな歴史を刻んでいくことでしょう。
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明日は残念ながら雨の予想です。皆さん、雨具を忘れずに結集しましょう。そして、しばしの別れとなる厚別の姿を心に刻もうではありませんか。


posted by papa12 |17:38 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年07月11日

112勝39分58敗

8日の北海道新聞様に掲載された「厚別の風に吹かれて」と題した全面広告で、1996年から昨年までの厚別でのリーグ戦の全勝敗数が載っていました。209試合が行われ、112勝39分58敗と大きく勝ち越しています。それもそのはず、JFLだった96年は9戦9勝、Jリーグ昇格を決める97年は12戦12勝と全勝(当時は引き分けがなく、延長Vゴール方式だったはずです)で、「厚別不敗神話」が生まれたほどです。残念ながら私のこの頃、まだサポーターではなく、室蘭に勤務していたこともあり、厚別で初めて観戦したのは2001年10月だったはずです。厚別の戦績はこの頃の貯金が大きかったほか、札幌ドームではなかなか勝てなかった年も厚別では不思議と勝てたこともありました。
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唯一、J1でぶっちぎりの最下位でJ2降格が決まった2008年だけは8戦で4分4敗と1勝もできませんでした。不敗神話に水を差す結果に終わっています。今季のリーグ戦は15日の新潟戦だけです。来年とさ来年は改修のため使用できませんので、ぜひとも1戦必勝で「厚別不敗神話」を継続させて改修期間に入りたいものです。頑張れ!コンサドーレ!!


posted by papa12 |19:00 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年07月10日

山橋貴史監督

明後日の天皇杯3回戦で対戦するのはヴェルスパ大分というJFLのチームです。今回、その名を初めて知りました。J2の大分トリニータを破って勝ち上がってきて意気上がる相手ですが、何としてもプロの意地を見せつけてほしいと願っています。

山橋貴史監督は札幌出身でコンサドーレにも1997~98年の2シーズン所属した元FW選手です。ただし、私がサポーターになったのは98年のJ1参入決定戦に敗れてからなので、名前だけしか知らない選手です。記録を見ると、97年は19試合出場1得点、98年は出場していません。その後、ベアフット北海道の監督を務めていた時に名前を見たことがありますが、日本代表ユース世代のコーチを経て、2021年からV大分を率いているそうです。どんなサッカーをするのか、まったく分かりません。J1の貫禄を示したいものです。テレビ放送もないので、SNSなどで探して応援したいと思っています。

97年と98年のコンサドーレオフィシャルガイドで小さく紹介されていました。トレーディングカードはコンサドーレではなく、3季所属したC大阪時代に4枚ありました。当時、Vゴール男と呼ばれ、最優秀選手に選ばれた写真を使ったカルビーカードが印象的でした。
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思えば、現役選手引退後に指導者の道へ進んだ人も多数となりました。Jリーグで監督を務めた元所属選手は、コンサドーレで監督になった財前恵一さんをはじめ、高木琢也さん、渡邊晋さん、森下仁志さん、木山隆之さん、冨樫剛一さん、名塚善寛さんらの名前が思い浮かびます。ほかにもいらっしゃるかと思います。これだけ人材を輩出しているのも、クラブが歴史を刻んできたからこそですね。今の選手の中からもきっと進む人がいることでしょう。


posted by papa12 |17:17 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年06月04日

馬鹿試合

いまだに昨日の劇的勝利に浮かれております。5回も歓喜し、4回も失望するという、まさに感情の起伏はジェットコースター状態で、あの興奮を引きずっていますね。

こんなに得点が入った試合を俗に「馬鹿試合」と言われます。ウィキペディアで調べてみると、「主に双方が3点以上を得た場合に使われることが多い」と説明されています。5-4ですから、その上を行くゲームでした。このスコアで思い出すのはJ1だった2002年に札幌ドームで行われた最終戦。すでに降格が決まっていたコンサドーレと、わずかに残留の可能性を残していた広島の戦いは4-4で90分で決着がつかず、当時のルールで延長戦に入り、99分に曽田がハットトリックとなるVゴールを決めて5-4で勝ちました。この試合は生観戦しており、やはり大興奮したことを覚えています。この時は延長戦なので、90分では初めてのスコアと思われます。

一方的にやられた記憶はたくさんあります。0-7の最多失点で2012年の鹿島と2018年の川崎があり2012年にはG大坂に2-7も)、圧倒的に惨敗が多かったですね。逆に最多得点は2019年の清水戦の8-0と、いわゆるサウジスコアで勝ったことがあり、1試合5得点はそれに次ぐ最多得点記録のようです。超攻撃的サッカーが実を結び、いわゆる馬鹿試合ができるようになったということでしょう。

ただ、昨日のヒーローインタビューで駿汰も反省の弁を述べていましたが、あまりに失点が多すぎます。優勝やACL出場を狙うような、本当に強いチームはあえてリスクを負わず、昨日の試合なら2-0、3-0で勝つような試合運びをするのが常道でしょう。しかし、ミシャサッカーは最後の最後まで守りに入らず、リスクを負って得点を狙い続けるものです。従って安定した試合運びができず、上位を目指すのは難しいと言わざるを得ません。それでも、永く続いた暗黒時代を知る者としては、得点が入る今のサッカーは楽しくて仕方ありません。勝ってほしいのはもちろんですが、まずは魅力的なサッカーを続けてほしいと願っています。

posted by papa12 |17:27 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年06月01日

チーム得点王

昨日、チーム最多の8得点を挙げている浅野雄也を取り上げましたが、実は8得点は昨季のチーム得点王だった青木亮太と同じゴール数です。まだシーズンの半分も終わっていませんから、どこまで得点数を伸ばしてくれるのか、楽しみです。また、金子拓郎も7得点で続いていますから、今季のチーム得点王争いはハイレベルな戦いとなりそうです。

ということで、歴代のチーム得点王がどうだったのか、調べてみました(引退した選手も敬称略)。クラブが創設された1996年はJFLで、初代チーム得点王は8得点の川合孝治でした。翌97年はバルデスが40得点でJFL優勝、Jリーグ昇格に導きました。初めてJリーグに挑んだ98年もバルデスが21得点を挙げましたが、あえなく初のJ2降格となりました。99年は吉原宏太が15得点、2000年はエメルソンが31得点のJ2得点王となり、J1昇格を果たします。01年はウィルが24得点でJ1得点王に輝き、初のJ1残留を果たしたものの、翌02年は小倉隆史の7得点が最多では降格もやむを得なかったですね。

J2の03年は堀井岳也が8得点、04年は清野智秋が9得点、05年は池内友彦がDFながら11得点、06年はフッキが25得点、07年はダヴィが17得点でJ1昇格へ押し上げ、J1の翌08年もダヴィが16得点で奮闘するもあえなく降格しています。

再びJ2の09年はキリノが19得点、10年は西嶋弘之、古田寛幸、内村圭宏の3人が5得点で並び、11年は内村圭宏が12得点でJ1昇格を決めました。J1の12年は古田寛幸の4得点が最多とあっては、またも降格しました。

J2の13年は内村圭宏が17得点、14~16年はいずれも都倉賢で14点、13点、19点でした。J1となった17年は途中加入のジェイが10得点で残留に大きく貢献。18年も都倉賢で12得点、19年は鈴木武蔵が13得点、20年に9得点だったアンデルソンロペスが21年も12点挙げ、J1得点王の勢いだったものの途中で中国のクラブへ移籍してしまいました。

こうして見ると、4得点がチーム最多得点だった2012年は年間4勝しかできず、まさに暗黒時代でした(ちなみに2008年も4勝でした)。2004年にはJ2最下位だったことを知らない世代も多くなってきたでしょうか。また、初期の頃は外国籍の選手に頼りきったチーム事情だったことがうかがえます。

今季は総得点数が32点と首位の神戸と並びトップを走り、ミシャ監督の「超攻撃的サッカー」が開花していると言えます。総失点がワースト3位なのが残念なところではありますが、1試合に2得点以上のペースで得点しているのは見ていても面白いですね。今季はまだ19試合あり、ルヴァンカップも天皇杯もあります。もっとたくさんの得点を見たいと願っています。頑張れ!コンサドーレ!!

posted by papa12 |17:09 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年05月31日

18番の系譜

広島から今季加入した浅野雄也は、1年目からミシャサッカーにフィットしたどころか、現在、チーム最多の8ゴールを挙げ、J1得点王争いで大迫(神戸)、ロペス(横浜M)に次ぐ3位となっています。従来の自己シーズン最多得点は2021年の6得点ですから、これほど活躍することを誰も予想できなかったのではないでしょうか。ちょうど月刊コンサドーレ6月号もクラブコンサドーレ情報誌135号も表紙に浅野を起用しています。
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そういえば、背番号18は「古くは宏太や芳賀ちゃん、最近はチャナが付けた出世番号だったよな」と思い、歴代の選手を調べてみました(引退した選手も敬称略)。すると、チームが創設された1996年は足立恵蔵という、年寄りの私も知らない選手でした。吉原宏太は96年は38で、18は97年から3季付けていました。この時の印象が強く、最初の年も宏太が付けていたと思い込んでいました。2000年は1季だけ所属し引退した高木琢也、01年は山瀬功治が28から変更して1季のみ付け、翌年は10番に。続いて曽田雄志が02~03年に付けて、翌年から4番に。04年は河端和哉、05年は桑原剛と1季のみが続いた後、06年から12年まで芳賀博信が7季付け、これが最長ですね。引退した芳賀の跡を継いだのが深井一希で、13~15年の3季付け、翌年から8になっています。16年は増川隆洋が付け、17~21年はめんこいチャナティップですね。昨季はガブリエルシャビエルが付けました。こうして振り返ると、やはり期待の選手が付けることが多かったですね。山瀬や曽田、深井のように活躍してさらに若い番号に変更となった選手が多いです。果たして、浅野の背番号は来季以降、どうなるでしょうか。


posted by papa12 |17:04 | 温故知新 | コメント(0) |

2023年05月22日

応援自粛考

「コンサ時々日常」さんのブログやネットのニュースで、G大坂の応援をリードしている団体が20日のホーム・横浜M戦で試合前に応援ボイコットを宣言し、応援しなかったとのことです。私はハイライトでしか見ていないのですが、太鼓など鳴り物はなかったものの、自然発生的にコールやチャントが歌われていたようです。試合後に選手たちがこの団体のメンバーと話し合い、次の試合から再び応援を再開することになったそうですが、ボイコットやその後の対応についてはG大坂サポーターの間でも賛否が分かれているようです。

よそ様の事情はよく分からないので、私が口をはさむべきではないことでしょうが、実はコンサドーレの歴史でも「応援自粛」はありました。「コンサ時々日常」さんのブログにコメントさせていただきましたが、年間4勝しかできず、5試合を残してJ2降格が決まった2008年11月8日の札幌ドームでの浦和戦でした。記憶が定かでない点もあるので、当時の資料を探したところ、私のお宝保存ファイルの中にウルトラス・サッポロ(US)が配布したA4判ちらし「このクラブと生き抜くために。-応援自粛協力のお願い-」が見つかりました。
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実際、USの皆さんは試合が始まっても着席したままでした。それでも、US以外の1人の勇気ある若者が前へ出てトラメガでリードし、太鼓や鳴り物はなかったものの、有志がコールや拍手、そしてチャントを歌いました。私も応援に加わり、声を張り上げました。でも、約2万9000人の総入場者数のうち、浦和は大挙8000人が南側ゴール裏を埋めたのですから、ホームジャック状態だったように覚えています。ただ、浦和側も確かACL連覇を逃した当時の監督を批判して大ブーイングしたり、チャントは封印してコールのみだったような気がしますが、かなり記憶があやしいです。この辺は記憶違いがあるかもしれませんので、覚えている方がいらっしゃいましたらご指摘ください。

このほかにも、おぼろげな記憶では、いつの試合かは忘れましたが、試合開始前のコール、チャントをやめ、キックオフから本来の応援開始したことがあり、この時も「応援されなくなるぞと、選手やクラブに危機感を持ってもらうため」と説明されていたように思います。

応援自粛にはさまざまな意見があるでしょう。自粛するのも勝手ですが、私個人としてはあくまでも応援するために駆けつけているのですから、選手たちが90分間、戦っている間は全力で応援したいと考えています。選手やクラブが苦しい時にこそ応援するのがサポーターだと信じています。ただし、全力で応援したあと、試合後にブーイングするのは叱咤激励の意味で「あり」だと思っています。私はしないと思いますが。2008年の応援自粛も今思えば、長く続いた暗黒時代の一コマにすぎません。J1定着をほぼ果たしつつある現在、幸せをかみしめつつも、コンサドーレはそんな黒歴史を二度と繰り返さないよう選手・スタッフ、チーム、クラブ、そしてサポーターが心一つにして前へ進んでいきたいものです。


posted by papa12 |17:00 | 温故知新 | コメント(5) |

2022年07月03日

コータTシャツ

先日、カミさんが上の娘の部屋を断捨離のため片付けていたところ、何と吉原宏太さんの日本代表U-22時代のTシャツが出てきました。当時、上の娘はコータファンで、こんなTシャツまで買っていたんですね。知りませんでした。シドニー五輪のアジア予選ではケチャドバ状態でゴールを決めていたのを覚えています。五輪には出られませんでしたが。すっかりコンサドーレの応援からは卒業してしまっている本人に連絡すると、不要とのことで、私のお宝として殿堂入りさせることにしました。
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吉原さんといえば、先ごろ、余市町長選に出馬すると報道され、その後、立候補を断念しています。ツイッター上でTOUYAGROUPというダーツ関係をメインとした会社に「期限付き入社」したことが出ていました。スポーツ報知で連載しているコラムにも復帰したようなので、今後も北海道で活動されるようです。また私たちと会える日もありそうですね。


posted by papa12 |18:46 | 温故知新 | コメント(0) |

2022年03月27日

観戦ガイド

先日、北海道新聞社様の最寄りの販売所から「観戦ガイド2022」が届けられました。私は一応、北海道新聞様と道新スポーツ様、「月刊コンサドーレ」を定期購読している読者ですので。毎年いただいているのですが、毎月もらっていたポケットブックが昨年春で廃止となっていたので、ガイドもなくなったのではと思ってしまいました。それでも販売所に問い合わせたところ、発行されていて「お届けします」とのことでした。B6判13ページに、コンサドーレの選手紹介や日程、クラブコンサドーレ、グッズショップ、オフィシャルファンサイト、スタジアム紹介など必要最低限の情報を漏らさず載せていますね。

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ということで、わが家にある歴代の観戦ガイドを調べてみました。すると、2000年以降はすべてありました。それ以前は残念ながらわが家にはありませんでした。よく見てみると、2000年版と2001年版はサイズが小さく「道新スポーツPR誌」と銘打っています。2002年版から現在の大きさになり「北海道新聞PR誌」とうたっています。さらに2010年版までは「Jリーグ手帳」と称してページ数も多く、2002年版は89ページもあり、2010年版でも69ページありました。対戦する全チームの選手名などまで網羅していたからでしょう。翌2011年版から「観戦ガイド」に改称、今と同じ13ページとなりました。経費削減のためでしょうが、発行を続けてもらえるだけでもありがたいことです。今後もよろしくお願いします。

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posted by papa12 |19:13 | 温故知新 | コメント(0) |

2021年12月28日

公式ガイドブックは?

18日のエントリーで公式グラフを紹介しましたが、その連想で公式ガイドブックについて取り上げます。わが家の本棚では公式グラフの隣に並べています。実はこれも退職後の整理作業により単身赴任時の書籍がようやく一緒となり、全部が初めて1カ所に集合しました。古い方から見てみると、クラブが創設された1996年から毎年春先に発行されています。私がサポーターになると決意したのは98年の降格決定からなので、ガイドブックは翌99年から購入するようになりました。それ以前の96~98年の3冊はブックオフでお安く入手しました。調べてみると、サイズはA4判が通常ですが、最初の96年版はひと回り小さいです(裏表紙はあのハドソンの広告です)。また、初めてJリーグに昇格した98年版は唯一、A5判でした。発行元は2003年までは「コンサドーレマガジン」を発行していたイエローページで、04年から北海道新聞社様となり、現在に至ります。例年なら2月中に発行されますが、今年の発売日は3月6日で、2月27日の開幕戦に間に合いませんでした。来季はさらに開幕が早まるので、間に合わせるとすると編集作業は大変でしょうね。

写真の上はイエローページ発行の8冊、中と下は北海道新聞社様発行です。

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posted by papa12 |20:03 | 温故知新 | コメント(0) |