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2008年03月31日

CONSAISM clasics #36

clasics #36をお届けします。どんどんと観念的、抽象的、人生論に傾いていくこの連載。コンサドーレのネットマガジンにのせていたのにねえ……。


もうかれこれ一年と三ヶ月くらいになるだろうか。ここに自分の文章を掲載させてもらってからそのくらいの年月が経とうとしている。「自分の思ったことを、そのときの生活に根ざした文章」という主題のもとで、いささかも脱線しながら書かせていただいている。そうして今まで自分がずっと書いていきたかったのは「フットボールには人生におけるあらゆる感情のすべてが入っている」ということだったりする。自分の年齢にしては老成した(つまりジジ臭い)文章のなかでどれだけそのことを伝えられてきただろうか、またこれから伝えられるだろうかという不安もあるが、まずは読者の方々毎回読んでくださってありがとうございます。そんなわけで今回もそういうジジ臭い話。
「フットボールには人生におけるあらゆる感情が入っている」という考え方は先にも書いたけど、考えてみればそれは当然のことだという気がしてくる。人間が生きている以上、そこに表現されるあらゆる行動や思想には人間の感情が介在されて当たり前のものだろう。そうして一人一人がそれぞれ他人とは異なった感情や行動をもって表現し、そういう大量の表現によって社会という存在がつくられている。それはモザイク模様のタペストリーにも似て、一つとして同じ色はない。それゆえに人間の中で生活するということはその折り重なりがあるからこそ面白いのだし、複雑すぎるからこそ時には厄介になる。そうして構成されている社会という奴をどうとらえるのかという感情もまた人それぞれ。じゃあ自分はどう考えているのかと言われれば、ちょっと嫌な事は(ちょっとどころでもなく)あるけれども、それはそれと割り切って咀嚼して自分の生活の中に取り入れています。以上。
そんなわけでフットボールは怒りも歓喜も悲哀も楽しさも、強さも弱さも辛さも嬉しさも、それぞれの判断する善悪良否の価値観も、すべてが入っているものであって、その感情が伝わりやすいものの一つではないかと思っている。それはルールやジャッジメントの明快さ(他のスポーツと比較して)から来るものであり、ボールという「道具」を媒体とするものだからであり(道具が存在することで「偶然」の確率が増えることになる)、または観客とプレイヤーという構図(社会的構造の縮図ともとれる)からくるものでもある。そしてそこにはさっき書いたようないわゆる西洋的な二元論的思想だけではなく、東洋的な死生観や倫理観も含まれているのではないか、というのが最近考えていること。一言で言うと、「フットボールとは、はかないものである」。
「はかない」という言葉を辞書で探していくと、「まよう」「たよりにならない」「無常」という意味ということになる。一言で言ってしまうとこうだろうか。「世の中の常に移り変わる様子をみて感じるかなしさ」。確かにフットボールにはまさにただ一つとして同じものはない。場所は巨大なスタジアムでも、寂れた路地裏でもできる。プレイヤーが違えばプレーも違う。それが22人集まればその違いは数学的な確率を超えた無限がある。それを見る人の動きや感情表現もそれに加わる。けれどもその中にもう一歩深く考えてみると「はかなさ」を感じることはできないだろうか。二度と同じプレーはないこと。同じ時間はないこと。同じ瞬間、同じ感情を分かち合う人がまた違うこと。その感覚をどこか深いところでおぼえているからこそ、同じ場所で同じ瞬間、同じ感情を共有できるのではないだろうか。フットボールという舞台の上で抽出された感情を共有できる。けれども逆に人間それぞれの感情が異なっていることを理解し許容できる。だからこそ感情の共有が成り立つ。そこには入れ子構造的な(もしくはスパイラル的な)連鎖が成り立っている。
たとえば試合の帰り道、夕暮れ色に染まる空の向こうにスタジアムが影になって、それを振り返り仰ぎながらそれぞれの場所へと戻っていく、そのときの何とも言えないかなしさ、さみしさ、静けさ、そんなとき「はかないものだ」と自分は感じる。そしてそれを一番自分に知らしめてくれるのがフットボールなのではないかと思う。自分にとってのフットボールの存在理由は、その一瞬にあるかもしれない。 

posted by retreat |23:46 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)