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2008年03月29日

CONSAISM clasics #35

clasics #35です。この回はちょっと話が堅いかなあ。


新年早々フットボールとは一気に違う話だけれど、この間貴乃花引退のニュースをテレビで目にした。相撲は普段は積極的に見ないのだけれども、記者会見のニュースやこれまでの足跡をまとめたVTRを見ていて、その中で武蔵丸との優勝決定戦の映像が流れていた。鬼気迫る集中力、技のせめぎ合い、勝った後の咆哮。そんな貴乃花を見ていて、ふと「心技体」という言葉が浮かんできた。心・技・体、それぞれが高いレベルに凝縮された一番に思えたからだ。
相撲や武道といった、日本古来のスポーツには必ずと言っていいほどこの「心技体」の三文字が登場する。たとえば学校の横断幕や、選手のインタビューの言葉、そしてちなみに自分は剣道をやっていたので、頭に巻く手ぬぐいにもこの字が染め抜かれていた。スポーツを語るときに、この心・技・体という言葉ほど似合った言葉はないように思う。動じぬ心、鍛えた体、磨かれた技術。この三つが高いレベルでかみ合ってこそ、その醍醐味を見る人もする人も味わえるのではないだろうか。
「心技体」という言葉は日本古来のスポーツだけでなく、あらゆるスポーツ全般にも言える言葉だ。体力が無ければ動けないし、心無くして集中力や向上心は生まれない。技術は必死になって練習すれば身に付くが、それを生かす体や心がなくては何もならない。もちろんそれぞれのスポーツではそのうち何を大事にするかが大きく違う。マラソンは何がなくてもまず42.195キロを走り抜く体力が必要だし、比較的身体を動かさない部類に入るであろうカーリングは「氷上のチェス」と呼ばれるように、緻密な戦略や1センチのストーンのズレも許さない技術が大きく勝敗を分ける。様々なスポーツを見て、それぞれの「心技体」の違いを見つけるのもまた、スポーツを見る楽しみだと思う。
それではフットボールはどうだろうか。90分(プラスアルファ)を走る体力。ボールを正確に操る技術。勝ちたい、うまくなりたいと思う心。どれもが必要に思えてくるが、その実どれもが第一ではないとも思えてくる。なぜなら体力が持たなくても技術と経験でカバーする選手もいるし、技術がなくても走りまくって泥臭くプレーする選手もいる。ビジネスだと割り切って高いレベルの技術と体力を見せる選手もいることはいる。どこかそれぞれがそれほど高いレベルになくとも、ほかの二つの能力を生かすことでそれを補って余りあることができると考えるからだ。そしてスポーツという枠の中でそれぞれの競技における「心技体」を楽しむことができるように、フットボールの中でもそれぞれの「心技体」を楽しめるし、そのレベルの高低にかかわらず様々な形で楽しめるスポーツの一つであると思う。
新旧問わずに在籍していた札幌の選手をこの「心技体」に当てはめるなら、村主博正はとてつもない運動量の持ち主だったし、山瀬功治の技術には何度も目を見張った。関浩二の見せたゴールへの意欲は、誰彼問わずに気持ちの伝わるプレーだった。今年の札幌の選手達が見せる「心技体」の形はどんなものだろうかとあれこれ想像して楽しむのも、また一興という思いがある。それぞれの選手がそれぞれの「心技体」をピッチの上で存分に見せつけてくれることが楽しみでならない。
そして、何もこれはスポーツ選手達だけに当てはまった話ではなく、自分たちにも同じことが言えると思う。労働のための体力は必要だし、生活のためだとか夢のためだとか、貫き通せる心も大事なことだ。そして仕事や勉強を通じて学んだ技術はそれぞれの場所で生かすことができる。さらに人それぞれの生活の中での「心技体」の比率はまた異なり、それぞれがそれぞれの生活の形を作っている。そう考えると、自分や周りの生活もそれぞれ少しは楽しめるものになるのではないだろうか、とも思う。
年が明けても相変わらずそんなことを考えながらいつの間にか冬は過ぎ、そしてピッチに転がるボールの行方に目を凝らす季節がまたすぐにやってくるのだろう。

posted by retreat |22:45 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)