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2008年03月17日

CONSAISM clasics #31

clasics #31、ついに「降格」の二文字が見たくなくても見えてきたころ。
覚悟を決めよう、でも諦めないでいようと思って書いたのだろう文章。


雨に濡れた万博競技場で試合後の撤収作業をしながら、本当に明日このまま2部に落ちてしまうのだろうか、とふと思った。目の前の試合に敗れて決まるのならともかく、何もせずに他のチームの試合結果次第という、なんだかすっきりしない、不思議な終わり方だけはしたくないなと考えながら、雨に濡れたTシャツを着替えもしないで駅へ向かった。雨が身体に染み込み、寒さが増すたびそう思った。実際その夜神戸は負けて、日曜日に何もせずに降格するという事態は避けられたわけだけれども。
アウェイのゴール裏はいつもと変わりなく、チームも良くも悪くも普通で(負け続けているチームに「良く」などという表現はしたくないのだけれど)、それなりの試合をして、それなりに負けた。そういう感覚のゲームだった。けれども、ただやっぱり負けるのだけは嫌で、どうこうしても攻められない、点の取れないチームを見るのはちょっとキツいものがあった。けれども、あの日万博に来た人たちはやはり心底馬鹿なくらいに札幌が好きで、札幌のサッカーが好きで、札幌の選手が好きで、だから2部には落ちたくなくて、だから来たのだと思う。応援したのだと思う。そう思いたい。
万博で、試合前にゴール裏でちょっとした話し合いをした。参加者はそこにいる人みんな。自分の気持ちを言って、みんなも意見を言ってくれて(本音を言うと、もっといろんな人に話して欲しかった)、ゴール裏のみんなの気持ちを確かめあった。
その中でひとり、神戸から来たという女の子はこう言った。

「札幌は今とても厳しい状況だけれども、それでも一生懸命応援したいと思います・・・じゃなくて、応援します!」

ひとつ、大事なことをこの人は言葉にしてくれた、そう思った。
応援したい、と思うだけでは何も起こらないのだ。応援したい、と思うのならば、応援してくれて構わないのだ。立ち上がり、声を枯らして良いのだ。時には強く思うことも大事だけれど、思っているだけじゃ何も伝わらないのだ。残念ながら僕らは、思念をそのまま相手に伝えられるような超能力者集団ではない。だから行動して、言葉で、動きで伝えることが思うことと同じくらいに大事なことなのだ。
 
僕らが生活している社会というやつは、そういう風に出来ていると最近よく感じることがある。どうにもならないことを「どうしよう」とあれこれ方策を練って頭をひねるよりも、「えいっ」と動いてしまった方が案外簡単に終わってすっきりしてしまうことがある。もちろんその逆もある。入念に下準備をして、作戦を考えて行動しないと結果として果たせないこともある。思うことも動くことも、どちらも大事なことで、どちらかだけではうまくいかない。
ただ、一つだけ決定的に違うことがある。社会というやつは、可能性を予想して行動する。可能性があまりにも低ければ、それは諦めや妥協という形を伴って別のモノへと変化する。けれどもゴール裏の僕らは(少なくとも僕は)可能性というものが存在するのならば、それに賭ける。弱い自分も強気な自分も全て認めて、その中にわずかにでも残った可能性を手にするために、あがいている。それは端から見ればどうしようもなく愚かで馬鹿な行為ではあるだろうけれども、今の僕にはそれしか出来ないし、それを信じる以外に方法はない。

しょうがないじゃん、僕は札幌馬鹿なんだから。
試合の翌日、がらんとした大阪港を歩きながら、そんな事を考えた。
 
「われわれの持っている力は意志よりも大きい。だから事を不可能だときめこむのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。」(ラ・ロシュフコー)
 
僕はこの言葉を信じる。信じて、可能性を信じて、自分を信じて、日々を過ごす。
 

※ラ・ロシュフコーの言葉は『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳・岩波文庫)による。

posted by retreat |23:38 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)