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2008年03月09日

CONSAISM clasics #29

clasics #29、また今回も内容が現在と微妙にシンクロしております。
狙ってるわけじゃないんだけどなあ。


この原稿を書いている段階(清水戦後)では札幌は潔く最下位。スポーツ新聞に「降格マジック」なんて書かれている現状だ。
自分もその清水戦のため、日本平へ行って来た。歴代の清水FCの選手名碑(1986年のメンバーの中には「赤池保幸」の名前!)を見ながら昔のサッカー(主にJリーグ創設時代)についてあれこれと昔話をしたり、静岡の暑さに半ば呆れたりしながら競技場へ行った。それでもって日本平のガサガサに荒れたピッチと、先週の磐田戦とはまるで違う、凧の糸が切れたような選手たちの集中力に負けてきた。
試合が終わったあと自分には怒る気力などもうとっくのとうに失せてしまっていて、ここまできたらやれるところまでやってやろうじゃないか、と逆に思っている位だ。実際試合前にはそういうことを話し合ったりもした。それでも点を取られるとゴール裏の声は萎え、薄れ、聞こえなくなる。思っていることとやっていることが逆を向いている、どうすりゃいいんだと思いながら友人の車に乗せてもらって帰った。
 
目の前に見えないけれども、そんなに大きく見えないけれども越えられない壁。乗り越えられそうで阻まれる壁。その向こうは大きく開けているのに、それがわかっているのに、あと少しなのに、あと一歩なのに、それが届かない、踏み出せない。「壁を乗り越える」という現実がこんなに歯がゆいもので、越えられないことが悔しいことは初めてだったかもしれない。
でもこういう経験を味わったわけがないというわけではないし、誰もがどこかで経験することなのだと思う。自分もそうだし、社会人になってからその経験は増える一方だ。自分では解決できなかったことを何事もないように解決する先輩。その一声で全てをOKにしてしまう上司。道を切り開いて行くいろんな人々の姿。そういう姿を見るたびに「自分にはなぜできないのか」と自分に問いかけて、考えてきた。決定的に自分と異なる何かを持って生まれてきたという訳でもないのに、自分よりハイレベルのハードルを越えていく人々に歯がみして、劣等感を味わって、そのたびそれでも上へ上へ行きたいと思い、そのたび壁から落ち続けている。
 
自分の札幌に対する気持ちも同じ。もう少しなのに。もっともっと上へ行きたいのに。行けるのに。そう思う気持ちばかりが募っていって、現実とと遊離しかけている感覚。そんなことを言ってもいきなり見知らぬ力が備わる訳じゃない。一歩一歩、ピッチを踏みしめて、パスを出して、声を枯らして、旗を振って、拳を突き上げて、そのひとつひとつの動作と思いの積み重ねでしかこの壁を突き破ることはできないのだ。さっきの会社の先輩や上司も、自分にできることを自分にできるだけやってきて、今があるのだ。
そう思うと、なぜか気持ちがふっと軽くなった。背伸びやジャンプを繰り返していっても、たぶんこの壁は破れない。一つ一つ築き上げて、そうして乗り越えるしか方法がないのだ。そしてそうするためには今できることをできるだけやるしかないのだ。
この、今の自分の感覚を他の言葉で言い換えれば「開き直る」「腹をくくる」という言葉になるのかもしれない。でもそれと「諦め」とは異なる座標にあるものだ。諦めは開き直りも腹をくくりもしない、傍観するだけだ。自分は諦めないで、今やれることを、今打ち破れる壁を抜けてゆき、そしてそれを延々と続け、より高いハードルを越えて行くのだと思う。それが否が応でも直面する現実で、この世にある限り人それぞれに突きつけられた枷でもあるのだと思う。それならば答えはもう、出ている。それを認識するだけだ。
 
自分は応援しかできない立場なのだから、やることはただひとつ、今この現実でできることを、精一杯に世界に放つ、それだけ。

声を挙げないで終わりたくはない。
だから今この瞬間を、瞬間を越えた刹那を、現実を見据えて見える未来を自分のものとするために、応援したい。
諦めないことを決めたら、それだけで自然と顔を上げて、前へ進めるはずだ。
 
 ひとつだけ決めよう
 あとは自由
 約束しよう
 あきらめない
 それだけがルール
              (坂本龍一・甲本ヒロト『桜のころ』)

posted by retreat |23:06 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)