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2008年03月04日

CONSAISM clasics #27

clasics #27、今回は忘れられない「あの日」の記憶。


僕は帰りの電車に乗り込んだところだった。
酔いの回った頭で携帯電話を取り出してメールを打とうとしたら、ニュースメールが来ていたらしい。どこかのビルに飛行機が突っ込んだ、というニュースだった。
ふーん、と僕は思って、携帯をしまい込んでウォークマンを耳に押し込んだ。
 
家に帰って、着替えて、シャワーを浴びて、酔い醒ましにオレンジジュースを飲みながらいつものようにラジオを聴いていた。けれども、いつもとは様子がおかしい。
緊迫した声でしかし冷静に、国営放送のアナウンサーがニュースを伝えている。ずっと、繰り返し伝えている。どこかの国の様子が中継されている。どうやらさっきメールで見たニュースのことらしい。
今度はテレビをつけてみた。やっぱりニュースしかやってない。テレビの向こう。ニューヨーク。エンパイアステートビルの片方から上がる黒煙。聞こえてくる誰かの叫び声とざわめき。程なくして、僕は二機目の航空機が、もう片方のビルに突っ込んでいくのをブラウン管の向こうに見た。怪獣映画の撮影みたいに、まるで何かの冗談みたいにあっけなく、ニューヨークの象徴が崩れ落ちていく。テレビの向こうのニューヨークは、悲劇と混乱にに支配された別世界だった。
あの日から一年が過ぎた。あの事件に関してあまりにも多くの物事が行われ、語られ、憎しみと悲しみが世界を覆った。必死の救助活動、テロリズムへの怒り、そしてテロリストへの報復。そして、すべてはまだ終わってはいない。
 
Jリーグでも(そしてもちろんそれ以外のスポーツも)テロリズムの落とした影を僕は目にした。J2を見に行った大宮サッカー場では半旗が掲げられ、黙祷が捧げられた。湘南のゴール裏には「NO TERROLISM」の横断幕があった。FC東京のサポーターは、「Imagine」の歌詞を横断幕にして、ゴール裏に掲げた。星条旗も見かけられた。けれどもそれらはもうここにはない、一年たった今では。それは全く関心がなくなったということではなくて、心の中に占める「9.11」の記憶がだんだんと小さくなっているのか、あるいはこの日常に麻痺してしまったのかもしれない。繰り返される空爆。異常なまでの警戒態勢。熱心にイスラム主義を語り、アメリカを語る人たちの姿。日常の中に霞んでゆくそれらのすべて。けれどそれでもサッカーは続いていく。笛が鳴り、プレーが始まる。そういう世界に僕たちは生きている。
そして僕は目の前の試合に没頭する。ゴールの瞬間を待ちわびる。2時間後の勝利の雄叫びを心待ちにしている。打ちひしがれるなんてまっぴらだ。そのときの僕の頭の中には、サッカーボールが駆けめぐっている。今この瞬間に空爆が始まり、何千人死んだとしても、いくつビルが倒れたとしても、僕はおそらく気にしない。たとえそれを事実として知っていても。そうして家に帰ったらテレビなりラジオなりをつけてニュースを見たり聴いたりするだろう。そしてそのとき初めて恐怖に打ち震える人々のことを思うのだろう。
テロの犯人探しの向こう側、遙か離れた極東の島国で、今日もホイッスルが吹かれる。そして僕らの生活は変わらないし、この国のサッカーは変わらない。残酷であっても、冷徹であっても、それがこの世界の事実。そしてサッカーから僕が得るのは、その事実を受け止める勇気。

それでも僕はあの日の大宮サッカー場の雰囲気を忘れたくないと思う。選手も、審判も、観客もみんな立ち上がり、未だ見知らぬテロの犠牲者に黙祷を捧げた一分間を。その中で僕が感じた、この世界で生きているという事実を。アフガニスタンでワールドカップを見ていた人々の目を。たった一つのボールを追いかけ、スタジアムに駆けてゆくカブールの子供達の姿を。それがいま、僕が思うこと。絶対に忘れたくないこと。

posted by retreat |23:47 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)