カレンダー
プロフィール
1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
最新のエントリー
リンク集
コメント
検索
2015年02月02日
竹鶴さんは1933年4月に単身で余市へ行った際、かねまた服部旅館に泊まったのですが、その旅館は今でも営業しているようです。 国道5号線が90度曲がる大川交差点のすぐそばにありますね。 その旅館のご主人は、余市のりんごをロシアへ輸出していたけど、ロシア革命で輸出できなくなり、ルーブル札は紙くずになり、蓄えた財産を失って、実家の旅館を継いだとか。 ドラマでは会津の侍が入植し、開拓使からリンゴの苗木の配布を受け、りんご栽培を始めたとありますが、それは事実のようです。1875年(明治8年)に苗木を植え、4年後から収穫が始まったのですが、日本初のリンゴの商業生産で、海外でも評価が高かったそうです。 リンゴは青森が有名ですけど、余市がリンゴ栽培の元祖で、青森よりも春が遅い分、保存が長期に効くメリットもあったそうです。 鰊御殿の親方が、急に鰊が獲れなくなって借金に追われるとドラマで描かれていますが、たしかにそのころから鰊が獲れなくなっていったようで、1926年に1万トンの水揚げだったのが、1927年にはその1/3を割り、1928年には1400トンほどまで激減したとか。 さらに1930年はわずか1トンで、全く取れなかったと言って良いほどだったんですね。 ただ、1931年には5000トン、1933年には9000トン弱と、一時的に盛り返していました。 (その後1935年からまた獲れなくなるのですが) ドラマの設定とは2~3年ずれがありますが、昭和初期から急に鰊が来たり来なかったりで翻弄されたのは間違いないようです。 1934年7月に会社(大日本果汁)を設立し、その秋の収穫期からリンゴジュースの製造を始めました。 ドラマでは1933年からリンゴジュースを製造してますが、そんなに早くスタートはできないと思います。 寿屋の工場(横浜のビール工場)で働いていた技術者5名と地元の20名の25名の社員でスタートしました。 資本金は10万円で、現在の3億弱くらいだと思いますが、土地代・建築費・機械代などで10万円近く必要で、原料などの仕入や人件費などの費用が不足し、銀行から借り入れました。 ウイスキーの出荷をするまでの間に10万円の増資をし、住友銀行から100万円借りたそうですが、よく銀行が100万円(現在の20億円くらい)も貸してくれたものです。 リンゴジュースは1935年5月から販売を開始しました。冬場は売れないと思ってのことでしょうか? しかし、価格が高いのが災いし、あまり売れなかったそうです。 当時、ラムネが6銭、サイダーが10銭だったのに、日果林檎ジュースは30銭もしたのです。 現在の600円くらいに相当すると思います。 (ドラマではラムネ6銭、サイダー20銭、リンゴジュース30銭とされていましたね) また、当時のリンゴは酸味が強く、酸っぱくて飲みにくいと感じた消費者も多かったとか。 当初、竹鶴さんは単身赴任でしたが、1935年に自宅を建て、鎌倉に留まっていたリタさんは9月から余市で暮らすようになりました。 ドラマでは1933年にはすでにリタさんが余市に住んでいますね。
2015年02月01日
帰国して最初に住んだのは帝塚山。 帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から住吉区北西部にまたがる地区ですが、新居も勤め先の摂津酒造も住吉区帝塚山東だったそうで、長居スタジアムから西に2㎞くらいの場所です。 借家の家賃は55円で、現在の16万円くらいになりますが、月給は150円で、現在の44万くらいだったから無理なく支払うことができたようです。 ドラマで描かれていたように、摂津酒造は大戦後の不景気の影響でウイスキー事業を始めることができず、竹鶴さんは模造ウイスキー造りに嫌気がさして、1922年春に退職しました。 ドラマでは退職後、なかなか仕事が見つからず、飲食店で皿洗いや芋の皮むきなどをして家賃もろくに払えないと描かれていましたが、実際は桃山中学で化学の教師をやっていました。 (ドラマでは確かに化学の教職の誘いがありましたが辞退してますよね) 桃山中学は英国伝道協会が設立したので校長は英国人だったようで、校長婦人(たぶん英国人)とリタさんが仲良くなっていた関係で、教職の話になったようです。 教職を始めて1年の1923年春、寿屋の鳥居社長がヘッドハンティングし、その年の6月に竹鶴さんは寿屋に入社し、念願のウイスキー造りに従事することができました。 年俸はドラマと同じく4000円。 現在の1200万円くらいの破格な高給です。 1929年(昭和4年)4月1日、最初に出荷したウイスキーは、ドラマでは煙臭くて不評でしたが、実際もピートを焚きすぎたのか、相当不味い代物だったみたいです。 当時ジョニ赤が5円だったところ、1割安いだけの4円50銭。 現在の1万3千円くらいになります。 かなり味の差があって値段がわずかな差なら、ぼったくりかも。 実際、ドラマと同じく、あまり売れなかったようです。 味が悪かったのは熟成期間が短いのと、ピートを焚きすぎてしまった他に、スコットランドではビールの廃酵母を使っているので、同じく廃酵母を使ったものの、イギリスのビールはエール(上面発酵)に対して日本のビールはラガー(下面発酵)の違いがあるので、純粋培養酵母を使う必要があったとか。 大量の在庫を抱えたわけですが、他の商品なら「不良在庫」になるわけですが、ウイスキーの場合は熟成してより良い商品になるわけで「優良在庫」に変身するものの、資金繰りは相当厳しかったようですね。 戦争の影響でスコッチの輸入が途絶えた1940年頃には飛ぶように売れるようになったそうです。 1930年に養女・リマさんを迎えていますが、どうも折り合いが悪かったのか、自伝には養子は威氏のことしか触れらていないなど、あまりリマさんのことは知られていなく、竹鶴さんに関するwikiも、少し前まで記載がなく、私も養女がいたことを知りませんでした。 彼女に関してはこれくらいしかわかりません。 ご尊命なら現在80代半ばだと思いますが、どうされているのでしょうか。 寿屋の長男を預かって帝王教育をしたのはドラマと同じで、1931年には竹鶴夫妻とリマさん、鳥居吉太郎の4人でスコットランドへ行っていますね。 その後、ドラマでは確かに事実と同じく横浜のビール工場の工場長になるのですが、横浜や鎌倉に引っ越すことが描かれてなかったですよね。 寿屋の横浜にある67万円(一説では100万円強)で買ったビール工場を300万円以上で売却し、現在の貨幣価値では数十億円も転がり込んできたので、やっと資金繰りが落ち着いたのですが、工場長の竹鶴さんに一言も相談がなく売却したので不信感が募り、1934年(昭和9年)3月1日に退職しました。 1934年(昭和9年)4月に竹鶴さんは余市へ行きました。 最初は水質が良く、石狩川河畔にピートがあって石炭の産地が近い江別を工場建設地の候補にしていたけど、石狩川が氾濫して洪水が良く起こるのを知って、余市に変更したそうです。 江別はウイスキーの里になりそこねましたね。 江別には悪臭を放つ製紙工場があるので(1908年創業)水害がなくてもやはり江別は断念したかも知れませんね。
2015年01月31日
竹鶴さんはグラスゴー大学の応用化学科へ入学しました。 事前に入学可能かなどを確認してなかったものの、イギリスの大学は、外国人であっても高卒以上であれば入れてもらえるとのことなので、大阪高等工業専門学校へ行って英文の卒業証明書を作成してもらい、それを持参して行きました。 新学期はとっくに過ぎていたけど、聴講生としてすぐに学ぶことができました。 先月お亡くなりになられた息子さんのエッセイで、グラスゴー大学のことがこちらにあります。 5か月間、アメリカにいたおかげで、英語には不自由しなかったようです。 というか、米語ではなく英語なので、とてもよく聞き取れたようです。 大学で最初の講義のとき、教授が「新顔のミスタータケツルですね。君はスペイン人かね?」 「日本人です」で、珍しい東洋からの聴講生に学生たちは驚いた様子だったとか。 すでに大阪で醸造学を学んでいたので、大学の講義は知っていることばかり。 ウイスキー製造の講義はありません。 やはり工場での実地見学が欠かせません。 大学教授は見学できる工場を紹介すると約束はしてくれたものの、なかなかOKの連絡が来ません。 4月になっても音沙汰がないので、意を決してウイスキー製造についての本を書いた権威を訪ね、教えてもらおうとしたところ、法外な謝礼を要求され断念。 その謝礼は現在の日本円では、最初の月が約100万円、次の月から毎月75万円、工場へは100万円(1回だけ)という金額でした。 そこで、アポなしで工場を当たってみることにし、ロングモーンという町の蒸留所へ行ったところ、実習を許されました。 こちらにそのことが記されています。 夏は大学も蒸留所も休みになるので、フランスへ渡り、ボルドーで1ヶ月間、ワイナリーを見学し、リタへは香水をお土産に買ったそうです。 リタは婚約者がいたけど、第一次大戦で戦死しているのですね。 ダマスカスで亡くなったということですから、映画・アラビアのロレンスで有名になったロレンス中佐の部下だったのでしょう。 1920年1月8日、竹鶴さんとリタさんは結婚しました。 結婚してからはキャンベルタウンという、余市と同じく鰊とウイスキーで栄えた町に住み、ヘーゼルバーン蒸留所で実習をしました。 ヘーゼルバーン蒸留所についてはこちらを参考に。 スコッチウイスキーがスコットランド以外で人気が出たのはそう古い話ではなく、1880年くらいからだとか。 1831年に連続蒸留器が発明され、大量生産できるようになったのと、イングランドではビール・ワイン・ブランディーが主に飲まれていたけど、19世紀半ばにフランスのブドウ園に病虫害が蔓延して供給不足になったのがきっかけで、スコッチがイングランドでも飲まれるようになったそうで、ウイスキーが世界に広がってからまだ40年くらいしか経ってない頃に竹鶴さんが渡英したことになるようです。 1920年11月、アメリカ経由(シアトルから船)で竹鶴夫妻は横浜港大桟橋に着きました。 運賃や日数などは記されていませんが、往路の1918年のときと同じくらい(太平洋航路は3等で84円)でしょうか。 ただ、1937年(昭和12年)の横浜シアトル間の氷川丸の運賃は1等 250円、2等 130円、3等洋食 95円 3等華食 75円 3等和食 60円となっていて、今の貨幣価値では3等和食は15万円くらいです。 船舶会社の競争が激しくなって価格が下がっていったので、復路は往路より、ちょっと安くなっていたかも知れません。 船には摂津酒造の社長も一緒に乗っていました。 欧州視察旅行をし、竹鶴夫妻と一緒に乗っていたのです。 このあたりはドラマと大きく違いますね。 結婚したことは事前に手紙で関係者に知らしています。当然ですね。 ドラマでは帰国するまで誰も結婚を知らなかったことになっていますが、いくら面白くする脚色とはいえ、あまりに不自然なストーリーですよね。 大桟橋には妹や摂津酒造東京駐在員などが出迎え、その晩は摂津酒造の東京宿舎で帰朝歓迎の宴を開いたそうです。
2015年01月30日
竹鶴さんが日本を発ったのは1918年(大正7年)6月29日。 神戸からサンフランシスコ行きの船に乗りました。 メリケン波止場には摂津酒造のスタッフ一同と、母や鳥居さん、山本為三郎さん(のちのアサヒビール社長)などが見送りに来たとか。 なぜスエズ経由の船ではなくアメリカ経由にしたかは、中学の先輩で、カリフォルニアで苺栽培をやっている人が一時帰国していて、その人が、ワイナリーを見学できるよう紹介するとのことでアメリカ経由にしたとか。 船賃は1等が415円、2等が207.5円、3等が84円。 教員の初任給が15円、大工の日当が1.5円なので、現在は8000倍とすると、1等が332万円、2等が166万、3等が67.2万円になります。 何等に乗船したのか書かれていませんが、3等ですよね。 船旅は20日間で1918年7月19日にサンフランシスコへ到着。 (「20日間」との表現ですけど、日付変更線を通るから、21泊22日になるような気もします) アメリカでの最初の買い物は90セントのワイシャツ。 当時1ドルが2円だったので、1円80銭ですが、今の貨幣価値では1万4千円くらいになるはずです。 アメリカの物価は日本の数倍ということになりそうです。 当時の経済力の差を考えると、そんなものでしょう。 サクラメントに1ヶ月滞在したそうで、日中はワイナリー見学、夜間は英語の勉強をしたそうです。 英語に自信があったのに、アメリカに着いたら聞き取れないし、通じなく、愕然としたそうです。 サクラメントに1ヶ月滞在してニューヨークへ移動し、イギリスへの船の予約とビザの申請をしました。 新学期に間に合わせようとの考えだったのですが、しかし、第一次大戦がまだ続いていた関係で、なかなかビザが下りず、約3か月後の11月に大戦が終結し、ビザが発給され、12月にリバプール行の船に乗りました。 スエズ経由を選択したら、もっと早く行けたのかも知れませんが、アメリカで語学力を高めることができてよかったかも知れませんね。 スエズ経由で行っていたら、フランスで足止めくらったかも知れません。 ひょっとして、フランス人と結婚し、ブランディーを作るようになったかも。 アメリカ大陸横断鉄道と大西洋航路の運賃と日数を知りたかったのですが、記されていませんでした。 次回はスコットランドでの話を紹介したいと思います。
2015年01月29日
私が竹鶴夫妻に興味を持つようになったのは、15年ほど前のことです。 知人を余市のニッカの工場へお連れしたところ、マッサンとリタのロマンスに凄く感動したのです。 その日は札幌から車でニセコへ移動したのですが、途中に綺麗なトイレがあって禁煙でお茶が飲める場所ということで寄っただけで、今なら余市ワイナリーに寄ったと思います。 15年前は禁煙でお茶が飲めるところはほとんどなく、タバコが苦手な私にとって、リタハウスは貴重な存在でした。 そんな、ついでの工場見学だったのですが、とても喜んでもらったため、マッサンとリタのロマンスが強く印象に残り、興味をいだくようになったのです。 ドラマが始まると、描かれていることは、どこまでが事実で、どこが創作なのかがとても気になるようになりました。 ネットである程度はわかりますが、情報は限られています。 先日、何気なく本屋で眺めていたら「ヒゲのウヰスキー誕生す」という本があったので、つい買ってしまいました。 多少は想像で描いた部分はあるとは思いますが、ほぼ、事実に相違ない内容だと思います。 興味深かった点などを紹介したいと思います。 竹鶴さんは大阪高等工業専門学校を卒業する1916年3月に摂津酒造に入社し、初任給は23円。当時の教員の初任給の倍近くで、大工の日当の約20日分なので、現在の貨幣価値では25万円くらいの、新人にしては、ちょっとした高給のようです。 このころ、日本各地でワインの瓶の破裂事故が発生していたものの、竹鶴さんが製造担当した赤玉ポートワインは、適切に殺菌作業が行われていたため、1本も破裂せず、寿屋の社長も喜んでいたようで、高給に恥ずかしくない仕事をしたのではないかと思います。 なお、ドラマでは太陽ワインも売り上げがガタ落ちになっていましたが、実際は破裂を起こしたライバル社の蜂印葡萄酒が売れなくなった分、寿屋の赤玉ポートワインがシェアを伸ばし、特需に沸いたようです。 当時、竹鶴さんは大阪で母と妹と3人で暮らしていたようです。 ドラマでは、母は広島を出たことがないと言っていたような気がするのですが。 その年の12月に徴兵検査があり、検査官がアルコール製造従事を知り「アルコールは火薬製造の重要な原料だから今後もお国のために精々仕事に励むように」ということで徴兵されずに済みました。 明日はスコットランドへ渡る話を紹介したいと思います。
2015年01月28日
ジャンプのハーフタイムにウインタースポーツミュージアムへ行きました。 札幌オリンピックの紹介が多いですね。 70メートル級でメダル独占したとき、3人が使っていた板です。西ドイツ製です。世界ノルディックの札幌ドーム会場の様子。日本でスケートを普及させたのは新渡戸稲造さんなんですね。フィギュアスケート発祥の地は仙台ですけど、スピードスケートは札幌なんですね。諏訪湖が良いスケート場になるようですが、名古屋でスケートが盛んになったのは、その影響でしょうか。 それから、スケートの語源はオランダ語で竹馬を意味する言葉だとか。 勉強になりました。 スキーやスケートの資料は多いのですが、カーリングはまだこれしかありません。 今後、増えて行くと思います。
2015年01月27日
25日は大倉山へ行きました。 円山公園バスターミナルから随時、シャトルバスが出ています。動物園バス停でも乗降可でした。 天気がよかったこともあり、6000人も訪れました。全然寒くなかったです。どこかで見たことあるビジョンですね。斜面に行ってみたのですが、ここからはアプローチが見えません。一番先まで行けば見えるかな。ここで見るのがいいようです。ここならビジョンも近いし。ランディングバーンの横にいる人は、多くはカメラマンです。昔は計測員がずらっと並び、飛距離を測っていましたよね。 今は器械が測るのでしょうね。 2階のレストランでジンギスカンを食べながら見るのもいいかも。外国人も多く見かけました。ポーランドの人ですね。こちらもポーランドサポーター。残念ながら日本人は伊東大貴の6位が最高で、葛西は8位でした。
2015年01月26日
24日に複合を見ました。後半のクロスカントリーだけですけど。 大谷地から白旗山まで無料のバスが出ていました。白旗山といえば、ヤンツーさんのころだったか、夏場はコンサがときどき練習してましたよね。 和寒出身の加藤大平選手の応援で、和寒から30人くらい来ていました。 滑っている選手は、競技開始前のウォーミングアップです。スタート10分前に試走の5人が滑ります。恵庭高校の高校生5人で、そのうち3人は女子でした。後ろはスタート地点へ向かう選手。試走は2.5㎞のコース1周ですが、本番は4周します。 大倉山で行われたジャンプで、渡部善斗選手は4位でしたが、クロスカントリーで順位を下げてしまいました。しかし、ジャンプで出遅れて11位だった兄・渡部暁人がどんどん順位を上げ、2位でフィニッシュという快挙でした。表彰台はドイツ・日本・アメリカの選手で、北欧やオーストリアの選手がいないのは意外でした。 1位スタートだったオーストリアの選手は4位に落ちてしまいました。 で、問題の加藤選手ですが、ジャンプは出遅れて18位。ちなみに、前日はジャンプが5位だったけど、苦手なクロスカントリーで順位を落として8位だったそうです。背番号18が加藤選手。この日は苦手なクロスカントリーが好調で、順位を上げて10位でフィニッシュしました。ワールドカップと名の付くものを観戦したのは1983年の富良野でのアルペン以来です。 そのときはステンマルクがいました。 アルペンだと一瞬にして目の前を通り過ぎるし、コースからかなり離れた場所での観戦になってしまいますが、クロスカントリーはコースの直ぐ脇で見ることができるのが良かったです。
2015年01月22日
今夕、日程がわかりますね。わくわくしてます。 今年は発表が早く、例年1月末から発売開始になる夏場の航空券の販売前になるので、ゆっくり遠征計画を考えることができますね。 航空券発売開始はJALとANAのカード会員は27日14:00、マイレージ会員は28日11:00、一般販売は29日9:30、SKYは28日15:00、ADOは29日11:00です。 JAL、ANA、ADOは10月24日まで、SKYは8月31日までの航空券の販売になるので、かなり先までの予定を今から考え、安いキップを確保しておきたいですね。 ・追記ですが、一部訂正します スカイマークは7月16日までの分はすでに21日から販売開始していました。 ところで、某ドラマで鉄砲を出して「これで熊や猪を狩る」というセリフがありました。 そのドラマの脚本家は、北海道に猪がいないのを知らないのですね。 これは神戸の猪です。また見に行きたいですね。
2015年01月15日
某ドラマで、1931年に北海道地図を眺めるシーンがありました。 お断りしておきますが、時代(時代考証)が違っているからといってケチを付けるつもりは全くありません。 単純に、いつの地図なのか興味があって知りたいだけです。 羽幌線が全く開通していないので、1927年10月25日以前になります。 日高線が鵡川付近まで開通しているので、1913年10月1日~1924年9月5日の範囲になります。 室蘭線が東室蘭・長万部間が未開通なので、1923年12月9日以前になります。 留萌線が留萌まで開通していて、増毛方面は未開通なので、1910年11月23日~1921年11月4日の範囲になります。 宗谷線(当時は北見線)が音威子府まで開通していますので1912年11月5日~1914年11月6日の範囲になります。 よって、1913年10月1日から1914年11月6日までになりますので、おそらく1914年に発行された地図なのではないかと思います。 ということは、そのTVは1931年の設定ですから、17年前の、少し古い地図を眺めていたことになりますね。 先日検証した、1936年頃に出版された鉄道地図も再登場しましたね。こちらは5年くらい未来の地図ということになりますね。 以下の地図(高校生のときに買った地図ですよ。新潟や横浜へ引っ越し、また北海道に戻った地図。)は1901年(明治34年)に発行された地図の復刻版です。発行された数か月後に旭川でマイナス41度を記録し、八甲田山での遭難事件が起こった時代ですね。札幌の人口は37,464人、函館は74,080人になっています。 北見は野付牛、帯広は下帯広、富良野は下富良野、稚内は宗谷など、現在の市名と違うのが少なくないですね。 鉄道の宗谷線(当時の北見線)は士別までしか開通していません。 小樽・函館間も全く鉄道ができていないので、この頃の北海道の玄関は主に小樽か室蘭だったのでしょう。 札幌から函館に行くときは、室蘭まで列車に乗り、室蘭・函館間は船だったのでしょう。 1904年まで日本郵船が青森・函館・室蘭間に連絡船を就航させていましたから。 私の父と祖父母は1929年に茂辺地村(現・北斗市)から足寄へ引っ越しましたが、小樽・函館間は1902年から1904年のわずか2年の間に急ピッチで開業し、根室線や池北線も、その後、比較的早くに開通したようですから、鉄道で新天地に行ったのだと思います。
2014年12月08日
昨日の石崎さんのコメントが面白かったですね。 「来年が怖い」「2年前、札幌でそうだったから」 3年連続でJ1最下位は前年、J2で3位かプレーオフだったチーム。 しかもいずれも34試合で最低勝ち点記録の14。 来年、山形はどうなるでしょうか。 それにしても昨日の試合は6年前の磐田と仙台の入れ替え戦と同じくらいの激闘という印象を受けました。 山形のサポーターは多く、約1万人だったとか。 山形駅から東京駅まで新幹線で2時間45分くらいで行けるし、在京の山形県人もいるでしょうけど、凄い数です。 逆に長野サポは私が予想したほどは多くなかったですね。 たしかに長野から丸亀までは遠くて時間も電車賃もかかるけど、日帰りはできます。 長野駅を6:09発の列車に乗り、名古屋と岡山で乗り換えれば丸亀に11:47に着きます。 帰りは16:03発に乗って岡山と名古屋で乗り換えれば長野駅には21:33に着くのですが、長野北部の人口は限られているし、この程度で仕方ないのかな。 松本山雅の盛り上がりと比べると、ちょっとさみしい気がしました。 せっかく昨年、長野はJFLで優勝したのにスタジアムが整ってなくて昇格できず、今年はスタジアムはめどがついたのに成績が届かなかったわけで、残念ですね。 来年、墓参りに富山に行ったついでに北陸新幹線で長野に行ってコンサの試合を見ることも、日程によっては選択肢になると期待していたんですが。 でも、昨日の試合で終盤の古田の1対1は決めてほしかったですね。
2014年12月06日
今年のスタジアム別平均観客数ランキング(J1はまだ1試合あるので確定ではないけど)は、ドームは19位でした。 ヤンマーが3位、キンチョウが11位に躍進したのはフォルラン効果ですね。 ノエスタもドームよりも多いし、フォルラン効果もありそうです。 J1J2の選手で最も痩せているのは荒野なんですね。 私の学生時代の数値とぴったり同じです。 少ないシュートで勝った試合の4位にドームで勝った愛媛が入っています。悔しい!! 沢山のシュートで負けた試合の7位に本城で負けたコンサが入っています。これも悔しい!! あと、厚別で千葉に負けたのが32位、ドームでサンガに負けたのが44位に入っているけど、ヤマハで磐田に勝ったのが32位に入っています。 キーパーのシュートランキングは見つからなかったけど、先日の山形のは凄かったですよね。 Jリーグでキーパーのヘディングゴールは初めてだとか。 思い出したのは一昨年、ドーム浦和戦でのホスンのヘディングシュート。 惜しくもバーの上だったけど、あれが決まったいたら初のキーパーのヘディングゴールだったのに。 海外ではキーパーのハットトリックもあるそうですね。PKやFKでかせいだのだろうけど。 ハットトリックをやったことのある選手がキーパーもやったというのなら知っているけど。
2014年12月05日
平均入場者数 入場者数中央値 試合数 2014年 11852人 11896人 17 2013年 12393人 12707人 11 2012年 (J1)13687人 12984人 10 2011年 14248人 11551人 8 2010年 14879人 13002人 9 2009年 14816人 11242人 11 2008年 (J1)17352人 16508人 9 2007年 18082人 15251人 11 2006年 14216人 14065人 11 2005年 14394人 14417人 12 2004年 14087人 12973人 8 2003年 13636人 14298人 9 2002年 (J1)23588人 22131人 9 今年は平日や日曜の晩などの観戦に行きにくい日程が何試合かありました。 ドームなのに7000人を切る試合が2試合あったせい(5月12日月曜と5月25日日曜ナイター)もあって、ドームの平均入場者数は過去最低でしたが、しかし、厚別開催が4試合しかなかったので、厚別のも合計すれば、昨年の平均の10,075人よりも多い11,060人になりました。 総人数は昨年が211,518人で、今年は232,255人です。
2014年12月04日
厚別で大型ビジョン設置工事をしているようですね。 7.4メートル×12.4メートルということですが、計算すると約570インチになります。 他の大型ビジョンとサイズを比較してみました。 札ド(新) 1305 札ド(旧) 1030 さいスタ 1011 日産 955 味スタ 842 長崎 802 BMW・大銀ド 800 レベスタ 740 ニンスタ 711 グリスタ 666 丸亀 644 等々力 600 厚別 570 とりスタ 500 駒場 470 旧スピカ 330 なお、現在の札幌ドーム・大銀ド・レベスタ・等々力・駒場のサイズは公式な数値がわからなかったので縦横の長さから計算しました。
カレンダー
プロフィール
1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
最新のエントリー
リンク集
コメント
検索