コンサドーレ札幌サポーターズブログ

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2021年09月29日

札幌の巨星堕つ(長文)

 北海道コンサドーレ札幌のメインスポンサー石屋製菓さんの会長(2代目社長)であり、コンサドーレの運営会社である旧北海道フットボールクラブ(HFC)でも会長を務められた石水勲さんが26日お亡くなりになられた。77歳。心からお悔やみを申し上げたい。

 今後、北海道を中心に多くのメディアが企業人、経済人としての石水会長の横顔や思い出話を掲載されると思う。
 コンサドーレに関わる話であれば老害…いや、古くからのサポーターなら誰しもひとつやふたつ思い出話が浮かんでくるであろう。いわゆるコアサポの皆さんなら、湧き水のようにエピソードは尽きないと思う。さほどに広く、深く愛され、親しまれた方だった。スポンサーであり、経営陣の1人である前に純粋熱血なサポーター。若いころは自らもサッカーチーム「イシヤ・アンビシャス」の一員として選手登録もされていたほどのサッカー好きな札幌のお父さんだった。

 訃報に際していくつか書いておかなければならないことがある。皆さんにもあるだろう。だから、僕も書くことにする。いま現在はトップチームの応援からは離れているが、受けた恩は忘れていない。そして今後も忘れないようにするために書き残しておく。人は肉体が滅びてもなお、生き残っている人たちの記憶から消えない限り、魂は生き続けているらしいから。


 横浜に住む僕と会長とは、サポーターと「札幌の成長企業のトップ」以上の深い縁があった。…いや、正確に言えばより深い縁で結ばれるはずだったと言ってもいい。
 1994年。石屋製菓は現在の宮の沢の敷地内に、新本社社屋と工場にテーマパーク的な施設を併設させようと計画。その工事はエンジニアリング大手のC社に発注された。当初はC社が元請けで全体計画を司り、かつ生産ラインの設計施工を担当し、子会社であるT社が建設工事を行う予定だった。詳細な理由は不明だが、後にこの話は流れ、結局C社がアタマで全体の設計施工を実施することになった。
 T社が建設工事を受注していた場合、T者側の担当営業マンは、何を隠そう、この僕だった。
 元受けはC社だから、子会社の僕には直接最終顧客である石屋さんとの接触はなかった。しかしながら僕はC社の受注窓口だった部署と頻繁に交流を持っていたし、当時のC社札幌営業所長とも知己だった。仮に「ご挨拶に伺いたい」と言えば叶ったと思われる。ゆえに、コンサドーレが札幌に移転する以前に会長との直接的な接触はない。ただ、Cグループの社内報に載った記事でお顔は存じ上げていた。「ああ、この人が社長さん(当時。以下『会長』で統一する)か。いかにもお菓子屋のトップだな」と、それが第一印象。

 翌1995年「イシヤ・チョコレートファクトリー」は完成し、その2年後から僕自身も縁あってアウェイでコンサを応援するようになる。無論石水さんが引っ張ってきたチームであることは存じていたが、応援する経緯に石水さんの存在は特に関係なかったと一応書いておく。為念。

 最初にお目にかかったのは1997年の旧JFL開幕戦。水戸の笠松競技場だったか。以上のいきさつがあったためご挨拶をさせていただくと、会長は一層相好を崩された。いま現在では信じられないだろうが、旧JFLの当時は、そんな偉い人が僕らサポーターの激励のためにアウェイ戦のゴール裏まで足を運ぶこともあったのだ。…当時はアウェイサポーターも少なかったからねwww

 以降、ある部分ではサポーターと経営陣という関係を超えて、20年以上にわたって随分とかわいがっていただいた。とても成長企業の経営者とは思えない親しみに溢れた大きな大きな方だった。

 2000年ごろの話。会社を訪問させていただいたこともある。無論ちゃんとアポは取ったが、そう簡単に石屋さん規模の社長をいきなり訪問できるものではないと思う。本社社屋を建設した会社の「関係者」という経歴が役に立ったのだろう(笑)。しばしロビーで待たせていただいていると、「おうおう、釣りに行っていたんだよ」と、行楽の姿で(笑・本当)横に広い巨体を揺らしつつ、「この人(オレのこと)ね、C社の人」と周囲の社員さんに紹介していただいた。後に奥様やご子息(現・社長)とお目にかかることもあったが、そのたびに「C社の人」と紹介された。いや、オレ子会社だしwww。
 チョコファクの白恋パークでは見学コースや舞台裏まで直々に案内していただいたこともあった。階段の手すりを指さして「ほら、ここ。わかる?この作り。凝っているだろう?ここね、職人をずいぶん泣かせちゃったよ」と、こだわりのある造形を見せびらかすわけでもなく、ただ「わかる人にはわかって」と懇願するように熱心にご説明頂いた。…実はそれ以前にもC社関係者として施設を内見していたいたことは最後まで伏せていた。つまりオレは白恋パーク有料エリアの入場料を一度も払っていない(汗)。

 その後、白恋パークと道路を挟んだ側に宮の沢白い恋人サッカー場ができた。こちらの工事にはC社は絡んでいないが、どういういきさつだったか図面は見せていただいていた。会長があちこちのアウェイ戦会場を訪れていたのは、つまり他のチームの先端の練習施設を見学させていただこうという意味もあったのだろう。
 練習場が完成した後も、より良い施設にモディファイしていこうと、会長の知識吸収欲は衰えなかった。
 2003年には当時のY専務とともに3人で鹿島アントラーズのクラブハウスを見学させていただいたことがある。旧フォーマットで行われていたサテライト戦の第1戦のことだ。当時発行されていたwebマガジン「コンサイズム」の取材で僕も同行させていただいた。練習施設だけでなく、鹿島地域一帯のサッカー事情など細かい点まで熱心に話を聞いておられる姿が記憶に残っている。

 もうひとつ。僕自身がラジオメディアに転じて以降の話。
 2005年の8月20日。山形で行われたナイトゲームは激しい雷雨のため試合が中止になった。三角山のアウェイ中継もなくなったわけで、ではホテルに戻って休もうかと競技場で荷物をまとめている中、関係者通路から会長がやって来た。一時期ほどでなくても、この頃のアウェイゲームでもたびたび姿を見かけることはあったのだ。「おう、メシ食わねぇか?」の一言で、道新さんをはじめとした記者の皆さんも引き連れて、山形市内で焼肉宴会が始まった。とてもここでは書けないような話も出たのだがwww、この頃から健康面を不安視する声もたびたび聞かれたため、「お身体の具合はいかがなんですか?」「おう、大丈夫だよ。医者にもちゃんと診てもらっているし、この間も健康診断を受けたばかりだったんだ。何ともないって言っていたよ」「はぁ…でも、血圧とかお高くないですか?」「あ、血圧ね、血圧が高かったな、うん。」「それと、中性脂肪とかも…」「あー、あー、中性脂肪、それもなんだか高かった。」あのう…これから高齢に進む方にはその2つが心配なのですがwwwと、笑いあったあの夜が懐かしい。
 それと、三浦俊也監督のもと札幌がJ1復帰を決めた夜。2007年12月1日。雪の降る宮の沢で昇格記念イベント的な催しが行われた。正式な名称って何だったっけかな? そこに会長も姿を見せた。太い身体がより太く見えるグラウンドコートを着て記者の質問に答えていく。髪は12月初旬で湿り気のある雪に濡れている。そこにタオルを差し出したのは僕だ。「おっ」と受け取って顔や頭をぬぐう。…買ったばかりのタオルはそれっきりwww。いつか返してもらおうか、いや、わざわざこちらから言うのもナンだしなと思っているうちに年月も過ぎ、それから2度もJ2落ちを経験したwww。タオルの件はこっちも忘れていた。向こうも絶対に忘れていた。そういう細かいことは一切気にしない方だった。

 確か2012年(9/30注・2015年でした)。札幌から遠く金沢で3代目社長となった創くんに会った。会長という階段の一番上まで上がった勲さんはすっかり肩の荷が下りたかと思われ「お父さんのご様子はいかがですか?」とうかがったのだが「いやいや、朝は会社に来て、あれこれ細かいことまで言って帰っていきますよ。」と創くんも笑っていた。勲社長の最後の大仕事としては札幌・大通の秋田銀行とのビル建設ではなかっただろうか。
 そのころになるとサポーターと飲みに行くような機会も減ったいたのではないかと推察される。半ば公然と体調を危惧する声も聞こえるようになる。

 最後に会ったのは2015年。もう6年も昔だ。2011年でトップチームの取材に一区切りを打った僕は、この年まで持株会の理事もやっていたため、オーナーズシートに座る権利を得ていた(注/サポーターズシートはそのたびに別途買っていた)。専用の出入り口をくぐったすぐ隣りがここ数年来の会長の指定席だった。少し昇ればもっと視界が良いところなのに、すでに階段を上がるのが辛くなられていたのだろう。通路を歩く距離も最短のその場所は、試合前と終了後はたくさんのオーナーさんたちとの交流の場となった。と、言っても通行する人の邪魔になるようなことはしない。「おう、こっちこっち」とお隣りの席を示され「いいゲームだったよな、な」とか「点取れねぇんだよな、しょうがねぇよな」と短い時間ではあったが感想戦を行ったりした。

 その時の印象は…随分としんどそうだった。若かりし頃を浮かべると、時の流れが何人にも残酷であることを思い知らされた。とは言っても、それから5年で逝ってしまうとは考えていなかった。


 会長の写真がない。昔の写真を整理しようと考えていた矢先に飛び込んできた訃報だった。メモリカードを探しまくって仮に昔の写真が見つかったとしても、一緒に撮った写真の記憶はない。「会おうと思えば札幌に行けばいつでも会える人」と完全なる勘違いをしていたのだ僕は。悔しい。仙台で撮った写真、等々力で撮った写真、どこだったかの雨の中で撮った写真…。無論、宮の沢で撮った写真もあるはずだ。見つかったらここに掲載しようと思う。

 とりとめのない長文で大変失礼しました。
 とにかく、心の整理がつかない。いまはただ、ご冥福をお祈りいたしますと言うほかはない。いや、あとひとつ、会長の耳に届くのならば「ありがとうございました」と言わせていただきたい。合掌。

posted by higuma |09:48 | コメント(0) | トラックバック(0)

2021年09月28日

無題

詳細はまだ書けない。

とにかく、次は勝ちなさい。絶対に勝ちなさい。
負けたらもう北海道には帰ってくるな。

そのくらいの覚悟を持って戦いなさい。

posted by higuma |08:41 | コメント(0) | トラックバック(0)